第8話 クラインヒルズでの試練
朝日がまだ柔らかい光を街に落とす頃、レオンは冒険者ギルドの扉を開けた。昨日は初めての依頼をこなし、思いがけずゴブリンも倒して帰ってきたばかり。しかし、まだ自分には足りないものが多いと感じている。もっと経験を積まなければ――そんな気持ちが、彼を再びギルドへと向かわせた。
ギルドのホールには、すでに数人の冒険者の姿があった。仲間同士で笑いながら依頼書を見ている者、昨晩の戦果を嬉々として語る者、あるいはさっそくクエスト報告をしている者もいる。そこにはレオンと同じように、それぞれが日々を生き抜こうとする意志の光が揺れていた。
受付カウンターに近づくと、リリアが明るい笑顔で手を振ってくる。
「おはようございます、レオンさん。昨日の依頼、ギルド内でも評判ですよ。初仕事でゴブリンを倒したって噂になってます」
「いえいえ、たまたま運が良かっただけで……まだ慣れてないですし、もっと練習しないと」
レオンは恐縮した様子で頭を下げる。確かにゴブリンを倒したのは事実だが、昨日の戦闘は危なっかしい場面も多く、彼自身は自分の未熟さを痛感していた。
そんな彼にリリアはくすりと笑ってみせる。
「でも、初仕事でゴブリンを倒した新人さんはそうそういませんよ。皆さん興味津々です。……あ、ちなみに今日はどんな依頼をお探しですか?」
「そうですね……昨日と同じくクラインヒルズのあたりで採取か討伐の依頼を、と思ってるんですが」
レオンが掲示板に目をやると、クラインヒルズ関係の依頼がいくつか貼られている。薬草採取や、小型魔物の討伐、あるいは時々危険な動物の駆除依頼も出るらしい。
リリアはさっとリストを確かめたあと、一枚の紙を抜き取り、レオンに差し出す。
「ではこちらの採取依頼はいかがでしょう? 昨日と同じポッポ草……ではなく、今回は別の薬草が目標です。生えている場所はだいたい同じ丘陵帯ですし、以前の経験も活かせると思います。あ、それから昨日もお話しましたが……」
そう言いかけて、彼女は紙の隅を指でトントンと叩く。
「魔物が出た場合、討伐した証拠を持ち帰れば追加報酬が出ることもありますよ。ゴブリンなら右耳、種族がわかる部位を切り取って持ってくるのが一般的です。あとは、稀に魔石を落とす個体がいるんです。もし見つけたら忘れずに回収してくださいね。ギルドで適正価格で買い取りますから」
「討伐証明部位と……魔石、ですね。わかりました。もし遭遇したら、ちゃんと処理して持ち帰ります」
レオンは昨日の戦いを思い出し、心が少しだけ引き締まる。ゴブリンから証拠を持ち帰るなど考えつかなかったが、これが冒険者としての基本でもあるのだ。
そんな会話をしている二人の姿を、ホールの片隅からじっと見つめる人影があった。黒い外套を深く被り、顔の上半分を隠すような布を巻いているため、性別すらはっきりしない。視線はレオンとリリアを交互に追っていたが、レオンたちはその存在に気づく様子もなかった。
ギルドを後にしたレオンは、道具屋へ向かう。昨日ゴブリンとの戦闘で、救護セットの包帯や消毒薬を使ってしまったし、使い道のわからない道具も多かった。何より、戦闘時の焦りを思い返してみれば、備えあれば憂いなし――装備や道具はしっかり整えておきたいと考えたのだ。
【道具屋】と大きく書かれた看板の扉を押すと、昨日と同じおばさん風の店主が笑顔で迎えてくれた。
「あら、昨日の冒険者さんね。どう? 初仕事はうまくいった?」
「はい、おかげさまで。ゴブリンが出てきてちょっと焦りましたが……。そのときに救護セットを使ってしまったので、中身を補充したいんですが、どうすればいいですか?」
レオンがそう尋ねると、店主は「なるほど」と頷き、店の奥からいくつか小瓶や包帯類を取り出してテーブルに並べてくれる。
「セットごと買い直してもいいけど、補充用のアイテムだけ買えば少しは節約になるわよ。包帯と消毒薬、それから痛み止めの軟膏も使ったのなら新しいのを入れておかないとね」
「そうですね……なるべく費用は抑えたいので、補充用だけください。助かります」
「いいのよ。あんたがまた依頼を成功させて稼げるようになったら、そのときはもっと高価なポーションや道具を買ってね。お得意さんになってくれると助かるからさ」
店主はにっこりと笑い、手際よく包帯や薬の瓶を布袋に入れる。レオンはそれらを丁寧に背負い袋に仕舞い込み、代金を支払ってお釣りを受け取った。
「よし、これで準備完了ですね。ありがとうございます」
「ううん、気をつけてね。クラインヒルズならそこまで危険じゃないと思うけど、昨日みたいにゴブリンが出ることもあるんだから」
店主が手を振って見送るのを背に、レオンは街の門を抜け、再びクラインヒルズを目指して歩き始める。昨日は昼過ぎに出発して日暮れ前に戻る形だったが、今日は朝早くから動いているため、余裕をもって探索できるはずだ。
丘陵地帯に到着すると、昨日とは違うポイントへ足を運ぶ。今回の薬草はセルフィーユという名で、やや日当たりの良い斜面に生えやすいらしい。薄紫の花を咲かせる特徴があり、根元を傷つけないように採取しないと商品価値が下がるという。
昨日一度クラインヒルズを歩いているおかげか、土地勘が少しつき始めている。ルートを頭に入れて、危険な場所にはあまり近づかないよう注意しながら採取を進める。
「昨日よりは薬草が見つかりやすいな。これなら早めに終われそうだ」
斜面にしゃがみ、慎重に根を残すように抜き取っていく。淡い紫色の花が可憐に揺れ、レオンの手の中に収まる。傷つけないよう布にくるみながら背負い袋へ入れる。
ほどなくして半数ほど必要な数が揃った頃、レオンは小さく伸びをした。今日は昨日のようにゴブリンに出くわすこともなく、スムーズに採取が進んでいる……はずだった。
――がさり、と茂みの奥から聞こえる不穏な音。さすがに昨日の経験があるので、レオンは素早く剣に手をかけ、身を低くした。
(まずい、また魔物か?)
心臓がどくん、と大きく跳ねる。前回はゴブリン一匹でも手こずったが、今度はどうだろう。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
すると、先ほどよりも大きな音を立てて、茂みが激しく揺れた。次の瞬間、ゴブリンの醜い顔が二つ、重なるように飛び出してくる。
「やっぱりゴブリンか……二匹いるのか……!」
敵が増えた分、緊張が走る。昨日の自分なら、ここで慌てて逃げ出したかもしれない。だがレオンは唇を引き結び、剣をしっかりと握り込む。
(昨日の自分とは違う。落ち着いて対処するんだ!)
そう心で叫び、レオンは低い姿勢から一気に踏み込み、ゴブリンの一匹に向かって斬撃を放つ。
ゴブリンは予想外にこちらが先手を取ったことに驚いたのか、防御が遅れる。レオンの剣は見事にゴブリンの肩を深く切り裂き、緑色の血が噴き出した。ゴブリンが甲高い声をあげて後退すると、もう一匹のゴブリンが棍棒を振り上げて突っ込んでくる。
「くっ、昨日と同じパターンか……!」
レオンはすぐに剣を引き戻し、迫りくる棍棒を剣で受け止める。衝撃で腕が痺れるが、昨日よりは心の準備ができている。なんとか勢いを殺し、そのまま剣を斜めに払い上げて相手の棍棒を弾いた。
すると、弾かれた衝撃でバランスを崩したゴブリンの隙を見て、レオンは左足を踏み込む。短い距離を詰めて一瞬の空きに剣を突き出すと、ゴブリンの腹部を貫いた感触が手に伝わった。
「グギャアッ!」
絶叫を上げるゴブリン。レオンはすぐさま剣を引き抜き、一歩後ろへ飛び退く。とどめを刺すには、まだ注意が必要だ。もう一匹のゴブリンが回り込もうとする動きが見えたからだ。
肩を斬られたゴブリンも棍棒を握り直し、血を滴らせながら威嚇の声を上げる。二匹がかりで挟み撃ちを狙ってくる気配。レオンは一旦息を整え、頭の中で戦況を整理する。
(正面のゴブリンはもうすぐ倒せそうだが、後ろから挟まれるのは危険だな……ならば、このまま正面の一匹を先に仕留め、振り向きざまにもう一匹を相手にする!)
決心すると、レオンはわざとゴブリンの横をすり抜けるように動き、前の一匹の視線を引きつける。両手で剣を握り、今度は上段から大きく振り下ろすと、ゴブリンは棍棒を頭上で構えた。だが、その防御を右へ弧を描くように剣筋をずらし、肩口から深く切り裂く。
ゴブリンが絶叫して倒れ込む。ほぼ同時に、背後からもう一匹のゴブリンが棍棒を振り下ろしてきた。レオンは勘で感じ取り、剣を振り返るようにして合わせる。金属と石が激しく衝突し、火花が飛ぶ。膝が震えるほどの衝撃だが、ぎりぎり踏みとどまる。
ここで退けば相手に連続攻撃を許す。レオンは歯を食いしばり、剣で棍棒を弾いた勢いのまま、ゴブリンの側面を切り裂くように一閃を加えた。わずかに手応えを感じた瞬間、ゴブリンは苦しげにうめき、力無く倒れ込む。
「……はぁ、はぁ……! 倒せた……」
レオンは荒い呼吸を整えようとしながら、周囲に他の敵がいないか警戒する。どうやら二匹だけだったようだ。
しかし気付けば、レオン自身も何度か棍棒の攻撃を受け流した際に体を打ちつけていたらしく、腕や肩に鈍い痛みが走る。服の袖が破れ、血が滲んでいるのを見て、彼は顔をしかめる。
(結構やられたな……でも、昨日よりはうまく立ち回れたかもしれない。あとは証拠部位と魔石の確認をして……)
思い出したように、リリアから聞いた討伐証明部位の回収を開始する。ゴブリンの耳を切り取るのは、正直慣れない作業で気が進まない。しかし冒険者として報酬を得るには必要なことだ。なるべく素早く済ませようと腰を落とす。
「ごめん……すまない。こうするしかないんだ……」
つぶやきながらゴブリンの耳を切り取る。冒険者の世界は綺麗事だけでは済まされない――頭ではわかっていても、目の前の光景に少なからず胸を痛める。
耳を切り落としている最中、ゴブリンの体内から薄い紫色の石が転がり出た。魔石だ。大きさはせいぜい指の第一関節ほど。かすかに不気味な光を帯びている。
レオンは恐る恐るそれを拾い上げ、布切れに包んでから背負い袋にしまい込む。ギルドに持ち帰れば、それなりの値で買い取ってもらえるかもしれない。
(よし……あとは、俺の傷を早く手当てしないと)
幸い、道具屋で補充した救護セットがある。腕の傷は深くないが、肩は筋肉に鈍い痛みが残る。完全に治すにはポーションを使うことも考えるべきかもしれないが、とりあえず応急処置だけしておこう。
小さく息をつきながら、レオンは包帯を腕に巻き始めた。今すぐ安静にしたいところだが、まだ採取依頼のノルマも達成していない。何より、ここで休むのは危険が大きい。さっさと採取を終えて、ギルドに戻るのが賢明だろう。
「ただ、無理してここをうろつくのは危険だな……少し足を伸ばすだけでゴブリンがわらわら出てくるのかもしれないし」
無理は禁物。まずは安全を最優先しよう、とレオンは判断する。今回採取する予定だったセルフィーユの必要量はまだ半分ほどしか集まっていないが、二匹のゴブリンと交戦して傷を負った今の状態で、のんびり探索を続けるのは危険度が高すぎる。
レオンは数株だけ追加で採取し、足早にクラインヒルズから退散することにした。途中で別の魔物に遭遇したら、正直もう自信がない。命あっての物種――焦る必要はない。怪我を負いながらも無理をして、ここまで来た意味を失いたくはなかった。
日が傾きかけた頃、レオンはどうにかブルーヴェイルの門をくぐった。最初の予定より早い帰還になったが、それでも街の中に戻ってくると心底ほっとする。
まっすぐ冒険者ギルドへ向かい、受付のリリアを呼ぶ。カウンター越しにレオンの姿を見ると、彼女は目を見開いた。
「レオンさん! すごい怪我じゃないですか、すぐに椅子に座ってください!」
「大丈夫、大丈夫です。ちょっと肩をやられましたが、ちゃんと歩けますし……ほら、一応採取の分もあるんですよ。まだ、既定数集まってないので、納品は明日になってしまうのですが……」
レオンは背負い袋から傷つかないように布で保護したセルフィーユを見せる。十分な量はないが、いくらか集まっている。苦笑いするレオンに、リリアは慌ただしく救護セットを取り出し、彼の肩を手当てしてくれる。
「……もう、無理しちゃダメですよ。ゴブリンに襲われたんですか?」
「ええ、二匹出てきて……なんとか倒しました。耳も、ほら、ここに」
レオンは血糊のついた小袋を差し出す。リリアがちらっと中身を確認して息を呑む。慣れてはいるのだろうが、やはり見慣れない人にとっては生々しいものだ。
「わかりました。証拠の部位はあとで担当が確認しますから、レオンさんは少し休んでください。あ、魔石もありますか?」
「はい、出ました……これです」
布に包んだ魔石をリリアに手渡すと、彼女は感心したように声を漏らす。
「すごい……ゴブリンから魔石が出るのはかなり低確率なのに。運がいいのか悪いのか……まあ、ギルドで査定してもらえれば、追加報酬がもらえますよ」
「ほんとですか。それはありがたい……ただ、怪我してるから、次からはもう少し慎重になります」
レオンは苦笑しながら、ゴブリン二匹との戦闘を思い返す。確かに昨日の自分よりは落ち着いて対処できたが、まだまだ実戦経験の少なさは否めない。もっと剣の腕を磨かなければ、本当に危険な魔物と戦うなど夢のまた夢だろう。
ともあれ、やるべきことはやった。昨日の経験を活かして二匹を倒し、証拠部位と魔石を手に入れた。採取依頼の達成は明日になってしまいそうだが、無事に帰ってこれたことを考えれば十分だ。
「本当にお疲れさまです。傷はひどくないみたいですが、ちゃんと治療に行ったほうがいいですよ。ギルドの診療所か、町の教会でも簡単な治療はできますから」
「わかりました。……ありがとう、リリアさん」
レオンは礼を述べ、リリアの手際よい応急処置で包帯を巻き直してもらう。薬を塗ったので、痛みはだいぶ和らいだ。
ギルドの片隅では、昨日と同じようにさまざまな冒険者が依頼達成の報告をし合っている。そんな彼らの視線が、時折レオンに注がれるのを感じるが、今はそれを気にする余裕もない。実際、二匹のゴブリンとの戦闘は彼の体力と気力を大きく削っていた。
このあと、ギルドから報酬を受け取ったら、診療所か教会で治療を受けよう――そう決めて、レオンは背筋を伸ばして意識を保つ。
思えば、ほんの数日前まで王宮にいた自分が、こんな泥臭い戦いをするなど考えもしなかった。その事実を噛みしめると、なんとも言えない達成感と、ほんの少しの誇りが胸に芽生えるのを感じる。
「さて……今日のところは無茶をせず、ちゃんと休んで、また明日から頑張ろう。まだまだやることは山積みだ」
レオンはそう自分に言い聞かせながら、受付でリリアから差し出された報酬を受け取り、小さく息を吐く。魔石の査定は後日になるとのことで、それも含めて良い経験だ。
傷だらけになりながらも、ひとまず無事にクラインヒルズから帰還したことで、レオンは少しだけ冒険者という生活に手応えを感じ始めていた。
ギルドの外に出ると、夕暮れの光が街並みを赤く染めている。腕や肩に痛みを抱えながらも、レオンはどこか晴れ晴れとした表情で診療所に向かう足を踏み出した。
その頃、ギルドのホールでは、リリアから少し離れた場所で、黒い外套の人物が残された椅子に座っていた。この人物は先ほどまでのレオンの動きを見つめ、ゆっくりとフードを深く被り直す。
周囲の冒険者に混じって立ち上がり、その姿は人々の雑踏の中へ吸い込まれるように消えていく。
レオンはまだ知らない――自分を鋭く観察していた視線の存在を。この先、この人物がさらなる試練を迎える伏線となるかもしれないと――。
ご一読くださり、ありがとうございました。
続きが気になる方は是非ブックマーク登録を
お願いします。