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第78話 夢が告げるもの

 澄んだ朝の空気が、野営地の木々の間を静かに吹き抜けていく。


 夜のうちに張られていたテントはすでに畳まれ、残る焚き火の灰を掬いながら、リリアが丁寧に片付けをしていた。

 サフィアは魔道具などの確認を終え、荷物を結び直している。セリナは斥候の役目を果たし、周囲に異常がないか軽く見回りに出ていた。


 エリザベートは一足先に馬車へと向かい、内部の座席に置かれた荷物の確認をし、護衛たちも馬車の前で警戒にあたっていた。


 レオンは、ミリーの様子をそっと見やる。

 彼女は自らの旅装を整えながらも、その仕草には慎重さがあった。まだ本調子ではないのだろう。けれど、彼女の瞳はしっかりと前を見据えていた。


「……顔色、悪くない。大丈夫?」


 戻ってきたセリナが、ミリーの顔を覗き込むようにして問いかける。

 ミリーは一瞬きょとんとした後、そっと微笑んだ。


「……ご心配、ありがとうございます。もう、平気です」


 その言葉には嘘がなかった。きっと、記憶の混乱はあるにせよ、自分の足で立つと決めたのだろう。

 サフィアが、荷物のひとつを肩に担ぎながら歩み寄る。


「記憶が少しでも戻ったのは、きっと何かの導きね。無理は禁物だけど、気持ちが落ち着いてるなら……安心したわ」


 ミリーは小さく頷いた。

 その横顔に、レオンはふと、昨夜のことを思い出していた。


 ――「兄さん」。


 夢の中で何度も呼ばれた、その言葉を彼女が呟いたあの瞬間。

 偶然とは思えない。けれど、確証もない。


(……夢に出てきた少女の声。兄さんと呼ぶ響き……あれは、本当に――)


 視線を上げれば、ミリーの背越しに、澄んだ空が広がっている。

 まだ何も分かっていない。だが、きっと辿り着ける。自分が、この旅を進める限り。


「レオンさん、荷の確認、終わりました」


 リリアの声にレオンは軽く頷き、手綱を整えた馬車の横へと向かう。


「……よし。出発しよう。領主館まで、まだ道のりはある」


 仲間たちがそれぞれ頷き、馬車の周囲へと散っていく。


 草を踏む足音が重なって、再び進む旅の音が、静かな森に響いていった。




 領主館の石造りの門が開かれたのは、遺跡を出発し二日後の昼も過ぎた頃だった。長旅の疲れを見せる者はいても、その表情に沈んだ気配はなかった。


 旅塵をまとった馬車が敷地内へと進むと、従者たちが次々と現れ、手際よく荷を受け取り始める。


 館内の応接室では、既に辺境伯グスタフが待っていた。頑強な体を椅子に預けたその男は、無言でレオンたちの到着を受け入れ、ひとつ顎を引いて挨拶とした。


「ご苦労だった。さて……遺跡の調査、その成果を聞かせてもらおう」


 レオンは深く一礼し、一行の代表として口を開く。


「はい。遺跡内部には高度な術式の痕跡があり、保存状態も良好でした。構造の詳細については、早速まとめ上げ提出いたします」


 そして一呼吸置いて――レオンの表情がわずかに引き締まった。


「……それと、もう一点。ご報告すべきことがあります」

「ほう?」


 グスタフがわずかに身を乗り出すと、レオンはミリーのほうを一度見やり、続けた。


「これまで伏せておりましたが……こちらのミリーは、とある事情で記憶を失っていました。自らの名も出自も覚えておらず、ギルドにも仮の名としてのミリーで登録を行っております」

「……記憶喪失、か」


 グスタフの眉がわずかに動く。

 その隣で、ミリー――いや、今はエミリアと名乗った少女が、一歩前に出た。


「……でも、今回の調査で……少しだけ、思い出したのです」

「名前が――エミリア・フォン・ルヴェール。それが、私の本当の名だと思い出しました」


 グスタフの眼差しが鋭くなる。

 そして、彼の横にいた娘――エリザベートが、少し身を起こした。


「その名……公国の侯爵家の名前ですわね。となると、彼女は正式に保護されるべきでは?」


 レオンが口を開く前に、ミリーが小さく首を振った。


「……今はまだ、断片的な記憶しか戻っていません。私が誰なのか、なぜ失われたのか――分からないことの方が多いんです」

「ですから……もう少し、旅を続けさせてください。自分の意思で、自分の過去と向き合いたいんです」


 その声に、迷いはなかった。

 グスタフは重々しく頷くと、腕を組んだまま言葉を返した。


「……よかろう。今はその意思を尊重しよう。無理に外から名を与えるより、己で見つける道もある」


 レオンは黙って頭を下げる。

 ミリーもまた、安堵と決意を混ぜたような目で、ゆっくりと礼をした。


 広間には、それ以上の言葉はなかった。だが、確かに一つの幕が――新たに上がろうとしていた。




 午後の陽光が、窓辺のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。

 領主館の一室――広めの客間には、レオンたちが揃って腰を落ち着けていた。


 遺跡の報告を終え、ミリーの記憶の件もひとまず整理された今、次にどう動くかを決める時間だった。


「……行きは、領主館に直行したからな。領都ローデンブルグの市街には一歩も寄ってない」


 レオンがぽつりと呟くと、サフィアが資料をめくりながら応じた。


「ローデンブルグの中心街には、冒険者ギルドの支部もあるし、魔導具屋や資料館も揃ってる。明日、そこを見て回っておきたいわ」

「私も! ギルドに今回の調査報告を提出しておきたいですし、露店や道具屋も少し覗いてみたいです」


 リリアが手を挙げ、目を輝かせる。


「……干し肉」


 セリナの声は小さいが、目的は明確だった。


「ふふっ。セリナさんらしいです」


 リリアが微笑み、彼女の肩をそっと軽くたたいた。

 レオンは皆の顔をゆっくりと見渡したあと、頷いた。


「今日はこのまま領主館で休ませてもらおう。明日、市街へ出て、それぞれ調査や買い物を進めよう」

「はい!」


 リリアの声に、他の面々もそれぞれ頷きを返す。

 ミリーもそっと頷いたが、その仕草にはどこか、これからを見据える静かな決意が宿っていた。


(遺跡のこと、杖のこと……それに、ミリーの記憶も。どこかで繋がっている気がする)


 レオンはそんな考えを胸に、ふと窓の外を見やった。夕暮れが近づく空の下――領主館の庭の芝は、斜めに差す陽光を受けて黄金色に揺れていた。




 明日の相談を終えたレオンたちは館内の食堂に集まっていた。

 長い木製のテーブルには、地元で採れた新鮮な野菜や焼きたてのパン、香ばしく焼かれた肉料理が並べられている。蝋燭の柔らかな光が、料理と彼らの顔を優しく照らしていた。


 辺境伯グスタフが席に着き、皆もそれに倣う。エリザベートが静かに祈りの言葉を述べ、一同は手を合わせた。

 食事が始まると、セリナがぽつりと呟く。


「……この肉、いい匂い。何の肉、これ?」


 エリザベートが微笑みながら答える。


「それは、この地方特産の野鳥のお肉ですの。香草と一緒に焼くと、香りが引き立って……とても美味しくなるんですのよ」


 サフィアが続けて言った。


「地元の食材を使った料理は、その土地の文化を感じられて素敵ですね」

「旅の疲れが癒やされます」


 リリアも頷きながら、会話に参加する。

 ミリーは静かに食事を取りながらも、時折微笑みを浮かべ、皆の会話に耳を傾けていた。


 レオンがグスタフに向き直り、真剣な表情で尋ねる。


「明日、領都の市場やギルドを訪れようと考えています。何か注意すべき点はありますか?」


 グスタフは少し考える仕草をすると、レオンへと視線を向けた。


「特に危険なことはないが、最近、街で不審な動きがあると報告を受けている。十分に注意して行動してくれ」


 エリザベートが心配そうに付け加える。


「特にミリーさんは、まだ体調が万全ではないでしょうから、無理をなさらないでくださいね」


 ミリーは微笑みながら頷く。


「ありがとうございます。気をつけます」


 食事が進むにつれ、和やかな雰囲気が広がり、旅の疲れも少しずつ癒えていくのを感じた。夜が更けるにつれ、明日に備えてそれぞれの部屋へと戻っていった。



 ◆◇◆◇

 蝋燭の灯りが消えた部屋の中。

 窓の外からは虫の声がかすかに聞こえ、遠く街の喧騒もすでに眠りに包まれていた。


 ミリーは柔らかな寝台に身を沈めながらも、なかなか眠りにつけずにいた。天井を見つめる目は、まばたきすら忘れたように静かで――やがて、瞼が落ちた。


 

 周囲は白く、ぼんやりとした光に包まれていた。

 まるで、霧の中を歩いているかのように足元も定かではない。

 それでも、どこか懐かしい感覚があった。


 古びた柱。削れた石段。

 白い神殿のような建物が、その霧の中にそっと姿を現す。

 そこに――倒れている人影。


 ミリーは駆け寄る。小さな足音が、空気を震わせる。

 床に倒れていたのは、一人の少女だった。

 ボロボロの服。血の滲んだ肩。乱れた栗色の髪が、顔にかかっている。


「……っ!」


 声にならない声が喉をせき止めた。

 震える手を伸ばそうとした、その瞬間――。

 少女が顔を上げた。

 その琥珀色の瞳が、こちらをじっと見つめる。


「……お嬢様」


 その声は、優しくて、寂しげで――胸を締めつけた。


「……リゼット……?」


 名前を呼ぼうとした唇は、動かず、声にならなかった。

 ただ、涙だけが、頬を伝って落ちていく。


 少女の姿が、ふっと霧の中に溶けた。

 


 ミリーは勢いよく上体を起こす。

 喉が詰まりそうなほど呼吸が荒い。

 額には汗がにじみ、胸が苦しくて、しばらく言葉が出なかった。


 暗い天井を見つめたまま、両手で顔を覆う。

 その中から、震える声が漏れた。


「リゼット……わたし……」


 彼女の指先が、胸元に置かれた手をぎゅっと握る。


「あなたを……助けたい……絶対に……」


 その言葉には、決意があった。

 揺れる心の奥から絞り出すような、たしかな意志の色があった。


 夜はまだ深い。

 だが――ミリーの心は、すでに静かに動き出していた。



 ◆◇◆◇

 夜半を過ぎた静寂の中、レオンに割り当てられた一室も、深い闇に包まれていた。


 分厚いカーテンが月光を遮り、広く整えられた部屋には、レオンの穏やかな寝息だけが微かに響いていた。

 しかし、ふとその眉がわずかに動く。まぶたの奥、夢の世界に――あの声が、再び忍び込んできていた。



 ──暗がりの中に、白い霧が流れている。

 その向こう、ぼんやりと現れる小さな影。


「……兄さん……」


 少女の声だった。

 何度も聞いた声、胸を締めつける声音。


 霧が晴れるように、少女の姿が見えてくる。

 細い肩、小さな身体。大きな瞳に宿るのは、消え入りそうな悲しみと、どこか訴えるような光。


「わたし……ここにいるの……ずっと、ずっと……」

「……お前は……誰なんだ……」


 レオンはその名を呼べない。

 手を伸ばしても、距離は縮まらず、声も届かない。

 その顔は……ミリーではなかった。

 似ているところもある。しかし、違う。まるで、別の誰か――けれど、確かに知っているはずの誰か。

 少女が一歩、霧の向こうに後ずさる。


「お願い……兄さん……来て……」

「待ってくれ……!」


 叫んだ瞬間、夢が弾け飛ぶように終わった。



 レオンは勢いよく身を起こし、乱れた呼吸を整えながら辺りを見渡す。


 薄暗い部屋。蝋燭の灯りはすでに消えている。

 しかし、夢の残響はなおも耳に残っていた。


「……夢の中の妹……やっぱり、ミリーじゃない。じゃあ……」


 誰だ? 何者なんだ――。

 だが、その問いに答える者はどこにもいない。


 レオンはゆっくりと手を握りしめた。

 夢の中で伸ばした手が、いつか現実へと届くその時まで――絶対に、あの声を忘れない。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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