第77話 鎖の中の灯火
薄暗く湿り気を帯びた空気が、肌にまとわりつくようだった。
天井の低いその部屋には、窓はひとつもなかった。壁は黒ずみ、床の石には水滴が落ちる音すらない。灯りと呼べるものは、壁に掛けられた錆びた鉄製のランタンひとつ。蝋燭の炎は小さく、頼りない影を揺らしていた。
その隅に、少女は身を縮めて座っていた。
肌に張りつく粗末な布切れ。足元には藁が敷かれているだけの寝床があるが、使われた形跡はない。代わりに、少女――リゼットは、壁に背を預け、膝を抱えていた。
(……寒い)
自分の鼓動だけが、妙に大きく聞こえる。
ずっと胸元にかけていたペンダントは、もうない。連れて来られたあの日、身体検査と称して奪われた。あれが、自分と外の世界をつないでいた、たった一つの証だったのに。
でも。
「……私は……」
小さな声が、石壁に吸い込まれる。
誰にも届かないと分かっていても、それでも――。
「セレス……ティア……私は……」
言葉にすれば、まだ存在していられる気がした。
忘れないように。消えないように。誰かの所有物として、生きるのではなく、私として、ここにいるために。
目を閉じれば、夢の中の情景が蘇る。
温かくて、広い背中。柔らかな声。あの人の顔は思い出せない。でも――。
「……あの人……」
何度も、夢に出てきた。優しそうで、強そうで、まっすぐで……。
「兄さん……」
囁くように零したその言葉は、空気を震わせた直後、遠くからの音に掻き消された。
――ガチャリ。
鉄格子の開く鈍い音。続いて、靴音と、荒い声。
「三番、飯だ。起きろ」
返事はしなかった。ただ、背筋を伸ばして立ち上がる。
言葉を失った者として、番号で呼ばれることに慣れてはいない。でも、抗うこともできない。だからこそ――。
(……兄さん、わたし……待ってるよ)
誰にも気づかれぬように、小さく呟きながら、リゼットはゆっくりと鉄扉のほうへと歩み出した。
◆◇◆◇
黄昏に沈む地方都市の一角。しっとりと静まった洋館の応接間で、厚手のカーテンが窓を遮っていた。
燭台の明かりが、深紅の絨毯と精巧な木彫りの家具をぼんやりと照らしている。
小さなテーブルを挟んで向かい合う二人。ひとりは細身の男、情報仲介人と呼ばれる人物。地方貴族の書記官を名乗っている。
もう一人、腰の低い中年男は奴隷商の使いだ。ごくありふれた粗野な服に身を包み、どこか落ち着きなく目を泳がせている。
「例の娘、顔立ちは整ってる上に……なんと言いますか、雰囲気があるんですよ。気品とでもいうか……」
奴隷商が低く声を潜めて言う。
「ふん。落とし子って噂もあるな。貴族の家からこっそり捨てられた娘――あるいは、何かの証拠隠滅か」
情報仲介人が鼻で笑いながら、テーブルに置かれた薄い帳簿に目を落とす。
「身元も名前も不明だ。だが、『蛇の環』が欲しがっている。あの組織が金を出すなら、我々が口を出す筋ではない」
「ええ。ただ……問題がひとつ」
使いが渋い顔で続ける。
「奴隷印が、消せないままなんです。術師を雇っても中和できなくて……どうやら、魔力干渉が強い個体のようで」
「構わんよ。あの組織は素性より可能性を見る。魔力と血筋、それがあれば十分」
「……では、数日中に輸送を」
「抜かりなく頼む」
杯が静かに打ち鳴らされた。沈黙が、絨毯に吸い込まれていく。
その夜、ひとつの運命が、静かに売り渡されようとしていた。
◆◇◆◇
鉄格子の向こうから皿が投げ込まれ、石床にぶつかってカップが倒れ、水がじわりと広がる。
皿の上の硬く乾いたパンも衝撃で床に落ちた。
それが、今日の食事だった。
リゼットは黙ってそれを拾い上げ、壁際に腰を下ろす。灯りも届かない狭い空間の中で、冷えた空気が肌を刺す。
パンを一口かじると、口の中でぼそぼそと砕けていく。それは味と呼べるものではなく、喉を通るのもやっとだった。
(この部屋の臭い……パンの味……全部、忘れたいのに)
パンをかじる。その瞬間、外の廊下からまた足音が近づいてくる。鉄扉が開かれ、顔を見せたのは――下っ端の監視係の男だった。
「おい、三番。ずいぶんと品のいい食べ方じゃねぇか。気取ってる暇があるなら、少し愛想くらい見せろよ」
男は嘲るように笑いながら、鉄格子の内側へ一歩踏み込んでくる。リゼットは身を強張らせ、パンを胸元に抱えるようにして座り込んだ。
「……やめてください」
「やめて、だと? 誰にモノを言ってんだ、ああ?」
その手が伸びかけた瞬間――。
「やめろ、バカが」
背後から別の低い声が飛び、下っ端の男の腕が乱暴に掴まれた。現れたのは、監視責任者らしき中年の男だ。
「無断で部屋に入って何をしてる。あいつは組織に送る荷だ。傷でもつけたらお前ごと処分されるぞ」
「い、いや、別に……ちょっと冗談を……」
唇を歪めながら、男は引き下がる。その背が鉄扉の向こうに消えると、扉は再び閉ざされ、重たい沈黙が戻った。
リゼットはしばらく、そのまま微動だにできなかった。震える手を強く握りしめて、かろうじて気を保っていた。
(……兄さん)
呼びかけた声が、自分のものなのに遠く響いた。
会ったことがないはずの、その人の背中が、なぜだか胸の奥に焼きついて離れない。
黒髪の少年、優しい目をしたあの人は、どんな人……?
「どうして……こんなに……」
言葉は途中で途切れ、喉の奥に溶けて消えた。
リゼットはパンを抱えながら膝を引き寄せると、小さく囁いた。
「私を……見つけて……」
その声は誰にも届かない。
けれど――確かに、そこに願いはあった。ほんの少しでも、灯りが差す未来を信じたくて。
リゼットは、黙ってパンの残りを口に運んだ。
生きるために。
誰かに会うために。
そして、名前を取り戻すために。
地下の廊下に、鉄靴の足音が響く。
湿った石壁に灯されたランプの明かりが、ぼんやりと揺れていた。
「三番、次はお前だ。支度しろ」
鉄格子の前で立ち止まり、監視責任者の男がそう告げた。
その声に、薄闇の中で膝を抱えていたリゼットが顔を上げる。
扉の開閉音。続いて、下っ端の男が近づいてくる。男はリゼットを一瞥し、口元に軽い嘲笑を浮かべた。
「なぁ、おい。マジで貴族の隠し子って噂あるんだろ? 顔立ちは整ってるし、物腰も……どこか違う」
「余計な詮索はするな。あの組織に渡す以上、俺たちにできるのは無傷で送ることだけだ」
責任者の男は無感情に言い放ち、腰の鍵束から錆びた鉄の枷を取り出した。
リゼットの両手首に、それが冷たくはめられる。ガチャン、と乾いた音が鳴った。
視線を下げたまま、彼女はただ従った。引きずるように歩き出す足取りは重く、それでも、後ろには一度も振り返らなかった。
(……まだ、終わってない)
粗末な服の袖を通した手の中で、小さく指が震える。
ペンダントは奪われた。名前も、身分も、過去も失った。
それでも、彼女の中には灯火のように、小さな意志が残っていた。
(生きて……生き延びて)
廊下の先には、鉄で囲われた輸送用の馬車が待っている。
鎖の音。足音。扉が軋む音。
薄暗い地下に、リゼットの姿がゆっくりと、消えていった。
車輪が土を踏みしめる音が、一定のリズムで続いている。
ぎしり、と軋む鎖の音が、それに重なる。
木板を組み合わせた狭い荷室。鉄の枷をはめられた手足は不自由なまま、少女――リゼットは、硬い床に身体を横たえていた。
揺れが一瞬和らいだとき、小さな窓から差し込む光が、彼女の頬をかすめた。
金属の枷に反射した光が、微かに瞳の奥に映る。
リゼットは、目を細めて天井を見上げる。
いや――その向こう。空の気配を、探すように。
(……兄さん)
心の中で、そっと呼んだ。届くはずもない。
けれど、それでも、今の自分を見失わないために。
「……私、まだ……」
喉が乾いていて、声は掠れていた。
それでも、言葉は紛れもなく彼女の意思だった。
(……生きている。ここにいる)
誰にも聞こえないほどの声で、リゼットは囁いた。
「……まだ、ここにいるよ……」
閉じた瞼の奥、遠い日の光景が揺れる。
凛とした背中。優しい声。あの、呼びかけてくれた人の――あたたかな存在。
馬車が再び揺れ始める。
少女の言葉は、かすかな風に乗って――まるで、遥か遠くの誰かへと届く祈りのように、空へと溶けていった。
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