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第76話 遠き日の誓い

 茜色に染まった空が、静かに山の稜線を照らしていた。


 そこはヴァレンディア公国の北端、王都から遠く離れた山あいの避暑地――エインズワース家の古い別邸。

 涼やかな風が木々を揺らし、吹き抜けの廊下に古びたランプの光が淡く揺れていた。


 広間の隅では数人の侍女たちが静かに荷をまとめている。物音を立てぬよう、どこか沈んだ空気が屋敷を包んでいた。

 旅支度を整えるというには、あまりにも静かすぎる別れの準備。


 その中の一人、背の高い侍女が、ふと肩を落としてつぶやいた。


「坊ちゃまのこと……お嬢様、よく夢に見るようですね」


 控えの間の椅子に腰掛けていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。

 淡い栗色の髪をひとつに結い、白と水色の簡素なドレスに身を包んだその女性――セラフィーナは、薄く笑みを浮かべた。


「……ええ。あの子には詳しく言っていませんけれど、きっと夢に出てくるのは――あの子の兄なのでしょうね」


 その笑みはどこか淡く、どこか痛々しい。彼女の頬には、ほんのりと蒼さが差し、手元には温かな紅茶を入れた陶器のカップがあった。

 掌のわずかな震えを、誰にも見せまいと包み込むように持っている。


 この数年、寒暖の変わり目には床に伏すことも多くなっていた。侍女たちもそれを知っているからこそ、彼女の言葉に胸を締めつけられた。


 その膝に開かれた一冊の古びた絵本――表紙の裏に「レオンへ」と書かれた文字は、彼女が王宮を離れる直前、自らの手で記したもの。

 ページをなぞる指先が、小さく震える。


(……託せるなら。あの子に、セレスティアを託せるなら――)


 けれど今、それは叶わぬ願いだ。 王宮を出て、誰の庇護もない自分には、もうレオンと会うすべはない。

 会えば、すべてを奪われかねない。


「母様ー!」


 奥の回廊から、小さな呼び声が響く。深い栗色の髪をふたつに結んだ少女――セレスティアが、ワンピースのすそを揺らして駆けてくる。

 その手には、先ほど読んでもらっていた物語の続きが挟まれたままだ。


「夢のお話の続きを聞かせて……! ね、母様!」

「ふふ……もう少しだけ、待っていてちょうだい。お部屋で少しだけ静かにしていられるかしら?」

「ん……わかった」


 頷いて戻ろうとした彼女の背を、セラフィーナはふと呼び止めた。


「セレスティア」

「……なあに?」

「夢に出てくるその男の子……どんな顔をしていたの?」


 少女は小さく首をかしげて、ぽつりと言った。


「うーん……あんまり覚えてない。でも、あったかい声だった。わたしのこと、大事にしてくれた気がする」


 その言葉に、セラフィーナは胸の奥で何かが軋むのを感じた。


「それでいいのよ。その人は、あなたにとって大切な人。きっと、いつか出会えるわ」

「ほんとに……? わたし、名前とか知らないよ?」

「それでも、大丈夫。ちゃんとわかる日が来るものよ。……夢ってね、記憶の奥の扉をそっと開けてくれることもあるの」


 少女は難しいことは分からぬまま、小さく笑ってうなずいた。


「じゃあ……夢の中で覚えておくね」

「ええ、それで十分」


 その言葉の響きに、侍女のひとりが目を伏せた。娘を守るために、母が伝えられる真実は限られている。

 だからこそ、その約束のようなやり取りが、彼女たちにとって何よりも切実に映った。


(レオン……どうか、あの子を……)


 セラフィーナは胸元のロケットペンダントに触れ、そっと目を閉じた。風が、木々の間を静かにすり抜ける。別れの朝は、すぐそこに迫っていた。




 夜の帳が山間を包み、別邸の外では虫の声がかすかに響いていた。


 寝室の灯はすでに落とされ、薄明かりの中、セレスティアはベッドの上で膝を抱えていた。


 月明かりが白いカーテン越しに差し込み、少女の柔らかな髪を青白く染める。枕元に置かれた小さな手提げ鞄――明日からの旅に備えて、自分の荷物はもう詰め終えてある。

 けれど、心はまだ、まとまらないままだった。


「……母様」


 布団の上から、小さな声がかけられる。

 椅子に腰かけていたセラフィーナは立ち上がり、ベッドに歩み寄ると、その隣に腰を下ろした。


「どうしたの? 眠れないのね」

「……うん」


 セレスティアは膝の間に顔を埋めたまま、ぽつりと続けた。


「わたし……本当に侍女として、やっていけるのかな」


 その声音には、幼さの残る震えと、背伸びした意志が同居していた。

 セラフィーナは微笑みながら、娘の髪を優しく撫でた。


「ええ。あなたは強い子。優しい子。だから、きっとエミリア様の力になれるわ」

「……ううん。わたし……ほんとはちょっと、怖いの」


 セレスティアは、顔を上げて母を見た。潤んだ瞳の奥に、確かに揺れる決意があった。


「でも……それでも、頑張りたいの。わたし、エミリア様のこと……すごく、大好きだから」


 その言葉に、セラフィーナの目が細く優しくなる。


「それで十分よ。怖がってもいい、迷ってもいい。でも、あなたが自分で選んだ道だから――信じてあげて、自分のことを」

「……うん」


 母の手のぬくもりが、心の奥に染み込むようだった。


 外では風が渡り、葉を揺らす音が響いていた。それは少女の胸に灯った、小さな決意を祝福するようでもあった。




 深夜。

 静寂の中、エインズワース家別邸の廊下を、数人の侍女たちが足音を忍ばせながら行き来していた。

 積み上げられた荷や包みに最後の確認を済ませると、彼女たちは一礼し、そっと主の寝室から離れていく。

 母と娘――ふたりきりの、最後の夜を邪魔しないように。


 寝台脇のランプが、柔らかな橙の灯を揺らしていた。

 セレスティアは毛布にくるまりながら、まだ眠ることができずにいた。

 セラフィーナは椅子に腰かけたまま、胸元にあるロケットペンダントを外す。


「セレスティア」


 小さな呼びかけに、布団の中から顔を覗かせる娘。

 セラフィーナは微笑みながら、そっとそのペンダントを娘の手に握らせた。


「これを持っていきなさい。あなたが、あなた自身を見失わないように」


 セレスティアはペンダントの蓋を開き、じっと中を見つめた。そこには、生まれたばかりの赤子のスケッチが二人描かれていた。


「……これ、昔のわたしと……もう一人の子?」

「――大切な人、兄さんよ」


 セラフィーナの声は静かで、でもどこか遠い光を見つめるような響きを持っていた。


「あなたの、たったひとりのお兄さん。今は遠い場所にいるけれど……きっと、あなたのことを、心のどこかで知っている」


 セレスティアはペンダントを胸に抱きしめた。小さな胸が、その言葉をゆっくりと受け止めていく。


「……うん。いつか、きっと……会えるかな」


 セラフィーナは、返事の代わりに娘の髪を撫で、やさしく抱き寄せた。


「ええ、きっとね。あなたがあなたでいる限り――必ず、道は重なるわ」


 ふたりの影が、揺れるランプの光の中でそっと寄り添う。深まる夜の中、別れの気配だけが静かに、確かに、そこにあった。




 空が淡く白み始め、東の山々がゆっくりと色づいていく。鳥たちが静かにさえずり始める前の、ほんの短い静寂の時間――。


 別邸の裏庭。

 朝露に濡れた草の匂いが、微かに風に混じっていた。その片隅で、セレスティアは母セラフィーナの前に、真っすぐ膝をついていた。


「……母様。わたし、リゼットとして頑張るね」


 その言葉に、セラフィーナはゆっくりと目を細める。小さな少女の決意が、胸に染みてくる。


「セレスティア……あなたが選んだ名前なのね」


 娘は小さく頷いた。


「うん。セレスティアは……もうおしまい。今の私は、エミリア様に仕える侍女――リゼットだから」


 その瞳に宿るのは、幼さを残しながらも、自分で道を選んだ者だけが持つ輝きだった。セラフィーナはその姿に、思わず胸が締めつけられる。


「――いいえ。どこにいても、あなたは私の娘。名前が変わっても、誰かの侍女になっても……あなたは私の誇りよ」


 セレスティアは唇を噛み、ぐっと込み上げてくるものを堪えた。けれど、堪えきれずにぽろぽろと零れる涙が、朝の光にきらりと光った。


「……ありがとう、母様」


 その声は、震えながらも確かだった。


 セラフィーナは優しく娘を抱きしめた。遠く、出発を告げる馬車の準備音が、静かに響きはじめていた。




 霧が立ちこめる山の朝。空気は冷たく、息をすれば白くなるほどだった。


 別邸の前に停まる馬車。その扉の前で、少女は静かに立っていた。深い栗色の髪を丁寧にまとめ、簡素ながらも清潔な旅装に身を包んだその姿は、もう「セレスティア」ではない。


 そして、乗り込む前に――少女は最後に振り返った。怯えや不安の色を宿した瞳を、すぐに引き締めるようにして、目を伏せる。


 やがて、扉が音もなく閉まり、木製の車輪がわずかな音を立てて回り始めた。御者の手綱が静かに鳴り、馬車は霧の中をゆっくりと進み始める。


 セラフィーナは並ぶ侍女たちと共に、何も言わず、その姿を見送っていた。

 セラフィーナは唇を結び、胸に手を添える。


(……行きなさい、セレスティア。あなたが選んだリゼットとして)


 その想いは、声にならなかった。だからこそ、せめて心の中で祈る。


(……いつか、あの子の兄が見つけてくれる日が来るなら――)


 馬車の中、カーテンの隙間から外を見ていたセレスティアは、ふいに手を膝の上でぎゅっと握った。


「セレスティア様、緊張なさってます?」


 向かいに座る年長の侍女が、優しく囁くように声をかけた。

 リゼットは首を横に振る。ほんの少し、唇の端を上げて。


「……ううん。大丈夫。私は、リゼットだから」


 その言葉は、何度も何度も繰り返してきたものだった。けれど、今はもう――自分に言い聞かせるものではない。


 それは、新しい自分を名乗る、最初の一歩だった。


 馬車は霧の中へと、ゆっくりと消えていった。その背を見送るセラフィーナの頬に、ひとしずく、冷たい朝露が落ちた。

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