第75話 目覚めと予感
朝靄がまだ地面に薄く漂う頃、レオンは焚き火の残り火を見つめていた。空は白み始めており、周囲にはかすかな鳥のさえずりが聞こえている。
テントの中、薄い毛布に包まれたミリーが身じろぎをしたのは、そのときだった。
「……ん……」
その声に、すぐそばで待機していたレオンが顔を上げた。
「……ミリー?」
彼が呼びかけると、ミリーはゆっくりと目を開けた。視線が合い、彼女は静かに瞬きを繰り返す。
「……レオン様……?」
「目が覚めたのか。気分は……大丈夫か?」
レオンの言葉に、ミリーはかすかに微笑んだ。そして、枕代わりの巻き布に頬を寄せたまま、ぽつりと返す。
「……ええ。ご心配おかけして……ごめんなさい、レオン様」
そのやりとりを聞きつけて、サフィアとセリナが顔を覗かせた。
「無理はしないで。今は体を休めるのが先よ」
サフィアが静かに膝をつきながら手を取ると、ミリーは少しだけ首を振る。
「……大丈夫です。ただ、少し夢を見ていただけ……」
「……顔色は、悪くない。少し……安心した」
セリナは相変わらず表情を変えないままだが、その言葉の端々ににじむ心配がどこか柔らかい。
最後に、リリアが駆け寄ってくるように身を乗り出した。
「ずっと心配してたんですよ……! 本当に……もう……っ」
思わず涙ぐみそうな声で言いながら、リリアはそっとミリーの手に手を重ねた。
ミリーは、皆を見渡す。そこには驚きも、怯えもなく――ただ、静かに優しさが宿っていた。
「……ありがとう、皆様」
その微笑みの奥に、レオンはかすかな違和感を覚えた。
(……あの瞳の奥。何かを、決めた顔だ)
だが、今はそれを問わず、ただ彼女が目覚めてくれたことに――感謝するしかなかった。
◆◇◆◇
残り火がほのかに赤く揺れる。空はもう完全に明るくなっていたが、野営地の空気にはまだ夜の冷気が残っていた。
ミリーは膝に毛布をかけたまま、皆の視線をゆっくりと受け止めていた。レオンの隣、サフィアが寄り添うように座り、セリナは少し離れた場所で警戒を解かずに目を光らせている。リリアは背をまっすぐにし、何かを察するような面持ちでミリーを見つめていた。
彼女は一度深く息を吸い、まっすぐ前を向く。
「……私の本当の名前は、エミリア・フォン・ルヴェールです」
静かなその声は、焚き火のはぜる音の中にはっきりと響いた。
サフィアが目を細める。
「……たしか、ヴァレンディア公国の侯爵家。公国は王国とも縁の深い……」
「はい。私はその家の、三女として生まれました」
その言葉に、リリアが小さく息を呑む。セリナの耳がぴくりと動いた。
「私には……回復魔法の才能がありました。家の方針で、その力を生かすため、各国を巡る親善の旅に出ることになったのです」
ミリー――いや、エミリアは自分の胸に手を当てる。白く細い指先が、鼓動を確かめるように震えた。
「ですが、旅の途中で……何かが起きました。記憶を失い、身分もわからないまま……目覚めたのは、あの村の……」
その声に曇りはなかった。
セリナがゆっくりと尋ねる。
「……記憶が、戻った?」
「はい。全てではありません。ですが……大切なことは、思い出しました」
レオンは黙って彼女の言葉を聞いていた。その眼差しに揺れるものは、驚きではなかった。
(……やはり、ミリーはあの夢の少女ではなかった。でも――)
ミリー――いや、エミリアは微笑む。少しだけ涙ぐんで、それでも前を向いて。
「今の私は、ミリーとしての時間があったから、ここにいます。そして、皆様に出会えたことに、心から感謝しています」
その言葉に、誰も返す言葉が見つからなかった。ただ、焚き火のぬくもりが、彼女の言葉を包み込むように優しく揺れていた。
◆◇◆◇
野営の場はまだ静けさを保っていた。ミリー――いや、エミリアの告白から少し時間が経ち、焚き火の赤は徐々に色を薄めていく。
再び皆の視線が集まる中、彼女はふと、懐かしむように言葉を継いだ。
「……一緒に旅に出た侍女の名は、リゼットです」
その名前に、場の空気が少しだけ変わった。だが、それが何によるものかは、まだ誰も明確に掴めていなかった。
エミリアの目は、どこか遠くを見つめている。
「年は私より少し上でした。少し不器用で、表情もあまり変わらない子でしたが……とても優しくて。何より、私を守ろうとしてくれました。あの夜も、きっと私の代わりに……」
声が一瞬だけ震える。けれど、すぐに彼女は唇を結んだ。
サフィアがそっと言葉を添える。
「……彼女も、誘拐事件に巻き込まれたのですね」
「はい。あの時、私は倒れて……気づけば、目の前に知らない人たちがいて……リゼットは、もういませんでした」
その言葉に、レオンの胸の奥がわずかに引っかかる。
(リゼット……?)
耳慣れないはずの名。なのに、その響きが、心のどこかに爪を立てる。
(なぜだ……どこかで……聞いたような……)
セリナがじっと、彼の横顔を見つめていた。鋭く、それでいてどこか柔らかい眼差しで。
「……どうしたの、レオン?」
彼女の問いに、レオンはわずかに瞬きをし、思考を断ち切るように首を振った。
「いや……ちょっと、気になるだけだ」
それ以上、誰も何も言わなかった。エミリアはまたそっと焚き火に視線を戻し、リリアはそばで彼女の手を優しく握っていた。
焚き火の揺らめく光が、ミリーの横顔を柔らかく照らしていた。静まりかえった野営地で、彼女はぽつりと口を開いた。
「……リゼットは、わたくしが物心ついた頃には、もう屋敷にいました」
その声音はどこか遠くを見つめるようで、淡い記憶をそっとなぞるようだった。
「最初は、母様の命でつけられた侍女だと聞いていました。けれど、彼女はどんな時でも、わたくしの隣にいてくれて……お茶の時間も、散歩のときも、勉強に疲れたときも……いつもそっと、寄り添ってくれました」
風がふっと吹き、焚き火の火がわずかに揺れる。
「ときどき……わたくしが泣いてしまった夜、こっそり自分の寝具を持ってきて、わたくしのベッドで一緒に寝てくれたんです。『奥様には内緒ですよ』って、ふふ……そう言いながら」
ミリーの目が細められる。懐かしさに、唇が自然とほころんでいた。
「そのまま、彼女の方が先に寝ちゃったんです。寝顔って……なんだか、安心しますよね」
炎がパチン、と小さく弾ける。しばしの沈黙のあと、エミリアの声が、またふわりと続いた。
「そのときです。彼女、寝言で……ぽつりと、『兄さん』って」
小さく、でも確かに言葉が震えた。
「初めて聞く言葉でした。誰のことなのか、聞けなかったけれど……その時の顔が、少しだけ悲しそうで……。だから、そっと手を握り返しました」
自分の指先を見つめるように、そっと握りしめる。
「何も言えなかった。でも、ずっと気になっていたんです」
やわらかな光のなかで、エミリアの瞳はどこか切なげに、けれど確かに、優しさを宿していた。
「……わたしにとって、彼女はただの侍女じゃありません。きっと、ずっと……家族のような、大切な存在だったんです」
ぽたり、涙が落ちた。それを拭いもせず、エミリアはただ、遠いどこかにいるリゼットを思いながら、焚き火を見つめていた。
――それを、少し離れたところで聞いていたレオンも、黙って焚き火を見つめていた。
(兄さん……)
記憶の底で、何度も聞いたあの声。夢に現れる少女の声。
それが「エミリア」でないことは確かだ。では、「リゼット」というその侍女は……?
(まさか……まさか、あの夢に出てくる少女が……)
夢で見る光景。ずっと心に引っかかっていたあの光景と、エミリアが語った話の断片が、重なり始めていた。
だが、それでもレオンは確信を持てなかった。
「レオン様……?」
不意にエミリアが顔を向けてきた。
「いや、なんでもない」
微笑み返す。それ以上、何も問うことはしなかった。
ただ、夜は静かに、更けていく。焚き火の奥に、失われた時間の影を映しながら――。
夜風に、薪の燃える柔らかな音が混じる。遺跡の入口から少し離れた斜面で焚き火を囲みながら、一行は夕食を終えた後の静かな時間を過ごしていた。
レオンは、隣に座るミリーをそっと見やる。長いまつ毛がゆっくりと動き、彼女の瞳がこちらを向く。
「……その、ひとつ聞いていいか?」
「はい、何でしょう?」
ためらいがちな問いを、レオンはしかしまっすぐに投げた。
「……これからも、ミリーで、いいか?」
焚き火の光が、ミリーの表情をやわらかく照らす。エミリア・フォン・ルヴェール。記憶が戻った今となっては、本当の名で呼ばないといけないのかもしれない。だが――。
ミリーはゆっくりと頷いた。
「……はい。ミリーは、マリーがくれた……とても大切な名前です」
そして、少し俯いて、唇にふっと笑みを浮かべる。
「それに……ミリーって呼ばれると、愛称みたいで……親しみがあって、ちょっと、恥ずかしいけど……でも、それが嬉しいんです」
その頬に、焚き火の明かりとは違う、ほんのりとした紅が差す。
レオンは、その言葉に深く息を吐き、焚き火の傍に置かれた彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
「……そうか。なら、よかった」
「名前なんて、呼ぶ人の気持ち次第で重みが変わるものね」
サフィアが、微笑みを浮かべながら言葉を添える。
「……ミリーは、もう仲間。変わらない」
セリナが木陰から身を乗り出して、焚き火の火を細めに見つめた。
「私も……その人自身が大事です。名前より、ずっと」
リリアはミリーのほうへ笑いかけるようにして言い、少し照れたように視線をそらした。
焚き火の炎が、誰の言葉でもない思いを、そっと包み込むように揺れた。
レオンの胸の奥で、静かに何かが繋がった気がした。
ミリーとして出会い、エミリアという過去を知って――それでも、彼女は今、ここにいる。自分たちの傍に。
「……ありがとう、皆さん」
ミリーがぽつりとつぶやいたその声は、静かな夜に、じんわりと染みていった。
その少し離れた場所で。
エリザベートは一歩も近づかず、けれど、ほんのりと目元を和らげて――焚き火の輪の外から、仲間たちの絆に静かに想いを寄せていた。
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