第74話 封じられし台座
夕暮れの気配が空を染める頃、遺跡の入口から少し離れた斜面に、火の灯った小さな野営地が広がっていた。
周囲は岩と草木に囲まれており、自然の地形が風を防ぐ。魔物の気配もなく、慎重に選ばれた今夜だけの拠点だった。
「……このへん、魔物の気配……ない。今夜は、静か」
セリナが地面に手をついて目を細め、空気を嗅ぐように言った。焚き火の明かりが、彼女の銀の耳をやさしく照らす。
「遺跡の結界が作用しているのかもね。逆に、不気味だわ」
サフィアは静かに呟きながら、膝の上に開いた日誌に羽ペンを走らせていた。手元には遺跡内部の壁のスケッチと、術式の断片的な構造が書き込まれている。
「ふふっ、でも今はご飯の時間ですよ。お焦げになっちゃいます」
リリアの声が明るく響き、鍋の蓋をそっと開けると、煮込み料理の匂いが辺りに広がる。慣れた手つきで器を並べるその横で、セリナが無言で警戒の目を周囲に向けていた。
レオンは焚き火を見つめながら、背後で揺れる仲間たちの影に目を細める。
そして、ふと――視線がミリーに止まった。
焚き火の向かいで、ミリーは両手を膝に置いたまま、微笑を浮かべていた。けれど、その仕草はどこかぎこちなく、視線は仲間のひとりひとりをゆっくりとなぞっていた。
その表情に、どこか拭えない影が差しているように見えたのは――気のせいではない。
「……皆さん、こうして過ごすのって、なんだか……家族みたいですね」
ミリーがぽつりと呟いたその声に、場の空気が柔らかく揺れた。
「家族……か」
レオンは木の枝を火にくべながら、炎を見つめる。
――家族。
手放したもの、失ったもの、いまだ知らぬもの。だが今、手の届くところに確かにある。
「ああ。きっと、悪くない」
レオンの言葉に、火の粉がふわりと舞い上がる。その瞬間――ミリーの微笑が、ほんの少しだけ深くなった気がした。
冷たく、湿った空気が肌を撫でた。
朝の陽光を背に、レオンたちは再び遺跡の奥へと足を踏み入れる。昨日と同じ通路を進みながら、慎重に罠の有無を確認しつつ、未探索の分岐へと進路を切った。
《魔力灯》――魔道具の灯りが照らす先、複雑な装飾が刻まれた石扉が現れる。
「……開くか?」
レオンが扉の表面に手を添えると、石の隙間から鈍い音が鳴った。
「力技は避けたいけれど……この鍵は、もう動かないみたいね」
サフィアが術式を探るも、反応はない。
「仕方ない、押すぞ」
レオンが押し出すように扉に力を込めると、重々しい音と共に石扉がゆっくりと開いた。
その奥に広がっていたのは、広間だった。天井は高く、壁には苔が這い、年月の重みを感じさせる。
しかし、中心に据えられた 巨大な石台――その存在だけが、異質だった。
「……これは、明らかに何かの祭壇だな」
レオンの声は自然と低くなった。
石台の周囲には、幾重にも重なるような術式の痕跡。魔力が今も微かに残っており、空気がほんのり震えているようだった。
「術式の密度が違う……っ」
サフィアが眉をひそめ、祭壇に近づく。
「ここは、特別な空間よ。ただの祈祷の場じゃない……転移か、封印か……それとも――」
セリナが周囲の空気を嗅ぎ取りながら、眉間に皺を寄せる。
「変な匂い……少し、残ってる。……魔物の、血……? いや、それだけじゃない……」
ミリーは無言で石台の縁に指先を触れ、僅かに震えた。その目が遠くを見つめている。
「……ここ、なんだか……とても懐かしいような、気が……」
その言葉に、レオンの胸に冷たいものが走る。
「(まさか――)……皆、気を抜くな。ここには、まだ何かがある」
レオンの声に、場の空気が一段と引き締まった。
石台に刻まれた古代文字。封じられた術式。そして、ミリーの心が――揺れている。
「……術式は相当古いわね。階層構造が複雑で……」
サフィアが台座に近づき、周囲の紋様を慎重に観察していた。空中に漂う微かな魔力の流れに、彼女の感覚が反応する。
レオンは一歩後ろで周囲を警戒しながらも、その様子を見守っていた。
「セリナ、念のため周囲の気配を……」
言いかけたときだった。
「……ミリー?」
誰の声でもなかった。ただ空気がざわついた気がした。
次の瞬間――ミリーの足取りがふらりと乱れ、誰よりも早く、台座の前に立っていた。
「待て、ミリー! 触れるな――!」
レオンが声を上げた瞬間、ミリーの手が、台座の表面にそっと触れた。
ドンッ――。
目に見えない力が波紋のように広がり、空間の空気が一変する。ミリーの体が震え、目を見開いたまま、力が抜けるように膝を折った。
「ミリー!」
駆け寄るレオンの声も届かぬまま、彼女の意識は――遠のいていく。
◆◇◆◇
あたり一面、白い霧に包まれていた。
重力も、痛みもない世界。ただ静かで、温かくて……どこか懐かしい。
(ここは……どこ……?)
足元がふわふわと揺れ、目の前には、誰かの姿があった。
――揺れる髪。優しい笑い声。
「……エミリアお嬢様、外は危険です。また怪我なさったら、私……っ」
その声に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(リゼット……?)
名前を呼ぼうとした瞬間、目の前の映像がふっと切り替わった。今度は、誰かの背を追いかけている自分の視点。
広い背中。微かに笑う声。あたたかい手。
(……兄さん?)
知らず口をついて出たその言葉に、自分自身が驚く。
そして、次の瞬間――。
足元が崩れたように、意識は再び暗闇へと引きずり込まれていった。それでも、胸の奥に残る感情だけは確かだった。
懐かしい。愛しい。 ――そして、帰りたい。
その想いだけが、ミリーを強く包み込んでいた。
◆◇◆◇
レオンが台座へと駆け寄ったとき、ミリーの体は完全に崩れ落ちていた。その肩を支えながら、すぐにサフィアが膝をつき、手をかざす。
「……脈はある。意識は……まだ戻らないけど、魔力が少し乱れてるだけ。命に別状はないわ」
サフィアの声に、レオンは静かに息をついた。
「よかった……」
だが、その安堵の隙間に――ぽつりと、ミリーの唇が動いた。
「……兄さん……」
レオンの目が見開かれる。
「今、なんて……」
言葉にならない問いに、サフィアも顔を上げる。セリナが低く、しかしはっきりと言葉を繋いだ。
「……聞こえた。兄さんって……」
「ミリーさんに、お兄さん……いたんでしょうか?」
リリアも、膝をついてミリーの髪をそっと払った。だが、その顔には戸惑いが浮かんでいた。
レオンは――動けなかった。ミリーの肩に手を置いたまま、頭の奥で鈍い衝撃が広がっていた。
(兄さん――)
夢で、幾度となく呼ばれたあの声。名も知らぬ少女が、泣きながら繰り返した言葉。
(……まさか、そんな……)
目の前のミリーは、その面影とは違っていた。髪の色も、声の調子も、何もかも。
それでも――。
「兄さん」という、たった一言が、胸の奥に深く刺さっていた。
(……偶然、なのか?)
いいや、とレオンは自問する。そう思いたいのは、自分のほうだ。
彼女の手はまだ冷たく、意識の戻る気配はない。だが――その指先が、かすかにレオンの袖を掴んでいた。
まるで、何かを確かめるように。何かを、伝えようとするように。
レオンはそれを、そっと包み込んだ。
「……まだ分からないことだらけだ。だが……お前の声に、俺は応えるよ」
小さく、呟くようにそう言って、レオンは立ち上がる。
仲間たちの視線を感じながら、静かに言った。
「今日はここまでにしよう。ミリーを休ませたい」
サフィアが頷き、セリナとリリアも無言で荷をまとめ始める。
深く沈黙した台座の前、誰もが言葉にできない疑問と、不安と、かすかな希望を胸に、遺跡を後にした。
夕暮れの風が草原を撫でていた。
遺跡から少し離れた野営地――昨日と同じ場所に、再び焚き火の明かりが灯っていた。
ミリーは、寝具にくるまれて静かに寝息を立てている。頬はやや蒼白で、まつ毛が揺れるたびに、夢の中の何かと向き合っているようだった。
レオンは、その傍らにしゃがみ込んでいた。
(……もし、ミリーが……あの夢の少女だったら。もし、そうなら……)
思い出すたび、あの声が胸を貫く。
――兄さん。
柔らかく、震えるような、どこか切なげなその呼び声。ずっと、理由も分からず夢に現れ続けていた少女の面影。
(なぜ俺は……気づかなかったんだ)
ミリーはその面影とは少し違う。けれど、目を伏せたこの横顔を見ていると、なぜかそれを否定できなかった。
言葉だけが、同じだった。心の奥に染み込んで離れなかった、あの一言。
「レオン」
背後から、静かな声が降ってきた。
サフィアだった。灯火の外に立ち、淡く揺れるマントの裾を風に踊らせながら、じっとこちらを見ていた。
「……あなたが悩んでいるのは分かる。でも、答えは焦らずに。彼女が目を覚ましたときに……きっと何か、分かるわ」
「……ああ」
言葉が重かった。だからこそ、絞るように短く返すしかなかった。
サフィアの隣には、いつの間にかセリナも立っていた。
「……ミリー、大丈夫。……今は、眠らせてあげて」
焚き火に照らされた彼女の横顔は、どこか母親のような柔らかさを帯びていた。
「……ありがとう、二人とも」
レオンはそう言って、そっとミリーの髪に指先を添えた。撫でるでもなく、確かめるように。
その髪は、夢に見た少女と違っていた。けれど、心は――どうだったろうか。
(答えが出るには……まだ、早い)
だがもう、目を背けるわけにはいかない。この出会いが偶然だったのか、あるいは運命だったのか――。
「……もう少し、待ってみよう」
レオンは、焚き火に背を向けて立ち上がった。空は深く藍に染まり、星のひとつが、瞬いた。
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