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第73話 静かなる観測者

 それは、レオンたちが領主館に到着する数日前――。

 ラウレンツ領主館の一室。灯りを抑えた書斎に、グスタフは腰を下ろしていた。琥珀色の酒が注がれたグラスを揺らしながら、ひとときの静けさに身を浸している。


「……お父様、少し、よろしいかしら?」


 扉越しに届いた声に、グスタフは軽く顎を引いた。


「入れ」


 静かに開かれた扉から、娘のエリザベートが顔を覗かせる。動きやすい薄手のカシュクールとふわりとしたロングスカートに身を包み、長い金髪をゆるくまとめたその姿は、幼い頃から変わらぬ柔らかさを残していた。


「遅い時間にごめんなさい。どうしても、話しておきたくて……」

「……レオンとかいう冒険者のことか?」


 エリザベートは小さく頷き、父の正面の椅子に腰を下ろした。


「護衛の旅で、色々なお話をしたの。その中で、どうしても気になって……彼の出自、どこか普通の人とは思えなくて」


 グスタフは返事をせず、グラスの縁をゆっくりと指先でなぞる。


「仕草も、言葉選びも、気遣いも……」

「ふむ」

「お父様。私、彼がどこか……高貴な育ちの方じゃないかと思ってるの。けれど、それを隠そうとしているようにも見えるのよ」

「……そうか」


 ようやくグスタフが口を開く。その目は鋭さを帯びていたが、どこか穏やかでもあった。


「実際、娘の言葉を疑うつもりはない。なるほど、確かに気品の片鱗は見えるとなれば……ただの成り上がりとは思えんか」


 エリザベートは小さく微笑みながら、手を胸元に置いた。


「お父様は、会っていなくても分かるのね」

「人の器は、直接見るに越したことはない。だが……その判断ができる娘の目を、俺は信用している」

「……ありがとう」


 グスタフは再びグラスを手に取り、今度はほんの一口、酒を喉に流し込んだ。


「その男、レオンとやら。娘の護衛として十分だったのか?」

「ええ。とても……安心できたの。私のことだけじゃない、仲間はもちろん、皆を常に気にかけていて……まるで、何かを守ることに慣れている人のようだった」

「……」


 グスタフの眉が、かすかに動く。


「なるほどな」

「彼、きっと何か……大きなものを背負っているのよ。でも、それを言わずに、自分の力で歩こうとしてる」

「それを見て、お前はどう思った」

「……とても、素敵な方だと思いました」


 グスタフはそれきり何も言わず、グラスを机に置くと立ち上がった。

 窓の外を見やりながら、夜空に浮かぶ星を眺める。その横顔に浮かんだ表情は、どこか遠くを見据える指揮官のそれ。


「そういう男が、今このタイミングでこの地を訪れた……偶然とは思えん」

「……え?」

「何も断定するつもりはない。ただ、あえて名乗らぬ者には、名を尋ねぬのが礼儀というだけだ」


 エリザベートは、ふっと笑った。


「お父様って、やっぱり鋭いのね。……でも、ありがとう。ちゃんと見てくれて」

「……娘を気にかけるのは、父親の役目だ」

「じゃあ、今度は――娘が好きになった人を気にかけるのも?」

「……言ってろ」


 そう言ってグスタフは小さく肩をすくめたが、その背中はやはりどこか温かかった。

 そして、窓の外。静かな夜の空に浮かぶ月が、娘と父の沈黙を優しく包んでいた。




 レオンたちが到着したその夜。謁見も終え、館に再び静けさが戻ったころ。領主館の書斎の扉が軽くノックされた。


「……入れ」


 返事と同時に扉が開き、娘が姿を現す。日中の服装とは打って変わり、エリザベートは落ち着いた生成りのチュニックに膝丈のスカート姿。

 動きやすさを考慮したその装いに、グスタフは少しだけ目を細めた。


「……眠れないのか?」

「少しだけ。お父様と、話しておきたいことがあって」


 グスタフは立ち上がり、窓辺の椅子を示す。二人は向かい合って腰掛け、夜の風に静かに耳を澄ませた。

「……レオン様のことです」


 エリザベートが切り出すと、グスタフの眉がぴくりと動いた。


「昼間、あの方に申し出たの。わたくしの――専属の騎士になってほしいって」

「……そうか」

「もちろん、断られましたけれど。でも、それでよかったと思っています。あの方には、もう歩むべき道があって、支える仲間もいる。その人たちと生きると決めた――その意志が、ただ強くて、まっすぐで……」


 エリザベートはそこまで言うと、小さく息をついた。


「……断られて、悔しいと思うはずだったのに。なぜか、嬉しかったんです。そんなふうに選ばれる人なんだって、あの方は」

「……お前が、誰かを騎士にしたいと思うのは、初めてだったな」

「はい。お父様が教えてくれましたもの。騎士とは、剣を振るうだけではなく、誰かの信念のために立つ者だと」


 グスタフは目を伏せ、無言で頷く。


「そう思ったとき、レオンさんが浮かんで……気づいたら、口にしていました」

「……名も、素性も、詳しくは語らぬ。だが、所作と心が語る。見た目の若さに騙されなければ、誰もが感じるはずだ。あれは――何かを背負っている者の在り方だ」

「お父様も、やっぱりそう思われていたんですね」

「当然だ」


 グスタフは低く、だが柔らかな声で言った。


「ただの冒険者ではない。だが、何者であれ――あれほどの眼差しを持つ者が、今この地にいるという事実こそが、大切なのだ」


 娘はその言葉を受け止め、静かに微笑んだ。


「……でも、わたくしはやっぱり知りたい。あの方が何者なのかじゃなくて――どんな人なのかを」


 グスタフは目を細め、しばらく娘の顔を見つめていた。まるで成長を確認するかのように。


「……ならば、よい旅を」

「はい、お父様」


 立ち上がったエリザベートは、扉の前で一度だけ振り返った。


「明日も、レオンさんの隣を歩けること、わたくし……嬉しいです」


 その姿が扉の向こうへ消えたあと。グスタフは椅子に深く腰を沈め、腕を組んだまま天井を仰ぐ。


(……騎士にしたいと娘が願った男。さて)


 彼の脳裏に浮かんでいたのは、若き日の王城で見たあの少年の姿。


(まさかな。だが――)


 そのまさかが、今、目の前の現実に姿を変えつつある。ならば、自分にできることはただ一つ。


(その道が正しければ、手を貸す。それだけだ)


 軍人としてではなく、父として。この地に生きる者として――グスタフは、心の中でそっと覚悟を固めていた。




 朝靄がまだ草の合間をたゆたっている中、ラウレンツ領主館の二階、天蓋付きのベッドが置かれた私室。

 その奥の窓辺に、グスタフ――威厳と貫禄のある風貌の男が静かに立ち、正門前の様子を捉えていた。


 馬車の準備が進む中、娘のエリザベートが談笑しながら仲間たちと並んでいる。上等な布ながら動きやすく調整された、淡い茶の旅装に身を包み、落ち着いた笑顔を浮かべていた。貴族の令嬢であることを忘れさせるほどに、自然で、生き生きとした表情。


 その傍らにいるのは――レオン。


(……やはり、間違いない。あの姿も、声も、仕草も……)


 王都の大広間、式典の折。まだ少年だった彼が、国王の傍らで、居並ぶ貴族たちに向かって、静かに頭を下げた姿を、グスタフは今でも鮮明に覚えている。


(まさか、こんな形で再び相まみえるとはな……)


 そう思いながらも、口には出さない。

 レオンが何を思い、王宮を去り、名を隠して今この地にいるのか。その理由は、推し量ることしかできない。


 だが――軽はずみな行動をとるような男ではない。あの年であの眼をしている者に、出会ったことがない。


(ならば、下手に問い詰めるより……)


 グスタフの指先が、窓枠にそっと触れた。


(ここで、彼の自由を守る方が得策だ)


 まるで、軍の采配を読むかのような目で、レオンの立ち振る舞いを観察していた。

 仲間に言葉をかける時の声、娘に対する距離の取り方――どれも計算されたものではない。それでいて、崩れたところが一つもない。背中で人を導くような、稀有な存在。


(……王都にいたままなら、間違いなく――器として磨かれていたことだろう)


 それが叶わぬのなら。

 ならば、ここで力を貸してやろう。あくまで、彼が望む範囲で。


(お前が、この地に身を置く意味……その先を、俺なりに見極めてみせよう)


 風が、軽くカーテンを揺らした。

 娘が馬車へと乗り込む直前、何かを言ってレオンに笑いかけた。その顔はまるで――信頼を預ける相手にしか見せぬ、柔らかな光を帯びていた。


 グスタフは、ほんのわずかに目を細める。


(さて……俺の出番は、まだ先か)


 執務机へと背を向け、静かに歩き出す。


 その背中に、剣のような威圧と、ふとした瞬間に滲む、父としての翳りが同居していた。

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