第70話 領主館の歓迎
坂を登りきった先、視界が一気に開ける。
眼前に現れたのは、威厳と格式を湛えた石造りの館だった。白い壁に蔦が這い、中央の門には金細工の紋章が刻まれている。
その左右には衛兵が直立不動で立ち並び、整備された石畳の先には手入れの行き届いた中庭。
旅の埃を纏った一行には、まるで別世界のように映る光景だった。
レオンが馬車から降り、門前に立ったときだった。正門の扉が音もなく開き、その奥から現れた一人の女性の姿に、ミリーが小さく息を呑んだ。
柔らかなブルーのドレスに身を包み、優雅な歩調で歩み寄ってくる。長く伸びた淡金の髪が光を受けて揺れ、水色の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
「まあ……レオン様! 無事に来てくださったのですね!」
エリザベート・フォン・ラウレンツ。品のある微笑みを浮かべ、胸元に手を添えて丁寧にお辞儀をする。
レオンはわずかに表情を緩め、頭を下げた。
「はい。お久しぶりです、エリザベート様。道中、問題はありませんでした」
「それは何よりですわ。ふふ、変わらず素敵なご挨拶ね」
続いて彼女の視線が、セリナへと向けられる。
「セリナさんもお久しぶりです。また仲良くしてくださいね」
その言葉に、セリナは無言で一礼だけ返すと、ちらと隣のサフィアに小声で呟いた。
「……エリザ、笑ってる顔、甘い」
「ええ。お嬢様なりに、全力みたいね」
サフィアが肩を揺らしてくすっと笑ったそのとき、エリザベートの視線が彼女のフード越しの顔にふと留まる。
「まあ……素敵な方ね。どこかでお会いしたような気がしますわ」
控えめに微笑むエリザベートに、サフィアは一瞬だけ沈黙したあと、柔らかな声で返した。
「光栄です、お嬢様。旅の身ですので、こうしてフードを被ったままで失礼いたします」
「いえ、とんでもないわ。お姿は見えなくても、雰囲気というのかしら……とても印象的なの」
そう言って微笑むエリザベートの横顔に、サフィアはわずかに目を細める。
後ろでミリーとリリアも少し緊張気味に並んでいたが、エリザベートは気さくに言葉を投げかける。
「ご一緒のお仲間の皆様も、ようこそいらしてくださいました。館の者が中でお待ちしております。どうぞ、こちらへ」
ゆったりと手を差し出し、館の方を指し示すその仕草には、貴族としての育ちのよさと――そして、ほんの少しの緊張が滲んでいた。
レオンは視線を交わすように仲間たちを振り返り、静かに頷いた。
いよいよ、彼らの新たな一歩が、この館から始まるのだ。
応接室の扉が静かに閉じられた後、館の空気がふわりと変わった。
重厚なソファ、繊細な装飾のティーセット、そして花の香りがほのかに漂う空間。王都の貴族屋敷に劣らぬ格式ながら、どこか温かみのある雰囲気に、レオンは少しだけ肩の力を抜いた。
昼過ぎの到着から短い案内を経て、今は紅茶と菓子が出された午後の歓談のひととき。
リリアとミリーは窓際の席で静かにお菓子を味わっており、サフィアとセリナは応接室の壁際に控えている。
その中心で、エリザベートはレオンの正面に座り、穏やかな微笑を浮かべていた。
レオンが紅茶に口をつけようとした、そのときだった。
エリザベートは膝の上で手を重ね、ほんの少しだけ声の調子を落として言った。
「ねえ、レオン様。もしよければ……私の、専属の騎士になってくださらない?」
ふわりとした声だった。けれどその響きは、意外なほど真剣だった。
レオンは一瞬、手を止めた。
言葉の裏にあるもの――軽い冗談や社交辞令ではないと、すぐにわかった。
「光栄な申し出だが……今はまだ、仲間と歩くと決めたばかりで」
落ち着いた声で返すと、エリザベートは少しだけ視線を落とし、それでも柔らかな笑みを保った。
「……わかっています。けれど、気持ちを伝えるのに理由は必要ありませんわ」
その微笑には、貴族の娘として育った彼女の芯の強さが宿っていた。
レオンは紅茶を口に運びながら、返す言葉を探していたが――。
その沈黙を、セリナのぼそりとしたひとことで破られた。
「騎士じゃなくて、パートナー……」
小さな呟きだったが、確かに室内に届いた。サフィアが小さく目を伏せ、ミリーが一瞬きょとんとした顔をする。
エリザベートはその言葉に対して驚くでも怒るでもなく、ただ、ふっと微笑んだ。そして、紅茶にそっと口をつけた。
室内には、静かな風と、複雑に揺れる思いだけが残された。
豪華な扉が静かに開き、謁見の間に涼やかな風が差し込む。
整えられた赤い絨毯の奥、玉座には一人の男――威風堂々たる姿で座すラウレンツ辺境伯、グスタフ・フォン・ラウレンツがいた。
胸に鋼のような視線を受けながら、レオンは一歩進み出て、静かに頭を下げる。
「お招きに預かり、光栄です」
その背後には、サフィア、セリナ、リリア、ミリーが控え、室内にはほどよい緊張が漂っていた。
辺境伯は玉座に背を預けたまま、ゆるやかに口を開いた。
「レオン……そしてセリナ。よくぞ参った」
その言葉に、セリナも軽く会釈する。
グスタフは視線を鋭くしながら、ふっと口元をゆるめた。
「……剣の腕も見事だったと聞いている。娘の護衛の折は、世話になったな」
「いえ。お役に立てたなら、何よりです」
レオンは落ち着いた口調でそう返し、セリナも静かに頷く。
「……問題なかった。エリザ、案外、手がかからない」
その短い一言に、辺境伯は笑いを漏らしそうになったのか、わずかに眉を上げる。
そして、彼の視線がサフィアに移った。フードを外した銀の髪と、冷静な眼差し――一瞬、その顔をじっと見つめる。
「……サフィア、か。いや……今は名など問うまい」
一呼吸置き、辺境伯は言葉の調子を変えた。
「ここでは、そなたらを冒険者として迎えよう。余計な詮索は控える。……それが、客人への礼儀だ」
サフィアは落ち着いた所作で礼を返し、微かに微笑んだ。
「閣下のお心遣い、感謝いたします」
レオンは、そのやりとりの間もずっと視線を外さず、グスタフの眼差しの底にあるものを読み取ろうとしていた。
だが――武人のようでいて、思慮深い人物。この館の空気すら、辺境伯の在り方を物語っていた。
「まずは、ゆるりと過ごされよ。そなたらの働き、しかと見届けさせてもらう」
レオンは再び一礼しながら、胸の奥に静かに灯るものを感じていた。この館で、ただの依頼以上の何かが始まる予感――それを、確かに。
謁見が終わった後、レオンたちは領主館の奥にある執務室へと通された。扉が閉まる音と同時に、部屋の空気が僅かに張り詰める。
壁際の書棚に囲まれた空間の中央、長机には古びた資料がいくつも並べられていた。その中の一つ、巻物を広げながら、辺境伯の側近と思しき男が落ち着いた声で説明を始めた。
「ギルドから送られた報告によれば、例の魔杖――通常の魔導具とは根本的に構造が異なるとのことです。どうやら、封印された古代術式の名残があるらしい。コボルトが扱っていたとは、とても信じ難い代物ですね」
「……術式の中身は判明しているのですか?」
レオンが問い返すと、側近はわずかに首を振った。
「まだ解析の途中ですが、単なる呪いではなく、媒介としての性質が強いようです。かつて、同じ構造を持つ杖が確認された記録もあります」
その言葉に、机の向こうでグスタフ辺境伯が重く口を開いた。
「――都市一つを沈めた、あの杖か。百年ほど前、南方の辺境都市が、ある遺跡から持ち帰った封呪杖の暴走により、壊滅した事例がある。それと、構造が酷似している」
レオンは思わず眉をひそめ、視線を資料へ落とした。
「……そんな代物を、俺たちは手にしていたのか」
沈黙の中、静かな声が割って入る。
「……あの場で、処分すべきだったでしょうか」
サフィアだった。表情は変わらないが、その声音には僅かな緊張がにじむ。
その問いに、レオンは静かに首を振った。
「いや。あのとき見逃していたら、今ごろ誰かが同じものを拾っていたかもしれない。 だから――手にした意味はある。今のうちに対処できる」
レオンのその言葉に、辺境伯がゆっくりと頷いた。
「その通りだ。だからこそ、今ここでの調査に意味がある。私の名のもとに、この杖の正体を明らかにしてもらう」
「承りました。責任をもって調べさせていただきます」
そう応えるレオンの背後で、セリナが杖の匂いを思い出すようにわずかに鼻をひくつかせ、サフィアは静かに頷いた。
この杖は、ただの残骸ではない。何か――もっと根深い災厄の始まりかもしれない。その思いが、室内に重く、静かに沈んだ。
辺境の館の一室は静かだった。
調度は豪奢でありながら過剰ではなく、厚手の絨毯が足音を吸い、窓越しには月の淡い光が差し込んでいる。
レオンはベッドの端に腰を下ろし、窓の外に広がる夜の中庭を眺めていた。騒がしいわけでも、緊張しているわけでもない。ただ――言葉にならない重さが胸の内に沈んでいた。
杖の正体。
エリザベートの想い。
仲間たちの視線。
未来の行き先。
何ひとつ、簡単には割り切れない。
「……王都を出たときは、こんなにも背負うとは思ってなかったな」
小さく呟いたそのときだった。
扉の向こうから、控えめなノック音が響く。
レオンが顔を上げた瞬間、その向こうから柔らかな声が届いた。
「眠れないの? 少しだけ……話す?」
サフィアの声だ。低く、優しい、あの懐かしい調子。
レオンは目を細め、ふっと小さく息を吐いた。
「……ああ、少しだけな」
扉を開けて言うと、サフィアはわずかに口元を緩め、静かに頷いた。レオンが一歩引いて招き入れると、彼女は遠慮がちに室内へ入ってくる。
サフィアはフードを外し、銀の三つ編みを軽く肩に払う。その仕草だけで、場の空気が少し柔らかくなる気がした。
「……部屋、思ったより広いのね」
「だな。俺にはちょっと広すぎるくらいだ」
レオンはソファを指さすと、サフィアは静かに腰を下ろした。彼女の隣に、少し間を空けて座る。
無言のまま、数秒が流れた。
「ねえ、レオン」
「ん?」
「私、こうしてあなたの隣にいられるのが……信じられないくらい、嬉しいの」
その声音は、いつもの理知的な響きではなかった。どこか揺れていて、少しだけ甘くて、懐かしい少女のようだった。
「私は、あなたの隣にいたくて……王宮を出たの。魔術師としてでも、冒険者としてでもなく……ただ、あなたの隣にいる私でいたくて」
レオンは一瞬、言葉を失った。
「もちろん……リリアも、セリナも、ミリーも……大切な仲間だって分かってる。誰かを傷つけたいとか、奪いたいとか、そんな気持ちはないの」
そう言ってサフィアは視線を伏せる。だがその横顔は、決意を秘めた強さを宿していた。
「けど私は……あなたが誰かに向けるその優しさの一部でいいから、ちゃんと、私にも向けてほしいの」
レオンはそっと息を吸い、言葉を探しながらサフィアの手に自分の手を重ねた。
「……お前のことを、置いていったあの夜から、ずっと気にしてた。戻ったら謝ろうって……でも今は、それだけじゃ足りない気がしてる」
サフィアの肩が、微かに震えた。
「なら、今は何をくれるの?」
その声は、冗談のようでいて――どこまでも本気だった。そして彼女は、いつもより少しだけ顔を近づけた。レオンの肩にそっともたれ、夜の静寂の中でぽつりと囁く。
「レオン……お願い。今夜だけ、少しだけでいいから……」
耳元に落ちたその言葉に、レオンは目を閉じる。応えるように、手のひらで彼女の髪をそっと撫で、額を寄せた。
夜の静寂が、二人を優しく包み込んでいた。それは決して激しさではない。けれど――確かに、心を通わせる音のない誓いだった。
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