第7話 クラインヒルズでの挑戦
ブルーヴェイルの街を北東に進んだ先、なだらかな丘陵地帯が広がる土地がある。そこは「クラインヒルズ」と呼ばれ、薬草や小動物が多く生息する地域だった。
依頼掲示板の情報と、道具屋のおばさんからもらった地図を頼りに、レオンはその一角へ足を踏み入れる。
丘の斜面にはさまざまな草木が生い茂り、風が吹くたびに草葉が擦れ合う音が耳に心地よく響く。
しかし、ここへ至る道は意外に険しかった。崖のように切り立った場所こそないが、足元が不安定な箇所が多く、慎重に進まなければならなかった。
三時間ほど費やしてようやく目当てのポイントへ到着し、レオンは薬草の採取を開始する。
今回の依頼はポッポ草を十株集めるというもの。Eランク依頼の中でも比較的簡単な部類だが、レオンにとっては初めての野外活動。慎重に周囲を見回しながら行動していた。
(もっと奥の森に入るイメージだったけど、こんな丘陵地帯に生えているんだな)
地図を広げ、メモ書きされた目印を探しつつ、レオンは膝をついて草むらをかき分ける。長い葉を三枚持ち、先端が丸まり、白い斑点がある――これがポッポ草の特徴だ。
陽光を浴びて鮮やかに揺れる草の中に、それらしい植物を見つけると、レオンはそっと根本を摘んで引き抜く。
傷つけないように注意しながら、背負い袋へ丁寧にしまっていく。
「この葉が指定の薬草か……意外と見つけやすいな」
周囲を見回す。
クラインヒルズという名の通り、丘が連なる地形で、小道が蛇行しながら奥へ続いている。所々に低木の茂みが点在し、中には獣の足跡らしきものがくっきりと残っている場所もあった。
レオンは、王宮での座学を思い出す。
「ゴブリンなどの小型魔物は、森林だけでなく、こうした丘陵地帯にも現れることがある」
だが、Eランクの採取依頼が出される場所に、そうそう危険な魔物がいるとは思えない。
(油断は禁物だけど……ここでは大した魔物も出ないはず)
そう考え、腰を上げようとした――その瞬間。
――がさり。
茂みが揺れた。
風かと思ったが、何かが動いている。草が擦れる音とは違う、生き物の気配――。
「……?」
レオンは剣の柄に手をかけ、身構える。次の瞬間、茂みの奥から小柄な人型の影が飛び出してきた。
緑色の粗末な肌、尖った耳と鼻、ぎょろりとした赤い目――ゴブリン。手には石で作られた粗末な棍棒を握り、ギラついた視線でこちらを威嚇している。
「グギャアッ!!」
甲高い鳴き声を上げると、ゴブリンは凶暴な足取りで距離を詰めてきた。
「っ……魔物!? ここに!?」
レオンは一瞬息を呑むが、すぐに冷静さを取り戻す。
ギルドで学んだ基本的な戦闘の心得――逃げるか、戦うかを瞬時に判断しろ。
だが、今は逃げ場がない。前方には細い道、背後には低木が密集している。このまま逃げても、追い詰められるのがオチだろう。
(……なら、戦うしかない!)
レオンは決意を固め、剣を抜いた。刃が太陽の光を受け、わずかに鈍く光る。
ゴブリンが襲いかかる。
「グギャッ!」
棍棒を振り上げ、一気に距離を詰めるゴブリン。
レオンは反射的に剣を構え、迎え撃つ。
ガンッ!!
金属と石がぶつかり、重い衝撃が腕に響く。
(っ……結構、力があるな!)
想像以上に手強い。しかも、ゴブリンは素早く、地形に慣れているせいか動きに無駄がない。
レオンは後方に飛び退きながら体勢を整えようとするが――。
「グギャヒヒッ!」
ゴブリンが嘲るように笑い、再び突進してきた。
二撃目。
棍棒が横薙ぎに振るわれる。
レオンは剣を立てて受けるが、足場が悪くバランスを崩しかける。
「くっ……!」
必死に耐えながら、カウンターで剣を突き出した。ゴブリンの脇腹を浅く切り裂く。
「ギャッ!?」
ゴブリンが短い悲鳴を上げ、後退する。
レオンはすかさず追撃に移った。
「これで……終わりだ!」
剣を大きく振り下ろす。ゴブリンは棍棒を振り上げて防ごうとしたが、間に合わない――。
ズバッ!
刃がゴブリンの胸元を深々と裂いた。断末魔の叫びを上げ、ゴブリンは地面に崩れ落ちる。
しばらく痙攣していたが、やがて完全に動かなくなった。
「はぁ……倒せた……」
肩で息をしながら、剣を下ろす。
わずか数十秒の戦闘だったが、全身が汗まみれだ。心臓の鼓動は激しく、膝の震えが止まらない。
「……思ったより、骨が折れたな。まだまだ、修行が必要だ」
初めての実戦。勝てたとはいえ、決して楽な戦いではなかった。
レオンは息を整えながら、改めて剣を握り直す。
(でも、これが冒険者の戦いか……)
王宮では得られなかった、生きるための実戦経験。
レオンは再びポッポ草の採取を始める前に、まずは冷静に周囲の安全を確認することにした。
初めての実戦――森で小動物を仕留めたことはあるが、相手が知性を持つ魔物であるゴブリンとなると、やはり緊張感がまるで違った。
野外での戦闘に不慣れなせいもあり、足場に気を取られて体力を余計に消耗したようだ。
「ふう……少し休もう。怪我は……」
自分の身体を確かめる。幸い、ゴブリンの攻撃はまともには受けていない。だが、茂みで転んだときに擦りむいたのか、膝に小さな血の滲みがある。
レオンは救護セットを取り出し、傷口を軽く消毒して包帯を巻いた。ポーションは節約のためにも温存しておく。呼吸を整えながら、ふとゴブリンの死骸をちらりと見やる。
魔物の遺体はこのまま放置するしかない。討伐依頼ではないため報酬もなく、素材を取る知識も装備もない。何より、長居したくないというのが正直なところだった。
(こんなところにもゴブリンが出るとはな……やっぱり油断は禁物か)
王宮を出たばかりの頃は、実戦経験など皆無に等しかった。だが、一体とはいえ魔物と戦い、勝てたことで、自分の未熟さも実感できたし、得たものもあった。
レオンは空を仰いだ。流れる雲が、やけに眩しく見える。
「よし……薬草を集めて早めに戻ろう。無理は禁物だ」
再び立ち上がり、目を凝らして茂みの奥を探る。さきほどゴブリンが飛び出してきた辺りには、小さな足跡が複数残っていた。一体だけではない可能性がある。
今すぐに襲ってくることはなさそうだが、これ以上ここに留まるのは危険だろう。
とはいえ、依頼をこなすにはポッポ草を十株集めなければならない。すでに四株は確保済み。残り六株。
レオンは周囲を警戒しながら草むらを探し歩く。ときおり風に草が揺れるだけで、剣に手が伸びそうになるが、実際は小動物だったり、風のいたずらに過ぎなかったりする。
(……よし、これで八株。もう少しだ)
丘の斜面には思いのほかポッポ草が多く、見慣れてくると見分けもつきやすくなってきた。
戦闘の経験からか、周囲に気を配る癖が自然と身につきつつある。怖さと隣り合わせだが、その分慎重さと冷静さも増していた。
やがて十株すべてを揃えたレオンは、一息つきながら依頼要項を確認する。必要数は満たしている。報酬も得られるはずだ。
あとはブルーヴェイルへ戻るだけ。だが、帰り道にも気を抜かず、注意を払うつもりでいた。
丘を下り、街道へと続く道をたどる頃には、風が夕暮れの草原を静かに撫でていた。
太陽は西に傾き、オレンジ色の光が山並みに差し込む。体は疲労で重いが、初めての依頼を成し遂げた達成感が、レオンの足取りを少しだけ軽くしてくれる。
(……初めての成功。いや、まだギルドに報告していないから『完了』じゃない。でも……ここまでやり切れたのは、たしかだ)
ゴブリンとの戦闘で消耗した体力を感じながらも、自分の力で結果を出せたことが嬉しかった。
王宮ではこうした小さな達成感を味わう機会がなかった。栄誉や地位は与えられるものであって、努力の先に得るものではなかったからだ。
それゆえに、今感じているこの小さな満足が、レオンには何よりも尊く思えた。
「……次は、もっと上手くやれるさ」
そう呟きながら、膝の痛みに気づいて足を庇う。傷はすでに乾き始めていたが、踏み込みには気をつけなければならない。
ゆっくりと歩調を整えながら、レオンは街へ続く道を一歩ずつ踏みしめていく。
日が落ちかけた空に、茜色の雲が浮かんでいた。
ようやく街が見え始め、レオンは深く息を吐く。そして、わずかに笑みを浮かべた。
体は疲れていたが、心は不思議なほど晴れやかだった。
夕方、街の門をくぐると、門番がちらりとレオンの様子を見やり、「おや、ずいぶんくたびれた様子だな」と声をかけてきた。だが大きな騒ぎも起こさずに通り過ぎれば、それ以上詮索されることはない。
そのままギルドへと急ぎ、受付カウンターへ向かうと、リリアが明るい笑顔で出迎えてくれた。
「レオンさん、おかえりなさい。うわ、すごい汗……大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか。……ポッポ草、十株集めてきました」
レオンは背負い袋から依頼に指定された薬草を取り出してカウンターに並べる。リリアはひとつひとつ丁寧に数え、状態を確認し終えると、ぱっと笑顔を咲かせた。
「うん、完璧ですね! お疲れさまでした。それじゃあ、こちらが今回の報酬です。おめでとうございます、初仕事成功です!」
彼女が差し出した小さな布袋には、銀貨数枚と銅貨がいくらか入っていた。高額とは言えないが、レオンにとっては初めて自分の力で得た正当な報酬だった。
(……なんだろう、この嬉しさは)
手のひらで銀貨がじゃら、と音を立てる。それだけで胸が少し温かくなる。王宮にいた頃は、金銭を意識することなど一度もなかった。だが今、この報酬には確かな実感と意味があった。
「初仕事、本当にお疲れさまでした。けっこう大変でしたか?」
リリアの問いに、レオンは苦笑しながら頷く。
「思った以上に骨が折れました。途中でゴブリンに出くわして……かなり焦りましたが、鍛冶屋で整えた剣と、道具屋のおばさんからの教えが本当に助けになりました」
「やっぱり出たんですね、魔物……。クラインヒルズは比較的安全な方だけど、ゴブリンやコボルトは時々出るんですよ。でも、倒せたんですね! すごいです!」
リリアは目を輝かせてレオンの健闘を称える。照れくさい気持ちもあったが、素直に嬉しかった。
「次はもっと落ち着いて対処したいですね。今回はちょっとテンパってしまって」
「最初は誰でもそうですよ。でも一体でも倒せたなら、十分すごいです。大怪我がなくて本当によかった……あ、そうだ。ゴブリンやコボルトって、常設依頼になってるんですよ。倒した証明として、右耳などの部位を持ち帰ると追加報酬が出ます」
「えっ、そんな仕組みがあったんですか?」
「ええ、ギルドの指南書にも書いてあるんですけど……見てません?」
「すみません、読んでませんでした。倒した後、何もせずに放置してしまって」
「もったいない……! でも今回は仕方ないですね。次から覚えておくといいですよ。それと、魔物によっては体内に“魔石”っていう光る結晶があるんです。それも換金できます。種類や大きさで値段が変わるので、結構おいしいんですよ」
「魔石……確かに何か光ってたような気もします。でも何か分からなくて」
「次はぜひ。取り出し方も指南書に載ってますから、今度はそれを読んでから出発したほうがいいかもしれませんね」
レオンは深く頷き、次回はもっと確実に回収できるようにしようと決意を新たにする。
「今晩はしっかり休んでくださいね。身体が資本ですから」
リリアの優しい言葉に、レオンは自然と微笑んだ。思えば、太陽はもう沈みかけている。空腹と疲労が同時に押し寄せてくる。
ギルドのホールでは、他の冒険者たちが思い思いに過ごしていた。誰かが大型魔物の素材を持ち込んだり、仲間同士で剣を比べ合ったり、酒を片手に談笑する者もいる。喧噪の中、レオンはその光景を静かに眺める。
(王宮では得られなかったものが、ここにはある)
それをしみじみと実感しながら、レオンはギルドを後にした。夜の街は少し肌寒く、それでも活気に満ちている。明日の予定を思案しつつ、今夜の宿をどうするか考えながら歩く。
腰の剣が、夕闇の中でかすかに光を返す。それは、これからも戦いに応えてくれる道具であり、自分が選んだ人生の象徴でもあった。
(次はもっと上手くやれる……そう信じよう)
誰もいない裏路地を、ゆっくりと歩く。初めての戦闘。初めての依頼達成。そのすべてが、まだ新しくて刺激的だ。痛感した未熟さも、限界も、すべてが明日への糧になる。
遠くから誰かの笑い声が響き、どこかの食堂から漂ってくる香ばしい匂いに、レオンの腹が鳴る。けれどそれさえ、今の彼には心地よかった。
王宮の静けさとはまったく違う、庶民の営みが息づく世界――そこに今、確かに自分はいる。今日ほど、そのことを誇りに思えた日はなかった。
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