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第69話 ラウレンツ領へ

 朝の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。宿屋の前、柔らかな陽光が石畳を金色に染め、旅支度を終えた馬車が静かに待っている。

 それは天蓋付きの中型馬車だった。後方には荷台があり、座席は向かい合わせに四人が乗れる作り。日除けの布もあり、長旅に備えた造りが施されている。


 レオンは手早く荷を積み込みながら、荷台の固定具を調整していた。道中は五日。食糧、寝具、装備――すべて、しっかりと収められている。


「い、いよいよ……出発ですね」


 声の主はリリア。緊張で背筋がぴんと伸びているが、頬はわずかに紅潮し、目元には旅立ちの高揚がにじんでいた。


 レオンは積み込みを終え、馬車の扉を開けながら彼女に笑いかける。


「ああ。五日も旅するのは久しぶりだ。……準備はいいか?」

「は、はいっ!」


 その後ろでは、セリナが尻尾をふわりと揺らしながら、馬車の周囲をひとまわりしていた。すでに旅支度を終えている彼女は、細かく馬具や車輪の状態を確認し終え、リリアに目を向ける。


「……走れる? 野営できる?」


 唐突な問いかけに、リリアがぴくっと肩を跳ねさせる。


「ま、任せてください! ……多分……!」


 セリナは何も言わず、尾を一度だけ揺らした。その仕草はどこか楽しげにも見えた。

 サフィアがゆっくりとフードを整えながら、馬車の脇に立つ。


「気を抜かないようにしましょう。街道の治安は良くても、油断は禁物です」

「そうだな」


 レオンは短く答え、最後に扉を確認してから馬車へ乗り込んだ。


 全員がゆったりと座れる車内。ミリーは緊張した面持ちで座席に身を沈め、リリアは何度も荷物を確認しながら、背筋を伸ばしていた。

 セリナは窓際で耳をぴくりと動かし、サフィアは静かに地図を広げる。


 レオンが手綱を引くと、馬車はゆっくりと動き出した。

 石畳の音が車輪に連なり、朝の街を抜けていく。


 ――これが、新たな旅の始まり。


 仲間たちと共に、まだ見ぬ地へ。その先に待つのは、貴族の館と、杖の謎――そして、確実に忍び寄る何か。


「よし、出発だ」


 その言葉とともに、馬車は静かにブルーヴェイルを後にした。



 

 広がる草原と、時折現れる林のトンネルを抜けながら、馬車はのどかな街道を進んでいた。

 風が草をなで、車輪の音が静かに風景へと溶け込んでいく。


 レオンは手綱を握りながら、視線を前方の道に据えたまま、軽く息を吐いた。

 街の喧騒を離れたこの道には、確かに静けさがある。だが、それは同時に警戒すべき隙でもあった。


 馬車の横を、セリナの影がすっと駆け抜けていく。獣人の身のこなしは音もなく、林の陰から枝の上へと移動しながら、常に前方の安全を確認している。

 何も言わないが、レオンはその気配を感じ取っていた。


「……初めて見る風景ばかりで、ちょっと怖いですが……不思議と心地いいです」


 後部座席から、ミリーの声がやわらかく届く。彼女は窓の外に顔を向けたまま、目を細めていた。


「私も、こうしてパーティの一員として旅するの、ずっと憧れてたの」


 隣に座るリリアが、笑いながらそう答える。その言葉には、ほんのりとした照れと、誇らしさが混じっていた。


「……でも、本当にこれでいいのかなって思う時もあります。私、戦えないし……皆みたいに格好良いわけでもないから……」


 その一言に、レオンはふと手綱を緩め、肩越しに振り返った。


「リリア、無理はしなくていい。お前の役割は、俺たちを支えることなんだ」


 それは、率直な思いだった。戦いだけが強さじゃない。誰かが笑顔で戻れる場所を守る。それもまた、旅の中で最も欠かせない役目だ。


 リリアは一瞬だけ目を伏せたあと、ふわりと微笑んだ。


「……はい。ありがとう、レオンさん」


 その声には、迷いのあとに灯る決意の色があった。


 馬車の前方ではサフィアが交代の準備をしながら、遠くの空を見上げている。風の匂いを読むように、何かを感じ取ろうとしているのか――その横顔は静かで、強かった。


 レオンは再び前方に目を戻す。

 道はまだ長い。けれど、今のこの時間が、彼にとって確かなものを感じさせていた。


 彼らは、今――同じ道を、確かに進んでいる。



 

 二日目の夕暮れの色が完全に沈む頃、一行は小さな村の外れにある宿へとたどり着いていた。

 石造りの質素な建物だったが、清潔感があり、玄関前に吊るされたランタンの灯りが温かさを醸し出していた。


 村の規模を考えれば、これほど整った宿はむしろ上等だった。

 馬車をつなぎ終えると、レオンは荷物を下ろして皆を促した。


「今夜はここに泊まろう。……野営にならずに済んでよかった」

「はい……」


 ミリーは小さく返事をしながら、宿の部屋をきょろきょろと見渡していた。初めての旅先の宿に、少し緊張が混じっているのが目に見えてわかる。

 それでもベッドの上に腰を下ろし、手に取ったブランケットを胸元でぎゅっと抱きしめた。


「このブランケット……暖かいです」


 その笑顔に、レオンも少し肩の力を抜いた。


 部屋の奥では、セリナとサフィアが地図を広げて、明日の行程を確認している。木炭で引かれた街道のラインに、サフィアが指を滑らせながら呟いた。


「この先は街道から外れる林道が増えますね。途中、地形が変わりやすい場所もあるわ」

「……水場、見つけた方がいい」


 セリナは地図の隅に小さな池の記号を見つけると、尻尾を軽く揺らして頷いた。


「ベッド、硬い。でも我慢」

「ふふ……明日の野営に備えましょう」


 サフィアがくすっと笑いながら返す。

 一方、リリアは台所の方で、宿の女将と何やら談笑していた。湯気の立つ鍋を覗き込んで、時おり笑い声が漏れてくる。


 レオンは壁にもたれ、薪の火に照らされる部屋の中を見渡した。旅の途中で、こうして全員が温かい部屋で揃っている――それだけで、ありがたい。


「……旅の途中のまともな宿だ。ありがたく寝よう」


 彼の言葉に、ミリーが小さく「はい」と返し、ブランケットにくるまった。


 外はもうすっかり夜になり、窓の外では虫の声が微かに聞こえ始めていた。長い道のりの途中で訪れた、束の間の安らぎ。


 だがそれは、確かに守られていると感じさせる静けさだった。



 

 三日目の夜、街道の脇に広がる林の縁で、レオンたちは野営を敷いていた。宿のある村からは離れすぎていたため、この夜は屋根のない空の下で過ごすことを選んだ。


 焚き火の周りには簡易テントと寝袋。調理器具と乾燥食料の匂いが、わずかに空気に漂っている。

 空は雲ひとつない。だが、それが逆に不安をかき立てる夜だった。


 レオンは火の番をしながら、耳を澄ましていた。


 そのとき――。


「……っ」


 パチ、と音を立てて耳を動かしたのはセリナだった。焚き火の奥、闇の中へ目を細めて立ち上がる。


「来る……前方、三体」


 レオンもすぐさま腰の剣に手をかけ、背後へ声を飛ばす。


「サフィア、右へ回ってくれ。セリナ、挟み撃ちにするぞ」

「了解。ミリー、後ろに下がって!」


 サフィアが素早く詠唱の準備に入り、ミリーを背後へ導く。


 茂みが揺れ、低い唸り声が漏れる。月明かりの中、獣型の魔物が姿を現した――牙を剥き、毛を逆立てた三体の魔物が、焚き火の光に赤く照らされる。


 セリナが音もなく左から駆け、レオンは正面に踏み込む。斜めに突っ込んできた一体の首筋を狙い、剣が鋭く閃いた。


 刹那、背後で閃光とともに雷の槍が走る。サフィアの魔法がもう一体の脇腹を正確に貫き、青白い稲光を伴って吹き飛ばした。

 残る一体が逃げるように林に戻ろうとしたその時――。


 セリナの短剣が闇を裂いた。乾いた音を立てて、魔物は崩れ落ちる。


 静寂が戻る。


 地面に伏した三体の魔物は、全て動かない。

 焚き火の炎がわずかにその影を揺らしながら燃えていた。


「……終わったな」


 レオンは剣を軽く振って血を払い、仲間たちの無事を確かめるように周囲を見渡す。

 サフィアが魔法の残滓を消しながら息を整えており、セリナは音もなく焚き火の傍へ戻っていた。


 そのとき、ふとレオンの目が寝袋の中のリリアに止まる。

 彼女は眠っていたはずの体勢のまま、布の下で両拳をぎゅっと握りしめていた。瞼を閉じているが、その指先はわずかに震えていた。


 きっと音で気づいていたのだろう。だが、彼女は動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのかは分からない。


 レオンは火を見つめ、ゆっくりと腰を下ろした。それぞれの役割と、それぞれの決意が交錯する夜だった。

 そして、この先に進むにつれ――その重さは、さらに増していくのだと、彼は静かに感じていた。



 ◆◇◆◇

 そして旅は四日目を迎えていた。

 森を抜けた先、陽光を映したような泉が静かに水面を揺らしていた。その透き通る水に、少女たちの笑い声がやさしく響いていた。


 サフィアは膝まで水に浸かりながら、泉の中心で髪をすくっているミリーを見つめる。旅装の下に隠れていた細い肩が、まぶしい陽の光を浴びていた。


「……こうして水に入るの、久しぶりですね」


 ミリーがぽつりと呟く。声は小さいが、その表情は緩んでいた。

 セリナはすでに泉の縁で水をはじかせており、リリアは頬を赤くしながらも後に続いて水に浸かっていく。


「サフィアさんのスタイル、羨ましいです……」


 そう言ったリリアは、視線を逸らしながらもちらりとサフィアの身体を見た。


「ふふ、そんなことないわよ。セリナやミリーくらい胸があるほうが……女性らしいもの」


 サフィアが柔らかく微笑むと、セリナが無表情のまま下を向き一言。


「これ、邪魔なだけ」


 その即答に、リリアとミリーが同時に吹き出しかけた。


「せ、セリナさん……っ!」「わ、私……! そ、そんな……」


 ミリーは泉の中で手をばたつかせながら、顔を真っ赤に染めている。

 その様子を見て、サフィアは口元に手を添えてそっと笑った。


「でも、よかったわ。みんな、ちゃんと楽しめてるようで」


 少女たちはそれぞれのやり取りを交わしながら、水音とともにその場の空気をやさしく揺らしていった。

 森の奥、風にゆれる木々の隙間からこぼれる光が、水面にきらめきを散らしている。水しぶきとともに交わされる笑い声が、澄んだ泉に反響して消えていった。

 


 ◆◇◆◇

 その遠く離れた木陰、泉から少し離れた場所で、レオンは馬の手綱を整えていた。ふと、笑い声に耳を傾け、目を細める。


「……楽しそうだな」


 誰に語るでもなく呟いたその声には、わずかに柔らかい響きが混じっていた。


 無防備になれる時間。それがどれほど貴重かを、彼はよく知っている。だからこそ――守る、と心の中で静かに誓うのだった。



 

 西の空が、茜に染まりはじめていた。沈みかけた太陽が、草原の起伏を照らし、金色の光が街道の先へと道を伸ばしている。


 風は穏やかで、旅路の疲れをほんの少しだけ癒してくれるようだった。

 馬車の音はゆるやかに響き、車輪が乾いた土をかすめていく。


 レオンは手綱を握ったまま、馬車を引く馬の横を歩いている。

 前方に目をやると、少し先を歩くセリナの後ろ姿。揺れる銀の髪と尾、警戒を解かない姿勢。その小さな背が、妙に頼もしく見えた。


 その横では、ミリーが摘んだ草花を両手に持ち、時折笑い声を漏らしている。旅のはじめとは別人のように、表情が明るい。


「……この旅の先に何が待ってるか、俺にはまだわからないけど……」


 思わず、言葉がこぼれた。


 遠くに、次の村の影が見えはじめている。街灯も、囲いもない小さな集落。それでも今の彼らにとっては、十分な目印だった。


「でも、きっと、大丈夫ですよね」


 静かな声が隣から聞こえた。


 リリアが、いつの間にかレオンの隣に並んで歩いていた。顔を上げ、どこか自分に言い聞かせるように微笑んでいる。

 レオンも小さく笑った。


「ああ。俺たちなら――きっと、大丈夫だ」


 その言葉に、リリアは少しだけ歩幅を広げ、風に揺れるスカートを押さえながら前へ進んだ。


 空には、一番星がそっと瞬き始めている。沈む陽が道を照らすその先に、まだ見ぬ未来が待っていた。


 それでも、彼らは確かに進んでいた。迷いも不安も、そのすべてを乗せながら。


 確かな足取りで――旅は、続いていく。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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