第68話 静かなる兆し
石造りの地下室には、濡れたように冷たい空気が漂っていた。灯りは壁に掛けられた一本の燭台のみ。ぼんやりとした炎が、荒れた石壁に揺れる影を投げかけている。
部屋の中央、簡素な鉄製の寝台。その上に、一人の少女が横たわっていた。
手首と足首には金属の拘束具。服は囚人用の灰色の布で、所々に擦り切れた跡が残っている。かつて貴族令嬢付き侍女として仕えていた姿は、今は見る影もない――はずだった。
だが、その顔立ちはなおも整っていた。薄い唇。まっすぐな鼻梁。何より、伏せられたまつげの奥でわずかに揺れる琥珀色の瞳が、消えかけた蝋燭のようにわずかに光を残していた。
重い鉄扉の外――。
「貴族の侍女ってだけで面倒だが、顔がいい。あの貴族商人なら、高く買うかもな」
男の声がくぐもって響く。ベリスカ王国の諜報部員たちが数人、部屋の外で肩を寄せ合っていた。
「例の件が失敗に終わった今、この女から情報を引き出す価値もねぇしな」
「なら売っぱらう前に味見しちまうか」
一人がぼそりと漏らした言葉に、別の男がにやけた声で応じた。
「いっそのこと俺らのおもちゃにするのもいいねぇ」
「――黙ってろ」
最初に話していた男が低く睨みをきかせる。
「余計なことすると、首が飛ぶぞ。あいつの耳に入ったら終わりだ」
一瞬の沈黙。
「……チッ。わーってるよ」
再びざわめきが遠ざかっていく。
牢の中では、少女が身動き一つせず、ただ目を伏せていた。聞こえていないはずはない。耳を塞ぐこともできず、ただじっと、囁きにも等しい悪意を聞いていた。
唇は乾ききっている。頬には小さな擦過傷。だが、心は――まだ砕けていなかった。
(……ここで終わるわけには……)
その想いだけが、彼女をつないでいた。
冷たい鉄の寝台。だが、琥珀の瞳はまだ、完全には濁っていなかった。
そこに灯った光は――決して、消えてはいなかった。
◆◇◆◇
教会の鐘の音が、街に穏やかに響いていた。ブルーヴェイルの外れに静かに佇む白壁の教会――その裏手には、変わらぬ静けさと、かすかな花の香りが漂っていた。
ミリーはサフィアと並んで、石畳の小道を歩いていた。両手に、包みを一つ。中には旅立ちの前にと、街で買ったお菓子が入っている。
教会の扉が開いた。
「まあ……」
シスター・マリナが驚いたように目を見開き、すぐに微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「……ミリー。あなた……」
「シスター……」
ミリーは小さく頭を下げ、包みを差し出す。
「少しだけ……お邪魔しても、よろしいですか?」
「もちろんよ。みんな、きっと喜ぶわ」
サフィアが静かに後ろから礼をし、二人は教会の奥――孤児たちの過ごす部屋へと足を運んだ。開け放たれた扉の向こうで、ミリーの姿を見つけた子供たちが一斉に顔を上げた。
「……ミリーお姉ちゃん!?」
「ほんとに……ほんとに戻ってきたの!?」
「うそ……うそじゃないよね……!」
駆け寄ってきた小さな女の子、マリーが勢いよくミリーに抱きついた。その目にはもう、涙が溢れていて――ミリーは、そっと彼女の背を抱きしめた。
「……ミリーお姉ちゃんっ、約束したのにっ……!」
「……ごめんなさい」
ミリーは目を潤ませながら、それでも微笑んだ。
「あなたがいなくなってから、子供たちは毎日……ミリーのこと、心配していたのよ」
シスター・マリナが静かに言った。
「また来ますね。必ず。約束、しますから」
言いながら、マリーの頭にそっと手を置き、その小さな髪を優しく撫でた。
そして――少しだけ躊躇ってから、静かに言葉を継いだ。
「ただ明日、遠いお屋敷に向かうのです。お仕事で……しばらく、ブルーヴェイルを離れることになります」
「え……お屋敷?」
「そうです。辺境伯様っていう、大きなお屋敷。みんなが安心して暮らせるようにするための、だいじなお仕事……だから、ちょっとだけ我慢しててね」
泣きそうな顔の子どもたちを見回しながら、ミリーは包みを差し出す。
「だから……これ。旅に出る前に、みんなに渡したかったの。大好きな甘いお菓子」
「……お姉ちゃん、ほんとに、また来る?」
小さな男の子が震える声で聞いた。
ミリーはしっかり頷いた。
「ええ、必ず。また笑って会えるように、私……もっと強くなってきますから」
ミリーは、抱きつく子どもたちの小さな手をぎゅっと握った。
涙の痕が頬を伝う。でも、その笑顔は確かに強さを帯びていた。
――次にここへ来るときは、もっと強くなった自分で。それが、今の彼女の静かな誓いだった。
夕暮れの街はどこか寂しげで、それでもやさしかった。孤児院をあとにし、ミリーはサフィアと並んで、ゆっくりと宿に向かって石畳を歩いていた。
風は穏やかで、どこからかパン屋の焼きたての匂いが漂ってくる。けれど、ミリーの胸の奥は、まだ波打っていた。
「……あの子たち、泣いていましたね」
「あなたが大切にされてた証よ」
サフィアは歩調を崩すことなく言った。その言葉は強くも、どこか包むような響きだった。
しばらく黙ったまま歩き、ミリーはふと、ぽつりと呟いた。
「私は……レオン様、そして皆様によくしていただいて……このままでいいのか……そんな風に、思ってしまって」
誰かに与えられてばかりで、自分は何も返せていないのではないか。それが、胸に刺さっていた。
立ち止まったミリーの横で、サフィアも足を止める。淡い銀髪が、夕日に照らされてふわりと揺れた。
「そう思うならあなたが、レオンを守ればいいのよ」
ミリーは驚いて、顔を上げた。
「えっ。私がですか? いったいどのようにすれば……」
「そんなの簡単よ。あなたには回復魔法があるでしょう?」
淡々とした声。その奥には、確かな信頼があった。ミリーの力を、誰よりも信じているかのように。
「レオンは、強くて優しい。けれど一人で全部を背負いすぎるところがあるわ。だから、あなたのような存在が必要なの」
ミリーの胸に、静かに温かさが満ちていく。
自分にしかできないことが、ある。誰かに甘えるだけじゃない――誰かを支える力が、自分の中にもある。
「……はい。私、皆様と一緒に、レオン様を守ります」
そう言ったとき、自然と微笑みがこぼれていた。
あの日、倒れていた自分を抱き上げてくれた手。今度は自分が、誰かを支えるために――その手を伸ばす番だと、そう思えた。
空は夜の帳を下ろし始めていた。けれどミリーの胸の内には、確かな光が灯っていた。
◆◇◆◇
夕刻、日が傾き始めたブルーヴェイルの石畳を踏みしめ、レオンはリリアと並んでギルドの扉をくぐった。辺境伯領への出立を翌朝に控え、最後の確認のためだった。
「マスターは奥にいます。どうぞ、通ってください」
カウンターの奥から顔を出した職員の声にうなずきながら、レオンはギルド内の空気にわずかな緊張感が混じっていることに気づいた。
遠巻きに聞こえるざわめき。数人のスタッフが地図を囲み、声をひそめて話している。ギルドマスターはその中央に立ち、腕を組んで渋い表情を浮かべていた。
「獣道の北側……何か、大型の痕跡があります。しかも、複数……」
地図の一点を指差したスタッフの声が届く。
「巣跡の残骸とは位置が違います。周囲の木々の裂け方も、以前のコボルトの痕とは明らかに異なります」
ギルドマスターは顎に手を当て、短く唸る。
「誰かが意図して誘導しているようにも見えるな……。魔物の自然な移動とは思えん」
「村の方では、すでに避難を申し出る者も出始めているそうです」
リリアが不安げに隣で囁いた。
レオンは無言で応じながら、その場の空気に飲まれないように意識を集中する。
コボルトの巣を潰したはずだった。だが、今度はまったく別の兆候。偶然で片付けるには、あまりにも近すぎる。
(……まだ終わっていない。何か、裏がある)
自然ではない気配。歪んだ痕跡。目に見えない意図が、魔物たちを、何かに突き動かしている――そんな予感。
リリアの視線が問いかけるように向けられていたが、レオンは首を横に振った。
今はまだ、何も口にする段階ではない。
ただひとつ――さらなる脅威が迫っているのは、間違いない。彼の背に、冷たい予感が忍び寄っていた。
◆◇◆◇
夜の帳が下りる前の、沈黙に包まれた森。風ひとつ吹かず、鳥も鳴かず、虫の羽音さえ遠ざかっていた。
その静寂の中――土がわずかに震えた。
木々の間をぬうように、巨大な獣影がゆっくりと地を這っていた。全身を黒い甲殻のような毛皮に覆われ、異様に長い尾が地面を這うたび、草が一瞬で枯れる。
そして、その背に浮かび上がる赤黒い紋様――。それは数百年前、魔族の大戦で封じられたはずの古き紋章によく似ていた。
獣は、まるで誰かの命に従うかのように、無言のまま進み続ける。
だが、ある一点に差しかかったとき――。
ふと、脚を止めた。
静かに、頭をもたげ、鼻先を空に向けて――。
「……まだだ……」
低く、喉の奥から滲むような唸り声が漏れる。
「時は、まだ満ちぬ……」
その声には、理性と本能の境が曖昧な、底知れぬ意思が宿っていた。まるで何かを待っているかのように。
その身を包む闇が、まるで森そのものと同化するかのように静まり返る。
やがて、再び一歩。
そして、また一歩。
音もなく――その獣は、辺境伯領のとある町の方向へと、ゆっくりと進み始めた。
誰にも気づかれぬまま、忍び寄る静かな悪意が、今、確かに動き始めていた。
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