第66話 少女たちの時間
焼きたてのパンの香ばしい匂いが、宿の食堂にふんわりと満ちていた。朝の光が差し込む木枠の窓のそばで、ミリーは少し緊張しながらテーブルについていた。
レオンはすでに朝食を終え、バルド工房へと出かけていた。武器の調整か、新しい装備の相談か――詳しいことは言わなかったけれど、少し頼もしい背中が扉の向こうに消えていったのを、ミリーはなんとなく見送ってしまった。
「……今日は、レオンいない」
ふわ、と音がしそうなくらい柔らかく揺れる尾が視界に入った。
セリナがパンをかじりながら、金色の瞳をミリーに向ける。
「買い物、どう?」
「えっ、私……ですか?」
思わず言葉が上ずった。昨日の疲れもまだ残っているはずなのに、セリナの瞳は妙に楽しげで、いつもの静かな雰囲気とは少し違って見えた。
「私も賛成。ミリーの私服を見にいきましょう」
サフィアが湯気の立つスープに口をつけながら、さらりと言う。銀髪をまとめたその横顔は相変わらず冷静に見えるけれど、瞳の奥にはわずかに期待が浮かんでいた。
「わ、わたし……私服って……そんな、立派なものは……」
ミリーは慌ててスプーンを置き、小さく身を縮めた。
これまで服のことなんて、気にしたことがなかった。与えられたものを着るのが当たり前で――自分で選ぶなんて、考えたこともなかった。
「女の子だけっていうのも、悪くないでしょ?」
リリアが笑ってそう言った。声のトーンは穏やかで、優しくて――思わず、ミリーの肩から少しだけ力が抜けた。
「……でも、私、何を選んだらいいか……分からなくて」
「それなら、選ぶのは任せて」
サフィアがさらりと言い切った。
セリナも「……ミリーは可愛い。もったいない」と付け加える。
「えっ……か、可愛いって……!」
言葉が出ないほど驚いて、思わず俯いてしまった。でも、胸の奥がほんのりあたたかくなるのを感じていた。
目の前にいる三人の女性たちは、それぞれ違う雰囲気なのに、どこか心地よくて――。
(こんなふうに笑い合う朝が来るなんて、思わなかったな……)
ミリーはそっと顔を上げた。ほんの少しだけ、前向きな気持ちを胸に――まだ見ぬ「私の服」を、探しに行くその一歩を想像していた。
木製の扉を押すと、鈴の音が澄んだ音を立てた。ブルーヴェイルの中央通りから少し外れた場所にある店――「クローバークローゼット」。
こぢんまりとした店構えながら、窓際には色とりどりの可愛い服が並んでいて、見ているだけで胸がくすぐったくなる。
(本当に……ここで、私の服を……?)
ミリーは一歩踏み出すのも戸惑ってしまいそうだったが、背後からすっとセリナに押されるようにして店内へ進む。
「……もう、三着。気に入った」
セリナはすでに腕に服を抱えていた。ふわふわのフリルが付いたスカート、花柄のブラウス、そしてシンプルだけど上品な淡い水色のワンピース。
耳がぴこっと動いて、獲物を見つけたような鋭さで棚を漁っている。
「ミリー、こっちも。着て」
「えっ……え、ええと……」
セリナが差し出したのは、肩に小さなリボンの付いた淡いピンクのカーディガンと、白いプリーツスカートの組み合わせ。ミリーが手を伸ばすより先に、もうサフィアが別の服を持ってきていた。
「この白のワンピース、あなたの雰囲気にぴったり。肌が明るく見えるし、ふんわりしたシルエットがよく似合うと思うわ」
「ふ、ふんわり……」
ミリーはもはや服を受け取るだけで精一杯になっていた。両手はもう、すっかり埋まっている。
そこに遅れてリリアが、遠慮がちに一着を抱えて近づいてきた。それは、薄いラベンダー色のワンピース。胸元に小さな花の刺繍が入っていて、袖口には控えめなレース。
「ねぇ、こっちのも……可愛いと思う、な……」
「……あの、みなさん……こんなに、いっぱい……」
「試着室、そっち」
セリナが即座に案内し、サフィアが「着替え、手伝うわね」と後に続く。
ミリーは真っ赤な顔のまま、小さな返事をして試着室に入っていった。手の中にあるのは、これまで自分が着てこなかった色や形の服ばかり。けれど――どこか、不思議な安心感があった。
(私に似合うか分からないけど……こんなふうに選んでもらえるなんて……)
小さな空間の中、ミリーはそっとカーテンを閉めて、一着目の服を手に取った。鏡に映る新しい自分に出会うために。
「きゃっ……せ、狭い……!」
思わず声が漏れてしまった。クローバークローゼットの奥――薄布で仕切られた試着室に、四人も詰め込まれているなんて、明らかに無理がある。
ミリーは壁際に押しやられるような形で身動きが取れず、肩をすくめる。
「……問題ない」
すぐ隣でそう呟いたセリナは、まるで自分が狼の群れの主のように堂々とした態度だった。
(も、問題しかない気がするんですけど……!)
ミリーが内心で悲鳴をあげている横で、リリアが小さく苦笑しているのが視界の端に映る。
「これ絶対許容人数超えてるわよね……」
リリアはそう呟きながらも、どこかくすぐったそうな、楽しげな笑みを浮かべていた。
(……でも、こういうの……ちょっと、憧れてたかも)
女の子だけの、秘密の場所みたいな空間。話す内容だって、いつもと違う。
「……これ、見て。履きやすい」
セリナが不意に差し出したのは、シンプルな生成り色のショーツ。だけど、よく見るとサイドがリボンで結ばれていて、生地もなぜか艶めいていた。
「ちょっ、それ本当に履きやすいの!?」
リリアのツッコミに、セリナはこくりと頷く。
「布少ない。邪魔じゃない。動きやすい」
「そういう意味なのね……」
ミリーは目をぱちくりさせたまま、視線を逸らすしかなかった。こういう話題に、どう反応していいかまだよく分からない。
その隣で、サフィアが咳払いを一つ。
「……ふむ、レースの入り方が繊細ね。可愛いわ」
さりげなく手にしているのは、黒地に薄紫のレースがあしらわれた、なかなか大胆な下着。淡々としているけれど、ミリーにはわかった。サフィアの耳の先が、ほんのり赤くなっている。
(……なんだか、みんな自由で……でも、嫌じゃない)
「これなんかどうですか? ほら、ここのフリル、控えめだけどすっごく可愛くて……ミリーに似合うと思います!」
リリアが差し出してきたのは、淡い水色に白いリボンの付いた、優しい印象のブラとショーツのセット。まるでお菓子みたいで――それが自分の手の中にあることに、ミリーは信じられない気持ちだった。
「……こ、これ、って……私には……」
頬が一気に熱くなる。けれど、嬉しくないわけじゃなかった。
「合ってる?」
セリナの声に振り返った瞬間――。
彼女の手が、ふいにミリーの胸元に伸びた。
「きゃっ、せ、セリナさんっ!?」
あわてて身をよじろうとしたけれど、もう遅い。布の上から、しっかりと両手でサイズを確かめるように触られてしまっていた。
「大丈夫。問題ない。形、きれい」
何の悪びれもないその言葉に、ミリーは顔を両手で覆い、カーテンに背を押しつけるようにして震えた。
(む、無理……! 心臓が持たない……っ!)
「セリナ、あなたね……加減というものを……」
サフィアが呆れたように額に手を当てる。その表情には、どこか吹き出しそうな余裕もあった。
リリアが小さく笑いながら、そっとミリーの背に手を添える。
「ミリー、大丈夫よ。みんな最初はびっくりするけど、楽しいでしょ? こういう時間」
ミリーはゆっくり顔を上げる。胸はまだドキドキしていて、頬も火照ったままだったけれど――それでも、ふわりと微笑むことができた。
「……は、はい……楽しい、です……」
試着室の薄布の向こうには、昼前の柔らかな光が差し込んでいた。
狭くて、にぎやかで、少し恥ずかしくて、でも――どこまでもあたたかい。
ミリーの笑顔は、ほんのりその光に溶け込んでいく。
午後の陽射しが、テラス席の白いテーブルクロスを柔らかく照らしていた。町の人気カフェ――その角席で、ミリーは少し緊張しながら背筋を伸ばしていた。
目の前には、彩り豊かなフルーツパフェ。グラスの縁にさしたミントの葉が風に揺れ、スプーンで一すくいすると、甘酸っぱい香りが広がる。
紅茶の香りと、三人の笑い声。こういう女子だけの時間はまだ不慣れだけれど――今は、心地よかった。
「……レオン、昔から変わらないの。優しくて、でも鈍感」
サフィアがそう言って、紅茶を啜った。フードは下ろしていて、いつもより表情が柔らかく見える。
「……一緒にいると、安心。……だから、好き」
セリナの言葉は静かで、でも真っ直ぐだった。尻尾が椅子の背からふわりと垂れ、ゆるやかに揺れている。きっと本人は気づいていない――その動きが、感情のすべてを物語っていた。
ミリーは思わずスプーンを止めて、二人の顔を交互に見た。
(……好きって、そんなにはっきり……)
「……みんな、好きなんだね。私も……負けない」
リリアがカップで口元を隠しながら言った言葉は、小さくて、それでもはっきりしていた。紅茶のカップの陰から覗いた瞳が、少しだけ揺れて見えた。
ミリーの胸の奥に、きゅっと小さな痛みが走る。でも、それは嫌なものじゃなかった。ただ、自分もそこにいていいのか――確かめたくなる気持ち。
(……私も、ずっと……)
ふと、レオンの背中が脳裏に浮かんだ。あの日、手を取って助けてくれたときのあたたかさ。迷っていた自分を、まっすぐに受け入れてくれた、あの瞳。
「……私も……助けられたときから、ずっと気になってて……でも、どうしたら……」
言葉にして初めて、自分の気持ちがかたちになる。胸の奥に眠っていた想いが、すっと風に乗って外に出たような感覚。
三人とも、ミリーの方を見ていた。否定も驚きもなく、ただあたたかく――まるで仲間として当然のように、見つめてくれていた。
「……なにそれ、可愛い」
セリナがぽつりと呟いた。どこかくすぐったそうに。
「大丈夫。レオンは……ちゃんと見てる。そういうところ、気づくのは遅いけど」
サフィアの言葉に、リリアもうんうんと頷く。
「だからこそ、伝えたもん勝ちよ? 遠慮してたら、あっという間に置いてかれちゃうんだから」
ミリーは小さく笑って、スプーンを口に運んだ。甘い果実の味が、ほんの少し胸の奥まで沁みてくる。
この気持ちは、まだ小さくて、名前をつけるには心もとないけれど――。それでもたしかに、芽吹いている。
午後の日差しの中、四人の笑顔がテーブルの上に重なっていた。その中心に、レオンという一人の青年の存在が、確かに息づいていた。
夕焼けが街を染めていた。建物の影が長く伸び、石畳の道を茜色に照らしている。温かくて、でもどこか少し切ない時間。
ミリーは胸元に、大切そうに服の包みを抱えていた。あの店で、みんなに勧められて――勇気を出して選んだ、自分だけの服。
まだ信じられない気持ちのまま、それでも包みから伝わるぬくもりに、静かに心が満たされていた。
四人は肩を並べて歩いていた。特に会話があるわけではないけれど、沈黙が心地よかった。
少し先を歩くセリナの尾が、ふわりとミリーの袖にかすめる。
「今日は楽しかったわね。また来ましょう」
サフィアの声は穏やかで、どこか満ち足りたようだった。フードを外していた彼女の銀髪が、夕日に淡く光っていた。
「……ミリー、大丈夫。ちゃんと女の子」
セリナがふと振り返ってそう言った。真顔なのに、尾の先だけがひょこりと揺れていて、なんだか照れ隠しのようにも見える。
「えっ……あ、ありがとうございます……」
ミリーは思わず目を伏せたけれど、頬が緩むのを止められなかった。
「次は、レオンさんも一緒に連れてきましょう!」
リリアがさらりと口にした言葉に、三人の視線が一瞬だけ交差する。ミリーは驚いたように顔を上げ、すぐに――ふっと笑った。
「……それ、ちょっと楽しみです」
その言葉が自然と出てきたことに、自分でも少し驚いた。でも、嘘ではなかった。本当にそう思ったのだ。
――あたたかくて、やさしい。
誰かと笑って、誰かと一緒に選んで、語らって――ただそれだけで、こんなにも心が満たされるなんて。
(……これが、家族っていうものなのでしょうか)
歩きながら、ミリーはそっと胸に手を添える。柔らかな包みの感触と、それ以上に――その手の奥で静かに灯る、言葉にならないぬくもりを、確かに感じていた。
空はもう、夜の青に染まりかけていた。それでも、四人の歩く影はどこか柔らかく、確かに重なりながら、宿へと帰っていった。
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