第65話 冒険者としての証
朝の空気はひんやりとしていたが、澄んだ空が晴れやかな気分を後押ししてくれるようだった。
リリアは早朝、他の三人より一足先に宿を出ていた。出発の報告と確認のため、冒険者ギルドへ向かうとのことだった。慣れた足取りで振り返ることもせず、制服姿の彼女が通りの角に消えていったのを、レオンは見送っていた。
そして今、宿の前にはレオン、セリナ、サフィア、そしてミリーの四人が揃っていた。
ミリーは小さく深呼吸しながら、自分の装備を見下ろした。淡いピンクの布地の軽装で、腰には短杖と短剣。昨日までの自分とは少し違う――そんな感覚が、ほんのわずかに胸を温かくするようだ。
「……よし。じゃあ、行こうか」
レオンの声が静かに響き、三人がそれに頷いた。
ミリーが最初の一歩を踏み出す瞬間、レオンは横目で彼女の表情を確認する。少し硬いが、怯えた色はなかった。
「無理に頑張らなくていい。お前のペースで歩けばいい」
そう言うと、ミリーはきゅっと唇を結び、小さく頷いた。
「……はい」
「転ばない、足元見て」
セリナがさらりと言いながら、ミリーの後ろにつく。耳がぴくりと動いているのが、微かに緊張している証拠だった。
サフィアはフードをかぶり直しながら、ミリーの背にやさしく声をかけた。
「焦らず、息を整えて。最初の冒険よ。景色を楽しむくらいの気持ちでいいの」
「……はい。ありがとうございます」
門番に軽く挨拶を交わし、四人はブルーヴェイルの門をくぐった。
街の喧騒が少しずつ背後に遠ざかっていく。街道にはまだ朝露が残っていて、草の葉が陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
レオンは最後尾を歩きながら、ミリーの背中を見つめる。
まだ頼りないが、それでもしっかりと前を向いていた。
その背中が、少しずつ仲間としての輪郭を持ち始めている――レオンはそんな実感を、冷たい朝風の中で確かに感じていた。
森の中は静かだった。木漏れ日がまだらに地面を照らし、遠くで鳥のさえずりが一つ二つ聞こえる。
レオンたちは街道から外れ、小道を抜けて目的地へと足を踏み入れていた。
やがて視界の先に、それは現れた。
「……あれが、古井戸か」
森の一角、草に埋もれかけた円形の石造り。苔むした縁には蔦が絡まり、使われなくなって久しいことがうかがえる。
周囲には目立った動きはない。だが、空気にどこか重さがある。
「セリナ、頼む」
レオンの声に応じて、セリナは無言で前へ出た。狼耳をぴくりと揺らしながら地面にしゃがみ、手と鼻を使って念入りに調べていく。
ミリーは緊張した面持ちで後ろに控えていたが、レオンがそっと目配せすると、うなずいて周囲に目を配り始めた。
数歩進んだセリナが立ち止まり、低く呟く。
「……魔物の臭い。でも、ちょっと……変」
レオンがそばに寄りながら訊ねた。
「変、って……?」
「古い血と……焦げ臭いような……魔力が混じってる。普通の獣じゃ、こういうの出さない」
セリナは鼻先をわずかにしかめる。嗅覚が鋭い彼女にとって、それはただの異臭ではない。
「魔力が?」
後方で聞いていたサフィアが眉をひそめた。
「野生じゃない可能性もあるわね。魔術的な影響を受けた個体か、あるいは……」
言葉を途中で切りながら、彼女は井戸の縁に目を向ける。何かが――見えないものが、そこに残っているようだった。
レオンは周囲を見渡し、剣に手をかけたまま声を低くした。
「……警戒を強めよう。何か来るかもしれない」
空気が微かに、張り詰める。
一見平穏な森の中に、確かに異物が潜んでいた。
「――来るぞ!」
レオンが叫んだ瞬間、茂みの奥から影が飛び出した。
小柄な体躯、緑がかった皮膚、鋭い爪。だが、その目には濁った光と微弱な魔力の揺らぎが宿っていた。
「……フォレストインプ、か。しかも亜種……!」
サフィアが一歩引き、即座に詠唱に入る。背後で光が編まれていくのを感じながら、レオンは一歩踏み込み、剣を横薙ぎに振るった。
ギィィ――ッ!
魔物の爪と刃がぶつかり、甲高い金属音が森に響く。そのすぐ脇を駆け抜けたセリナが、低く跳ねて敵の死角を突いた。
「ッ……一体だけじゃない!」
レオンが咄嗟に背を向けると、もう一体の影が彼の肩口に飛びかかっていた。避けきれず、腕に鋭い痛みが走る。
「くっ……!」
小さく血がにじむ。だが、痛みより先に頭をよぎったのは――ミリーの所在だった。
「ミリー、大丈夫かっ!」
数歩後方で立ち尽くしていたミリーが、はっと顔を上げる。目の前の戦い、血の匂い、叫び声――全てが彼女をすくませていた。
(……怖い、怖い……でも……)
小さく震える手を、自分の胸の前に持ち上げる。レオンの傷が、頭から離れない。
「(わたしも……役に立ちたい……!)はいっ! いま、回復しますっ!」
叫ぶように言いながら、ミリーの手から柔らかな光が溢れ出した。その光はまっすぐレオンへと届き、傷口を包むように癒していく。
温かい感触と共に、痛みがすっと消えていく。
「……助かった!」
レオンが短く返した時には、セリナが二体目を地面に伏せさせ、サフィアの魔力が火花のごとく炸裂していた。
「雷霊よ、火花と弾け、我が敵を焼き払え――《ライトニング・スパーク》!」
雷の火花が林間を照らし、最後の一体が爆散する。
静寂が戻った森の中で、サフィアがふっと息を吐きながら振り返る。
「……やるわね。上出来よ、ミリー」
ミリーはその場に立ち尽くしながら、息を切らせ、手をじっと見つめていた。
初めての恐怖。初めての魔法。そして、初めて「誰かのために」立った、その手が、今、確かに震えていた。
敵の姿はもうない。
フォレストインプの亡骸が土に沈み、周囲に残る痕跡も徐々に風に散り始めていた。
レオンは剣を鞘に収めながら、あらためて古井戸の周辺を見回す。倒した魔物たちの足跡は周囲の土に点在し、草は踏みしだかれていた。井戸の縁には、まるで何かが腰掛けたような爪痕と、黒く焦げたような痕が残っている。
「……完全な拠点ってわけじゃないな」
「でも、通ってるのは確か」
セリナが地面にしゃがみ込み、嗅覚を頼りに小さく頷く。
「……あの匂い、まだ少し残ってる。……たぶん、また来ると思う」
レオンはその言葉に静かに頷いた。目を細め、井戸の奥へ視線を落とす。暗く、底は見えない――だが、得体の知れない気配が、ほんのかすかにそこに残っていた。
「帰ったら報告ね。ギルドが調査に動くわ」
サフィアは短杖を手に、魔力の余韻を指先で払いながらそう告げる。
「魔力の痕跡が濃すぎるわ。インプにしては不自然すぎる……何か使われていた可能性もある」
「……そのときは、俺たちで止めるさ」
レオンの言葉に、誰も異を唱えなかった。
その横で、ミリーが静かに立ち尽くしていた。まだ顔は青く、足もわずかに震えている。だが、それでも彼女は逃げなかった。
「……わたし、役に立てましたか……?」
その問いは、小さな声だったが、はっきりと届いた。
レオンはすぐに答えた。
「ああ。ミリーは立派な冒険者だよ」
ミリーの瞳が、ふっと揺れて、それからほんの少しだけ笑った。
心の奥に生まれた、確かな実感。
今日、彼女は――本当に冒険者になったのだ。
ギルドの扉を開けた瞬間、少しざわついていた室内が、わずかに静まった。
一部の冒険者たちが視線を向ける。その視線の先には、森の埃をまといながらも、確かな足取りで歩く四人の姿。
特にその中心――ミリーの顔は疲れで火照っていたが、目に宿る光は揺るがなかった。恐怖にすくんでいた少女の面影は、もうそこにはない。
受付カウンターの奥、制服姿のリリアが笑顔で立ち上がった。
「おかえりなさい、みんな」
その声に、ミリーが小さく息を吸い込む。そして、胸に手を添えて一礼した。
「……ただいま戻りましたっ」
声は少し上ずったが、それもまた――彼女が全力で出した報告だった。
リリアはその姿を見つめながら、少しだけ目を細め、やわらかな声で続けた。
「顔つきが変わったわね、ミリー。……ちゃんと、冒険者の顔よ」
ミリーがわずかに目を丸くし、それから照れたように笑みをこぼす。
レオンはそのやり取りを見届けながら、カウンターに歩み寄る。リリアと目が合い、互いに言葉を交わすことなく、いつものように簡潔に伝えた。
「報告は後でまとめて出す。まずは、休息だな」
「わかりました。詳細は後で私が預かります」
リリアの声は、いつもよりほんの少しだけ張りがあった。受付嬢として、そして仲間として――彼女なりの敬意が込められていたのだろう。
レオンは振り返り、仲間たちの顔を見る。サフィアは疲れも見せず、ただ静かに微笑みを湛え、セリナは何も言わず、だがミリーの背をさりげなく守るように立っていた。
そしてミリーは――ようやく、心からの笑顔を浮かべていた。
その光景を、ギルドの空気が静かに包み込む。
誰もが知る。
今日、このギルドに――新たな冒険者が誕生したのだ。
宿の部屋は静かだった。
灯りはすでに落ち、窓の隙間から射し込む月明かりだけが、静かにソファの影をなぞっていた。
レオンはそのソファに身を預け、頭の後ろで手を組んだまま、天井をぼんやりと見上げていた。いつもの疲れなら、目を閉じればすぐに眠れるはずだった。けれど今夜は、何かが胸に引っかかっていた。
――夢に、あの少女が出てきた。
もう何度目だろう。名も知らない。けれど、自分の中で確かに妹として在る存在。白いワンピース、長い髪。涙をにじませた顔は、今にも崩れてしまいそうで――その儚い姿が、眠るたびに脳裏に焼き付く。
(……どうして、今夜も)
思い返せば、ミリーが自分に向けて初めて笑った瞬間――。そのとき、頭のどこかで、夢の中のあの子の姿がよぎった。
髪の色も違う。目の色も、背丈も、声さえも。それなのに、あのときだけは妙に、重なって見えてしまった。
(……そんなはず、ないのに)
ミリーは妹なんかじゃない。それどころか、出会って日が浅いのに、今は仲間として隣にいてくれる存在だ。
けれど。弱々しくて、誰かにすがることもできなかった彼女が、勇気を振り絞って誰かのために立ち上がった今日の姿が――。
あの夢の少女が、ずっと伝えたかった何かに、重なって見えた。
(……俺は、あの子を助けられなかったのかもしれない)
それは、王宮にいた時にも影を落とした後悔だった。家族と呼べる存在を、何一つ守れなかった自分。それなのに今、自分は誰かの信頼に応えようとしている。
(……俺は、ちゃんと導けているのか)
その問いの先に、ミリーの笑顔が浮かぶ。今日の彼女は、確かに冒険者だった。小さな震える手が、確かに誰かを癒した。
そして自分は――その姿を、心から嬉しいと思ってしまった。
(……あの頃と違う。俺はもう、ひとりじゃない)
今、セリナがいて、サフィアがいて、リリアがいて――そして、ミリーがいる。それぞれが弱さを抱えたまま、それでも前へ進もうとしている仲間たち。
いつか、夢に出てくるあの子と再び会える日が来たとして、そのときの自分が、胸を張って言えるように。
(……俺は、あのときから変わろうとしてる)
レオンはゆっくりと目を閉じた。
静かな夜の中、未だ知らぬ妹の面影を胸の奥にそっとしまいながら――。
目の前の仲間と歩く、次の一日へと意識を預けていった。
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