第63話 それぞれの想い、交わる場所で
夕日が傾き始めたブルーヴェイルの街は、昼の喧騒を残しながらも、どこか落ち着きを取り戻していた。冒険者ギルドを後にしたレオンたちは、ゆったりとした足取りで石畳の道を進んでいた。
その中に混じって歩くミリーの姿は、どこかまだ遠慮がちだった。少しだけ距離を空けて、レオンたちの背を追うように歩いていたが、顔には深い考えの色が浮かんでいる。
(……わたし、もう決めたはずなのに)
心に決意はある。けれど、孤児院の子どもたちの笑顔が頭をよぎるたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……あの場所にいて、自分が場違いに思えました」
ぽつりと、ミリーが口を開いた。
前を歩いていたリリアが立ち止まり、振り返る。穏やかな笑みを浮かべながら問いかける。
「ギルドのこと?」
「はい。皆さまは……そこにいるのが当然のように見えて、でも私は……」
ミリーは指を胸元でそっと組み、言葉を探すように視線を落とした。
「わたくしが、そこにいてもいいのか……わからなくなりました」
リリアは少しだけ目を見開いたが、すぐに柔らかな声で応じた。
「ミリー、それはね……きっと誰でも、最初はそう感じるものなのよ」
「……そう、なのですか?」
「うん。でも、大丈夫。『いていい場所』はね、自分で見つけるものなの。誰かが決めることじゃないから」
その言葉に、ミリーはふと目を上げ、リリアの笑顔を見つめた。
「……ありがとうございます」
続けて、サフィアが風にそよぐ髪を押さえながら呟く。
「ふふ……いい風ですね。明日からまた、忙しくなりそうです」
「じゃあ、今夜はちょっとしたお祝いしよっか。ミリーが仲間に加わった記念に!」
そう言ってリリアが笑うと、通りを照らす夕日が一行の影を長く伸ばしていく。
その影の中に、自分の影が並んでいることに気づいたとき――ミリーはふと、胸の奥のもやが少し晴れた気がした。
(あの子たち……きっと、待ってる。でも……この人たちとなら、前を向ける気がする)
まだ決意は揺らぎながらも、ミリーはそっと歩幅を合わせて、一歩だけ前に出た。
それは小さな歩みだったが、確かに――彼女自身の意志で踏み出した、未来への一歩だった。
日が傾き、教会の鐘が一日の終わりを告げる頃――ブルーヴェイルの教会併設の孤児院では、静かな別れの時間が訪れていた。
ミリーは一人、教会の門をくぐり、白い石造りの廊下を歩く。その足取りは迷いなく、それでいてどこか名残惜しげだった。扉を開けると、子供たちの笑い声が止まり、ぱっと彼女に視線が集まる。
「ミリーお姉ちゃん!」
一番に飛びついてきたのはマリーだった。元気な声に、ミリーは思わず微笑む。
「マリーさん……もう夕ご飯は済んだのかしら?」
「うん! でも、今日は特別に残してあるの! お姉ちゃんの分!」
そう言ってはにかむ顔が愛おしくて、ミリーはしゃがみ込むと、そっとマリーの頭を撫でた。
「ありがとう……でも、今夜は、もう行かなくてはならないの」
「……もう、戻ってこないの?」
マリーの目が潤みかけた瞬間、後ろから現れたシスター・マリナが、そっとミリーの肩に手を置いた。
「この子たちは分かっているのよ。あなたがここにずっといないと、きっと最初から……」
ミリーは静かに頷くと、立ち上がり、子供たちを見渡す。
「……短い間でしたが、本当に……ありがとうございました。皆さんのおかげで、私はまた歩き出せそうです」
その声に、ざわざわしていた子供たちも、自然と静かになる。
シスター・マリナが、少し寂しげな、それでも誇らしげな微笑みを浮かべた。
「あなたのような方がここを離れるのは寂しいけれど――それ以上に、誇らしいのよ。あなたは、自分の足で進もうとしている。だから……私たちは、笑顔で送り出さないとね」
すると、マリーが必死に涙をこらえながら、ミリーの手を強く握りしめた。
「ミリーお姉ちゃん……いっぱいありがとう。お外でも、ちゃんと元気でいてね……!」
ミリーはその小さな手を両手で包み込み、柔らかく微笑んだ。
「……もちろん。あなたたちの笑顔を思い出せば、私……どこでだって頑張れます」
その言葉に、マリーはようやく涙を一粒だけこぼした。
外の空気は冷え始めていた。教会の門を出た先で、レオンが待っていた。ミリーは一度だけ振り返り、灯りのともる孤児院にそっと頭を下げる。
そして、静かにレオンの隣へと歩き出した――。
暖かな光が灯る食堂の一角。揺れるランプの下、丸いテーブルには簡素ながら温かみのある夕食が並べられていた。
レオンとリリアが宿の主人と部屋の確認に出ている間、ミリーはセリナとサフィアと共に席についていた。
「……マリー、寂しがってた?」
セリナが湯気の立つスープをかき回しながら、ふとミリーに尋ねた。
ミリーはスプーンを止め、少し間を置いてから小さく頷く。
「ええ。でも……最後には笑って送り出してくれました。『いってらっしゃい』って……強がってたのかもしれませんけど」
「ふぅん……あの子、強いね」
セリナはそれ以上何も言わず、静かにスープをすする。その姿勢はどこか優しさを秘めていた。
「……ミリーも、ちゃんと誰かにとって大切な人になってるのね」
隣で座っていたサフィアが、少し微笑みながら言った。グラスを軽く揺らしながら、その視線はミリーの横顔を見つめていた。
ミリーは一瞬、言葉を失ったように伏し目がちになる。そして、ふわりとした微笑みを浮かべ、静かに答えた。
「……今は、皆さまがその存在なんです。わたしにとって」
短く、けれど真っ直ぐに紡がれたその言葉に、セリナとサフィアはそっと視線を交わした。返す言葉はなかったが、テーブルの上には、確かな想いがひとつ置かれたような、そんな静かなあたたかさが広がっていた。
――そしてその時、階段を降りる足音が響いた。
ミリーが振り返ると、レオンとリリアが並んで一階の食堂に戻ってきた。宿の主人との打ち合わせを終えたばかりの様子だ。
リリアはそのまま厨房へと小走りに向かい、しばらくして小さな木のトレイを手に再び現れた。
「お待たせ! 今日はミリー加入のお祝い、ちゃんと準備してきたよ!」
「……加入、祝い……?」
ミリーは驚いたように目を瞬かせる。
「うん。もう仲間なんだから。お祝いくらいさせてよね」
そう言ってリリアがトレイをテーブルの中央に置くと、そこには小さくカットされたベリータルトと焼きリンゴの蜂蜜がけが並んでいた。焼きたての香りに、シナモンと果実の甘さがふんわりと混ざり、心までほどけてしまいそうな匂いが漂う。
セリナがそれをじっと見つめたまま、ぽつりと一言。
「……甘い匂い、する」
サフィアは優雅に笑いながら、小皿にタルトを取り分けた。
「ふふ。確かに。冒険者の食事で、こういう贅沢はなかなかないわね」
「せっかくだから、今日だけは特別ってことで!」
リリアがそう言うと、レオンも苦笑しながら頷いた。
「悪くないな。こういう時間も、大事だ」
ミリーは、そっと自分の前に置かれた焼きリンゴを見つめ、そして小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます。わたくしのために、こんなに……」
「遠慮しないで、ほら。食べて」
リリアに背中を押されるように、ミリーは焼きリンゴを一口運ぶ。ふんわりとした果肉が舌に広がり、甘く温かな風味が口いっぱいに溶けていく。
「……おいしいです……」
ぽつりと呟いたその声に、誰もが微笑んだ。
レオン、セリナ、サフィア、リリア、そしてミリー。
ブルーヴェイルの夜――その食卓の輪に、もうひとり分の居場所が、確かに加わっていた。
静まり返った部屋の中、寝息だけが穏やかに響いていた。
二つのベッドには、リリアとミリー、そしてセリナとサフィアがそれぞれ身を横たえている。どちらも背を向け合うように眠っていたが、ブランケット越しに温もりが伝わる距離感だった。
部屋の片隅、ソファーに横になっていたレオンは、わずかな気配に目を開けた。薄暗い月明かりが差し込む窓辺に、誰かの影がある。
――ミリーだった。
薄い上掛けを羽織ったまま、窓際の椅子に腰掛け、外の景色を静かに見つめている。
「……眠れなかったか?」
レオンが声をかけると、ミリーは少しだけ肩を揺らし、振り返った。
「すみません、お気を遣わせてしまって……」
「気を遣ってるわけじゃないさ。たまたま目が覚めただけだ」
そう言いながら身を起こすと、レオンはソファーの端に腰掛け、ミリーのほうへと視線を向けた。
「……何か、考え事か?」
ミリーはしばらく黙ったままだったが、やがて小さく首を縦に振った。
「……『私』が何者なのか、やはり思い出せないままで……でも、それなのに皆さまは……私を迎え入れてくださって……」
言葉の端々に、戸惑いと不安が滲む。指を組んだまま俯くその姿は、誰よりも気丈に見せようとする少女の無防備な一面だった。
レオンは少しだけ微笑んで言った。
「君が『君らしく』いてくれるなら、それでいいよ」
その言葉に、ミリーは目を見開いた。
「……無理に思い出すことはない。今の君が、ここにいてくれること。それだけで、十分なんだ」
窓の外、夜の空にはいくつかの星が、静かに瞬いていた。
「……そんなふうに、言ってくださるなんて……」
ミリーは震える声でそう呟き、小さく目元を拭った。こぼれた雫は、頬を伝い、膝の上に落ちた。けれどその表情は、どこか柔らかく、少しだけ安らいでいた。
静かな夜のなか――少女の胸に溜まっていた想いが、ひとしずく、こぼれ落ちた。
ミリーの涙が静かに乾いたころ――。
「……あれ? 何やってるの、ふたりとも」
そんな声とともに、ベッドからもぞもぞとリリアが起き上がってきた。髪が少し乱れたまま、半分眠そうな顔をしている。
「起こしちゃったか?」
レオンがそう問いかけると、リリアは首を振りながらストレッチするように伸びをした。
「ううん、目が覚めちゃって……って、ミリーも起きてたのね」
「はい……すみません。少しだけ、考えごとをしていて……」
「そっか。でも、レオンと話してたなら、きっと元気出たんじゃない?」
くすりと笑うリリアは、そのままレオンの隣に腰を下ろす。ミリーは恥ずかしそうに目を伏せつつ、小さく頷いた。
「……はい。レオン様のお言葉に、救われました」
「ふふ、でしょでしょ? レオンって、こう見えてほんとはすごーく優しいんだよ」
「……はい、わかります」
「おいリリア、からかうなって」
レオンが苦笑まじりに眉をひそめると、リリアは「えへへ~」と軽く肩をすくめてみせた。
「ほんとのこと言ってるだけだよ」
穏やかな空気が、深夜の部屋に広がる。ミリーはそんなふたりのやりとりを見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
(こういうのを……他愛のない会話、って言うんですね)
それは、自分にはなかった時間。けれど今、ここにある確かな一瞬。
レオンの横顔が、何気ない微笑みを浮かべる。気取らず、飾らず、それでもどこか照れくさそうなその表情に――ミリーの心が、不意に揺れた。
遠くのベッドでは、セリナがブランケットに包まったまま、ちらりとその様子を見ていた。
目を閉じながらも、口元にごく小さな笑みを浮かべる。サフィアもまた、静かにまぶたを閉じながら、微笑みだけを夜に溶かしていた。
こうして、柔らかな時間が静かに流れていった。
再び寝静まった部屋の中、かすかに聞こえるのは誰かの寝息と、外をかける風の音だけ。
ミリーはそっと目を開けていた。隣のリリアは穏やかな呼吸で眠っており、部屋の片隅、ソファーに目を向ければ、レオンが腕を枕に静かに休んでいる。
(――眠れない、わけじゃないのに)
眠ろうとしても、胸の奥に小さな光が灯ってしまって、それが瞼を閉じさせてくれなかった。
(……今日一日、たくさんのことがありました)
初めてのギルド、初めての出会い、初めての別れ。そして――誰かのそばにいるという時間の、あたたかさ。
ほんの数日前までは、真っ暗な洞窟の中で、ただ生きているだけだった。
名前も、過去も、すべて失った少女が今――ベッドの中で、微かな胸の鼓動を確かめるように息を吸い込む。
(たとえ記憶が戻らなくても……)
心の中で、ゆっくりと言葉を繰り返す。
(私は、私なりに――歩んでいける気がする)
不安はまだある。怖さも残っている。
けれど、それでも。
(今を、大切にしてみたい)
だって、今の自分には、見てくれる人がいる。
手を伸ばせば、届く場所に、心を寄せ合える誰かがいる。
だから――。
(……わたし、ここにいてもいいんですよね)
ブランケットを胸元まで引き寄せながら、ミリーはそっと目を閉じた。その顔には、確かなものを抱きしめるような、静かな微笑が浮かんでいた。
夜明け前の薄闇の中、小さな決意が、確かに彼女の中に芽生えていた。
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