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第61話 ミリーの決意と冒険者たち

 地下に潜る石造りの建物。壁には苔が這い、湿った空気が肌にまとわりつくようだった。そこは、アストリア王国の隣国であるベリスカ王国の諜報部隊がアストリア王国領内に密かに築いた隠れ家のひとつ。

 地図や手紙が散らばった粗末な机を囲む男たちは、苛立ちを隠そうともしなかった。


「……まだ何の連絡もない、だと?」


 年嵩の男が、使い魔用の黒い石板を睨みつける。表面には微かな魔力の気配も感じられない。

 別の男が舌打ち混じりに笑った。


「まさか、王国の犬にでも見つかって尻尾巻いて逃げたんじゃねえだろうな」

「いや、それならまだマシだ。問題は、失敗したことを隠してる可能性だ」

「『あの方』が後ろ盾にいる案件だぞ。……中央の貴族様に顔向けできねえ」


 言葉の端々に滲むのは、焦りと恐怖――そして、苛立ち。男たちはその感情を紛らわせるように、酒瓶を交互に傾けた。


「令嬢ひとりの始末だ。簡単な仕事だったはずだろ?」

「もし失敗してたら、今後の作戦にも支障が出るぞ……辺境伯が動かなければ、こっちの手も打ちようがねえ」

「まさか……生きて帰ってたりは、しねえよな?」


 一瞬、場が静まり返る。


 誰もが否定したい想像だが、報告が一切ないことが不安を掻き立てる。

 やがて、ひとりの男が無言で視線を向けたのは――部屋の隅だった。


「……でこっちは、どうする?」


 そこには、粗末な布にくるまり、縄で手足を縛られた少女が蹲っていた。まだ十代の半ばに見えるが、肌は青白く、唇はかすかに震えている。震えは寒さのせいだけではなかった。


「侍女だって話だったな。名前も知らんが、見た目は悪くねえ。高く売れるかもな」

「令嬢付きの侍女、とか言ってたっけか? あの間抜けが連れて来た女だ」

「顔だけはなかなか上等だな。貴族相手の夜伽くらいには使えるんじゃねえの」

「ほら、聞いてるか? お前の『お嬢様』はもう死んだかもしれねえんだ。今さら忠義もへったくれもねえぞ」


 男の一人が少女に近づき、しゃがみ込んで顔を覗き込む。少女は、ぎゅっと唇を噛みしめ、恐怖に凍りついたまま視線を逸らした。心臓が壊れそうなほど早く打ち、指先の感覚すら消えそうだった。


「……反応しねぇな。びびってんのか、それとも気高いお姫様気取りか?」

「黙ってりゃいいと思うなよ。いっそ、公国に送り返してみるか? 目印つけてさ……指の一本でも落としてな」


 吐き出されるような下卑た笑い。少女の背中に、ぞわりと悪寒が走る。


 けれどその姿には、どこか不釣り合いな静けさがあった。怯えながらも、しゃがみ込む姿勢には妙な整いがあり、それが余計に彼らの嘲りを引き寄せる。


 それが意味するものに、今の彼らは気づこうともしていなかった――。



 ◆◇◆◇

 朝の澄んだ空気が、孤児院の窓から優しく流れ込む。

 外では子供たちの元気な声が響き、朝の日課をこなす足音が軽やかに鳴っていた。


 ミリーは、そっと自分の手を見つめる。昨日、光を宿した手のひら。自分の意志ではなく、まるで本能のように発現した回復魔法。


(私には、この力がある。でも、私は何者なのかしら?)


 昨夜もずっと考えていたが、答えは見つからない。

 そんなとき、元気な声が部屋に飛び込んできた。


「ミリー! おはよう!」


 マリーだった。

 彼女はぱたぱたと駆け寄ってくると、ミリーの手を握り、無邪気な笑顔を向けた。


「今日も一緒に遊ぼうよ!」


 ミリーは少し驚いたように瞬きをして、穏やかに微笑んだ。


「おはようございます、マリー」


 けれど、その表情はどこか沈んでいた。

 マリーはミリーの顔をじっと見つめ、口をとがらせる。


「……んー? なんか悩んでる顔してる!」

「えっ……?」

「昨日の魔法、すっごくすごかったよ! ねえねえ、ミリーって本当はすごい人なの?」


 マリーが無邪気に目を輝かせながら尋ねる。

 それに対し、ミリーは少し困ったように微笑んだ。


「……それが、私にもわからないのです」


 そう呟くと、自分の胸に手を当てる。名を思い出せなかったときとは違う、得体の知れない不安が広がっていた。


 ――私は、誰なのか。


 ――どうして、魔法を使えるのか。


 ――そして、レオン様を見たときに感じた、あの不思議な感覚は何なのか。


 シスター・マリナがそっと歩み寄り、ミリーの隣に座った。


「あなたが何者かを知ること。それはきっと、意味のあることです」


 ミリーはゆっくりと顔を上げ、シスターを見つめる。


「……でも、どうすればいいのでしょう?」

「焦る必要はありませんよ。過去を知ることは大切ですが、それよりも今できることを大切にしては?」


 ミリーはその言葉を胸に刻みながら、小さく頷いた。


「……今、できること……」


 それが何なのかはまだわからない。けれど、立ち止まるのではなく、前に進まなくてはならない。


 ミリーはそっと外を眺める。


 窓の向こう、町の喧騒が微かに聞こえていた。




 昼下がりの穏やかな陽射しが、教会の庭を優しく照らしていた。

 子供たちの元気な笑い声が響く中、門の前に立つレオンたちの姿を見つけたマリーが、目を輝かせながら駆け寄った。


「ねえねえ! 誰か来たよ!」


 彼女の声に呼応するように、ほかの子供たちも興味津々の様子で集まってきた。

 レオンたちの姿を初めて見る子供たちは、目を丸くしながら、じっと彼らを見上げる。


「……あなたがたが、ミリーお姉ちゃんの知り合い?」


 先頭に立って尋ねたマリーの声に、レオンが軽く驚きながらも微笑を浮かべて頷く。


「……ミリー?」


 リリアが瞬きをし、レオンとサフィアも同様に驚いた表情を見せる。

 セリナは少し首をかしげながら、少女のほうに視線を向けた。


「そういうことですか」


 サフィアが微笑を浮かべる。


「名付けてもらったのですね」


 ミリー――かつての少女は、少し戸惑ったようにレオンたちを見つめ、それから控えめに頷いた。


「……はい。マリーさんが、そう呼んでくださったのです」


 その言葉に、マリーは得意げに胸を張る。


「そうだよ! 名前がなかったから、私がつけてあげたの! ミリーって、可愛いでしょ?」


 子供たちが「うんうん!」と賛同する中、レオンは小さく笑い、ミリーを見つめた。


「ミリーか……いい名前だ」


 ミリーはその言葉に、一瞬驚いたように目を見開き、そして小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、レオン様」

「……様?」


 リリアが不思議そうに首をかしげる。


「ええと、確かにレオンさんたちはあなたを助けましたけど、『様』は必要ないですよ?」

「いえ……それでも、皆様は私の命を救ってくださいましたし……なぜか自然とそう呼んでしまうのです」


 ミリーは丁寧にお辞儀をし、子供たちが「わぁ、お姫様みたい!」と騒ぐ中、シスター・マリナが微笑みながら近づいた。


「ようこそいらっしゃいました。ミリーの様子を見に来られたのですね?」

「はい」


 レオンが軽く頷くと、リリアが一歩前に出て、ミリーの顔を覗き込むように尋ねる。


「ミリーは、元気に過ごしてる?」


 ミリーは少し驚いたように瞬きをし、それから静かに頷いた。


「……はい。皆様のおかげで……」


 けれど、その声はどこか控えめで、表情も少し沈んでいた。

 サフィアがじっとミリーを見つめ、静かに口を開く。


「……少し考え事をしているようですね」


 ミリーは、一瞬迷うように視線を落とし、それからそっと口を開いた。


「……はい。少しだけ」


 彼女の青い瞳には、言葉にできない迷いが揺れていた。


 レオンたちは、そんなミリーの表情を静かに見つめていた。




 夕日が孤児院の窓から差し込み、部屋の中を穏やかに染めていた。

 レオンたちはそろそろ帰る時間を迎え、玄関先で別れの挨拶を交わしていた。子供たちはまだ名残惜しそうに彼らを見送っていたが、ミリーは静かに佇み、考え込むような表情をしていた。


 そんな彼女の様子に気づいたレオンが、ふと声をかける。


「何か欲しいものはあるか? 足りないものとか」


 ミリーは一瞬驚いたようにレオンを見つめ、それからゆっくりと視線を落とし、少し考える。そして、慎重に言葉を選びながら、控えめに口を開いた。


「……冒険者について、もう少し知りたいのです」


 その言葉に、一同の視線がミリーに集まる。


「冒険者、か……」


 レオンが軽く顎に手をやり、考えるように呟く。


「一度ギルドには来てるけど、あの時は報告のために立ち寄っただけだったしな」


 その隣でリリアが手を打った。


「だったら、改めて案内するのはどう? 実際に見たら、どんなものかわかるかも!」


 ミリーは「ギルド」という単語に反応し、小さく首を傾げる。


「先日訪れた時は、皆様のお話を静かに聞いているだけでしたから……。もっと詳しく、冒険者というものがどういう存在なのか知りたいのです」


 彼女の真剣な言葉に、サフィアが優しく微笑んだ。


「もちろん。冒険者ギルドは、誰でも訪れることができますよ」


 セリナはじっとミリーを見つめた後、少しだけ眉をひそめる。


「……人、多い。平気?」


 ミリーはその言葉に少し目を伏せた。確かに、人混みの中に入ることに不安がないわけではない。だが、それ以上に――。


「少し、緊張するかもしれません。でも……知りたいのです」


 ミリーはしっかりとした声でそう言った。その眼差しには、迷いのない決意が宿っていた。

 レオンは彼女の言葉を聞き、静かに頷く。


「……よし、なら明日、一緒に行こう」


 ミリーの目が、わずかに輝いた。




 夜の静寂が、孤児院を包み込んでいた。

 外では風がそよぎ、遠くの鐘の音が微かに響く。子供たちはすでに寝息を立て、部屋の中は温かな静けさに満ちている。


 しかし、ミリーはまだ眠れずにいた。


 ひとり、窓辺に座り、夜空を見上げる。月が雲間から顔を出し、その優しい光が彼女の横顔を照らしていた。


(……私に、できることはあるのでしょうか)


 静かに胸に手を当てる。

 何も思い出せない――名前も、生まれも、家族のことも。だが、それでも、自分の中に何かが眠っている気がする。


 今日、レオンたちと話したことで、心に小さな灯がともった。


 ――冒険者というものを知りたい。


 ――私も、誰かの力になれるのかもしれない。


 それが何かはまだ分からない。でも、明日、ギルドへ行けば何かを見つけられるかもしれない。


 ミリーはそっと目を閉じる。


 遠い記憶の奥底から、優しく名前を呼ばれた気がした――。

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