第60話 少女の居場所
教会の鐘の音が、静かな朝の空気に響いた。柔らかな光がステンドグラスを通り抜け、木造の天井に淡い影を映している。
少女は静かに目を開けた。
(ここは、どこでしょう?)
見知らぬ広い部屋、見知らぬ天井、そして、自分が誰なのかすら分からない。それでもここが、自分が昨日までいたと聞かされた、暗くて冷たい洞窟とは違う場所だということだけは、はっきりとわかった。
そのようなことを考えていると、昨晩レオンたちに連れられ教会の孤児院に来たことを思い出した。
温かな布団に包まれた身体は、以前よりもずっと楽だった。
少女はそっと布団をめくり、身体を起こす。自分が着ているのは、シスターから借りた簡素なワンピースのような服。柔らかい生地で、少女の身体には少し大きかったのか、袖や裾が長めだったが、不快ではなかった。
(これまでは何を着ていたのでしょう?)
ぼんやりと考えたが、思い出せない。
不安と安堵が交錯する中、かすかな足音が近づいてくる。ぱたぱたと軽やかに駆け寄る足音。
「お姉ちゃん!」
少女は驚き、そちらを向いた。そこにいたのは、明るい栗色の髪をツインテールにした、小柄な女の子だった。年の頃は十歳くらいだろうか。大きな瞳を輝かせながら、白いエプロンのついたシスター服を着ている。
この子は誰なのだろう?
「お姉ちゃん、名前は?」
少女はまっすぐ見つめられ、戸惑う。
「え……?」
少女は自分の名前を思い出そうとした。しかし、喉まで出かかった何かは、すぐに霧の中へと消えてしまう。
「……分かりません」
そう呟いた瞬間、胸の奥が冷たくなった気がした。
少女の答えを聞いた子供は、少しだけ考え込んだ。だが、すぐにパッと笑顔になり、手をポンと叩いた。
「じゃあ、今日から私の妹分ね!」
「えっ?」
少女は目を丸くした。突然の宣言に困惑するが、相手の子はまったく気にする様子もなく、明るく続ける。
「だって、名前がないんでしょ? だったら、私がつけてあげる!」
気付かぬうちにいた周囲の子供たちも「おおっ!」と盛り上がる。
この少女は、孤児院の中でも中心的な存在なのかもしれない。
彼女は腕を組み、しばらく何やら真剣に考え込んでいた。
「私ね、マリーっていうの! だから、うん……決めた!」
堂々と言い放つ。
「ミリー! 私、マリーだから、ちょっと似てていい感じでしょ!」
「ミ……リー?」
少女は戸惑いながらも、口の中でその名前を繰り返した。
どこか懐かしい響きを感じる。遠い昔にも、誰かにそう呼ばれたような気がする……。
「そう! だから、ミリーって呼ぶね!」
マリーの笑顔は太陽のように明るく、拒むことができないほどの力を持っていた。その純粋な気持ちを前に、少女はわずかに迷った後、小さく微笑む。
「……分かりました。それでは、ミリーと」
「えへへっ! これからよろしくね、ミリー!」
マリーは嬉しそうにミリーの手をぎゅっと握った。その温もりは、彼女にとって新しい居場所の始まりを告げるものだった。
目の前の少女たちの笑顔を見つめながら、ミリーは心の奥で呟く。
(私は……ミリー……)
それが本当の名前かどうかは、今の彼女には分からない。だが、この場所で生きるための名として――それを受け入れることにした。
穏やかな陽射しが、庭の花々を柔らかく照らしていた。
孤児院の庭は、決して広くはないが、手入れの行き届いた花壇や小さな畑があり、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
ミリーはひざをつき、そっと花の茎を支えながら水をかけた。
――手の動きに迷いはない。
それは当然のように馴染んでいるはずなのに、どこか違和感があった。この作業が初めてではない気がする。
けれど、それは「ここ」でやっていたことではない。
まるで、別の場所で、もっと違う何かをしていたような――。そんな感覚が、心の奥底からふわりと浮かび上がる。
ミリーは手を止め、摘んだばかりの白い小さな花をじっと見つめた。
「……何かが足りない気がするの」
小さな呟きを、通りかかったシスター・マリナが聞きとめた。優しげな微笑みを浮かべながら、ミリーの隣にしゃがみ込む。
「足りない、ですか?」
ミリーはゆっくりと頷いた。
風がふわりと吹き抜け、彼女の蜂蜜色の髪をそっと揺らす。
「手は動くし、できることもある。でも、それが……どこか違う気がするの。まるで……何かを忘れているみたい」
目の前の庭は美しい。シスターや子供たちは優しく、決して居心地が悪いわけではない。
それでも――。
「私、ここにいるべきなのかしら……?」
ミリーの手のひらが、そっと花の茎を撫でる。この手が、本当にやるべきことは何なのだろう?
シスター・マリナはしばし考え、静かに言葉を紡いだ。
「……あなたの居場所は、あなたが決めるものですよ」
ミリーはゆっくりと顔を上げた。
シスターは柔らかな微笑みを湛えたまま、彼女の肩にそっと手を添える。
「焦らなくてもいいのです。今はゆっくりと、自分の気持ちに耳を傾けてみてください」
その言葉に、ミリーは少しだけ救われた気がした。
けれど、不安は消えない。
どこかに、自分の「本当の場所」があるような気がしてならない――。
風に揺れる花々を見つめながら、ミリーの心は静かに揺れていた。
孤児院の中庭には、子供たちの楽しげな声が響いていた。
昼下がりの穏やかな空気の中、ミリーはシスター・マリナの手伝いで洗濯物を干していた。
ふと、子供たちの遊ぶ姿に目を向ける。
笑い声が弾み、鬼ごっこをしているらしい。その中に、小さな少年がいた。
勢いよく走り出した少年が、不意につまずいた。
「――いたっ!」
転倒し、膝を擦りむいてしまう。
「大丈夫!?」
ミリーは咄嗟に駆け寄った。
少年が痛みに顔を歪めるのを見て、彼の小さな手をそっと取る。
その瞬間だった。
――ふわりと、淡い光が生まれる。
ミリーの掌から、柔らかな金色の輝きが広がり、少年の傷口をそっと包んでいく。まるで暖かな朝日のような、優しく穏やかな光だった。
次の瞬間、血がにじんでいた膝が、何事もなかったかのように綺麗な肌に戻る。少年は驚いたように目を見開いた。
「えっ……?」
それを見ていた他の子供たちが、一斉に歓声を上げる。
「すごい! ミリーお姉ちゃん、魔法が使えるの!?」
「本当だ! すごい、すごい!」
子供たちの瞳が輝く。
しかし、ミリー自身は、ただただ呆然と自分の手を見つめていた。
(わたし……魔法が使えるの?)
そんなはずはない。魔法は特別な才能を持った者だけが扱える力。
(では、なぜ?)
シスター・マリナが静かに近づいてくる。
その表情は驚きこそあったが、どこか穏やかだった。
「……なるほど。あなたは、回復魔法の使い手なのですね」
ミリーは息をのんだ。
自分が持つべき力なのかすら分からない。
自分がどうしてここにいるのかも分からない。
(なのに、なぜこの力だけは自然に使えてしまうの?)
頭の中に霧がかかったような感覚のまま、ミリーはその場に立ち尽くすしかなかった。
夕暮れの光が、孤児院の小さな部屋に差し込んでいた。
ミリーは静かに座り、ぼんやりと自分の手を見つめていた。
――あのとき、私の手から光が生まれた。
――あのとき、傷が癒えた。
それは確かに、自分がやったことだった。
(でも、どうして?)
シスター・マリナが、ミリーの前にそっと腰を下ろした。彼女の微笑みは、いつものように穏やかだった。
「ミリー、何か悩んでいますね」
ミリーは戸惑いながら、自分の手を握りしめる。
「私……回復魔法が使えるようですが、それを知っていた記憶がありません。いえ、それどころか……どうして、私が魔法を使えるのかすら分からないのです」
魔法を使えるということに、違和感があるわけではなかった。むしろ、それが自然だったことが、余計に不安だった。
(なら、どうして今まで思い出せなかったのでしょう?)
シスター・マリナは、少し考えるように目を細めた。
「記憶が戻らないのは、あなた自身がまだ心の準備ができていないのかもしれませんね」
「……心の準備、ですか?」
「ええ。あなたは今、何も思い出せないことに苦しんでいる。でも、無理に思い出そうとしても、心がそれを受け入れられなければ、記憶は戻りません」
ミリーはシスターの言葉を噛みしめながら、自分の手をゆっくりと開いた。
淡い夕陽が手のひらを照らし、わずかに温かさを感じる。
「……もし、私がこの力を使えることに意味があるのならば、それを知ることで、何かを思い出せるのでしょうか?」
シスター・マリナは優しく微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
「それは、きっとあなたがこれから進む道に、答えがあるはずですよ」
ミリーは、静かに息をついた。
(記憶が戻るまで、待つしかないのですね)
でも、この力には意味があるはずだ。
その答えを見つけるために――。
(自分は、どうすればいいのだろう?)
部屋の窓から吹き込んだ夕風が、ミリーの髪をそっと揺らした。
孤児院の寝室には、穏やかな静寂が広がっていた。小さな寝息があちこちから聞こえ、子供たちはすっかり夢の中だ。
しかし――。
ミリーだけは、目を閉じることができなかった。天井を見つめながら、心の奥に渦巻く感情を整理しようとしていた。
「私は……何者なのでしょう?」
誰かに問いかけても、答えは返ってこない。自分が回復魔法を使えたこと、その手がまるで当たり前のように動いたこと――。
それが不安を掻き立てる。
(どうして、私がこの力を持っているのかしら?)
まるで、ずっと昔から魔法を使ってきたかのような感覚。けれど、その記憶はどこにもない。
そして――。
レオンの顔が脳裏をよぎる。
「レオン様……」
その名を小さく呟くと、胸が温かくなる。それと同時に、言葉にできない違和感が広がっていく。
(どうして、レオン様のことをこんなにも安心できる存在だと感じるのかしら?)
たった数日しか一緒にいなかったのに。それなのに、彼のそばにいると、心が落ち着く。
(まるで、ずっと前から知っていたみたい……)
けれど、いくら考えても答えは出ない。
ミリーはそっと目を閉じた。
(もっと知りたい)
自分のことも、この力のことも、そして――レオンのことも。
レオンたちと一緒にいられたら、きっと何かを思い出せる気がする。その想いが、胸の中で静かに膨らんでいく。
(私は、何を選ぶべきなのでしょう……)
夜の静寂の中、ミリーはそっと手を胸に当てた。
自分の心に問いかけるように。
外の空には、雲の合間から星が瞬いていた。
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