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第58話 帰路と少女の目覚め

 深い森の中、冷たい夜風が枝葉を揺らしていた。

 レオンは布にくるまれた少女を背負いながら、慎重に足を進める。まだ夜明け前の薄暗さが残る森の中、視界は限られている。


 その闇を照らしているのは、サフィアの手に持たれた《魔力灯》だった。

 これはブルーヴェイルの魔道具屋で購入したもので、持ち主の魔力をわずかに消費しながら安定した光を灯す。


 ぼんやりとした暖かな光が、道を照らしながら三人を導いていた。


「……サフィア、どうだ?」


 レオンが背中の少女を気にしながら問いかける。


「魔力で温めてるけど、まだ意識は戻らないわ」


 サフィアは少女の肩にそっと手を添え、穏やかに魔力を流し込む。微弱な温もりが少女の体を包み込むように広がっているが、それでも少女の反応はない。


 レオンは背中越しに彼女の呼吸を感じながら、僅かに眉をひそめた。


「……もう少し温めれば、目を覚ますかもしれないか?」

「……魔物の気配、遠くにいる。でも、こっちには気づいてない」


 前方を警戒しながら歩くセリナが、鼻をひくつかせながら呟いた。

 レオンは僅かに警戒を強めながらも、深く息をついた。


「なら、無理に戦う必要はないな。早く馬車にたどり着こう」


 余計な戦闘は避け、今はとにかく少女の回復を優先するべきだ。森の中を進む足取りは、慎重ながらも迷いなく。


 しばらく歩いた後――。


「……あそこ」


 セリナが前方を指差す。《魔力灯》の光を頼りに見渡すと、森の出口近くに停めた荷台付きの馬車が見えた。


「……ようやくか」


 レオンは僅かに安堵し、少女を背負う腕を少しだけ締め直した。

 サフィアは《魔力灯》を少し高く掲げ、その光で周囲を確認する。


「馬も無事ね。急ぎましょう」


 セリナが先行し、辺りを警戒しながら馬車へと向かう。

 レオンは慎重に少女を荷台に横たえ、持っていたブランケットをそっとかけた。


「……寒くないように」


 サフィアがさらに魔力で温め、セリナは手早く周囲を確認する。


「問題ない。すぐ出発」


 レオンは手綱を握り、馬を進める準備を整えた。夜明け前の冷たい風の中、馬車は静かに動き出した。


 だが、レオンの心の中では、少女の正体と、彼女を巡る謎が消えることはなかった――。




 馬車の車輪が軋みを上げながら、村の中央へと入っていく。まだ夜明け前の薄暗さが残る中、村は静まり返っていた。

 しかし、レオンたちが昨日の朝に出発した時と変わらず、コボルトの襲撃の痕跡が生々しく残っている。崩れかけた柵、焼け焦げた家の壁、地面に散らばる破壊された荷車や生活道具。

 誰かが応急処置を試みた形跡はあるものの、復興が進むにはまだ時間がかかるだろう。


 レオンは手綱を引き、深く息をつく。


「セリナ、サフィア。村長に話してくる」

「……わかった」


 セリナは周囲を警戒しながら頷き、サフィアは魔力灯の明かりを落とし、馬車の荷台で横たわる少女の様子を見守る。

 レオンはひとつ息をつくと、少女をセリナとサフィアに任せ、ひとり村の奥へと向かった。


 扉を叩くと、しばらくして中から年配の村長が現れた。


「……おお、あんたか!」


 レオンの姿を見た瞬間、村長の表情が驚きと安堵に染まる。


「昨日の朝、コボルトの巣に向かったままだったから……本当に無事だったんだな!」


 村長はしばしレオンをじっと見つめ、ことの詳細を確認する。


「……それで、どうだった? コボルトどもは?」


 レオンは力強く頷いた。


「安心してください。巣は壊滅させました」


 村長はしばし黙り込んだ後、深いため息をついた。そして、安堵したように目を細める。


「そうか……本当に、助かったよ。村人たちもどれだけこの知らせを待っていたことか……」


 レオンは村長が落ち着いたのを見計らい、慎重に切り出す。


「それと、もう一つ、お尋ねしたいことがあります」

「ん? 何かあったのか?」

「コボルトの巣の奥で、ひとりの少女が囚われていました。意識を失っており、身元を示すものもありません。村の子ではありませんか?」


 村長は驚いたように目を見開き、すぐに首を横に振る。


「いや、そんな話は聞いとらん。村から行方不明になった子なんていないし、そんな噂もなかったぞ」


 レオンは村長の反応を見て、少女がこの村の住人でないことを確信した。


「……なるほど。では、どこから攫われたのかも不明ということになりますね」

「そういうことだな……」


 村長は腕を組み、考え込む。


「うちで休ませてもいいんだが、今は避難してる村人たちもいるからな。あまり余裕がない」


 しばらくして、村長は何かを思い出したように頷いた。


「そうだ、村はずれに空き家がある。少し荒れてるが、今は使われていないから、そっちを使ってくれ」


 レオンはすぐに頷いた。


「ありがとうございます。助かります」

「礼なんていいさ。それより、その子、本当に大丈夫か? 怪我は?」

「衰弱していますが、今は意識を取り戻すのを待つしかない状態です」

「そうか……。まあ、ひとまずそこを使うといい」


 レオンは村長から空き家の場所を聞くと、丁寧に礼を述べ、馬車へ戻った。


「村のはずれに空き家がある。今は使われていないそうだ。そこを借りよう」


 レオンの言葉に、セリナが頷き、サフィアも少女の状態を確認しながら同意する。


 こうして、レオンたちは少女を連れ、村はずれの空き家へと向かった。




 村長に許可をもらった空き家は、木造の小さな家だった。埃っぽさはあるものの、しっかりとした造りで、寝床としては十分に使えそうだ。


 レオンは扉を開け、慎重に少女を寝かせる。粗末な寝床ではあるが、冷たい地面の上よりははるかにマシだった。


 少女は相変わらず意識を取り戻さず、細い体はどこか儚げに見えた。

 改めて少女を見る。ハニーゴールドの髪 は汚れと埃に覆われてはいるものの、髪質は柔らかく、綺麗にすればきっと輝きを取り戻すだろう。

 透き通るような白い肌 は、出自の良い娘らしい手入れの行き届いたものだったはずだが、今は衰弱によって血の気が引き、青白くなっている。

 長く伸びたまつ毛の下に隠された瞳は、まだどんな色か分からないが、きっと彼女の気品を表すような美しい色をしているのだろう。

 唇は乾き、かすかに震えており、その姿からどれほど過酷な状況に置かれていたのかが伝わってくる。


 レオンは少女の衰弱した体を見つめながら、唇を引き結んだ。

 サフィアがそっと近づき、少女の額に手を当てる。憂いを帯びた瞳で少女の状態を確かめながら、彼女はそっとブランケットをかける。


「少しでも楽になるといいのだけれど……」


 サフィアは静かに呟き、少女の頬にそっと触れた。

 セリナはじっと少女を見つめ、鼻をひくつかせた。


「……なんで、あそこに?」


 少女の匂いを嗅ぎながら、セリナは疑念を抱いているようだった。


 ただの村娘ではない。だが、どうしてコボルトの巣の奥に捕らえられていたのか――その答えはまだ見えない。


 レオンは一瞬考え、少女の寝顔を見つめる。


「それは……この子が目覚めたら聞こう」


 サフィアが静かに頷き、セリナも納得したように目を閉じる。

 レオンも疲労困憊で、少女の横に座り込み、深く息を吐いた。


 早朝の冷たい空気の中、彼らは静かに眠りについた――。




 微かな風が窓を揺らし、差し込む陽光が部屋の中を優しく照らしていた。


 レオンは椅子に腰掛け、腕を組んで目を閉じていた。セリナは壁にもたれかかり、耳をぴくりと動かしながら静かに周囲を警戒している。サフィアは少女の枕元に座り、時折、彼女の額に触れて熱を測っていた。

 少女はまだ眠っていたが、その呼吸は落ち着いている。先ほどまでの衰弱しきった様子に比べれば、ずいぶんと回復したようだった。

 そして――。


「……?」


 少女がわずかにまつ毛を震わせ、薄く目を開いた。ゆっくりと焦点を合わせようとするが、まだ意識がぼんやりしているのか、ただ天井を見つめている。


「気がついたか?」


 レオンが彼女の目の動きを確認し、静かに声をかけた。

 少女はその声に反応し、ゆっくりと視線を動かす。


「……ここ……は……?」


 かすれた声が唇から漏れる。

 サフィアが優しく微笑み、柔らかい声で言った。


「安心して、大丈夫よ」


 少女は一瞬、サフィアの声に引かれるように顔を向けたが、すぐに不安げに視線を伏せる。まだ完全に警戒を解いていない様子だった。

 セリナが腕を組みながら、じっと少女の様子を観察する。


「……様子がおかしい。怖がってる?」


 彼女の言葉に、レオンも少女の表情を改めて見る。確かに、恐れと混乱が入り混じった目をしていた。


「ここは村の空き家だ。俺たちはお前をコボルトの巣から助け出した」


 少女の瞳が揺れ、何かを思い出そうとするように眉を寄せる。


「……コボルト……?」


 その言葉が、彼女の中で記憶の糸を手繰る鍵となったのか――。

 少女は目を見開き、喉を震わせる。


「わたし……」


 だが、そこまで言いかけると、何かが引っかかったように言葉が止まる。


「……わたし……?」


 少女は焦りを滲ませながら、レオンたちを見回した。


「……思い出せないの?」


 サフィアが静かに尋ねると、少女はわずかに唇を噛み、震える声で頷いた。




 温かな湯気が空き家の室内に広がる。

 木の器に盛られたスープの中で、柔らかく煮込まれた野菜と肉が揺れ、かすかに香ばしい香りを漂わせていた。


 少女は寝床に座ったまま、その器を前にしてじっと見つめていた。手は膝の上で揃えられ、背筋は自然に伸びている。

 戸惑いの表情を浮かべながらも、どこか気品のある所作が残っていた。


「無理しなくていい。ゆっくり食べな」


 レオンが静かに声をかけると、少女は一瞬ためらったが、器を両手で丁寧に包み込むように持ち上げた。

 器の中では、湯気を立てるスープが柔らかく揺れている。


 慎重に器の縁に口をつけ、そっと口に流し込むと、ふわりとまつ毛が震えた。


「……あたたかくて……やさしい味……」


 それだけ呟くと、少女は器を元の位置に戻し、手元にあった布でそっと口元を拭った。その仕草は、洗練された貴族の作法をそのまま体現するように優雅だった。


 サフィアが優しく微笑み、彼女の様子を見守る。

 セリナは相変わらず壁際に寄りかかりながら、少女の動きをじっと観察している。


 しばらく沈黙が続いた後、少女がふと器をそっと置き、困ったように視線を落とした。


「……わたし、名前……」


 レオンとサフィアが視線を向ける。


「やっぱり思い出せないの?」


 サフィアの問いに、少女は小さく頷いた。


「何も……?」


 レオンが慎重に尋ねると、少女は焦るように眉を寄せた。だが、彼女はすぐに取り乱すことなく、一度深く息を吸い、落ち着いた声で話し始めた。


「何も……覚えていないわけではありません。けれど……」


 言葉を探すようにしながら、指をそっと組み直す。彼女の仕草には、無意識のうちに身についた礼儀作法が滲み出ていた。


「わたくしは、誰かといつも一緒にいた……そんな気がします。ですが、それが誰なのか、どこでなのか、何も……」

 

静かに手を胸元に添え、薄く唇を噛む。


「……何か、大事なことを忘れているような……そんな気がして……怖いのです」


 少女の声が、かすかに震えた。

 その時、セリナが無言で少女の隣に腰を下ろした。肩を寄せるようにして、静かにその存在を受け入れる。


「……ここ、安全。怖がること、ない」


 その短い言葉は、ただの慰めではなく、確信に満ちたものだった。少女は少し驚いたようにセリナを見たが、その目は冷たさではなく、どこか穏やかさを含んでいた。


 レオンは少女の不安そうな顔を見て、穏やかに微笑む。


「無理に思い出そうとしなくていい」


 少女が戸惑いながらも少しだけ頷くと、セリナは静かに目を閉じた。


「……大丈夫。ちゃんと、守る」


 それは少女に向けたものか、それとも自分に言い聞かせるものなのか――。


 薄明かりの中、静かな安心感が広がっていく。

 少女が顔を上げると、レオンは穏やかに微笑んだ。


「今はまず、食べて体力を戻すことが大事だ」


 少女は少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに微笑み、スープの器を両手で持ち直した。


「……ありがとうございます」


 その礼の仕方すら、品のある優雅なものだった。そして、再びスープを口に運びながら、ぽつりと呟く。


「……レオン様……」

「……ん?」

「レオン様のお顔……どこかで見たことがあるような……」


 レオンとサフィアは驚き、思わず顔を見合わせる。

 だが、少女はそれ以上の言葉を紡ぐことができなかった。


「思い出せません……」


 器を握る指が、かすかに震える。

 レオンは静かに息をつき、そっと口を開いた。


「無理に思い出す必要はない」


 少女はわずかに驚いたようにレオンを見つめた。


「焦らなくていい。お前の記憶が戻るまで、俺たちがいる」


 少女はじっとレオンを見つめ、少しの間、沈黙が流れた。


 そして、静かに頷く。


 温かな湯気が揺れ、昼下がりの静かな空間に、わずかに安堵の気配が広がった――。



 ◆◇◆◇

 午後の陽射しが村の広場を照らし、微かな風が埃を巻き上げる。


 レオンたちは空き家の前で荷物をまとめていた。村の者たちが準備を手伝い、食料や水を馬車に積み込んでくれる。


 簡素な布製の服を手に持ったサフィアが、空き家の中へ戻ると、少女がベッドの上で静かに座っていた。


「これ、村の人が用意してくれたわ。少し大きめだけど……着替えられる?」


 少女はサフィアを見上げ、少しだけ困ったような顔をしたが、すぐに礼儀正しく頷いた。


「……ありがとうございます」


 サフィアが微笑み、そっと少女に服を手渡す。


「手伝おうか?」


 少女は一瞬戸惑ったが、ゆっくりと首を振る。


「自分で……大丈夫です」


 言葉遣いも動作も、どこか育ちの良さを感じさせる。やはり彼女は、普通の村娘ではないのだろう。



 ◆◇◆◇

 少女が姿を見せた。

 村で用意された服は、シンプルな長袖のブラウスとスカートだったが、それを身に纏った少女の立ち姿は、どう見ても出自の良い令嬢そのものだった。

 背筋は自然に伸び、歩き方もゆったりとした気品に溢れている。髪はまだ整いきっていなかったが、それでも彼女が育ちの良い身分の者であることは明らかだった。


 レオンたちの前に立ち、少女は少し逡巡したように視線を彷徨わせた後、静かに口を開いた。


「……わたし、どこに行けば……?」


 かすかに震える声。不安そうに指を絡ませる仕草に、まだ戸惑いが残っていることが分かる。

 レオンは短く息をつき、少し考え込む。だが、すぐに答えを出した。


「ひとまず、ブルーヴェイルに戻ろう。そこなら落ち着けるはずだ」


 少女は不安げにレオンを見つめた。


「……わたしも……ご一緒しても、いいのでしょうか?」


 まるで、断られることを恐れるかのような控えめな声。

 レオンは少女の様子を見つめ、一瞬考える。


「行き先が決まっていないなら、俺たちと一緒に来ればいい」


 少女の青い瞳が、わずかに揺れた。


「どこに行けばいいか分からないんだろう?」


 少女は戸惑ったように俯き、それから小さく微笑んだ。


「……はい、レオン様と一緒に……」


 その言葉を最後に、午後の陽射しの中、馬車の準備が整えられる音が響いていた――。

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