第52話 兄さん……遠い記憶の片隅に
暗闇の中、霧がかった世界にひとり佇んでいる。ぼんやりとした風景の向こうに、誰かの気配を感じた。
いつもの「あの少女」がそこにいた。細い身体、小さな手。以前は遠く、ぼやけていたその姿が、今でははっきりと見える。長い髪が揺れ、大きな瞳がこちらを見つめていた。
「兄さん……」
懐かしい、けれど確かに聞いたことのない少女の声。それはこれまで何度も耳にしてきたものだったが——今日だけは違った。
その声には、強い悲しみが滲んでいる。いつもはただ名前を呼ぶだけの夢だった。
けれど——。今日の少女は涙を滲ませ、今にも消えてしまいそうな儚さを纏っていた。
「……おい、どうしたんだ?」
声をかけようとする。手を伸ばせば、届く気がした。
だが、その瞬間——。少女の姿は霧に溶けるようにして消えていった。何かを伝えようとしていたのに、その言葉が届く前に——。
——暗転。
はっと目を覚ます。
天井を見上げたまま、しばらく呼吸を整えた。冷たい汗が額に滲んでいる。夢の感触が、あまりにも鮮明だった。
「……兄さん……?」
少女の最後の言葉が、耳にこびりついて離れない。
隣から、小さく寝息を立てる音がした。視線を向けると、リリアが小さく丸くなって眠っていた。その向こう、セリナとサフィアも穏やかな寝息を立てている。
彼女たちの存在が、夢と現実の境界を引き戻してくれた。
(王子であることをリリアに打ち明けた……それで、少しは気持ちが軽くなったと思ったのに……。なのに、なぜ今になってまたこの夢を見たんだ?)
思考が絡まり合う。
そして、ひとつの可能性が脳裏をよぎる。
(……何かが変わろうとしている……)
この夢が何かを示しているのなら、それはただの偶然ではない。過去に隠されたものが、今になって動き出そうとしている。
そう感じずにはいられなかった。
◆◇◆◇
王宮の夜は、いつも静かだった。
寝静まった廊下の向こう、風がカーテンを揺らし、月明かりが部屋の奥まで淡く差し込んでいる。だが、レオンの胸の内は静けさとはほど遠かった。
「……また、見た」
あの夢。
いつも現れる、見知らぬ少女。最初に夢を見たのは、まだ幼い頃だった。
「お兄ちゃん……」
幼い声が響く。ぼんやりとした夢の中で、名も知らぬ少女が、確かに自分をそう呼んでいた。
最初はただの夢だと思っていた。けれど、それは何年経っても繰り返し続いていた。成長するにつれて、少女の声は少しずつ変化した。
呼び方が変わり、少女の姿も、だんだんと鮮明になっていった。そして今日、初めてはっきりとした顔立ちを見た。
どこか不安そうな、そして寂しそうな声で呼びかける少女。
「兄さん……」
彼女は誰なのか。どうして、何度も俺を呼ぶのか。まるで、何かを訴えようとしているような、その表情。
もう、ただの夢だとは思えなかった。
心に絡みつく違和感を抱えながら、レオンは立ち上がる。答えがほしかった。この夢は単なる幻想ではない。そう確信していた。
——そして、頼るべき人物はひとりしかいない。
「姉さん、起きてるか?」
王宮の侍女たちが寝泊まりする棟の前で、レオンは低く囁く。静寂を破ることを恐れるように扉を叩くと、中から小さな灯りが揺れた。
「……レオン様?」
そっと扉が開き、そこに立っていたのはクラリス——レオンの母の妹であり、幼い頃から彼の世話をしてくれた侍女だった。
年の頃は二十代後半、落ち着いた佇まいに優しい茶色の瞳。王宮の侍女として働く身ながらも、彼女は幼い頃からレオンにとって姉のような存在だった。
「こんな時間に……どうされたのです?」
レオンは迷ったが、やはり打ち明けるべきだと決めた。
「俺、ずっと同じ夢を見てるんだ」
クラリスの瞳が揺れた。
「見知らぬ少女が、俺を『兄さん』って呼ぶ夢を……」
息を飲む気配。
レオンは続けた。
「最初に見たのは、まだ小さい頃だった。それに、最近になって初めて、少女の顔が見えたんだ」
そこまで言った瞬間——。
クラリスの顔が強張った。まるで何かに気づいてしまったかのような表情。
レオンが続けようとすると、クラリスは素早く扉を閉じ、ランプを消す。
部屋の窓から差し込む仄かな月明かりが、二人の表情を微かに照らす。
そして、じっと彼を見つめ——。
「……その子の顔は、はっきりと見えましたか?」
低く、慎重な口調だった。
レオンは頷く。すると、クラリスは苦しげに目を伏せ、長い沈黙の後——。
「……お話しなければならないことがあります。……でも、ここでは話せません」
レオンの胸に、得体の知れないざわめきが広がっていった。それは、長年封じられていた記憶が、いま解き放たれようとしている——そんな感覚だった。
レオンの部屋には、温かな灯火がゆらめいている。窓の外には月が優しく照らし、静寂を強調するかのように、時折風が木々を揺らしていた。
部屋の中央には、侍女クラリスが静かに立っている。彼女の茶色の瞳は、レオンの言葉を受けて揺らいでいた。
「……ずっと前から、時々、夢を見るんだ」
レオンは、視線を伏せながら低く呟いた。
「俺と同じくらいの女の子が出てきて、『お兄ちゃん……』って呼ぶんだ」
クラリスは、一瞬だけ瞳を揺らした。
レオンは、彼女の反応を見逃さなかった。やはり何かを知っている——。そう確信し、さらに言葉を続ける。
「最初は曖昧な夢だった。でも、年を重ねるごとに、はっきりしてきた。今では、顔も見分けがつくくらいに……なあ、あの女の子は一体誰なんだ?」
クラリスは何かを言いかけたが、唇を噛み、言葉を飲み込む。まるで、その真実を口にすることが許されていないかのように——。
けれど、レオンは知りたかった。この夢が何なのか。この少女が、何者なのか。
「クラリス。知っているんだろう?」
レオンが静かに問いかけると、クラリスは目を伏せ、長い沈黙の後——。
「……レオン様……」
震える声で、そう呟いた。まるで決意を固めるように、一度深く息を吸うと——。
そっと懐から、小さなペンダントを取り出した。
「……申し訳ありません」
彼女の手は、微かに震えていた。
「どうか……どうか、このことを決して口外しないでください……」
ペンダントを渡される。レオンは、ゆっくりとそれを受け取る。冷たい銀の枠に包まれた、古びたロケットペンダント。
そっと指で開くと——。そこには、生まれたばかりの赤子のスケッチが二人描かれていた。まるで鏡合わせのように、寄り添う双子の赤子。
「――ッ!!」
レオンの胸が、一気に波立つ。今まで感じていた夢の違和感が、一瞬で現実へと変わった。これは、ただの幻想ではない。
レオンには——。「妹」がいた。それを、王宮の誰もが隠していたのだ。レオンの手の中で、ロケットが静かに揺れた。
月明かりが、その小さな秘密を照らしていた。
王宮の夜は、いつもと変わらず静かだった。風が窓を揺らし、遠くで衛兵の足音が響く。けれど、レオンの心は、もはやこの王宮の静寂の中にはなかった。
あの日、ペンダントを受け取った瞬間から、すべてが変わった。「妹」の存在を知った今、もう何も知らなかった頃には戻れない。
それまで「ただの夢」だと思っていたものが、現実だったと知った時——。
レオンの中で、何かが決定的に変わってしまったのだ。
「王宮の掟が、妹様の存在を許すことは決してありません……」
クラリスの言葉が、何度も脳裏をよぎる。
「そして、いずれこの真実が知られてしまえば……。妹様が、どんな目に遭うのか……」
レオンは、目を閉じる。
王族において、双子の存在は「忌むべきもの」だった。もし、それが明るみに出れば——。
王宮の掟が、王族の誇りが、妹を「存在しないもの」として処分するのは目に見えている。
レオンはゆっくりと息をつきながら、目の前のクラリスを見据えた。
「クラリス……俺は、母は出産の時に亡くなったと聞かされていた。でも、それが嘘だったってことか?」
クラリスは一瞬、息を呑む。しかし、もはや隠し通すことはできないと悟ったのか、静かに頷いた。
「レオン様……本当のことを、お話しします」
彼女の声音には、長年秘めてきた後悔と苦悩が滲んでいた。
「妃様——レオン様の母君は、ご出産の後、王宮を去られました。妹様を連れて……」
レオンの手が、思わずペンダントを握りしめる。
「俺たちを産んで、すぐに……?」
クラリスはゆっくりと頷く。
「王宮の掟では、双子は決して認められません。妹様は、生まれながらにして『存在しない者』として扱われるはずでした」
クラリスの瞳が揺れる。
「しかし、妃様はそれを拒みました。『我が子を見殺しにはできない』と……」
彼女の記憶の中に、その日の出来事が鮮明に蘇るのがレオンにもわかった。
「妃様は、ほんの数人の信頼できる侍女を連れて、妹様と共に王宮を出奔されました。王宮の上層部は、それを公にせず、『妃は出産時に亡くなった』と偽り、すべてを闇に葬ったのです」
レオンの脳裏で、これまでの常識が崩れていく音がした。母は死んだと思っていた。だが、実際は——。
生きている。妹と共に。
クラリスは、申し訳なさそうに言葉を続ける。
「レオン様が、このことを知るべきではなかったのかもしれません……。ですが、夢で妹様の存在を感じ取られていたのなら、もう隠し通すことはできないと思いました」
レオンは、震える手でペンダントを握りしめる。幼い頃から、夢の中で何度も繰り返し呼ばれていた。
「お兄ちゃん……」
それは、現実だったのだ。
レオンの心の中で、決意が固まる。
「俺が王宮を出れば、双子問題は解決する……」
レオンが消えれば、王宮の上層部は「問題はなくなった」と判断するだろうか。
王位継承権を持つ双子が存在するからこそ問題なのであって、そのうち片方がいなくなれば——。
きっと妹の命は、守られる。
「レオン様……本当に、この道を選ぶのですね?」
クラリスは、最後までレオンを止めようとした。
けれど、その瞳の奥には、すでに覚悟を決めたレオンを引き留めることはできないと悟ったような、切なげな光が宿っていた。
レオンは、静かに頷く。
「俺がこの王宮にい続ければ、いつか妹が危険にさらされる。それだけは、どうしても許せない」
クラリスは目を伏せ、震える手でレオンの肩に触れる。
「……レオン様……どうか、ご無事で」
その夜——。
レオンは、長年過ごした王宮の部屋を後にした。闇に紛れるように、静かに、しかし確かな決意を胸に——。
妹を守るために。そして、自らの自由を求めて。
振り返ることはなかった。月明かりだけが、彼の背を見送っていた。
◆◇◆◇
普段と変わらぬ、穏やかな夜の空気。けれど、レオンの心は妙なざわめきを覚えていた。
「王宮を出たことで、すべてが終わったと思っていた」
それは間違いではなかった。確かに、レオンは王宮を捨てた。王位継承のしがらみから逃れ、自由に生きるために。
だが、それは「終わり」ではなく、「始まり」に過ぎなかった。そう、夢が示した少女の姿が、それを物語っていた。
「夢の中のあの子は、本当に俺の妹なのか?」
これまでの夢とは違った。ただ微笑むだけだった少女が——。悲しげな表情を浮かべ、切なげに訴えていた。
「兄さん……」
夢の中の声が、どこか遠くでこだまする。
レオンは、ゆっくりと胸元に手を伸ばす。ペンダントの冷たい感触が、指先に伝わる。母と妹の存在を示す、たったひとつの証。それが今、彼の心を強く揺さぶっていた。
「妹が生きているなら、どこにいる? 俺は、もう一度過去と向き合うことになるのか?」
静かな夜の中、彼の思考だけが研ぎ澄まされていく。そして、その答えは、まだ見つからない。
しかし、一つだけ確かなことがある。この旅は、やがて彼を王宮へと導く。母が消え、妹が行方知れずになったあの日から、すべての歯車は回り始めていたのかもしれない。
レオンは、静かに息を吐いた。
「……まだ、俺の物語は始まったばかりだ」
そう思いながら、ゆっくりと瞼を閉じる。夜が明ければ、また新たな一日が始まる。
レオンたちは、ブルーヴェイルの冒険者として、目の前の仕事に向き合う。だが、それだけでは終わらない。
この旅は、やがて彼を王宮へと引き戻すだろう。
これは、ただの冒険者の物語ではない。「王位を捨てた理由」の真実に迫る旅なのだから——。
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