第43話 王宮を捨てた魔術師
夜明け前の王宮書庫――。薄暗がりの大理石の床を照らすのは、魔術灯が放つ淡い光のみ。サフィアは広げた膨大な地図の上に指を滑らせ、細かな街道の走りをなぞっていた。
彼女が探し求めているのは、王宮を捨てて出奔したレオンの行き先。王都を離れ、どの街道を使ったのか。どこへ向かったのか。どうすれば再会が叶うのか――。
一度は王宮を離れたレオンを思い、サフィアの心は揺れ続けていた。
(……王都の情報網では、やはり彼の足取りは掴めなかった。どこへ向かったのか、誰と接触したのか……手がかりが何もない以上、待つのではなく、私が直接探すしかない。まずは、どこかで何かしらの情報を集めなければ……。王宮に勤めていた時とは違い、今の私は誰にも頼れない。自分の足で、彼の痕跡を追うしかない)
そう結論を下し、サフィアは地図を丸めて鞄に仕舞う。書庫を満たす静寂は、まるで王宮の襲撃警報の直前のように張り詰めていた。
人々がまだ眠り、魔術師団も活動を始めていないこの時間帯こそ、出立には絶好の機会だった。
扉の外から、衛兵が交代する足音が聞こえる。サフィアは一瞬、身を固くし、足音が遠のくのを確認してから、そっと書庫を抜け出した。
髪を隠すように、フード付きのマントを深く被る。エルフの耳も覆い、すれ違う衛兵の目を避けるように、音もなく廊下を滑るように進む。
あと数十分もすれば、王宮の外壁を抜けられるはず――。
「……待っていてください、レオン……今度こそ、私が迎えに行きます」
低く震える声は、覚悟の色を帯びていた。かつて王宮魔術師団の一員として、穏やかな日々を過ごしていた彼女。しかし、もう戻ることはないかもしれない。
それでも構わない。これは、自分の意思で選んだ道。
レオンを探す旅へ――今、サフィアは歩き出した。
王都の高い城壁を抜ける頃には、空が白み始めていた。馬車の往来が本格化する前に、サフィアはフードを深く被り、城門をすり抜ける。
王宮の馬車であれば、一瞬で出発の準備が整うだろう。しかし、サフィアはそれを望まなかった。
自分の正体を隠し、あくまでエルフの里への里帰りという名目で王都を出る。馬を持たない彼女は、乗り合いの街道馬車を利用し、レオンの足取りを探す計画を立てていた。
王都の外れ、街道沿いの小さな停留所。数人の旅人がマントを深く纏い、顔を隠すようにして乗り合い馬車を待っている。
サフィアもその中に紛れ込み、できるだけ目立たないよう静かに座った。
やがて、老いた御者が「乗った乗ったー!」と声を上げ、馬車がゆっくりと動き出す。その瞬間、サフィアは王宮の快適な馬車とは比べものにならない揺れに思わず身を固くした。
(……王宮の馬車とは違い、こんなにも揺れるのですね……)
隣の旅人がくすりと笑い、「もうちょっと慣れたら楽になるよ」と声をかける。別の男は「王都のお嬢ちゃんか?」と興味深げに覗き込んできた。
サフィアは短く礼を述べると、それ以上の会話を避けた。自分の身分を悟られるわけにはいかない。
馬車の中で交わされる何気ない会話に耳を傾けるうちに、ある噂が耳に届いた。
「最近、ブルーヴェイルのギルドでちょっとした噂が立ってるらしいぞ。新人のDランク冒険者が、クエストで目立ってるって話だ」
「へぇ? Dランクで噂になるなんて珍しいな。よほど腕が立つのか、それとも何かやらかしたのか……?」
「いや、悪い意味じゃないらしい。街道沿いの討伐依頼やら、ギルドの揉め事をうまく収めたりしてるってよ。妙に落ち着いてて、ただの新人とは違う雰囲気だとか」
「ほう……それは面白いな。これからどう成長するか、ちょっと気になるな」
サフィアは小さく息を呑む。
Dランクながら、すでにギルドで目立つ存在になっている――。
その噂が、レオンの姿と重なった。確信はない。しかし、ブルーヴェイルに彼の足跡がある可能性は高い。
(レオン……もしかして、そこにいるのですか?)
目立つ新人、ただのDランクではない雰囲気――。噂話の端々に、彼らしさを感じる。
(私が知らない間に、あなたはどれほどの力をつけたのですか?)
思いをこらえながら、馬車が宿場町へ到着するのを待つ。王宮でのぬるま湯のような生活とは比べものにならない、体力を削られる旅。
しかし、今だからこそサフィアは、自らの足で外の世界に踏み出す覚悟を持っていた。
乗り合い馬車を何度か乗り継ぎ、サフィアが辿り着いたのは魔法都市ルミエール。王都ほどの規模はないが、古くから魔術研究が盛んで、冒険者ギルドの活動も活発な街だ。
ここで一旦足を止めたのは、ブルーヴェイルへ向かう前に情報を集めるため。
さらに、王都の魔術師団員だったという痕跡を消し、新たな身分を確立するため、別ルートで冒険者登録をする必要があった。
石畳の通りを進むと、魔術師向けの工房や道具屋が軒を連ね、杖を携えたローブ姿の人々が行き交う。
魔術の都と呼ばれるにふさわしい光景に、サフィアは密かに懐かしさを覚えつつも、王宮の魔術師だったと悟られぬよう慎重に立ち回った。
まずは宿を取り、簡単な食事を済ませた後、冒険者ギルドへと向かう。そこでは情報交換が盛んに行われており、「ブルーヴェイルで活躍する新人冒険者」の噂を耳にできるかもしれない。
「いらっしゃい、今日は何の御用かな? 依頼なら掲示板にあるが……」
カウンター越しの職員が愛想よく声をかける。サフィアはフードを深く下げ、「冒険者登録をしたいのですが」と静かに告げた。
エルフの里へ帰る旅人ではなく、冒険者として活動する――。そういう建前を作ることで、余計な詮索を避けるつもりだった。
「魔法が使えるなら、それなりに稼げるかもな。最近は物騒だからね。登録料は銀貨1枚だけど、大丈夫かい?」
手続きを進めながら、サフィアはさりげなく尋ねる。
「ブルーヴェイルで活躍する新人冒険者について、何か噂はありますか?」
職員は苦笑しつつ、肩をすくめた。
「ああ、レオンって奴のことだろ? Dランクのわりに話題になってるよ。魔物討伐や街道沿いの依頼をいくつもこなして、ギルドの中でも名前が出るようになってきたらしい。それに、何かと面倒ごとに首を突っ込む性格だとか。新人のくせに、ギルドの揉め事を収めたり、他の冒険者を助けたりしてるって話だ」
その名を聞いた瞬間、サフィアの胸が小さく震える。
やはり、レオン。
王宮を出奔した青年が、ブルーヴェイルのギルドで活動している――。その情報がほぼ確信へと変わった。
職員に礼を述べ、正式に冒険者登録を完了すると、小さな革のカードケースが手渡された。中には「サフィア」と名前の入った紙が挟まれ、ギルドのシンボルマークが押印されている。
これは、報酬を受け取るための登録証であり、冒険者として認められた証。王宮の魔術師団とは一切関係のない、まっさらな身分。里帰り途中のエルフではなく、旅の途中で冒険者になった者として生きるための第一歩だった。
手続きを終えた後、職員から基本的な説明を受ける。
「最初はEランクからスタートになるよ。依頼をこなして実績を積めば、Dランクにはすぐ上がれるはずさ。ただ、他の町や都市でそれなりの仕事を受けたいなら、Dランクになってからの方が楽だろうね」
Eランクのままでは、受けられる依頼も限られる。ブルーヴェイルまでの道中、何があるか分からない以上、少しでも実力を示せる立場になっておきたい――そう考えたサフィアは、数日間ルミエールに滞在し、短期の依頼を集中的にこなした。
魔物の討伐や簡単な採集依頼、魔術師向けの鑑定業務などを次々と受け、わずか数日でDランクに昇格する。
ギルドの職員も「たった数日でDランクなんて、滅多にいない」と驚いていた。
(……でも、これで私も彼に少しだけ近づけた。あとは、ブルーヴェイルへ行けば……)
胸の奥で小さく安堵しながら、サフィアはギルドをあとにする。これで護身の手段も整い、必要なら依頼を受けながら旅費を稼ぐこともできる。
次なる移動手段を模索していたサフィアは、幸いにも「メルグレイヴ行きの商隊が護衛を探している」という話をギルドで耳にした。
通常の馬車旅では時間がかかるが、護衛として雇われれば、安全に移動できるうえに費用も浮く。
商隊のリーダーは、最初は懐疑的だった。
「若い女で大丈夫なのか?」
しかし、サフィアが手を軽く掲げ、指先に細い雷の光を纏わせると、男の表情が変わる。
「おお、魔術師か……なら助かる!」
こうして、彼女は商隊と共にメルグレイヴへ向けて出発した。
街道は荒れており、盗賊の出没が噂されていた。商隊が護衛を雇うのも当然の状況だ。そして案の定、移動中に小規模な盗賊の一団が現れ、商人たちの荷馬車を狙って襲いかかってくる。
サフィアは、迷うことなく馬車から飛び出した。
「天に轟きし雷帝よ、その怒りを地に降らせよ――《サンダーストーム》!」
空に突き上げたサフィアの手を中心に、雲一つない空から無数の雷が一斉に降り注ぐ。轟音が地を揺るがし、紫電に包まれた盗賊たちは悲鳴を上げながら転がり、次々と武器を放り投げる。
閃光と雷鳴が収まる頃には、荷馬車の周囲には黒く焦げた土と、呆然とする商隊の面々だけが残されていた。
「な、何者だ……!? こんな魔法、滅多に見られんぞ!」
他の護衛たちが驚きの声を上げる中、サフィアはフードを深く被ったまま静かに答えた。
「……ただの冒険者です」
淡々とした口調。表情を変えず、王宮魔術師の名残を感じさせないよう慎重に振る舞う。
その圧倒的な力を目の当たりにした商人や護衛たちは、「本当にただの冒険者なのか」と困惑気味だったが、サフィアはそれ以上何も語らず、戦いを終え馬車へと戻った。
(この世界は、王宮とは違う。けれど……私には、まだ十分な力がある)
彼女は初めての外の世界での実戦に、わずかな驚きを覚えながらも、王宮で培った魔法が実際に役立つことを実感する。
そして同時に、「私はもう王宮の中ではなく、この世界で生きているのだ」と、はっきりと意識した。
商隊の護衛を終え、サフィアはメルグレイヴの街へと辿り着いた。この街でも、レオンの噂を耳にできるかもしれない――そう期待しながら、彼女はギルドへ向かう。
最近、貴族の視察団がメルグレイヴに立ち寄った際、護衛としてDランクの冒険者が指名された。その名前が、レオンだった。
その出来事に、サフィアは思わず息をのむ。
「レオン? ああ、貴族の護衛クエストのために出発してしばらく経つね。そろそろブルーヴェイルに着く頃じゃないか?」
その言葉を聞いた瞬間、サフィアの胸が熱くなる。
ここまで来たのだ。あと少し、ブルーヴェイルまで行けば――。
しかし、その期待と同時に、不安がこみ上げる。もし彼がすでにそこを離れていたら?
もし、またすれ違ってしまったら?
(あと少し……! 本当に、もう少しで……。でも、今度こそ会えますように……!)
唇をかみしめながら、サフィアはギルドを後にした。明日には馬車や護衛の当てを探し、ブルーヴェイルへ向かう。
ここまで旅をしてきたのに、まだレオンに追いつけない。「もし違う場所へ移動していたら……」という不安は拭えないままだ。
それでも、彼を探すことを諦めるつもりはない。
夜が更けたメルグレイヴの宿で、サフィアは静かに窓辺に立つ。街灯の揺らめく道を見下ろしながら、王宮にいた頃のことを思い出していた。
王宮――特別な場所で守られ、魔術師団の一員としてそれなりの生活を送っていた日々。だが今、彼女が頼れるのは自分の力だけ。
それでも迷いはなかった。
彼を探し、再会する――そのために、自分はここにいる。
(わたしはもう王宮には戻らない。それでも……レオン、あなたが進む道があるなら、わたしはそこを共に歩くために力を尽くすだけ)
埃っぽい街道、荒れた道、盗賊との戦闘、慣れない人々とのコミュニケーション――王宮の外の世界は厳しい。
だが、そこには確かに生きているという実感があった。
翌朝、いよいよブルーヴェイルへ向けて出発する。商隊に同行するのか、それとも馬車を自分で手配するのか――状況次第だが、とにかく急ぎたい。
そこにレオンがいるなら、どんな形でも構わない。
今度こそ――会いたい。
メルグレイヴの街をあとにし、サフィアの旅はついに大詰めを迎えようとしていた。王宮を抜け出した日の決意は、色褪せるどころか、ますます強くなるばかりだ。
レオンがブルーヴェイルにいると聞いた以上、そこへ行けば必ず手がかりが得られるはず。
旅の途中で耳にした噂――盗賊が跋扈する街道、突如現れる魔物、どこかで蠢く不穏な影。王宮にいた頃には知ることのなかった世界の荒波を、彼はすでにその身で経験しているのかもしれない。
しかし、サフィアの想いはただ一つ。レオンを見つけ、彼の力になること。かつて、王宮を出て行く彼を止められなかった。
だが、今度こそ――。
「今度こそ、会えますように……!」
祈るような言葉を胸に、サフィアはフードを深く被り、馬車の一角に乗り込んだ。また一段と厳しい旅が待っているだろう。
だが、もう迷いはない。
王宮を捨てた自分と同じように、レオンもまた外の世界で戦い続けている。
ならば、自らの足でそこへ向かうのみ。
魔術師として、そして一人の女性として――。
未知の道を歩み始める。すべては、遠くブルーヴェイルにいると信じるレオンとの再会のために――。
ご一読くださり、ありがとうございました。
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