第39話 貴族の子女護衛クエスト編 術者の影
深夜、辺境の空は雲に覆われ、月明かりはほとんど届かない。ヴェルン村の家々は戸締まりを厳重にし、村人たちは先日の襲撃を恐れて早めに床についた。夜警の者たちだけが交代で見張りを続け、万が一の事態に備えている。
村の端に立ち、森のほうを遠巻きに見つめていたセリナは、フードを浅く被りながら夜風の流れを感じ取っていた。狼耳が微かに動き、風に乗る匂いを嗅ぎ取る。
「……あの森、また動いてる。魔法の……匂い」
低く呟いた声に、隣にいたレオンが振り返る。彼も夜警の役割を引き受け、眠気を抑えながら周囲の警戒に意識を集中させていた。
「動きがあるって……魔物の気配か?」
セリナは首を横に振る。
「……分からない。でも、魔物だけじゃない。何者かが森の奥で何かしてる感じがする」
尻尾がわずかに揺れ、言葉にしづらい違和感を示していた。
レオンはその言葉に、不吉な直感を覚える。前回の魔法陣発見も、セリナの嗅覚がきっかけだった。今回も同じなら、ただの偶然では済まされない。
「……よし、先に俺たちで確認しに行くか?」
森の異変を放置すれば、また村が襲われるかもしれない。もともと調査の計画はあったが、いま目の前で何かが動いているなら、迅速な偵察が必要だった。
セリナはすぐに頷く。
「……うん。ヴィクターやカレンは村の警戒を続けてる。二人だけのほうが、動きやすい」
確かに、大人数での行動は目立ちすぎる。レオンは素早く騎士の一人に「森へ偵察に向かう」と伝え、警戒を強めるよう指示を残してから、セリナと共に静かに村を後にした。
夜の森は、昼間とは比べものにならないほど深い闇に包まれていた。月明かりもほとんど届かず、木々が密集する道なき道を、二人は慎重に踏み入れる。
レオンは微弱な風魔法を展開し、足音を消しながら視界を確保するための風の流れを作る。一方、セリナは狼耳をピクリと動かし、鼻で周囲の微かな匂いを嗅ぎ取りながら先導した。夜風の流れに乗るかすかな気配――それを見逃さないよう、意識を研ぎ澄ませる。
しばらく進むと、周囲の空気が変わった。静寂が広がる中、肌を刺すような魔力の残滓が漂っている。しんとした森の中に、何かが確かに存在している。
セリナが囁くように声を落とした。
「……やっぱりいる。あの匂い……魔法の……」
レオンは剣の柄を握りしめ、周囲を見渡す。木々の隙間の向こう――闇の奥で、かすかに灯る不規則な光があった。まるで薄暗いランプのように、ゆらゆらと揺れている。
「あそこか……。慎重にな。見つからないように近づこう」
夜風がざわめき、木の葉を揺らす音がかすかに響く。セリナは素早く身を低くし、木陰を縫うように移動する。レオンもそれに続き、二人は森の暗闇に紛れながら、静かに目的の場所へと近づいていった。
視線の先に広がるのは、小さな空き地だった。周囲の木々は無造作に切り倒され、中央には円形の石版が据えられている。その表面には怪しく輝く魔法陣が刻まれ、紫と黒のもやがゆらゆらと立ち上っていた。
そして――その石版の前で、呪文を唱える黒い影が一つ。
黒いフード付きの装束に身を包み、仮面で顔の大半を覆った男。その異様な姿を見た瞬間、レオンの背筋に冷たいものが走る。
(こいつが……森の異変を引き起こしている術者か)
男は低く呪文を唱え、宙に浮かぶ光の紋様を指でなぞっていた。魔法陣の光がじわじわと地面を這い、まるで生き物のように脈動している。レオンは剣の柄を強く握り、息を潜めながら観察を続けた。
「……魔法の匂い。強い」
セリナのその言葉を聞いたレオンの胸に、不穏な予感が広がる。前回見つけた魔法陣とは比べ物にならないほどの魔力を感じる。すでに何かが始まっているのかもしれない――。
「……間違いなく、魔物を操る術だな」
小声で呟きながら、レオンは術者の動きを見極める。
このまま様子を伺い、騎士やヴィクターたちに報告するべきか。だが、時間をかければかけるほど、術者が新たな魔物を呼び出す可能性は高まる。下手をすれば、村への襲撃が再び起こるかもしれない。
迷う時間は、ない。
レオンはセリナと視線を交わし、小さく頷いた。
「突入する」
セリナも無言で頷き、フードを少し外してナイフを構える。奇襲の機会は、一度きり。魔法の発動前に仕留める――それが最善の選択だった。
二人が一気に草むらを飛び出し、術者へと迫った――その瞬間、黒装束の男はまるで気配を察知していたかのように顔を上げた。仮面の奥で微笑むような雰囲気を感じさせる。
直後、闇のような魔力が渦を巻き、呪文が発動される。
レオンが剣を抜き、術者との距離を一気に詰めようとする。しかし、男はわずかに後方へ下がりながら魔法陣へと手をかざした。すると、地面が震え、濃密な闇が空気中に集まり始める。
「侵入者か……。やれやれ、まだ準備が終わっていないというのに」
仮面の向こうから低く響く声が漏れ、どこか余裕を含んだ笑いが混じる。そして、男が空中に紋様を描くように指を動かすと、闇の塊が脈動しながら形を成していく。
闇の霧が晴れたとき、そこに現れたのは巨大な狼型の魔物――通常の影狼よりも遥かに大きく、全身を漆黒の毛並みが覆っていた。
「……魔物!? これは……影狼じゃない……」
赤い瞳が獲物を狙うように光り、鋭い牙から邪悪な気配が漂う。まるで闇そのものが具現化したかのような異様な存在だった。
「暗黒狼……!」
レオンが思わず低く呟く。影狼の上位種で、魔力を帯びた獣。体長は軽く2メートルを超え、通常の狼よりも狡猾で獰猛だ。さらに、その周囲には複数の影狼が集まり、群れを従えるような態勢を取っている。
「……あれ、相当強い」
セリナも警戒を強め、尻尾がわずかに逆立つ。
暗黒狼はその場で低く身を沈めると、次の瞬間――まるで影のように一瞬で間合いを詰め、鋭い爪を振るった。地面が深く裂け、周囲の影狼も一斉に動き出す。
レオンは即座に風魔法を展開し、後方へ飛ぶように回避。しかし、暗黒狼はその動きを見切ったかのように方向を変え、なおも追撃を仕掛けてくる。
「くっ……速い……!」
レオンは辛うじて剣を構え、次の一撃に備える。
一方、セリナもナイフを投げ、喉元を狙うが、暗黒狼は素早く身を捻り、逆に尻尾で薙ぎ払おうとする。セリナは寸前で身を低くし、回避するが、その隙を突くように横から影狼の一匹が襲いかかる。
「……っ!」
短剣で受け流しつつ体勢を立て直すが、影狼たちは連携を取るように襲いかかり、次々と攻撃を繰り出してくる。
その後方では――黒装束の術者が魔法陣の制御を保ちつつ、静かに二人の戦いを観察していた。その姿はまるで試すような余裕に満ちている。
「なるほど……これほど戦えるとは。さすが貴族の護衛か」
冷ややかな声が森の闇に溶け込む。
暗黒狼の猛攻に翻弄されていたレオンだったが、次第に風魔法の使い方を思い出し始めていた。カレンの助言を活かしながら、自分なりのアレンジを加え、足元に風を纏わせることで短時間の加速を生み出し、相手の攻撃をいなしやすくしている。
その動きに合わせ、セリナも暗黒狼の側面から牽制を仕掛け、ナイフを投げて隙を作る。二人の目が合った瞬間、暗黒狼が咆哮とともに真っ正面から突撃してきた。
「……っ、来る!」
レオンは瞬時に風の魔力を脚へと集中させ、跳ねるように加速する。
「疾風歩ーー!」
発動と同時に、レオンの身体が弾かれるように疾走した。暗黒狼が左爪を振り下ろす瞬間、風を纏ったステップで紙一重に回避。間髪入れず、剣に風の刃を纏わせて斬りかかる。
ほぼ同時に、セリナが暗黒狼の前足の関節を狙い、短剣を投げた。狙いどおりに深々と突き刺さり、バランスを崩した暗黒狼の隙を突くように、レオンの一撃が直撃する。
黒い血のような液体が飛び散り、暗黒狼が苦悶の咆哮を上げた。
「……今だ!」
レオンの声と同時に、セリナが素早く踏み込み、二本目の短剣を首元へと突き立てる。
暗黒狼は絶叫しながら地面に崩れ落ち、その瞬間、周囲にいた影狼たちが怯んだように身を引く。わずかな沈黙の後、群れは統率を失い、散り散りに森の奥へと逃げていった。
レオンとセリナは荒い息を整えながら、素早く周囲を見渡す。
(……まだいるか?)
森の闇は深く、風の流れにも違和感はない。だが、もう一匹も暗黒狼の気配は感じられない。
そして――。レオンの視線が術者のいた場所へ向いた。
レオンが視線を森の奥へ向けると、黒装束の男がこちらを見つめていた。仮面の下から覗く眼光が、不気味な笑みを浮かべているように感じられる。
「ほう、暗黒狼を倒すとはな……。なかなか見応えのある戦いだった」
どこか余裕を漂わせた声音。レオンは剣を構えたまま、「貴様がこの森で魔物を操っているのか?」と問いかけた。だが、男は応じることなく呪文を紡ぎ、魔法陣が闇色の光を放ち始めた。
「今は試しに過ぎない。貴族の護衛よ、お前たちの力を測らせてもらった。……次に会うときは、より興味深い戦いを期待しているぞ」
嘲るような声とともに、魔法陣が一気に輝きを増す。レオンは「待て!」と叫び、駆け出した。だが、その瞬間、男の身体が闇の光に包まれ、輪郭が揺らぐように消え去る。
転移魔法――高位の魔導士のみが扱える空間転移の術だ。
レオンは剣を振り下ろしたが、すでにそこには何もなかった。残されていたのは、わずかに漂う魔力の残滓と、足跡すら残らぬ静寂だけ。
「くそ……」
低く吐き捨てる。
やがて、セリナがフードを押さえながら近づいてきた。レオンの隣に立ち、森の奥をじっと見つめる。
「……嫌な感じがする」
静かに呟く声が、森の闇に溶けるように響いた。
術者が消えた後、魔法陣の跡には焦げ付いたような痕が残っていた。レオンとセリナが慎重に近づくと、そこに漂っていた魔力はすでにほとんど失われている。それでも、地面には不可解な刻印が焼き付いたように残っていた。
不規則な文様が土を焦がし、意味不明な文字や幾何学模様が描かれている。まるで術者が意図的に残したようにも見えた。
レオンは剣を収め、無言のまま刻印を見下ろす。これだけの戦いを経て暗黒狼を倒したというのに、結局、術者の正体も目的も掴めないまま終わってしまった。まるで手のひらの上で踊らされていたような虚脱感が広がる。
「……何も分からずじまいか」
悔しげに呟きながら、レオンは地面を睨む。
セリナも静かに息を吐き、「この刻印、どうする?」と尋ねる。だが、すでに魔力を失っており、今さら破壊しても意味があるとは思えない。
レオンは周囲を警戒しながら、刻印を目に焼き付け、後で確認できるように記憶しておこうと決めた。隣では、セリナがフードを被り直し、無言で見張りを続けている。
森の奥での戦闘を終えたレオンとセリナは、静寂に包まれた夜道を歩きながら、来た道を引き返していた。暗黒狼との激闘で体力は消耗したが、幸いにも大きな負傷はない。それでも、取り逃がした術者の存在が二人の胸を重くしていた。
村へ戻り、エリザベートたちへ報告しなければならない。しかし、術者の正体も目的も掴めないまま――逃げられたという事実だけが残っている。
夜の森を抜け、ヴェルン村の外周に差し掛かると、雲の切れ間から月明かりが地面を淡く照らしていた。村の入口では、警戒に当たっていた騎士たちがレオンたちの姿を見つけ、安堵したような表情を浮かべる。
「お帰りなさい! 状況はいかがでしたか? 大丈夫ですか?」
レオンは口を引き結び、簡潔に答えた。
「敵の術者らしき者に遭遇した。しかし、逃げられた」
騎士たちは顔を見合わせ、緊張した様子で「すぐにエリザベート様へ報告します」と言い、村長の家へ走っていく。その後ろ姿を見送りながら、セリナはふと夜空を見上げた。フードの奥で金色の瞳が揺れる。
戦いの興奮が冷めきらず、まだ心臓の鼓動が速い。闇の中で微笑んでいたあの男の顔が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「……あの男、戦いを楽しんでいた」
ぽつりと漏らしたセリナの言葉に、レオンも視線を遠くへ向ける。
「ああ……俺たちの動きを観察していたな。『試し』なんて言い方をする以上、何か目的があるはずだ」
沈んだ声で呟くと、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。せめてもう少し情報を得られていれば、村や辺境一帯を守る手がかりになったかもしれない。それなのに――手のひらの上で転がされるように、何も掴めず終わってしまった。
村の家々には静かな灯りがともり、かすかに聞こえる夜の営みが、日常の平穏を感じさせる。それでも、二人の心はどこか落ち着かなかった。
――術者は必ず、また現れる。それは確信に近い不安だった。
村の入り口に立ち、レオンはゆっくりと深呼吸をする。冷たい夜風が吹き抜ける――まるで、次に訪れる嵐の前触れのように。
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