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第3話 川沿いの村での休息

 川沿いの細い道を、レオンは一歩ずつ足を進めていた。山道を抜けてからというもの、ほとんど休まずに歩き続けている。

 目指すのは、川沿いにあるという村。そこを抜ければ、冒険者ギルドのある町に辿り着けるらしいと、ヴォルフから聞いていた。だが、どれだけ歩いても、村の影すら見えない。


 太陽が高く昇る頃には、何度か川のせせらぎに耳を傾け、日差しに焼かれた身体を冷やそうと、草陰に腰を下ろして小休止をとった。水筒はほとんど空。食料も、パンの欠片がわずかに残るだけ。

 剣を杖代わりにしながら、時折、深呼吸して気力を保とうとする。空腹と疲労、そして慣れない長旅。王宮での快適な暮らししか知らなかった身には、あまりに厳しい現実だった。それでも、引き返すわけにはいかない。


「……はぁ」


 額の汗を軽く拭い、川面を振り返る。金色に染まり始めた水面が、そろそろ日が沈むことを教えてくれる。どれだけ歩いたのか、正確な時間はわからない。けれど、宵の口が近いことだけは確かだった。


 もうすぐ暗くなる――そう思うだけで、不安と焦りが胸に広がる。このまま野宿になるのか。王宮を出てから、まだほんの十数時間。旅慣れしているわけでもない自分が、こんな何もない川沿いで夜を越すのは、あまりに無謀すぎる。



 そんな焦りを抱えながら、さらに足を進めると――川の向こうに、かすかに人影が見えた。川辺で何かを洗っている、

 小柄な人物だ。レオンは胸をなで下ろす。少なくとも人がいるということは、近くに住居なり村なりがあるはずだ。


「すみません……!」


 川辺の人影に向かって声をかける。近づいてみると、そこにいたのは年配の女性だった。丸みを帯びた体格に、くたびれた麻布の服。裾をまくり、足を水に浸して布をすすいでいたようだ。

 声に気づいた女性は、驚いたように振り返る。そして、レオンの姿を一目見るなり、ぎょっと目を見開いた。見るからに旅人風の若い男が突然現れれば、警戒もするだろう。


「……あんた、誰だい?」


 低い声には、はっきりとした警戒心が滲んでいる。レオンはできるだけ柔らかく、穏やかな口調で答えた。


「急ぎの旅の途中で、川沿いを歩いてきました。このあたりに村や人家はありますか?」


 女性はじろじろとレオンを品定めするように眺めると、「そこをまっすぐ行きゃ村があるよ。すぐそこさ」と、不機嫌そうな表情のまま答えた。


 地図も持たないレオンにとって、その一言はひとまずの救いだった。慌てて礼を言うと、女性は洗濯物を抱えて、そそくさとどこかへ行ってしまった。完全に怪しまれているが、今は気にしている余裕はない。


 教えられた方向へ急ぎ足で進む。やがて人の話し声や鶏の鳴き声が微かに耳に届き、木造の小さな家々が並ぶのが見えてきた。

 さらに進むと、簡素な柵に囲まれた畑が点在し、その脇を通る狭い道に、草と土と家畜の匂いが漂ってくる。

 家の窓からは暖かな灯りが漏れていた。夕暮れ時、焚き火やランプを灯している家もあるのだろう。


「ようやく……着いたか」


 王宮を抜け出してから、ひたすら川沿いを歩き続けたレオンには、このささやかな家並みさえ、胸に沁みる安堵をもたらした。

 なにより人の暮らしの匂いがする。自分が孤立しているわけではないと感じられるだけで、ほんの少し肩の力が抜けた。


 だが、見渡しても、大きな建物や石造りの施設のようなものは見当たらない。道行く村人もちらほらいるが、素朴で静かな小さな集落という印象だ。

 冒険者ギルドやその出張所があるような活気は、どうにも感じられない。


 通りすがりの村人に声をかけようとしたが、誰もが怪訝そうにこちらを一瞥し、すぐに目を逸らしてしまう。「こんな時間に旅人が何しに来たんだ」と言いたげな空気だった。



 しばらく行き場を探して歩き回った末、ようやく川辺で畑仕事を終えた様子の男性を見つけた。鍬を肩に担ぎ、ゆっくりと村へ戻っていく。思い切って声をかけることにした。

 初めて話す村人の容姿は、日焼けした肌に痩せぎすの体つき。粗末なシャツとズボンは土で汚れ、首には汗拭き用の布を巻いている。疲れが滲む顔つきだったが、レオンを見ると足を止め、面倒くさそうに眉をひそめた。


「……なんだね、旅人か?」

「すみません。この村に冒険者ギルドはありますか?」


 王宮にいた頃は、自然と丁寧な言葉遣いが身についていた。しかし、格式ばった言葉は場違いだと判断し、できるだけ砕けた口調を意識する。

 村人は鍬を担いだまま、少し呆れたように首を振った。


「ギルド? そんな立派なもん、この村にはないさ。ここは農作物と川漁で細々とやってる小さな村だ。ギルドがあるのは町だな」

「町……ですか。ここからどれくらいの距離でしょう?」

「馬なら半日もかからんが、徒歩なら一日は見ておいたほうがいい。川沿いの道を進めば、いずれ町に着くが……」


 村人はちらりと空を見上げる。すでに夕暮れも終わり、空には星が瞬き始めていた。


「もう日は暮れてるだろ? 今から町へ行くのは無茶だ」


 その言葉に、レオンは自分の足の疲れを改めて実感した。これ以上歩けば、いずれ倒れかねない。選択肢は、休むことしか残っていなかった。


「宿は……ありませんか?」

「宿屋なら一軒だけある。大したもんじゃねえがな」


 そう言って、村人は大雑把に道を教えてくれる。レオンは礼を言い、鍬を担いだ男がそのまま村の奥へと消えていくのを見送った。


 夜道を照らすのは、家々の明かりと月だけ。早く宿に向かわなければ、足元も危うい。


 村人の教えてくれた方向へ進むと、やがて少し大きな建物が見えた。壁には荒く描かれた看板があり、入口の脇にぶら下がったランプが薄暗く灯っている。

 建物は木造で、壁板がところどころ剥がれかけている。扉の前には粗末なベンチが置かれ、ランプの光に小さな虫が群がっていた。


「ここが宿屋、か……」


 レオンはノックしようか迷ったが、あまりの疲労に、そっとドアノブを回して中へ入る。

 室内は広くはないが、簡素なテーブルと椅子がいくつか置かれ、奥には古びたカウンターがある。薄暗いランプの光が揺れ、ほのかに煙の匂いが漂っていた。

 カウンターの向こうで男が立ち上がる。色あせたシャツにエプロンを巻いた、大柄な男だ。年の頃は四十代半ばといったところか。短く刈った髪と厳つい顔立ちが印象的だが、目つきに敵意はない。


「おいおい、こんな時間に村へ来たのか。旅人も大変だな」


 低めの声が響く。男はカウンターから出てくると、日焼けした腕を組んだ。そこには、いくつかの傷跡が残っている。かつて冒険者だったのか、それともただの力仕事でできた傷なのか。


「少し疲れていて……。部屋を借りたいのですが」


 レオンの申し出に、男は少しだけ目を丸くする。夜になって突然現れた若い旅人が、宿を求めるのは珍しいのだろう。だが、すぐに鼻を鳴らし、肩をすくめた。


「空いてる部屋ならあるが、うちは豪華な宿じゃねえぞ。飯はパンとスープくらいしか出せねえが、それでいいなら泊まっていきな」

「それで十分です。助かります」

「そうか。じゃあ大銅貨3枚でどうだ。朝飯もつけてやるよ。……部屋は2階の奥しか残ってねえが、我慢しろよ」


 レオンは苦笑しながら、外套の内ポケットから手持ちの革袋を取り出す。大銅貨を三枚、男に渡すと、男はそれを受け取りながら軽く頷いた。


「ええ、お願いします」


 男は硬貨をポケットにしまい、手でレオンを招くように合図する。


「名前は?」

「……レオンといいます」

「へえ。俺はベルガーだ。好きに使ってくれて構わんが、酒場じゃねえから飲んだくれはごめんだぞ。それと、もう1人客がいるが、夜中に騒いだら怒鳴られるかもしれねえから気をつけな」


 ベルガーはレオンがついてくるのを確認しながら階段を上がっていく。二階は横に長い廊下になっており、奥まった部屋の前で立ち止まった。

 扉を開けると、中は小さなベッドとテーブルがあるだけの殺風景な部屋だった。窓はひとつ。古びたカーテンが吊るされているが、屋根に穴はなく、ブランケットと枕もかろうじて揃っている。


「ここだ。ブランケットは自分で敷いてくれ。食事はいま用意してやるが……まあ、パンと野菜のスープくらいしかないぞ」

「それでも嬉しいです。ありがとうございます」


 レオンは素直に礼を言う。今日一日、まともな食事を摂っていないのだから、温かいスープでも十分ありがたかった。


 ベルガーは頷くと、「じゃあ準備してくるから、少し待ってろ」と言い残し、階段を下りていった。



 部屋に一人残されたレオンは、ベッドに腰掛けて大きく息をつく。硬いマットレスがぎしりと音を立てるが、その安っぽい感触さえも安心をもたらした。まともに横になれるだけでもありがたい。

 少ししたら食事が届くだろう。とりあえず外套を脱ぎ、壁にかける。王宮で仕立てられたそれは、生地が良いせいか埃を弾いていたが、それでも旅の汚れがあちこちに染みついていた。


「……やっと、たどり着いたか」


 小さく呟く。

 王宮の広い寝室、柔らかなベッド。何不自由ない暮らし。

 それを捨て、こうして疲労困憊になりながら、貧しい村の宿屋で夜を迎えている。しかし、不思議と後悔は湧いてこなかった。


 自分で選んだ道なのだ。

 そう思えば、苦労さえも意味があるように感じる。


 コンコン、と扉を叩く音がする。返事をすると、ベルガーが盆を手に持って入ってきた。テーブルに木の器を置く。器の中には湯気を立てるスープと、一切れのパン。スープには野菜がごろごろと入り、素朴な香りが食欲をそそる。


「特別うまいもんじゃねえが、腹は満たせるはずだ。悪いが肉までは用意してねえ」

「ありがとうございます。本当に助かります」

「明日の朝食も似たようなもんだが、辛抱してくれよ。町まではまだ距離があるだろうからな」


 ベルガーはそう言って扉を閉め、階下へと戻っていった。


 レオンはスプーンを手に取り、スープをひと口すする。まろやかな塩味と野菜の甘みがじんわりと身体に染みた。

 こんな質素な料理、王宮では一度も口にしたことがない。しかし、空腹と疲れが重なっている今のレオンには、これが極上のごちそうのように思えた。


 スープを飲み干し、パンをかじりながら窓の外に目を向ける。辺りはすっかり夜の闇に包まれていたが、村の家々から漏れる灯りが点々と続いていた。豪奢なシャンデリアも、煌びやかな美術品もない。

 けれど、その小さな灯火はどこか温かかった。


「……明日になったら、町へ行こう。ギルドがあるらしいし……」


 そう呟くと、スプーンを置いて軽く目を閉じる。

 冒険者になるにせよ、仕事を探すにせよ、まずは町へ行かなければ始まらない。王宮で培った剣術が、何かの役に立つかもしれない。


 食事を終え、レオンは軽く身体を拭いてからベッドに倒れ込む。ブランケットは少し湿っているようで、王宮の寝具とは比べるまでもない。しかし、眠れるならそれでいい。

 疲れが限界に近いせいか、浮かぶのはサフィアの憂いを帯びた表情と、王宮の夜の静寂。その記憶がかすかに胸を締めつける。

 だが、意識はすぐに深い闇へと沈んでいく。眠りの底に落ちる寸前、レオンはかすかに笑みを浮かべた。これから始まる冒険の日々に思いを馳せながら――。


 こうして、レオンは初めての人里での休息を得た。豪華さなど微塵もない、小さな宿屋。だが今の彼には、それが何よりの安らぎだった。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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