第28話 因縁の再会
メルグレイヴの街並みが夜の帳に包まれた頃、護衛任務を終えたレオンとセリナは、ガルフ一家と別れた後、二人はほっとしたように息をつく。長い旅路を乗り越えた達成感と、無事に任務を完遂した安堵が胸に広がる。しかし、すでに日は暮れ、二人とも疲れが溜まっていた。
「……今日はもう、宿を探そう」
「うん、そうする」
レオンの提案に、セリナも素直に頷いた。メルグレイヴはブルーヴェイルよりやや小規模な街だが、それでも宿の選択肢は豊富だ。商人や旅人の往来が多い土地柄、宿の数はそれなりに揃っている。しかし、二人にとっては一つ問題があった。
――今回も、同室に泊まるかどうか。
とはいえ、すでにブルーヴェイルで何度か経験しているし、金銭的な事情を考えても、二部屋取る選択肢はなかった。結局、レオンとセリナはこれまで通り、同じ部屋で一晩を過ごすことに決める。
宿の部屋に入ると、セリナは特に気にする様子もなく荷物を置き、さっさとベッドへ横になった。レオンも深く考えず、体を休めることを優先する。疲労が積もっていたせいか、二人ともすぐに眠りに落ちてしまう。
翌朝、護衛クエストの完了報告を行うため、レオンとセリナはメルグレイヴの冒険者ギルドへと足を運んだ。先日、ブルーヴェイルのギルドで請け負った商人一家の護衛任務を無事に遂行し、その実績を正式に記録するためだ。
しかし、二人はまだ知らなかった。――このギルドの一角に、セリナの過去を知る男が居合わせていることを。
いつも冷静なはずのセリナが、フードを深くかぶり、不自然なほど周囲を警戒する理由を、レオンはまだ理解していなかった。だが、それが「因縁」と呼ぶにふさわしい再会の予兆であることを、彼は間もなく知ることになる――。
メルグレイヴの冒険者ギルドは、ブルーヴェイルのそれに比べて規模こそやや小さいが、活気の面では劣ることはなかった。建物の造りは独特の意匠が施され、どこか異国情緒を感じさせる。ホールにはさまざまな冒険者が集い、酒場コーナーで談笑する者、クエストの掲示板を熱心に眺める者、受付カウンターで事務処理を行う者などがひしめき合っていた。
「すごい活気だな……」
「……うん」
レオンが周囲を見渡しながら呟くが、隣を歩くセリナの様子はどこかおかしい。彼女はいつものようにフードを深く被り、狼耳を隠しているが、今日は特にその影に身を潜めるような仕草を見せていた。鼻をわずかにひくつかせ、空気の匂いを探るように何度も小さく呼吸を繰り返している。その動作には明らかに警戒心が滲んでいた。
「……大丈夫か?」
心配になったレオンが小声で問いかけると、セリナは短く「問題ない」と返す。しかし、その声はどこか硬く、耳もかすかに震えている。普段なら冷静沈着な彼女がここまで不安を見せるのは、ただの緊張ではないと直感する。
「……報告済ませる。早く帰ろう」
そう言ってセリナは、カウンターの方へ足早に向かう。しかし、その歩調は普段の慎重さとは違い、明らかに焦りが混じっていた。まるで何かから逃げるように。
レオンはその様子を訝しく思いながらも、彼女の後に続く。このときはまだ、セリナの違和感が何を意味するのか察しきれなかった。
混雑するカウンターの行列に並び、ようやく順番が回ってきた。レオンは受付係に声をかけ、ブルーヴェイルで受注した護衛クエストの完了報告を行う。係の青年は手際よく書類を確認しながら、二人の名前を記入した。
「なるほど、ブルーヴェイルの依頼ですね。商人ガルフさん一家の護衛……確かに報告が来ています。お二人とも、クエスト完了おめでとうございます」
「ありがとうございます。多少の手間はありましたが、無事に送り届けることができました」
レオンが穏やかに返すと、青年は「それならよかったです。ブルーヴェイルの本部にも連絡を入れておきますね」と笑顔で応じる。後は書類にサインをすれば正式な処理は完了だ。
しかし、そのやり取りの最中、セリナは終始口を開かず、フードを深く被ったまま周囲を気にしていた。鼻を小さくひくつかせ、匂いを嗅ぐように何度も浅い呼吸を繰り返す。その仕草には、焦りと強い警戒心が滲んでいた。
レオンはちらりと横目で彼女を見やり、「何かあるのか?」と内心訝しむ。声をかけようとした矢先、ギルドの奥から荒々しい笑い声が響いた。
響くのは、耳障りなほど傲慢な声。数人の冒険者が卓を囲み、楽しげに酒を飲み交わしている。中心にいるのは、タンクトップの上に軽鎧を纏った大柄な男。鍛え上げられた腕を組み、堂々とした態度で周囲を見下ろしている。
彼の名前はエディン。Bランク目前と噂されるCランクの実力者であり、このギルドでも一定の影響力を持つ男だ。
エディンは仲間たちと談笑しながら、わざとホール全体に聞こえるような大声を上げる。
「ははっ、やっぱりこの街のギルドは落ち着くな! ところで最近、妙に獣人どもが増えてる気がしねぇか?」
その一言に、取り巻きの男たちが同調するように口を揃える。
「まったくだな。ろくに仕事もしねぇくせに、ウロウロしやがってよ」
差別的な言葉に、周囲の冒険者の一部が眉をひそめたが、彼らはエディンの一行が相手だと知ると、無用なトラブルを避けるため誰も正面から咎めようとはしなかった。
その瞬間、セリナの全身が強張った。
フードの奥でわずかに息を呑み、狼耳が細かく震える。鼻をひくつかせる動きが止まり、まるで体ごと固まったかのように、ぴくりとも動かない。
その匂い――忘れるはずもない、嫌悪と恐怖を刻まれた記憶の相手。
セリナの足が、一歩、無意識に後ずさる。
(……エディン)
今すぐにでもギルドを出たかった。しかし、既に遅かった。
男はじろりとフードを深く被ったセリナを見つめ、一瞬訝しんだように目を細めた後、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。そして、隣に座る仲間に何かを囁くと、立ち上がりながらゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「おいおい、何だよ、そんなに顔を隠して……?」
低く響く声が、ギルド内の喧騒の中でも異様に耳に残る。エディンはあえて挑発するような口調で続けた。
「フードを深く被っちまって、何かやましいことでもあんのか? それとも、どうせしょぼい仕事しかできねぇDランクかEランクの負け犬か?」
その露骨な挑発に、セリナの肩がわずかに震える。普段の冷静な彼女からは想像もつかない反応だった。
だが、ここで動けば、余計に怪しまれる。セリナはその場に釘付けになったまま、フードを押さえ、できる限り正体を悟られないように呼吸を浅くする。
(気づかれてはダメ……気づかれてはダメ……)
必死の思いとは裏腹に、エディンの鋭い眼がフードの奥を覗き込もうとする。そして、次の瞬間、彼の表情が変わった。
驚きと嘲りが入り混じった声が、ギルド内に響く。
「……お前、まさか……セリナか?」
その瞬間、セリナの全身から血の気が引いた。
視界が歪み、喉が詰まり、逃げ場がなくなる感覚。鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。レオンも隣で彼女の異常な様子に気づいた。
セリナが、ここまで露骨に取り乱すのをレオンは見たことがなかった。
エディンは、セリナに対する嫌悪を隠そうともせず、嘲るように声を上げた。
「へぇ……ずいぶん久しぶりじゃねぇか。まさかこんなところで会うとはな」
その声音には、懐かしむどころか、獲物を見つけたような嫌悪と嘲りが滲んでいた。
「昔は俺の役に立つ、素直でかわいい獣人だったのによ……いや、違うな。逃げたんだったか?」
セリナの肩がわずかに震える。拳を握りしめるが、顔を上げることはできない。怯えと屈辱が交錯し、喉が強張って声が出ない。
エディンは、その反応を楽しむように、さらに言葉を重ねる。
「逃げられたままじゃ、俺の面子が立たねぇんだよ」
背後では、彼の取り巻きたちがニヤつきながら成り行きを見守っている。エディンはわざと聞こえるように、ゆっくりとした口調で続けた。
「お前が抜けたせいで、俺は散々恥をかいた。どうしてくれる? あの頃は俺にずいぶん懐いてたのになぁ」
セリナの拳が強く握られ、爪が手のひらに食い込む。
レオンは一連のやり取りを聞きながら、エディンが言葉の端々に悪意を込めていることに気づく。どうやら、かつて彼はセリナをパーティに引き入れていたが、彼女を対等な仲間とは見ず、便利な駒として扱っていたようだ。
そして、彼女がそれに気づき、逃げ出した――。
それを、エディンは未だに許せず、執拗に追い詰めようとしている。
セリナの沈黙が、それを何より物語っていた。
目の前でセリナが言葉を失っている。狼耳は硬直し、拳は震えているのに、ただ黙って立ち尽くすしかない――それほど、この男エディンは彼女にとって忌まわしい存在なのだろう。
レオンはエディンの傲慢な態度に強い不快感を覚え、ついに口を開いた。
「そこまでだ」
ギルド内の空気が、わずかに張り詰める。周囲の冒険者や職員たちはこのやり取りに気づいているが、そんなエディンを相手に声を上げる者はいない。
「彼女が何をしたかは知らないが、あんたが好き勝手言っていい相手じゃない。セリナは俺のパーティメンバーだ」
レオンの言葉に、エディンがこちらを睨みつける。腕を組み、あからさまな嘲りを浮かべながら口を開いた。
「……なんだ、お前? 俺の邪魔をするってのか? 獣人一匹連れてる程度で気取ってんじゃねぇよ」
レオンは冷静に対処しようとするも、胸の奥に怒りが込み上げてくる。セリナの反応を見れば、彼女がどれほどこの男を恐れているのかが分かる。狼耳はぴたりと伏せられ、尻尾は縮こまったまま。目を合わせることすらできず、少しずつ後ずさっている。
その過去の恐怖が、どれほど根深いものなのか――レオンにはまだ分からない。だが、分からなくてもいい。
彼女が今、怯えているという事実だけで十分だった。
だからこそ、ここで引くわけにはいかない。
レオンは一歩前に出て、真っ直ぐエディンを見据える。
「彼女を侮辱するのはやめろ」
短く、しかし断固とした口調。
「たとえあんたがどんなんだろうと、関係ない。侮辱を続けるなら、黙って見過ごすつもりはない」
その言葉に、セリナの肩がわずかに揺れる。
驚いたように、レオンを見上げた。
彼女は普段、どんなことも一人で抱え込む。誰にも頼らず、誰にも助けを求めず、ただ己の力だけで生きてきたのだろう。
だが今、この瞬間だけは――レオンが、彼女の前に立ちはだかっていた。
彼女を守りたいが一心に。
だが、エディンは鼻で笑いながら、さらに傲慢な態度をとった。取り巻きの仲間たちも、「やれやれ」と楽しげに煽り立てる。
「侮辱も何も、俺はただコイツに借りを返してほしいだけだ。俺のパーティを裏切った分な。なぁ、セリナ?」
セリナは、全身が否定の言葉で埋め尽くされるほどの思いだった。しかし――声が出ない。過去の悪夢が蘇り、思考すらも硬直してしまう。
狼耳はぴたりと伏せられ、鼻先はかすかに震えていた。フードの中で、微かに息を詰まらせる音がする。
そんな彼女の様子を見て、エディンは楽しげに歪んだ笑みを浮かべる。
「見ろよ、何も言えねぇってさ。情けねぇなあ」
その言葉に、耐えかねたレオンが、静かに、しかし鋭く声を張る。
「昔のことを引きずってるのは分かった。だが、セリナが逃げたってことは、あんたに原因があるんじゃないか?」
その言葉に、エディンはふんっと鼻を鳴らし、あからさまな侮蔑の笑みを浮かべる。
「はっ、そいつは言いがかりだ。元々、獣人なんざ人の命令に従うもんだろうが? 裏切り者に優しくする義理はねぇよ」
その瞬間、レオンの中で怒りが燃え上がる。しかし――ここは冒険者ギルドの中だ。衝動的に拳を振るうわけにはいかない。
すると、エディンはふとニヤリと笑い、思いついたように口を開いた。
「だったら、決闘で決めようじゃねぇか?」
レオンの眉が動く。
「……決闘?」
「そうだ。俺が勝ったら、セリナは貰う。お前が俺に勝てたら……まあ、好きにしな」
場の空気が凍りつく。周囲で聞いていた冒険者たちも、さすがに露骨な言い分に表情を曇らせる。だが、ギルドに対する影響力を背景に、誰も強く止めようとしない。
レオンは、一瞬呆気にとられた。
(……ふざけてるのか?)
ギルドの規則では、双方の合意があれば名誉決闘として争いを解決することが認められている。しかし、こんな理不尽な理由で、それを持ち出すとは――。
「そんな決闘、受けるわけにはいかない」
レオンが低い声で告げると、エディンは肩をすくめ、心底楽しげに笑った。
「ははっ、逃げるなよ? お前だって獣人一匹守る気があるなら、堂々と勝負しろよ。どうせ明日もこの街にいるんだろ? ギルドに申請すれば、公認の決闘ができるからな」
そう言い捨て、エディンはカウンターに置いた酒のカップを乱暴に押しのけながら立ち上がる。そして取り巻きを引き連れ、嘲笑を浮かべながらギルドを後にした。
残されたのは、重い沈黙。
レオンはゆっくりと息を吐き、セリナを振り返った。
彼女は、俯いたまま動けなくなっていた。狼耳は震え、尻尾も縮こまり、まるで体ごと小さくなってしまったように見える。
レオンは歯を食いしばりながら、そっとセリナの肩に手を置いた。
「……セリナ、大丈夫か?」
小さな震えが、手のひら越しに伝わってくる。
彼女の唇が、わずかに動いた。
「……ごめ……なさい……」
セリナは、消え入りそうな声で、ただそれだけを呟いた。
レオンは即座に首を振る。
「謝る必要はない。セリナは俺の仲間だ。あんな理不尽な決闘を受ける筋合いも、あいつに従う理由もない……だけど、あのままじゃ引かないだろうな」
セリナは小さく唇を噛み、フードの奥で目を伏せる。逃げることはできる。だが、また逃げたら何も変わらない――そんな思いが、レオンの胸を締め付ける。
レオンは息をつき、決意を固めたように表情を引き締めた。
「……もし決闘を避けられないなら、俺に任せてくれ。セリナに手を出させないためにも、あいつの挑発に乗る形になるかもしれないけど、ギルドが公認する以上、無視はできない。とにかく今日は宿で落ち着こう」
セリナは無言のまま、しかし小さくうなずく。彼女の瞳には、申し訳なさと安堵が入り混じった複雑な色が浮かんでいた。
二人はギルドを後にし、次の行動を決めることになる。エディンからの挑戦をどう受け止めるのか――そして、決闘をどう迎えるのか。
こうして因縁の再会は、新たな火種を残しながら、一旦の幕を引いた。
セリナが逃げた過去、エディンの暴力的な支配欲、そしてそれに立ち向かうレオン。明日、彼らはどんな結末を迎えるのか。ギルド内の冒険者たちも、その行方を静かに見守っていた。
夜が更けるにつれ、メルグレイヴの空は深い蒼に染まり、決闘を巡る重い空気が、次の戦いを予感させるように漂い始めていた。
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