第13話 甘く揺れる夜
夕暮れに染まるブルーヴェイルの街は、いつもの活気に溢れていた。冒険者ギルドの灯りが落ち着きはじめる頃、レオンは街外れの小さな食堂へと向かっていた。
待ち合わせというもの自体、レオンにはほとんど馴染みがない。ましてや女性との待ち合わせなど、過去に一度も経験がないに等しかった。だが、今日はリリアが「お祝いをしたい」と言ってくれたのだ。Dランクへの昇格を祝ってくれる――それだけならば素直に喜べばいいのだが、なぜか胸の奥がざわついて落ち着かない。
(待ち合わせなんて初めてだな……それにしても、私服のリリアってどんな感じなんだろう)
食堂の看板が見えてきた。通りの外れにあるため、人通りはあまり多くない。だが店の内部からは暖かな明かりが漏れ、どこか安心感を誘うような雰囲気が漂っている。
約束の時刻より少し早めについたレオンは、店の前で少し息を整えた。ギルドの受付嬢である彼女と待ち合わせをするとは、なんとも不思議な気分だ。
扉の前に立っていると、軽やかな足音が聞こえた。振り返るとそこには、ギルドの制服とはまったく違う服装を身にまとったリリアがいた。普段はショートヘアを自然に下ろしている彼女だが、今はふわりとしたカーディガンに身を包み、髪も少しアレンジされている。
ほんのりとした色合いのワンピースが、彼女の柔らかな雰囲気を際立たせていた。
「お待たせしました、レオンさん!」
リリアがにっこりと微笑み、軽く手を振る。その姿に、レオンは驚きのあまり一瞬息を呑んだ。いつも仕事中に見るリリアとは、どこか違う。肩の力が抜け、自然体で笑う彼女の姿は、受付嬢のイメージから離れた新鮮な印象を与える。
「……っ……! いや、その……いつもと雰囲気が違うから、ちょっと驚いて」
思わず視線をそらすように答えるレオンに対し、リリアは可笑しそうに微笑んだ。
「ふふ、仕事の時とは違いますからね。あまり張り詰めずに楽しみましょう。さ、入りましょうか!」
こうして二人は、ほのかな灯りに包まれた食堂の扉を開ける。少し古びた木製の扉がぎしりと音を立て、暖かな空気が外の冷えた夜風と混じり合った。
店内はさほど広くないが、丸いテーブルがいくつか配置され、壁際には木の棚に瓶がずらりと並んでいる。客もちらほら入っており、皆それぞれの料理や酒を楽しんでいるようだった。奥からは香ばしい匂いが漂い、レオンの空腹感を刺激する。
二人は店主の案内で奥のテーブルへ座る。椅子に腰を下ろした瞬間、ほっとするような居心地の良い空間がレオンを包んだ。
「ここの料理、すごく美味しいんですよ。あまり知られていないけれど、以前女性冒険者の方が教えてくれたんです。小さな店だけど、腕は確かって」
「そうなんですか。普段ギルド飯とか簡単な食事ばかりだから、こういう店に来るのは久しぶりで……ちょっと嬉しいです」
リリアがメニューを手に取り、レオンにも渡す。地元の食材を使った料理がいくつか書かれており、それぞれの値段も思ったより高くない。おまけに店主が「祝い事ならサービスするよ」と粋な計らいをしてくれるらしい。
お互いに注文を済ませると、店主は「へへ、若いもんはしっかり食べんとな」と笑って、サービスの小皿料理を出してくれた。
「お嬢さん、せっかくの祝いだし、もう一杯どうだい?」
「あら、では遠慮なく♪」
リリアは笑顔で酒をおかわりし、グラスを軽く揺らす。レオンは少しだけ心配になりながらも、彼女がしっかりしていることを知っているため、口出しはしなかった。
それでも、先ほどまでピンと張っていた雰囲気が、アルコールのせいで柔らかくほころぶのを感じる。
「お酒って、仕事の時と違って気持ちが緩みますね……レオンさんは、あまり酔ってないみたいですけど」
ほろ酔いの彼女がじっとレオンの顔を見つめる。その瞳は少しとろんとしており、光が柔らかく揺れていた。
「……慣れてるというか、昔、酒の席にはちょっと馴染みがあったんです……いや、なんでもないです」
うっかり王宮での晩餐のことを思い出しかけて、途中で言葉を飲み込む。王子だったという事実を知られないようにしなければいけない。だが、こうして並んで食事をするうちに、それを隠している自分に多少の罪悪感を覚えるのも確かだった。
リリアはそんなレオンの表情の変化を察したのか、首をかしげて微笑む。
「ふふ、レオンさんって不思議ですね。強いのに、時々影があるような……気になるところがいっぱいあります」
「そ、そうですか……」
話題を変えるように、店主が運んできた料理の話を持ち出し、二人でそれを味わう。スパイシーな香りの肉料理や、新鮮な野菜がふんだんに使われたスープなど、どれも美味しく、空腹が満たされていく。
途中、リリアがさらに杯を重ねると、頬が一段と紅く染まっていった。軽く酔っているせいか、いつも以上に表情が柔らかく、レオンはその姿に戸惑いながらも引き込まれる。
「うん、おいしい……ああ、こうして普通のご飯を楽しむのって久しぶりです。仕事中はいつもバタバタしてるから……」
「確かに、受付って忙しそうですよね。色んな冒険者が来るし、書類もたくさんあるし……」
リリアはグラスをテーブルに置き、ゆっくりとうなずく。
「ええ。でも、やりがいはあるんです。みなさんをサポートして、無事に帰ってきてくれたときは本当に嬉しいんですよ。……レオンさんも、こうして無事に毎日を過ごしてるから、わたしも安心できます」
さりげない言葉。しかし、その中にはリリアの本音が滲んでいるように感じられた。レオンは胸の奥で温かいものが広がるのを覚えながら、グラスをそっと傾ける。
やがて店を出るころには、夜の帳がすっかり降りていた。通りの灯りはあまり多くなく、月明かりが建物の影をやわらかく浮かび上がらせている。食堂からこぼれる明かりを後にしながら、レオンはリリアの足取りを気遣うように歩く。
リリアは頬を少し染めたまま、控えめにレオンの腕を頼っていた。
「ふふ……レオンさん、ちゃんと手を貸してくれるんですね。紳士ですね」
「介抱しないと危なっかしいですからね。宿舎はもうすぐですし、大丈夫ですか?」
リリアがふらつくたび、レオンは彼女の腕を支える。距離が近いせいで互いの体温が伝わってくる。ギルド内で感じる空気とはまったく違う、柔らかで甘い雰囲気に、レオンの鼓動が少し速くなる。
しばらく歩いた末、冒険者ギルド付近の宿舎の明かりが見えてきた。夜の静寂を破るように、遠くで犬の遠吠えが聞こえるが、それすらどこか遠い世界の音に感じられる。
「……ねえ、レオンさん」
ふと、リリアが立ち止まり、レオンの袖を軽くつまんだ。
「ん?」
彼女は頬を赤らめながら、少し上目遣いでレオンを見つめる。
「えっと……レオンさん、いつもわたしのこと丁寧に呼んでくれるのは嬉しいんです。でも……その、もう少しくだけた感じに接してくれてもいいですよ?」
「くだけた感じに?」
「はい。たとえば……その……わたしの名前、呼び捨てにしてくれたり……もうちょっと何気ない話し方をしてくれたら、って」
言葉の最後が少し小さくなる。まるで、甘えるような声音に、レオンは言葉を詰まらせた。
「いや……でも、今のままでも別に不都合はないし……」
「……レオン、さん?」
リリアはじっとレオンを見つめる。普段ならさん付けのままで話す彼女の口調が、一瞬だけ変わったのを聞いて、レオンの心臓が一瞬跳ねる。
「……わかったよ、リリア」
その言葉に、リリアはぱっと顔を明るくする。
「ふふ、なんだか新鮮ですね。でも、わたしは今まで通りに話しますからね?」
「おい、それずるくないか?」
「いいんです。レオンさんが呼び捨てしてくれるだけで、充分ですから」
小さな笑みを浮かべるリリアに、レオンはそれ以上何も言えなかった。
「……今日、楽しかったです。改めて、お祝いしてくれてありがとう」
「いや、むしろ祝ってもらったのは俺の方だよ。冒険者になってから、いつも助けてもらってるし」
そう返すと、リリアは「あはは、そうかもしれませんね」と笑い、しかしすぐに少し真面目な表情に戻る。
「でもね、レオンさんとこうして過ごすの、わたしにとっては特別な気がするんです。ギルドでお話しするだけとは全然違う……不思議です」
特別という言葉がレオンの胸に刺さる。今まで王宮という檻の中で生活してきた自分が、こうしてリリアのような人から特別と感じられる――それは嬉しいはずだ。しかし、同時に申し訳なさや恐れがこみ上げてくる。
自分が本当は王子だったという事実。明かせない過去。もしそれを知ったとき、リリアはどんな顔をするだろうか――。
(……特別、か。俺にとっては、その言葉がどこか重く感じる)
レオンは返事を飲み込むように口を閉ざし、かわりにそっとリリアの手を引く。宿舎の灯りがすぐそこにある。もう別れの時間は近い。
「……おやすみなさい、レオンさん。明日もギルドで待ってますね」
宿舎の扉の前で、リリアは振り向き、顔を上げる。ほの暗い光の中で、頬を赤らめた彼女の表情が愛らしく映り、レオンの心が一瞬だけ強く揺れ動く。
「……おやすみ」
短い別れの言葉しか返せない自分に、少し歯がゆさを感じながら、レオンは静かに頭を下げた。リリアは微かに笑みを浮かべてからドアを開け、宿舎の中へと消えていく。ドアが閉まる音が響き、月明かりだけがレオンを照らす。
しばらくその場に立ち尽くしたまま、レオンは夜風を感じていた。飲み慣れない酒のせいか、あるいはリリアとの触れ合いが原因なのか、頬が熱い。
あの笑顔、あの温もり、そして特別という言葉。どれもが新鮮で、嬉しく、そして少しだけ怖い。かつての王宮生活では決して味わえなかった、等身大の交流がそこにある。
(でも、俺は……王宮を出た身分だ。いつか正体がばれたらどうなるか……)
いまの自由や日常が崩れてしまうかもしれない。そんな不安が、レオンの胸をかすめる。それでも、リリアの素直な言葉が心を溶かすように響いてくるのも確かだった。
大通りに出ると、街灯がぽつりぽつりと道を照らしている。夜更けが近いこの時間、行き交う人は少なく、遠くから馬車の車輪が回る音が聞こえるだけだ。レオンはいつもの宿へ向かいながら、今日の出来事を反芻した。
「……あんな優しい人を、どうして俺は騙してるんだ?」
王族であることを隠すことは、騙す行為なのかもしれない。しかし、いまはそれしか選べない。自分の意志で捨てた王位継承権――それでも、血筋や過去はそう簡単に拭い去れない。
リリアの笑顔を思い出すと、心の奥がほろ苦く締めつけられる。それは後ろめたさと同時に、芽生えはじめた感情の揺らぎかもしれない。
やがて宿屋の部屋に戻り、レオンは外套をハンガーにかけ、防具を脱ぐ。ロウソクの灯りを一本だけ灯して椅子に座ると、ひんやりした空気が肌に染みる。
窓の外には大きな月が昇っている。さっきまで感じていた熱が少し冷めはじめ、思考が穏やかになってきた。
甘く揺れる夜とは、こういうものなのだろうか。人生で初めて、女性との特別な時間を味わった気がする。かといって、それをどう受け止めればいいのか、まだ自分自身にもよくわからない。
(リリアに頼られたり、笑顔を見たりすると、すごく嬉しい。けど、いつかこの嘘がばれてしまったら……)
レオンは頭を軽く振って、思考を打ち消す。どうなるかはわからない。むしろ、危惧ばかりしていてもしょうがない。いまはDランク冒険者として少しずつ実力をつけ、仲間の必要性も考えながら、日々の依頼をこなしていくしかない。
背伸びをして、布団へ身体を投げ出す。ほんのりとしたアルコールの残り香が、まぶたを重くする。リリアとの食事の余韻が、心地よく身体を包み込むようだった。
「……俺にも、こんな夜があるんだな」
眠りに落ちる直前、レオンはそんな言葉を呟く。かつての王宮生活では考えもしなかった、等身大の人間らしい時間だ。
甘く揺れる夜は終わりを迎え、彼の心にはほのかな温もりと切なさの痕跡を残したまま、静かに幕を下ろす。明日になればまた冒険者としての生活が始まり、さまざまな挑戦が待ち受けている。
しかし、今日だけはひとときの幸福感を噛みしめながら眠りにつこう――レオンはまぶたの裏にリリアの微笑みを描きながら、そっと目を閉じたのだった。
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