第1話 漆黒の回廊
闇夜の静けさの中、王宮の回廊に並ぶ燭台の明かりがかすかに揺れる。高い天井の装飾は豪奢でありながら、どこか冷たい。普段ならば衛兵たちが行き交い、近寄りがたい空気を漂わせているが、今宵は違った。
深夜という時刻。王宮は眠りに落ち、交代の衛兵だけが規則正しい足音を響かせている。その足音が遠ざかるのを待ち、黒い影が音もなく進んでいた。
影の主――レオン・ド・エヴァン=アストリア。
アストリア王国の第二王子。長身の細身、真っ直ぐに伸びた漆黒の髪。普段は手入れの行き届いた王族らしい姿だが、今は薄手の黒い外套を羽織り、服の下には簡素な皮の胸当て。頑丈な鎧ではなく、軽装備。そして腰には一振りの剣。
この装いには、決意が滲んでいた。彼は、王宮を抜け出そうとしていた。
王宮を囲む高い壁と、昼夜を問わず巡回する衛兵の監視。それらをかいくぐり、外の世界へ踏み出すために。昼間ならば決して不可能な行動も、夜の帳に紛れれば、わずかな可能性が生まれる。
(……この空気、息が詰まる)
レオンは無意識に唇を噛んだ。
王宮の華やかさは、彼にとって誇りでも、喜びでもなかった。ただの重圧だ。責任、義務、そして政治的な駆け引き――王族である限り、逃れられないものばかり。
それでも、彼は決めた。
もう、ここにはいられない。ただの逃避ではない。自分のためだけではない。
――そう思うことで、迷いを振り払えれば、どれだけ楽だっただろう。
回廊の角を曲がるたび、王家の紋章や歴代の王たちの肖像画が視界に入る。見たくなくても目に飛び込んでくるそれらは、彼を縛りつける鎖のようだった。
けれど、もう縛られない。
(……決めたんだ)
王宮を出る。たとえ、この先にどんな運命が待っていようとも――。
足音が微かに聞こえた。遠くから硬い靴底が石畳を打つ音が近づいてくる。夜警の衛兵だ。レオンはすぐに壁際の柱の陰に身を寄せた。心臓の鼓動が早まる。息を殺し、じっと足音が通り過ぎるのを待つ。
衛兵の足音は一定のリズムを刻んでいたが、一瞬だけ止まった。――こちらを見ているのか? レオンは静かに体を縮めた。黒い外套が闇に紛れることを信じるしかない。
――カツ、カツ。足音は再び動き出し、遠ざかっていった。レオンは息を吐く。緊張でじっとりとした汗が背中に滲んでいた。
(まったく……王宮でこんなふうに隠れなきゃいけないなんてな)
ふと、幼い頃の記憶がよみがえる。木の剣を持ち、無邪気に駆け回っていた自分。父王に褒められたくて、母后に微笑んでもらいたくて、一生懸命だった日々。
血の繋がりはなかったが、彼女はいつも優しく微笑んでくれた。実の母ではなくとも、レオンにとっては唯一の「母」だった。
(それが、今ではどうだ?)
王族としての矜持など、とうに消え失せていた。それよりも、守るべきものがあった。誰にも知られず、誰にも奪われない場所へ、たどり着かなければならない。
レオンが求めたのは、ただの自由ではない。この手で守れる自由だった。
「もう、戻るつもりはないんだ」
小さく呟く。胸元の古びた小さなペンダントに手を添える。王家の紋章が刻まれたそれを、しばらく見つめると、外套の内ポケットに仕舞い込んだ。
どれだけ王宮を離れたくても、これまで歩んできた道を完全に切り捨てることは、今の彼には無理だった。
(本当の理由……それは、まだ語れない)
遠くでフクロウが鳴く。
あと少しで中庭へ抜ける扉にたどり着く。そこを越えれば、城門へ続く道がある。夜明け前の薄暗い時間を狙えば、交代の隙を突ける。レオンは一度深く息を吸い込み、足を速めた。
――王宮に別れを告げるために。
「……レオン」
低く、震えるような声が背後から届いた。びくりとレオンの身体が強張る。この声を知っている。振り向けば、そこには女性が立っていた。
長い銀髪を三つ編みにして左肩に垂らし、王宮魔術師の白いローブを纏っている。背筋がまっすぐ伸び、凛々しい顔立ち。しかし今、その表情には明らかな戸惑いと悲しみが宿っていた。
サフィア――王宮魔術師の一員であり、レオンの幼馴染。幼いころから互いをよく知る間柄だ。
「……まさか、本当に……今夜、出て行かれるのですね」
彼女の声には、怒りよりもまず悲しみが混じっている。レオンは内心で「どうしてここに」と驚きながらも、必死に冷静を装う。
「ここには、もう俺の居場所はない。誰にも気付かれないうちに出る。サフィア、邪魔をしないでくれ」
冷たく聞こえるかもしれない言葉を放つ。サフィアがここで大声を出せば、一瞬で周囲の兵士に見つかってしまう。それを理解しているのか、彼女は小さく震える声を殺していた。
「……レオン、どうして……こんな形で……」
「分かっているだろう。いずれ……いや、話すつもりはない。今はただ、出て行くしかない。お願いだ、サフィア……騒がないでくれ」
サフィアは唇を噛み締める。言いたいことは山ほどあるに違いない。レオンがこの王宮を出ることの意味。その裏にある真実。そして、彼自身が抱える苦悩。
サフィアは決して愚かではない。むしろ聡明だ。だからこそ、レオンの表情を見て、もはや彼の意志が揺るがないことを悟ったのだろう。
このまま騒ぎ立てれば、彼を止めるチャンスはあるかもしれない。しかし、レオンの意志を踏みにじってまでここに留めるべきなのか――。
「……分かりました。私には、あなたを強く引き止める資格はないのかもしれませんね」
そう呟いたサフィアの瞳に、わずかに涙の光が見えた。だが彼女は泣き声を上げようとはしない。王宮魔術師としてのプライドなのか、それともレオンを想うがゆえの決断なのか。
レオンは、その光景を胸が苦しくなる想いで見ていた。けれど今は引き返せない。
「ありがとう。……すまない」
それだけを最後に言い残すと、レオンは扉を開き、夜の中庭へと足早に消えていく。閉じかけた扉の隙間から、サフィアの小さく震える肩が見えたが、レオンはもう振り返らなかった。
冷たい夜気に包まれた中庭は、月の光で白く照らされている。敷き詰められた大理石は冷えきっており、一歩踏み出すごとに足裏から冷たさが伝わった。
噴水の水音が静かに響く。昼間ならば賑やかに人々が行き交う広場も、今は人影がない。レオンは中央の噴水を避けるように回り込み、城門へと通じる外郭へ向かう。
重厚な門は閉じられているが、夜間警備のための小扉が一つだけ設けられていると聞いていた。そこを通り抜ければ外に出られる。衛兵はいるだろうが、交代の時間帯を狙えば警備が緩む。あるいは、多少ごまかしが利くかもしれない。
(……本当に、これでいいのか?)
ここまで来て、わずかな迷いが芽生える。生まれ育った場所を捨てる。父王や母后、そしてサフィアや友人たちまでも――。
だが、王位継承を巡る争いや、父王の厳格すぎる方針、そして王宮内部で渦巻く権力争い。すべてに嫌気が差していた。自分の信じる正義や理想とはほど遠い現実。その歪みを、王子として身を置くうちに痛感してきた。そして何よりも、自分の使命を全うするために、王宮を出る決意を固めた。
頭を振って迷いを振り払いながら、外郭へ続く回廊を進む。
そこは軍務に携わる者たちの詰め所にも近い場所で、さすがに無人ではない。遠目に衛兵の姿が見える。二人ほどだろうか。今、夜明け前の時間帯は交代に向けた準備でバタバタしているはず。そこを狙えば、一瞬の隙ができるかもしれない。
「……やるしかない」
レオンは外套のフードを深く被ると、影を踏まぬよう細心の注意を払いながら石畳を進んだ。
間近に迫る衛兵の気配。一人は、寝不足なのかあくびを噛み殺しており、レオンには気づかない。もう一人は、やや勤勉そうだったが、伝達魔石で何やらやり取りをしている最中で、周囲への注意が疎かになっていた。
深呼吸をし、できるだけ静かに、かつ素早く足を運ぶ。視線を感じた。心臓がどくりと跳ねる。やはり気づかれたか――。だが、衛兵の視線はレオンを捉えず、別の方向を向いていた。城壁の上を飛ぶ夜鳥か何かが動いたのだろう。わずかな誤差がレオンを助けた。
やがて、最後の石段を下りると、小扉が目に入る。鉄製の扉で、外側には頑丈な鎖が巻かれているが、内側から開く仕組みになっている。
「……よし」
レオンは扉の取っ手を握る。ぎぎっと鉄板のような音が鳴るが、衛兵たちは離れた場所にいたため、気づかれなかった。
扉が少しずつ開いていく。夜風が吹き込み、王宮の閉ざされた空間とは異なる冷たい空気が鼻を突く。――ようやく、自由の世界へ足を踏み出す時が来た。
ひゅう、と吹き込む夜風が外套の裾を翻す。
扉を抜けると、そこはもはや王宮の敷地外。城壁の影になっており、まだ町の灯りはほとんど見えない。いくつもの建物が並ぶ市街地は、ここからさらに道を下った先だろう。
――こんなに暗い町並みを見るのは、初めてかもしれない。
レオンは、城のバルコニーから夜景を眺めることはあっても、実際に街路を歩いた経験はほとんどなかった。王子という身分ゆえ、常に護衛がついていて、自由に夜の街を見物するなど許されなかったからだ。
だが今の彼には、護衛も馬車もない。孤独ではある。しかし、それが自由を得た証だと信じたい。
背後で、鉄の扉がわずかにきしむ音を立てて閉まる。レオンはようやく、大きく息を吐いた。肩の力が抜け、緊張の糸が少しだけ緩む。
(……行こう)
王宮を出た。それだけで胸を満たすものなどないし、これから先の道筋は何も決まっていない。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
レオンは、月光に照らされながら町のほうへ足を向ける。ひっそりと眠る夜の家々の輪郭が見えてきた。ここまでくれば、もう王宮の衛兵もそう簡単には追ってこられないだろう。
一歩、また一歩。逃亡という形で始まった彼の旅。だがそれは、単なる逃げではなく、彼が王族としての人生を捨て、己の力で生きようとする第一歩でもある。
無論、そんな決断をしても、血筋や立場から完全に逃れられるわけではない。そのことをレオン自身が一番理解していた。
それでも、何かを捨てることでしか得られない自由がある。薄暗い夜道を歩くレオンの瞳には、微かな決意の光が宿っていた。
月は雲に覆われたり、また顔を出したりを繰り返す。夜明けまではまだ少し時間がある。
レオンは城下町の外れにある古い街道へ差しかかった。石畳は王宮周辺ほど整備されておらず、でこぼこ道が続く。足元に気をつけないと、いつ転んでもおかしくないほど暗い。
けれど、その不便さにこそ、妙な安堵感を覚える。誰もいない荒れた道を、ただ自分の意思で進む。
「やっと……一人になれた、か」
そう呟いたとき、胸に押し寄せる孤独と、それを上回る解放感が混ざり合った。
サフィアの悲しげな顔が、脳裏でちらつく。ここまで大きな決断をしてなお、彼女の表情を思い出すと胸が痛む。それでも、あの場で彼女が何も言わずに自分を送り出してくれたことに、どれだけ感謝しても足りない。
道端の小石を蹴ると、からん、と乾いた音が闇に溶けて消えた。
宵闇の続く中、レオンはただ前へと歩む。まだ行く先さえ定まらない。だが行く先を決めるのは、自分だ。
王子という名の箱から、自ら抜け出したのだから。
遠くで夜鷹が鳴いた。
レオンはわずかに口元を引き結び、振り返らずに歩みを進める。二度と振り返らない――とは言い切れないが、少なくとも今は前へ。朝日が昇るまでに、少しでも遠くへ。
闇と静寂が支配する王宮の夜。そんな中、たった一人、レオンは漆黒の回廊を抜け出すことで、これから始まる長い物語の幕を自ら開けた。
その決意はまだ脆く、不安に満ちているかもしれない。けれど、確かなことがひとつだけある。
――彼が王宮を捨てるということは、王位にまつわる一切をも捨てるということ。どれほどの波紋を呼ぶか、どんな未来が待っているのか。今はまだ、誰にもわからない。
ひんやりとした風が、レオンの黒髪を撫でていく。
月が雲間から顔を覗かせ、夜道を一瞬だけ照らした。レオンの瞳が、そこに浮かぶ道を捕捉する。
思わず立ち止まり、振り向けば、遠くに王宮の高い塔の尖頂がわずかに見えた。まるで自分を呼び戻そうとするかのように、灰色の城壁が月明かりに淡く反射している。
胸に湧き上がる複雑な感情。しかし、もうここには戻れないし、戻らない。
「……さよなら、王宮」
切れそうなほど張り詰めた声でそう呟き、レオンは再び歩き出す。まるで、薄暗い夜の路地裏を流れる影に身を委ねるかのように。いずれ明ける空の下で、どんな試練が待ち受けているのか、彼はまだ知らない。だけれど、その足取りには疑いなく自分の意思という確かな重みが宿っていた。
こうしてレオンは、王宮という檻から脱し、剣を携えて自由な世界へ踏み出す。真夜中の回廊で始まった、王子の肩書を捨てる物語の幕開けは、静かで、それでも凛とした決意に満ちていた。
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