10.冬の続き(1)
二年間という時間を挟んで、二つの光景が並んでいる。観光案内のポスターが入っていたパネルを贅沢に使って、バス路線が一つ廃止されるという告知が、素っ気なくその姿を見せつけていた。隣では、あきれるほど明るい笑顔で、ポスターがバスの運転手を募集している。新たに置かれたスタンドには、まだ生き残っている路線が通る棚田をアピールするパンフレットと、それを目的地の一つとしてサイクリングコースをアピールするパンフレットと、お仲間らしい短い鉄道路線の支援者になることを呼びかけるパンフレットが並んでいた。
待合室の壁やベンチ、机の、黒ずんだ色合い、古ぼけた木の質感は何も変わっていないような気がした。見上げたところの、例えば窓ガラスの上の隅の汚れは濃くなっているような気がする。まさか、そこにある蜘蛛の住処が、築二年になっているというわけではないだろうけれど、特に払われたり拭い取られたりはしていないらしい。明かりはむき出しの蛍光灯のままだった。
窓を向いて座ると、二歳年をとった、薄すぎて座布団とも呼べないような敷物越しに、変わらない冷たさが容赦なく伝わってきた。二年分くすみが強くなったガラスの向こうに雪は無かった。暗くもなく、冬の曇り空からは、時折日が差していた。
奇妙だった。まるで、一続きの映像から、途中を切り取ってしまったように。こう感じる方がおかしいというのは分かっているけれど、それが理解できなかった。なぜここには、あの二年前に繰り返していた、時に雪の混じる夕闇を、二人で並んで座って眺めたという日々の続きがないのだろう? こう言ってもいい。なぜここに戻ってきたのに、あの日に続く日々には戻れないのだろう、と。
それは、ずっと考えて、感じてきたことだった。自分が二年間生きてきた場所には、あのバス停で過ごした時間、そこにあった感覚や感情が、まるで見つけられなかったのだから。よくある話だけれど、そうやって失ってようやく、それの自分にとっての重みを思い知ったのだった。友人も勉強も、覚えた酒の味も、その重みを思い起こすと色褪せた。たった一つのものが、そこには無かった。その一つのものが、どれほど多くのものを持っていたのか、知らないはずがなかった。
だから、どちらが正しいのか理解するのに、あるいは受け入れるのには、長い時間がかかった。有った過去の日々と、無い現在の。
同じようにベンチは冷たいし、ストーブの間近にいなければ凍えてしまうし、呆れるほど静かだった。二年、正確には二年と一ヶ月が経っても、何も変わっていない。二十歳になったかなろうとしているのだとしても、自分がどう変わっているのかわからなかった。正装に慣れたりもしていないのだから。防寒具の感触の頼もしさは、むしろ大きくなっているかもしれない。
そこにあるもの、感触が、間違いなく記憶のままだったと確信していくにつれて、自分がまるで、そこで用意されていた空白へ、型にぴったりとはまるように、収まったような気がした。だとすれば、あとは――




