三章
「な、何だ!何が起こっている!」
天幕の中、外から聞こえる喧騒と鋼がぶつかり合う甲高い音に怯えながら一人の男が、部下である副官に怒鳴りつける。
「み、見張りの者からの伝令によると、突如襲撃を受けたと、、、襲撃してきたのは三人組の男だと、、、」
「三人?たった三人だと!それくらいの数であったなら、直ぐに取り押さえられただろう!それが何故これ程の騒ぎになっている!?」
「わ、私に申されましても、、、」
怯える無能な副官に苛立った男が手に持っていた杯を投げつけると、天幕の外へ出る。
その景色は悲惨の一言で、他の天幕は崩れ、火薬が引火したのか所々火と煙が上がっている。煙が上がっている場所を確認すると築城に必要な木材や食糧が保管してる倉庫にも火がつけられている事が分かる。
恐らくこちらは意図的だろう。
「何故だ?一体何故こうなった?一体何が起こっている?」
頭を抱え、地面に崩れ落ちるが彼の問いに答える者は誰もいない。
男は東の大国である『烈』に属する小国を纏めている貴族の一人であり、国は丁度、冷に隣接する場所に存在していた。
そして男は祖国の発展の為、極秘に兵を揃え冷への侵略を企てた。冷の国境を見張る兵にバレないよう資材と武具を運んで築城を行い、何時でも戦が可能な状態にした。
一方の自分達の存在に気付かない冷は戦のできておらず、このままいけば自分達の圧勝であり、冷が所持している土地を烈の物として奪い取れるはずだった。
だが、その思惑はある集団によって見抜かれ、彼は絶望を味わう事となる。
「おい、何か近づいてくるぞ?」
騒動の発端は、見張りの兵が望遠鏡で白に近づく三人組を見つけた事だった。彼らは皆、草履と黒装束に身を包み、顔を隠していた。
三人組の内二人は背が高く、その背の高さに見合ったガタイの良い体躯の持ち主だ。一人は大きな杵を背負い、残りの二人は外から見る限りでは武器らしきものは一切持っていない。
鎧を着ていない事から冷の兵ではないだろうが、近づく者を警戒しないわけにもいかない。見張りの兵が笛を鳴らし、近づく者を仲間に知らせようとしたその時、彼らは動いた。
「土猪。」
「ああ、儂に任せよ。」
背中に杵を背負った男が腰を落とし、杵を城の門へと向けると突進を繰り出す。馬鹿な奴だと見張りの兵は思った。あんな杵で城の門が破られるものか、木材を幾重にも重ねた分厚い扉、さらに敵の破城槌対策に内側には石を組み上げてあるのだ。
たった一人で門を破ろうとする男を嘲笑する兵士、そして男と門が激突する。しかし、門に男が弾かれるだろうという兵の予想は裏切られた。
杵を持った男は障子の紙を破るかのようにあっさりと門を破壊する。木材が砕け、内側にくみ上げた石が吹き飛び、周りにいた兵士や天幕にぶつかり被害が大きくなっていく。
「ふん、この程度か、生温い。」
ここにきて漸く見張りの兵は、自らの役目である敵の襲撃を知らせる笛を鳴らした。
「食糧庫にも火が付いたぞ!急いで鎮火作業を進めろ!」
「他の奴らは襲撃してきた奴らの対応だ。いいか一人で戦おうとするな!相手はたったの三人!数で攻めろ!」
運よく被害を免れた天幕で多くの兵が鎧を身に纏い、槍を持ち事態の鎮静に向かおうとする中、一人背の低い、資材や食糧の管理を任されている隊に所属している赤毛の兵は彼らを冷ややかな目で見ている。
「はあ、僕らに勝てるわけないのに、本当馬鹿は無駄な事ばっかするから嫌いだ。」
「おい!何をぼけっとしている!お前も早く怪我した奴らの救助を!」
「ああ!?何で僕がそんな雑魚の面倒を見なきゃいけないんだよ。」
「お前、何言って!?」
非常事態だと言うのに、仲間を助けようとしない兵に分隊長が近づこうとするが。
「汚い手で触らないでよ。」
”ヒュンッ”という風切り音がし、分隊長の右手首から先が切り落とされる。
「ぐあああっ!貴様、一体何を!?」
「何?何って、僕の仕事だけど?」
そう言うと兵は侵入者たちと同じ黒装束を身に纏い、仲間であった筈の烈の兵と対峙する。
「こんな山奥の城に偶々襲撃者が来るとかありえないでしょ?内通者がいるって考えて当たり前じゃない?まあ、馬鹿には気づけないか。」
「気を付けろ!こいつは襲撃者の仲間だ!全員武器を構えろ!」
右手を切り落とされたにも関わらず、冷静さを失わなかった分隊長が部下に命令すると部下は素早く隊列を組み、槍を内通者へと向ける。
一方の内通者は左手に巻物を持っているだけで、それ以外に武器らしき物は持っていない。多勢に無勢、兵の一人が裏切り者の首を取ろうと槍を突き出す。
しかし内通者はそれに怯えることなく、巻物を開くと槍の前に掲げる。
「ば、馬鹿な!」
「そんな安っぽい槍じゃ、僕は殺せないよ。」
紙で出来た筈の巻物は鋼の刃を持つ槍をあっさりと受け止める。
「それじゃあ、今度はこっちだね。」
受け止めた槍を弾き、巻物をしまうと右手で勢いよく再び巻物を開く。開いた巻物の先には先程攻撃を仕掛けた兵がおり、巻物は彼の首を狙うかのように飛び、首を切断し絶命させる。
「僕の戦技、”血文字ノ書”は遠近攻防一体の無敵の戦技、生きて帰れるとは思わないでね?」
内通者が兵と戦っている頃、襲撃者である三人も他の大勢の兵士と戦っていた。
「はあ、はあ、漸く捕らえたぞ!」
「本当に漸くだな、儂らが襲撃して対処するまでにこれ程の時を掛けるとは、実に情けない。」
「相手を侮るな、土猪。確かに対処は遅いが兵一人一人は中々の強さ、連携も良い。兵の練度事態はかなりのもの、指揮官が無能であったのだろう。」
「それは何とも、気の毒としか。」
「貴様ら!先程から何を話している!」
内通者がいた隊とは別の隊を任された分隊長率いる総勢二十名の兵に囲まれているにも関わらず、襲撃者二名は暢気に会話をし、分隊長を苛立たせる。
「答えろ!貴様らは一体何者だ!何が目的で襲撃を仕掛けた!」
「我々が何者か?それを聞けば貴様達を生かしておく訳にもいかなくなるが、それでも構わないのか?」
「抜かせ!この状況で我々が死ぬだと!死ぬのは貴様らだ!」
「そうか、なら仕方ない。」
できれば無駄な殺生をしたくは無いのだが、相手が質問を撤回しないのならば仕方ない。杵を持っていない方の男が分隊長の質問に答える。
「我々は影ノ刃。冷の発展の為に歴史の陰で暗躍してきた者達だ。そして名乗らせてもらおう、”影ノ刃の将が一人、號は双虎、戦技、虎鉤”。」
「同じく、”影ノ刃の将が一人、號は土猪、戦技、破城杵”。」
「「いざ、参る!」」
名乗りを終えると、猪の刺青が全身に浮かび上がった土猪が杵を力の限り地面に叩きつける。
まるで地震が起こったと錯覚してしまうような衝撃に彼らを囲んでいた兵の隊列が崩れる。
「爪嵐。」
そこへ虎の刺青を浮かべ手甲鉤を両手に取り付けた双虎が、円を描くように走りながら自分達を取り囲んでいた兵の首を刈り取っていく。
その速さは異常、瞬きする刹那の間に次々と首が刈り取られ、頭部を失った首から血が噴き出す。
あっという間に静まりかえる戦場。
「さて、我々の任はこの城の戦力を半分程損失させる事、まだまだ足りぬな。」
「逃げる兵は追うか?」
「我々の名を聞いたのは今しがた殺した者達のみ、名を聞いていない兵は放っておけ。」
「そうか、では存分に暴れさせてもらう。」
土猪が再び杵を構えると、分隊長が逃げ混乱している隊の集団へと突進を仕掛ける。土猪の突進を碌に防ぐことも出来ず、骨を砕かれ内臓を潰されながら吹き飛ぶ彼らは、本当に猪に轢かれたかのようだった。
「さあさあ、次に俺っちに挑みかかってくるのはどいつだい!?」
そして残りの一人、もう一人の大柄な男は大きな手甲を嵌めながら両手を広げ、叫ぶ。その姿はまるで喧嘩を見世物とする役者のようである。
そんな彼の周りには熊にでも襲われたかのように、体の節々が抉られた兵の死体が積み重なっていた。
「くそ!調子に乗りやがって!」
「おっ!今度は五対一かい?いいねえじゃんじゃんかかってきな。俺っちは”影ノ刃の兵が一人、號は荒熊、戦技、断鉄甲”!いくぜ!」
刀と槍を構え荒熊へと攻撃を仕掛ける五人組、まずは槍で中距離から攻撃を仕掛け、動きを封じた上で刀で止めを刺すのだろう。連携の取れた良い動きだ。
一方の荒熊は右手を大きく広げると、右腕を彼らへと力の限り振りかざす。
「断頭刃!」
唯腕を振るっただけ、しかし硬い手甲を装備し振るわれたその一撃を敵の兵は防ぐことが出来ず、首を無理矢理引きちぎられる。まるでギロチンで首を切り落とされる死刑囚のように。
「っと、またあっさりと終わっちゃったな。ん?」
全く手ごたえの無い相手だった事に不満を漏らす荒熊、ふと周りを見渡すと十五、六程の年の兵が一人の兵を庇うように槍を構え、荒熊を睨んでいる。
庇われている方の兵は足の骨が折れたのか変な方向を向いている。
「おっ!今度はお前が俺っちの相手してくれんの?」
「くっ、、、くくく、、、来るな!」
対峙している兵の足と手元は震え、槍は刃先がブレブレ、今にも足の力が抜けて崩れ落ちそうである。
相手を見定めるように兵を眺めていた荒熊は徐々にその兵に近づくと彼の頭に手を置き、ニカっと笑う。
「うんうん、仲間を守る為に怖くても勇気を振り絞って戦う。俺っち、そういうの大好きじゃん!安心しな!手は出さねえから、ソイツを背負ってさっさと逃げな!」
「えっ!?」
「ほら、早くいったいった。見つかると俺っちも不味いんだから。」
信じられないと言った様子の兵だが、襲ってくる様子が無い荒熊を見て慌てて仲間に肩を貸し、その場から去っていく。
「いやあ、格好いいねえ。アンタもそう思わないかい?部下を見捨てて真っ先に逃げようとした分隊長さん?」
自身の後ろにいる人物に荒熊は冷たい声色で声を掛ける。
すると彼の後ろにある崩れた天幕から他の兵とは違う、飾りが豪華な鎧に身を包んだ禿頭の中年男が現れる。
その腹は前に飛び出しており、お世辞にも武術に長けているとは思えない。
「アンタさあ、俺っち達が現れたら真っ先に逃げたよな。んで今も他の奴らが命張って戦ってんのに天幕に隠れて、分隊長の癖に格好悪いと思わないの?」
「ひ、ひいっ!」
「俺っちさあ。」
荒熊から逃げる分隊長、そんな彼の背中を眺める荒熊は足元に落ちている拳大の石を拾う。
「アンタみたいなの、大っ嫌いなんだよね!」
宙に放り投げた石を右手で殴り、分隊長へと弾き飛ばす。石は真っすぐ分隊長への頭へと飛んでいく。
やがて石が分隊長の頭にぶつかると、潰した柘榴のように分隊長の頭が弾け飛ぶ。
満足そうに笑みを浮かべる荒熊に手に巻物を持った小柄な男が近づく。
「はあ、また勝手に敵を見逃して。本当に勘弁してよ。その癖。」
「おっ!象ちゃん!そっちの仕事は終わった?」
「誰に向かって言ってるの?僕が敵を見逃すわけ無いじゎない、どっかの馬鹿熊と違って。」
嫌味を言う仲間だが、当の荒熊本人はまるで気にしていない。
「いやあ、俺っちはさあ、あーいう勇気を振り絞ったり、覚悟を決めた奴に弱いのよ。」
「僕は寧ろ嫌いだね。弱いくせに勝てない相手に挑むとか、馬鹿の極みじゃないか。」
二人が他愛の無い会話をしている中、離れた場所から数人の弓兵が、このままやられっ放しでたまるかと2人に向かって矢を放つ。
「ふん。」
「おっと、危ね。」
が、荒熊は両手で矢を掴み、もう片方の仲間は巻物を自らの体に巻くようにして矢を防ぎ、そのまま巻物を弓兵達の元へと放ち、首を切断して黙らせる。
「俺っち達、大分暴れたけど、今ので終わりかい。」
「ああ、今の弓兵で丁度半分、我々の任はこれで終了だ。」
「双虎さんに土猪さん。そちらも終わったの?」
「今しがたな。」
杵と鉤爪を血で真っ赤に染めた双虎と土猪も合流し、四人は地震や台風といった災害に遭ったかのように悲惨な状態になっている城を後にした。
そして、この被害により多くの兵を失った貴族は兵装の補充に時間を取られ、冷に戦の準備をする時間を与えるどころか、攻め入る隙すらも与えてしまうこととなる。
「そういえばさ、そろそろ一年経つけど、アイツはどうなってんの?」
「アイツ?」
帰り道、両腕を頭の後ろに組んだ荒熊が右目に大きな傷を持つ男、双虎に尋ねる。
「黒い方の狼ちゃんだよ。本陣を抜けて一年、まだ生きてるの?」
「先日、刺客として送り出した夜啄木鳥が返り討ちにあったともう一人の狼から連絡が来た。その後も白狼は監視を続けているらしいが、黒狼は今だ存命だ。」
「うはっ!やるね狼ちゃん!」
「何喜んでるんだよ、元はと言えばお前がアイツを見逃したのが原因じゃないか!」
「いやいや、象ちゃん。男としてはさ、覚悟を決めた男の旅路の門出を邪魔するわけにはいかないじゃん!それで、次に送る刺客は誰よ?もし俺っちなら勘弁してほしいのよ。俺っち白い方とは面識ないけど、黒い方の狼ちゃんとは戦場で互いに背中を預けた仲だからさ。」
「案ずるな。既に姫様はお前とは別の刺客を二人を選別し、時期を見て放つと。そう仰っていた。」
「へえ、それって誰よ?」
「一人は紅猫、何でも彼女自身から黒狼への刺客として名乗りを挙げたらしい。」
「へっ?猫ちゃんが?いやいやそれはあり得ないでしょ!だってあの猫ちゃんでしょ?狼ちゃんにベッタリだったあの猫ちゃんが?」
「だからかもよ、可愛さ余って憎さ百倍。僕達を裏切った黒狼への恨みが爆発したんでしょ。」
紅猫という人物が黒狼への刺客として放たれたことに、巻物を持った男が嬉しそうに口角を釣り上げる。
「あー、そう言えば象ちゃん、猫ちゃんにフラれてたっけ。狼ちゃんの事が好きだからって。」
「フラれてなんかいない!あんな男を見る目が無い女なんか、こっちから願い下げだ!そんなくだらない事より、もう一人の刺客は!?」
「もう一人の刺客は、、、蟷螂を紅猫の後に解き放つそうだ。」
「はっ?」
「おいおい、マジかよ。」
双虎から放たれた言葉に、彼の後ろを歩いていた二人が歩みを止める。
「それ、何かの冗談?似合わないよ。」
「いや、冗談ではない。姫様は本気で蟷螂を解き放つつもりだ。」
歩みを止めた双虎が振り返りながら、後ろの二人にはっきりと告げる。
「いくら、狼ちゃんに一年も逃げられて面子が潰されかかってるからって。お姫ちゃん、なりふり構わなずすぎじゃない?蟷螂を解き放つとかさあ。」
「そうだよ!アイツは”吞まれた者”!本陣を抜け出した黒狼も僕らにとっては恥だけど、アイツはそれ以上の恥だ!あんな奴を解き放つなんか、姫様はどうかして、、、」
「姫様の考えに指図するつもりか?刃象よ?」
「うっ、、、」
双虎に詰め寄る巻物を持った小柄な赤毛の男、刃象だったが、双虎に怒りの籠もった目で睨まれ口を閉ざす。
「それとも、お前が黒狼への刺客として名乗りを挙げるか?嘗て私怨で黒狼と身内で争い敗北したお前が?」
「そ、それは、、、」
「思い上がるな!刃象!我々は姫様の道具、手足となって動くが運命だ。先程の暴言は聞かなかった事にしてやる。」
「あーあ、怒られてやんの。」
「貴様もだ、荒熊。」
「その辺にしておけ、双虎。刃象も充分反省しているようだ。」
「土猪。」
「それに儂もお前も最初に姫様の報せを聞いた時には驚いたではないか。」
「・・・」
「さあ、儂らの任は終わった。一旦、本陣に帰るぞ。」
「蟷螂を解き放つとか。どうなっても、僕は知らないからね。」
「狼ちゃん、大丈夫かな?俺っち、心配になってきたぜ。」
解き放たれた刺客に対して、刃象は目に涙を溜めながら負け惜しみとも取れる言葉を、荒熊は黒狼を心配する言葉を、それぞれ吐きながら前を歩く双虎と土猪に着いていく。
自分に刺客が二人差し向けられたことなど知る由もない黒狼、着物の裾をまくり川に足を入れると閉じた唐傘を水面に向って、振りかぶる。
「せいっ!」
”バシャンッ”力強い音が鳴り、水面を弾くと何匹化の川魚が近くの地面に打ち上げられる。
「白殿、夕餉の食材を確保したぞ。」
「熊じゃないんだから。」
力技で魚を打ち上げた黒狼に白が呆れるが、黒狼は首を傾げており何故白が呆れているのか分かっていない。
それから二人して野営の準備を進めていく。白が鍋に食材を入れ味噌で味を調える中、黒狼は魚の内臓を取り、串に刺すと焚火の近くに置き、焼き魚を作る。
「それにしても、黒と最初に始めた時には驚いたよ。」
「?、何がだ?」
「黒が余りにも適当に旅をしていた事に、だよ。」
「適当、、、そんなに適当だったか?」
「適当だった!」
灰汁を取り、後は煮込むだけとなった為か白が黒狼との旅に対しての愚痴をどんどん言ってくる。
「棒倒しで旅路を決めるし、並木道や野道を無視して林の中や森の中を進んでいくし、お陰で何度道に迷った事か。」
「己の旅に目的地がない事は伝えたはずだが?」
「だからと言って、限度ってものがあるでしょ!」
両手を振り上げる白、黒狼が言っている通り彼の旅に目的地はない。だが、道すらも無視して突き進むとは思わなかったのだ。
「まあ、お陰で都へは大分近づいたけど、私にも都合ってものがあるんだから、ちゃんと道に沿って旅を進めてよ。」
「ううむ、承知。」
黒狼としては敢えて滅茶苦茶な道を進むことで”影ノ刃”の追手を振り切るという魂胆もあったのだが、借金がある手前、白に逆らう事が出来ない。
完全に上下関係が出来上がってしまった事に何だか悲しい気持ちになっていると、白が鍋の蓋を開ける。
「さ、食事にしよう。明日も朝早くに都に向かうから沢山食べて明日に備えなきゃ。」
日も沈みかける中、白と黒狼が夕餉を食べ進めていると複数の足音が聞こえてくる。音の聞こえる感覚から四足歩行の獣ではない、二足歩行の人間が複数人。
徐々に音が大きくなって、こちらに近づいてくる。
「聞く必要は無いと思うが、おぬし達は何者だ?山賊か?」
背後から近づく音に黒狼が振り返ると、そこには槍や刀で武装した十人程の男達がいた。男達は武器を持ってはいるものの鎧は身に着けておらず、洗濯もしていないのかボロボロの身なりで兵でないことは一目瞭然だ。
「おいおい、分かってるんなら一々聞くなよ。そうだよ、俺達はここいらを根城にしている山賊だよ。ここら辺は都に近いからな、都に向っている商人を相手に襲って身ぐるみ剥いでるんだ。」
「聞くな、という割に律儀に答えてくれるのだな。」
「いや、もっと気にするところあると思うんだけどな。」
抜身の刀に舌なめずりをする一番ガタイの良い頭領らしき男の言葉に黒狼は驚くでもなく、椀に注がれた鍋の汁を啜っている。
そんな黒狼の反応に男達は彼がまだ状況を受け入れられていないか、若しくは恐怖で現実逃避をしたのだろうと考え笑い出す。
「それで、最後の晩餐は食べ終わったか?それじゃ悪いが俺達の為に死んでくれよ?お前を殺して奪った食料や金で俺達は幸せになれる。人助けの為だ。喜んで死んでくれるだろう?後はそうだな、そこの女は丁重に俺達で可愛がってやるよ。」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら白の顔と胸を見比べる男達。そんな気持ちの悪い視線に白の体が嫌悪の余り震え、黒狼の後ろに身を隠す。
「黒、鍋が冷めちゃうからさっさと倒しちゃって。」
「あい、承知した。」
雇い主から命令されて黒狼は背中に背負っていた唐傘を開き、山賊達を対峙する。
「ある程度は手加減をするが、それでも足や腕を切られることは覚悟してくれ、なあに、己は殺しはしない主義だ。死ぬことは無い。」
そう言うと黒狼は唐傘の親骨から刃を展開し、彼らに飛び掛かった。
「っと、このぐらいか。」
あっさりと黒狼が山賊達を倒すと縄で彼ら全員を近くの木に縛り付ける。切り傷は傷薬で塞いであるので失血死の心配は無い筈で、このまま一晩経てば巡回中の兵や旅商人に見つかりお縄に着くことになるだろう。
「黒って、本当に殺さないんだね。」
「ん?何か言ったか、白殿?」
「本当に殺さないんだなって、今までも何度か山賊に出会って、その旅に黒が戦ってたけど、黒はその山賊達を誰一人として殺さなかったよね。その場で縛り付けたり、近くの村に連行したりするだけで。」
「まあ、己は不殺を誓ったのでな。」
「山賊は殺しても罪には問われないのに?」
基本的に山賊に襲われ、逆に彼らを殺めたとしても罪に問われることは無い、山賊達も私欲の為に人を殺めているからだ。むしろ、指名手配されている山賊の首を持ち帰れば褒賞が貰えるくらいだ。
それでも黒狼は旅の最中、決して山賊相手でも人を殺めるようなことはしなかった。
「問う、問われないの話ではない。己は唯人を殺めたくないだけだ。例えそれが山賊であっても、、、な。」
「ふうん、優しいんだね。」
「優しくなどは無いさ、もし本当に優しい御仁なら説法で説き伏せられるはずだ。己は暴力を暴力で解決しているにすぎぬ。」
「まっ、私としても黒が不殺を貫いている事は好ましいかな。」
何処か遠い場所を眺めるように語る黒狼、そんな彼の表情を眺めて、言葉を聞いて白が嬉しそうに笑みを浮かべる。
しかし、その笑みは何処か歪んでいた。
山賊達を対峙してから数日、黒狼と白の二人は遂に都へと到着した。
「これが、、、都か。何というか、大きな壁だな。」
”影ノ刃”の任務では基本戦場か戦場に近い村にしか行った事の無い黒狼が見たままの感想を漏らす。
彼の目の前には五十尺程の大きな外開きの門とそれよりも更に大きな、もはや大きさが分からない純白の壁が立ちふさがっている。
これら巨大な壁を外部からの襲撃に備え四方に建設し、町を取り囲んでいる事が冷の都の特徴だ。
そして国の中心である都である以上、多くの商人や旅人、兵として雇ってもらう為に故郷を飛び出した腕っぷしに自身のある者など、多くの人間が都への門を潜ろうとし、門を守護している兵達から都へきた目的、前科持ちでないかなど取り調べを受けている。
「う~ん、これじゃあ都に入るころには昼になってるかな?」
それは黒狼と白も例外ではなく、大きな籠を背負った白が朝方から並んだのに自分達よりも前に並んでいる長蛇の列を見てうんざりしている。
「まあ、都には帝もおるし警備が厳重になるのも仕方ない。のんびり待とう。白殿。」
「いや、でも早く都に入らないと宿を取り逃すかもしれないし、長旅で全然お風呂に入ってなかったから、早くお風呂に入りたいし。」
都に入れない事に文句を言う白を黒狼が宥めていると、前列の方が騒がしくなってくる。
「何だ?兵達と揉めあっているのか?」
「でも、声の感じからして男の声と女性の声だし、門よりも私達の方に近いから並んでいる人達が騒ぎ出したんじゃないかな?騒ぎで都に入るのが遅れるのは嫌だし、ちょっと黒、見に行ってきて喧嘩とかなら納めてきてよ。」
「何故己が?」
「暴力を暴力で解決するのは得意でしょ?はい、行った行った。」
黒狼の言う通り、彼が騒ぎを納める義理や謂れは無いのだが、白に借金をしている以上逆らう事は出来ない。
渋々黒狼は列をかき分けて、騒ぎの元へと向かう。
「だから、何でアタシがアンタの酒をお酌しないといけないのよ!」
「五月蠅い!いいからさっさとこっちに来て、我に酒を注げ!」
騒ぎの中心に向かうと三十代前半の徳利と盃を持った男が顔を真っ赤にして、紅色の長い髪を髪飾りで馬の尻尾のように纏めた女性に徳利を突きつけ、酒を注げと絡んでいる。
恐らく長蛇の列による待ち時間で退屈した男が酒を飲み、悪酔いした所に女性が目を付けられたのだろう。
「我を誰だと思っている!我こそは龍双槍流を極めた最強の武人である、、、」
「ちょっと、酒臭い口を閉じてよ。というか体臭もきついし、さっさとどっかに言ってくれない?これ以上アタシに近づくと唯じゃおかないわよ。」
「何い、小娘があ!我を拒絶して許されると思うのか?」
「うっさいわね。大体最強の武人?酔っぱらって人に絡む武人がどこにいるのよ?早くアタシの目の前から消えてよ、雑魚。」
「ざ、雑魚だと!?小娘があ!」
酔っ払いの男の背は高く、丸太のように太く鍛え上げられた四肢も相まってかなりの威圧感を周りに与えている。
だが、絡まれている女性はそんな酔っ払いに臆することなく、はっきりと拒絶の意思を向ける。
そして雑魚と言われたことに男は血管が裂けるほどの怒りを覚え、腰に左右一本ずつ差した短槍を両手に持ち、構える。
「我こそは龍双槍流を極めた最強の武人である左近!喰らえ、龍双槍流!奥義!、、、」
あわや女性が酔っ払いに殺されるという状況に周りの者達が目を閉じる、一方の件の女性は背中に背負っている唐傘を右手に持つと。
「雑魚はどっか行っていなさい!」
そのまま閉じた唐傘で酔っ払いの腹を殴る。殴られた酔っ払いは空高く吹き飛び、三十尺程離れた場所に顔から地面へと墜落する。
「ふう、それで、見てたなら助けてくれても良かったんじゃない。」
「いや、其方なら己が手を貸す必要もないだろうと思ってな。」
武器など持ったことが無いように見える女性が酔っ払いを吹っ飛ばしたことに驚き、唖然としている周りの者達には目もくれず、女性は先程から自分達を観察してた男、黒狼へと話しかける。
「久しぶりだな、紅猫。」
「やめて、今は冬花という名前よ。」
「む、そうか、失礼した。しかし暫く合わない間に随分と美しくなったな。」
紅猫、いや今は冬花という女性の容姿を褒める黒狼、これは別にお世辞でも何でもなく、本当に黒狼自身がそう思ったからだ。
彼女と最後にあったのは”影ノ刃”の本陣を抜け出した一年前、その一年の間に紅猫は美しく成長していた。
何処か気の強そうな印象はそのままに、少女として幼かった顔は多少幼さを残しながらも大人の女性のそれへと美しく変わり、猫のような赤い瞳と相まって男は彼女に見つめられただけで言いなりになってしまうだろう。
胸も大きく膨らみ、白には負けるがそれでも充分自慢できる大きさで、着物の帯によって露になった腰の細さとその下の少し大きめの尻で見事な曲線を描いている。
「別に褒められてもうれしくは無いけど。まあ、、ありがとう。そういうアンタはいつまで経ってもガキ臭い顔と身長のままね。」
「放っとけ。」
一方の黒狼は十五歳で成長が完全に止まってしまったので、傍から見ると二人の関係は姉弟に見えなくもない。
「それにしてもアンタがまだ生きてるなんて驚きだわ。本陣を抜け出してもう一年なんでしょ?無茶とかしてないでしょうね。」
「まあ、何とか生きている。心配をかけた様ですまなかったな。紅、、、冬花。」
「別にアンタの心配なんかしてないわよ!まあ、ちょっとくらいは心配したけど。」
「それはつまり、心配しているのでは?」
「してない!」
黒狼から視線を逸らし、顔を赤くする紅猫。
「それで、其方が此処にいるという事は、もしや、、、」
「ええ、そうよ。アンタの考えている通り。此処じゃあ人目もあるから、都の中に入ってから、、、」
「黒、もう!終わったならさっさと戻ってきてよ!」
「おお、白殿。済まぬ、昔馴染みに出会ってしまってな。つい話が弾んでしまった。」
「昔馴染み?こちらの女の人が?」
「うむ、紹介しよう。彼女は、、、」
紅猫に白を紹介しようとすると、紅猫が黒狼の肩を力強く掴む。
「む、どうしたのだ?冬花?」
「ちょっと、色々説明してくれない?この女とか、この女との関係とか、色々と、ねえ?」
笑顔で語り掛ける紅猫だったが、その笑顔は引き攣っていた。
その後、無事都に入れた三人は近くの茶屋で軽食を食べながら自己紹介をすることになった。
「と、いう訳で己は白殿と一緒に旅をする事になったのだ。」
「ふ~ん。」
黒狼から白との出会いを聞かされた紅猫、張り付けたような笑顔を浮かべながら白と黒狼の二人を見つめている。
「それで白殿、こちらは冬花といって己と同じ里で育ち、同じ師の元で修業を積んだ昔馴染みだ。」
次に白に紅猫を紹介するが、”影ノ刃”を知らない筈の白の為にある程度ぼかして紅猫の紹介をする。
紅猫、黒狼と同じ影ノ刃の兵だ。黒狼は修練の場である山から下りた後、師から戦技として血染ノ傘を伝授されたのだが、同じ弟子として紅猫もおり、彼女の戦技も血染ノ傘であった。
同じ師の元で互いに学び高めあう日々を過ごし、二人は友情を深めていき黒狼が里を出る事を決めた際には紅猫が一番反対していた。
「どうも、初めまして。アタシは冬花。コイツが言ったようにコイツとは長い付き合いで、深い付き合いよ。宜しく、白さん。」
「よ、宜しく。」
『長い付き合いで、深い付き合い』の部分を強調しながら握手を迫る紅猫。張り付けた笑顔のままの紅猫に気圧されながらも握手に答える白。
「それにしても、驚いたわ。里を出ていくとき、一人で旅に出たアンタがまさか女連れで旅をしていたなんて、しかも白さんってすっごい美人じゃない?良かったわねえ。里を出ていった時、アンタ一人だけで大丈夫か、少しだけ心配したけど、それも必要なかったわねえ。」
「言葉に棘がないか?」
「別に、気の所為じゃない?」
「そうか。」
「ねえ、黒。」
白が紅猫に見えないよう、座卓の下から黒狼の着物を掴む。
「ん、どうした白殿。」
「さっきから、凄い威嚇されてるんだけど、もしかして冬花さんって黒の里に置いてきた恋人だったりするの?それで私が黒を奪った泥棒猫とかに思われてるのかな?」
「いや、それは無い。冬花は己にとって友だ。そもそも己と冬花が釣り合うはずもない。」
紅猫をはっきり友という黒狼、彼としては美しく成長した彼女に自分みたいなチンチクリンは相応しくないという意味だったのだが、彼の言葉を聞いて紅猫の笑顔が更に曇っていく。
「それじゃあ、お茶も飲み終わったことだし、アタシは此処でお暇させてもらうわ。宿の手配もしなくちゃいけないし。」
「あ、そうだった黒!私達も急いで今日の宿を確保しないと!」
「あら、貴方達も、なら丁度いいし同じ宿を利用する?」
黒狼達が都の茶屋で互いに自己紹介をしていた頃、二人組の男が都の壁の中へと侵入していた。二人共黒装束に身を包み、石畳で補正された道を歩いているのだが、周囲の都の民から酷く注目を集めていた
正確には注目を集めているのは二人組の内の一人。もう片方の男は中肉中背、背中に小さな籠を背負い、一般的な旅の商人の恰好をしており、意図して目立たないようにしているように見える。
そして注目を集めているもう一人の男、この男は一言で表すなら只々不気味であった。六尺半を超える長身でありながら、少し風が吹けが折れそうな程に細い体躯。
顔に皺は無く、二十代であろう顔つきなのに髪は色が抜け落ちた白髪で肌の色は命に関わる病に罹った病人のように青白く、不安を掻き立てる。
それなのに目はギラギラと輝きを放ち、口角を限界まで釣り上げ笑みを浮かべている。
「くふふ、、、くふふふふ。」
時折、小さな声で笑うその男、一見して関わるべきではないと分かるその男に周囲の民は勿論、都での犯罪者を取り締まっている巡回中の同心達も見て見ぬ振りをする。
「嗚呼、、、足りぬ。悲鳴が足りぬ。血が、恐怖が、絶望が、足りぬ。」
「うぃ~、ヒック!どいつもこいつも、我を馬鹿にして。我こそは最強の武人である、、、ヒック!」
そんな周りから避けられている男に不幸にも一人の酔っ払いが近づく。酔っ払いの足取りは真っすぐに歩くのもおぼつかない千鳥足で、右へ左へと揺れながら長身の男にぶつかる。
「何だあ!貴様!我にぶつかるとは、良い度胸だなあ!我を誰と知っての狼藉かあ!」
ぶつかってきたのは酔っ払いの方であるにもかかわらず、酒に酔って冷静な判断能力を失った頭で長身の男に掴みかかる酔っ払い。
「無駄にデカい図体をしおって!貴様のような無礼者はあ!我の槍の錆びにしてくれるう!」
今度は前後に揺れながら、のろのろと酔っ払いが腰に左右一本ずつ差した短槍を両手に持ち、構えるが逆手に持った為、穂先が自分自身に向いている事に酔っ払いは気づいていない。
「嗚呼、それは怖い、刺されたら血が出てしまう、悲鳴が出てしまう、恐怖で怖くて堪らない。」
悪酔いした酔っ払いによる刃傷沙汰、それは都では良く起こる事件で長身の男から距離を取っていた周囲の人間達が慌てて巡回中の同心を呼びに行く。
しかし、一方の長身の男は全く動じていない。穂先が自分の方を向いていないとはいえ人を殺める武器である槍を目の前に、一切動じず足が竦んですらいなかった。
「だが、嗚呼、血は素晴らしい、恐怖は、絶望は、悲鳴は素晴らしい。心が落ち着く。」
「喰らええ!、龍双槍流!奥義!」
大仰な見栄を張り、槍を長身の男に向って突き出す酔っ払い。繰り出された槍が男の腹に触れるその時、長身の男と酔っ払いとの間で一瞬だけ剣閃が煌めく。
槍を突き出した体制のまま微動だにしない酔っ払い、長身の男は笑みを浮かべたまま酔っ払いを一瞥するとその場を後にし、もう一人の旅商人の男もついていく。
「早く、こっちに来てくれ!酔っ払いが暴れて槍を振り回してるんだ!」
「ったく!こんな真昼間っから、一体どこの馬鹿だ!」
町人に呼ばれて十手をもった同心が騒ぎの現場に現れるが、そこにいたのは妙な体勢のまま固まっている酔っ払い一人、もう片方の長身の男は見当たらない。
「もう一人は何処に、まあいいや、おいアンタ!こんな昼間から酒飲んで槍振り回すたあ、一体どういう了見、」
十手を構えたまま酔っ払いに近づく同心、しかし酔っ払いは声を掛けても全く反応が無い。仕方ないと同心が軽く酔っ払いの肩を十手で叩いた瞬間、酔っ払いの男の体が脳天から縦に裂けた。
「ひいいっ!」
「きゃあああっ!」
「ひっ!」
縦に一刀両断されたことでバランスを失った酔っ払いの男の死体が血を吹き出し、腸をぶちまけながら倒れ、地面を血で赤く染めていく。
自称龍双槍流を極めた最強の武人、左近の人生はこうしてあっけなく幕を閉じた。
何が起こったのか分からない民達が次々と悲鳴を挙げていき、同心が必死に落ち着かせようとするが、同心自身も状況を飲み込めず、内心混乱していた。
そんな混沌した様子を近くの酒屋の屋根から黒装束の身を包んだ二人組の男が眺める。
「嗚呼、素晴らしい悲鳴だ、血だ、恐怖だ、絶望だ、心が落ち着く。くふふふ。」
「騒ぎは起こすなと言ったはずだぞ、青蟷螂。」
「くふふ、嗚呼、悲鳴が、血が、恐怖が、絶望が満ちてゆく、嗚呼、だがまだ足りない、満ち足りない。もっと悲鳴を、血を、恐怖を、絶望を!」
「おいっ!」
自分の言葉を無視する長身の男に旅商人風の男が詰め寄る。
「嗚呼、足りぬ足りぬ、もっと満たしてくれ!」
長身の男は黒装束の内側に仕舞った、蟷螂のように湾曲した刀身の内側に刃が付いた二本の短刀を持つと詰め寄る男に向って振るう。
「聞いて、」
それが男の最後の言葉だった、たった一瞬、されどその一瞬の間に頭から振り落とされた二本の曲刀により男の首が、胴体が、両肩が切り落とされ絶命する。
「嗚呼、黒き狼、お前の悲鳴で、血で、恐怖で、絶望で、私を満たしてくれ、くふふふ。」
男の体には刺青が浮き上がっていた、目元には楕円の模様、額には虫の触覚のような模様が浮かび上がり、握りしめている曲刀と合わせてその姿は蟷螂を彷彿とさせる。
”影ノ刃”の出身でありながら、影ノ刃の兵として認められず幽閉されていた男、青蟷螂。
本来なら見張りを付け、紅猫が黒狼の始末が出来なかった場合の保険として解き放たれるはずだった男は今この瞬間、最悪の状況で自由の身となってしまった。
陽が沈みながらも、いくつもの提灯が店を照らし、夜の賑わいを見せる都。その中のとある宿で夕餉と入浴を終えた黒狼は、自身に割り振られた部屋で唐傘の手入れを行っていた。
「いつ見ても、不思議な武器だよね。それ。」
「まあ、確かに普通の武具ではないな。」
親骨に仕込まれた刃を取り出し、丁寧に研いでいく黒狼を寝転がりながら両手で顎を支えた白がじっと眺める。
”影ノ刃”の者が使う武具は基本的に小型であるか、日用品に偽装した者が基本だ。理由としては表立って活躍できない立場である彼らは堂々と刀を槍を持つことが許されていないからだ。
それ故、影ノ刃の兵は独自の戦技を納めなければいけない。
刃を研ぎ終わると、今度は持ち手に仕込んだ匕首を研ごうとすると部屋の扉が勢いよく開く。
「邪魔するわよ。はいこれ、饅頭。アンタ甘いもの好きだったでしょ。」
「冬花、おっと、これは忝い。」
入浴を終えたばかりなのか、浴衣に身を包みホカホカと湯気が出ている紅猫が葉で包んだ饅頭を黒狼に投げ渡す。
しっとりした髪や赤く火照った肌が色気を振りまき、本陣を抜ける前の彼女を知っている黒狼は過去の彼女と比べて、見違えて美しくなったことにドキリとしてしまう。
「何ジロジロみてるの?」
「いや、別に。」
「あっ、そう!」
思わず見惚れていると紅猫が鋭い目つきで睨んできた為、慌てて目を反らすのだが、逆に紅猫の目つきが更に鋭くなる。
「武器の手入れね、里にいた頃はずっと職人に任せていたアンタがね。」
「己はもう里には戻れないからな、命を預ける武器を粗末に扱うことなど出来ぬさ、手入れは毎日欠かさず行っている。」
「でも、それでも限界があるんじゃない?ほら、刃だって少し刃こぼれしてるじゃない。」
紅猫が取り出された刃を一つ持ち上げ、ゆっくりとなぞっていく。彼女が言うように刃の先端が少しだけ欠けていた。
「えっ!あっ!本当だ!」
「これは焔殿の煙管と打ち合った時に出来たものだな。」
「焔?誰それ?」
「えっと、私と黒が前に立ち寄った町で出会った同心で、町を出ていくときに黒と、、、まあ、喧嘩みたいなことをして。」
「お陰で己は借金を背負う事になった。全く、焔殿には困ったものだ」
「焔の所為みたいに言ってるけど、私を泥に向って蹴とばして着物や薬を駄目にしたの黒だよ。」
「ふうん、色々と大変な旅をしてきたのね、アンタ達。何よ、アタシの知らない話で楽しそうにしちゃって。」
自分の知らない思い出を楽しそうに語り合う黒狼と白に唇を尖らせた紅猫がボソッと呟く、最後の言葉は黒狼には聞こえなかったが、白にはばっちりと聞こえていた。
「あのう、出会った時から気になってたんだけど、もしかして冬花さんて、」
「何?」
「黒の恋人だったり、恋人じゃなくても黒のこと好きだったりします?」
「ぬ?」
黒狼が変な声を挙げるが、白は薄々と紅猫が黒狼に向けている感情に気付いていた。
黒狼が女連れと気づいた時の反応、時たま笑顔で自分に威嚇してくる紅猫、黒狼と話している時の沈んだ態度、これらから恋人かどうかは不明だが紅猫は黒狼に好意を抱いていると白は確信を持っていた。
そしてそれを突きつけられた当の紅猫は、
「は、はあ!な、何言ってるの!そんな訳ないじゃない!」
湯で赤く火照った体を更に赤くして、猛烈に否定をする。
「誰がこんな暴力しか取り柄の無い奴を好きになるっていうのよ!そりゃあ確かに顔は良いし、性格も良いし、アタシが困ってたら直ぐに助けてくれるいいやつだけど、別にアタシはこんな奴好きでも何でもないわよ!」
「いやあ、顔が良いとか、性格が良いとか平気で言っちゃう辺り、そういうとこがねえ。」
暖かい目で紅猫を眺める白、要は好きな男の子に素直に慣れず本音とは逆を言ってしまう子供の病気だと理解する。
「と、兎に角、妙な勘違いは困るから、ハッキリ言っておくわ!アタシはこんな馬鹿狼、別に好きでも何でもないから、唯昔馴染みだから気にしてあげてるだけ!」
そう叫ぶと、浴衣の帯が緩まるのを顧みず勢い良く立ち上がり部屋から出ていく。と思いきや扉の端から少しだけ顔を出し。
「黒狼、アンタ後でちょっと顔を貸しなさい。」
と恨みや怒りの籠った目で黒狼を睨み、その場を後にする。
「おい、白殿。」
「いやあ、余りにもあからさまだったんで。」
何とも言えない空気になったことに黒狼が白に文句を言うが、白は少しだけ舌を出して笑って誤魔化す。
「いやあ、でもあんなにきれいな人でも、好きな相手に素直になれないなんて子供みたいだね。」
「白殿、何度も言っているが冬花と己は唯の昔馴染みで友だ。確かに世話焼きな面もあるが、そもそも冬花には別に好いている相手がいるのだぞ。」
「え、そうなの!」
これまでの黒狼への態度から紅猫は確実に惚れていると確信していた白だったが、黒狼から紅猫には別に好きな人がいると聞いて目を見開く。
「己がまだ里にいた頃だったのだが、冬花は良く己に食事を作ってくれたり、病に罹ると看病をしてくれたり、怪我を負うと真っ先に手当てをしてくれてたりしたのだがな。」
「いや、それは完全に惚れているからなんじゃあ?」
「だが、冬花本人が言っていたのだ、例えば飯を作ってくれた時は、『別にアンタの為に作ったんじゃない、本命の練習相手として仕方なく作ってやってるだけ』、看病をしてくれた時も『アンタが倒れたらアタシが困るから仕方なく看病してるだけ』、『だからアンタが好きとか勘違いするな』といつも言って、、、?どうした白殿、顔を手で覆って?」
「別に、他には何かないの?彼女が世話焼きだった話とか?」
「他か、そうだな。己が里を出ていくときに最も反対したのが冬花だったのだが。」
「だが?」
「それでも己が里を出ていくと決めた時に、己だけでは心配だからと、冬花が自分もついて行くと言ったのだ。」
「へえ、それはなんでかな?」
「多分、己一人では頼りないからと心配したのだろう。だが、巻き込む訳にもいかないと己は伝えたのだが、絶対について行くの一点張りでなあ。」
「でも、黒は一人旅をしていたよね?最終的には冬花さんも諦めてくれたの?」
「いや、里を出る時の朝、寝ぼけていた己は冬花の事を忘れていてな。そのまま己は里を一人で出ていったのだ。ん?どうした白殿?急にのけぞって?」
「そりゃあ、怒りもするし、威嚇もするわ!」
「ぬお!」
叫ぶ白に黒狼が後ずさる。確かに紅猫が黒狼に怒りの感情を向けて、白に嫉妬と威嚇の感情を向けていたのは気づいていたが、それにしても少々感情が強すぎないか?と思っていたが、黒狼の話を聞いて完全に理解した。
散々アプローチを仕掛けてきたのに全然気づかない黒狼、それでも彼が里を出る時に駆け落ち同然に自分もついて行こうとしたのに忘れ去られる。
そして漸く再開したと思ったら、まさかの女連れ。白と黒狼が一緒に旅をしているのは黒狼が借金を返す為だと分かっていても、これは流石に怒りが沸いてくる。
「はあ、はあ、ねえさっき黒、冬花さんに呼ばれてたよね?」
「うむ、そうだが。」
「刺されるんじゃないの?」
「いや、それはないな。」
紅猫が自分に接触を図ってきた本当の理由を知っている黒狼は、白のその言葉をはっきりと否定した。
夜の都、多くの者達が銭をばら撒き、酒を、肉を、色を求めてさまよう。夜の街の裏通りを歩く三人組の同心も懐に沢山の銭を入れ、色を求めていた。
「ああ~、ひっく!くそ、何だよ!昼間のアレは!」
「どうしたよ、急に?」
「昼間に妙な騒ぎがあったんだよ。どっかの酔っ払いが暴れて槍を振り回した挙句に旅人と諍いを起こしてたらしいんだけどよ。俺達が向かうとそこには槍を構えたままの酔っ払いが突っ立ってただけなんだけどよ。」
「それがどうした、都じゃ酔っ払いが暴れるなんてのはよくある事じゃないか?」
「それなんだけどよ、俺達が来てもその酔っ払いが全く動かねえからよ、ちょいと十手で小突いたんだよ、そしたら縦に真っ二つに割れたんだよ。」
「は?割れた?ソイツは一体どういう事だ?」
「どうも何も、そのまんまだよ。頭から綺麗に半分スパっと両断されてたんだよ。」
「ははは、馬鹿を言え、そんな芸当が出来る人間がいる訳ない。」
「馬鹿な者か!お陰で騒ぎになるし、後始末は大変だし、上の者からは何故か俺が怒られたんだぞ!」
「おっと!あぶねえ!」
昼間の惨劇を忘れるかのように酒を飲み、泥酔した同心の足元がふらつき転びそうになるので、慌てて同僚が支える。
「くそ、毎日毎日、騒ぎを起こしおって、誰がその始末をしていると思っているのだ!都の恩知らず共め!」
「あーあー、こりゃ完全に悪酔いしてるな。どうするよ?この後、貸座敷に向かう予定だったけど、コイツを奉行所の長屋まで連れ帰ってからにするか?」
「別にいいだろ、このまま貸座敷に行こうぜ、コイツは適当に畳の横で寝かしときゃあ、大丈夫だろ。」
「しかし、人間を両断ねえ、一体どうすればそんなことが出来るのやら。」
足元がおぼつかない同僚に肩を貸し、二人で支えながら歩く同心達。そのうちの一人が昼間の騒ぎに着いてポツリと呟くと、彼らの後ろに黒装束に身を包んだ長身の男が近づく。
「くふふ、、、知りたいですか?」
「あ?」
突如、後ろから掛けられた声に同心が振り向くと、長身の男は両手に握っている曲刀を振り下ろし、同心達の首を切り裂く。
首元に僅かに血が滲むと、一拍遅れて血が噴水のように吹き出して、同心達の首から上が地面に転がる。
幸いと言って良いのか、同心達が歩いていたのは人通りの少ない裏通りだった為、目撃者は折らず騒ぎにもなっていない。
「くふふ、足りない、足りない、満たされない。もっともっともっともっともっと、悲鳴を、血を、恐怖を、絶望を。嗚呼、黒き狼、今からお前を、くふふふ。」
蟷螂の刺青を浮かび上がらせた男、青蟷螂は黒狼の首を求めて夜の都を血に染めながら歩いてゆく。
「待たせたな、紅猫。」
「アタシの今の名前はって、そうか今は関係ないか。」
白に恋心をバラされ、恥ずかしさの余り部屋を出ていった紅猫、そんな彼女に呼び出された黒狼。今二人は宿から少し離れた都の大きな水路の近くにいる。
水路を流れるか水の流れが心地よいが、辺りに店は無く、夜の都に繰り出す者の大半の目的が酒か色である為、彼らの周りには人っ子一人おらず、もし仮に此処で殺し合いが始まっても騒ぎになる事は無いだろう。
「察しの通り、アタシが都に来たのは黒狼、アンタを本陣の命で始末する為よ。」
淡々と告げる紅猫、一方の黒狼も同郷の者と出会った時点で彼らの大体の目的は理解しているので驚きはない。
「やはりか、しかしここ最近不思議に思うのだが、己の場所を突き止めるのが早くなっていないか?」
「アンタは気づいてないかもしれないけど、刺客の中にはアンタの監視だけが任の者もいるわ、アタシはソイツの事は知らないけど、ソイツが各地にいる兵に報せを渡して本陣へアンタの動向を教えてるって訳。」
「成程、道理で。」
「これでわかったでしょ。アンタはどうやっても、本陣から、”影ノ刃”から逃れられないって!アタシ達は決して裏切り者や逃げた者を見逃しはしない!アンタを闇に葬り去るまでは決して諦めないわ!」
「だろうな、己も今までの殆どを”影ノ刃の兵”として生きてきた。それが分からぬほど馬鹿ではない。」
「そう、アンタがそれを理解しているなら話は早いわ。」
先程まで辛そうな表情をしていた紅猫だが、息を大きく吸い込むと覚悟を決めた表情を浮かべ、黒狼へと右手を差し出す。
「黒狼、アンタ、”影ノ刃”に戻ってきなさい!そうすればアタシから将や姫様に掛け合って、アンタを始末する任を無かった事に出来る!アタシだけじゃない、師匠だって協力してくれるって言ってた!」
「・・・正気か?」
てっきりこのまま戦いに発展するだろうと考えていた黒狼は、紅猫の思いもよらない提案に虚を突かれた。
「アタシは正気だし、本気よ。アタシだって昔馴染みを殺したくないし、殺されたくもない。だからこれが最後よ、黒狼。”影ノ刃”に戻りなさい!」
「紅猫、己は、」
彼女からの誘いを断ろうとする黒狼だが、紅猫の顔を見て固まる。今の紅猫の表情は先程までと違い、目に涙を浮かべ、とても辛そうな顔となっている。
それは黒狼が”影ノ刃”を抜けると伝えた時の表情そっくりだった。
「己は、」
「お願い、アタシのこの手を取って!」
懇願する紅猫、彼女の手を取れば刺客に命を狙われることも無いし、白を危険に晒すことも無くなる。
『ねえ、私は君のそんな苦しそうな顔、見たくないよ。』
脳裏に血を吐きながら自分に語り掛ける彼女との最後の光景が浮かび、黒狼は答えを返す。
「紅猫、己は、、、戻らん。」
「っ!どうして!?」
「己が人を殺める姿を、苦しむ顔を見たくないと言われたからだ。」
「それって、あの女の事?」
「ああ、そうだ。彼女と、桃と約束したのだ。」
紅猫から顔を逸らし、拒絶の意を示す黒狼。紅猫の瞳からボロボロと涙が零れ落ちていく。
「何で、何でよ、何でアタシじゃなくて、あの女なのよ。」
その場で崩れ落ち、両手で涙を拭う紅猫、泣いている彼女に黒狼が心配して近づこうとすると。
「近づくな!」
「ぬっ!」
背負っていた唐傘を開き、親骨から刃を展開させた紅猫が切りかかってくる。
慌てて避ける黒狼だが、自身は傘を広げない。
「何でアタシじゃないのよ!何でアタシじゃアンタを連れ戻せる理由になれないのよ!何でアタシを選んでくれないのよ!」
「ど、どうした紅猫!?」
「どうしたって?ふざけるんじゃないわよ!アタシの気持ちに気づかなかった癖に!あの女よりもアタシの方がずっと傍に居てアンタを支えてきたのに!アタシじゃなくてあの女を選んだ癖に!」
「そなたの気持ち?一体どういう事だ?」
馬鹿正直に聞く黒狼、紅猫が顔を真っ赤にし、涙を流し怒鳴りながら切りかかる。
「アンタに惚れてるって事よ!」
「はあ?」
「つーかアンタも気付きなさいよ!アンタに頻繁に飯を作ってあげて!病気になった時は看病してあげて!怪我した時は真っ先に手当てしてあげたじゃない!それだけじゃない!アンタが抜ける時にアタシもついて行くって言った時、普通気付くでしょ!」
「いや、しかし、其方、本命がいるとか言ってたし、仕方なくとか、勘違いするなとか言っていたではないか?」
「そんなの照れ隠しよ!気づけ!」
流石に避けきれなくなったので、背中に差している傘を取り出し紅猫の刃を受け止める。
「て、照れ隠しだと!?其方そんな面倒くさい性格だったのか?」
「め、面倒くさい?」
紅猫の攻撃を受け止める黒狼だが、傘を振り下ろす力が強くなり徐々に押され始める。
「ええ、ええ!そうですよ!面倒くさいですう!どうせ面倒くさい女ですよアタシは!素直に想いも伝えられない非常に面倒くさい女ですよ!でもアンタだってそうじゃない!桃、桃って!死んだ女の言葉にいつまでも囚われ続けて、アタシの事なんて全く見てくれない、面倒くさい男じゃないの!アタシは今もアンタの前にいるって言うのに!」
何度も傘を振り下ろしてくる紅猫の攻撃に耐え切れず、彼女が傘を振り上げたタイミングに合わせて距離を取る。
「もういいわ、アンタが戻らないって言うんならアタシがアンタを始末してあげる。他の奴に殺されるくらいなら、いっそアタシが、名乗りなさい黒狼。”影ノ刃の兵が一人、號は紅猫、戦技、血染ノ傘”!」
「ああ、もう、元”影ノ刃の兵が一人、號は黒、、」
「死ねえ!」
「うおっ!」
名乗れと言うから仕方なく名乗ろうとした黒狼だが、名乗りの途中で紅猫が切りかかってくる。
「何をするのだ!其方が名乗れと言うから名乗ろうとしたのに!」
「うっさい、死ねえ!」
聞く耳持たずの紅猫は、そのまま何度も傘を振り落としてくる。
「ああ、もうっ!」
いきなり自分に惚れていると告げてきた癖に殺しにくる紅猫、全身に猫の”獣力紋”を浮かび上がらせ凶器となった唐傘を振り下ろしてくる彼女に対し、黒狼も狼の”獣力紋”を浮かび上がらせ迎え撃つ。
影ノ刃の兵である紅猫、彼女が身に着けた力は猫の力、猫の特徴と言えばそのしなやかな体と夜目が効くこと、彼女は与えられた號に違わず柔軟な体と真夜中でも昼間のように辺りを見渡せる夜目を手に入れた。
加えて彼女の得物である刃仕込みの唐傘は親骨全てに刃を仕込んでいる黒狼の唐傘と違い、親骨の内半分にだけ刃を仕込み軽量化した物でまた石突きにも槍の穂先を仕組んでいる接近戦に特化したものだ。
これら二つを組み合わせることで、紅猫は夜の奇襲を得意としている。
黒狼も多少は夜目が効く方だが、それでも紅猫には及ばず、彼女が得意としている状況である事や不殺を誓った事もあり防戦一方だ。
「死ね!死ね!死ね!女心を弄ぶ奴は死ねえ!」
「別に己は弄んだわけでは、」
「うっさい!惚れた男が別の女と仲良くしてるのを遠くから眺めてる奴の気持ちが分かんの!挙句の果てに置いて行かれただけでなく、漸く再開したと思ったら女連れだと気づいた時のアタシの気持ちが分かるかあ!?」
互いに手元で傘を回し、更に体を回転させながら傘をぶつけ合う二人。刃が触れるごとに火花が散り、辺りを少しだけ照らす。
その様子は二つの独楽が激しくぶつかり合っているようだった。
「何よ!アタシが付いて行くって言った時はあんなに反対した癖に!今は傍にあんな瓜乳女を侍らして!胸か!そんなにデカい胸が好きなのアンタ!」
「いや、まあ、確かに己は大きな胸は好きだが、どちらかというと己の手に少し収まらないくらいの方が好きだな。そうなると紅猫くらいの胸の大きさの方が好みか。」
「そんな事は聞いてない!」
が、少しだけ攻撃の手を緩める紅猫。好みと言われて少し嬉しくなってしまった。
「「刃旋風」」
互いに一歩下がり、構えを取ると相手へと飛び掛かる。以前黒狼が得楽汁の売買に関わっていた者達とは違う、”獣力紋”によって枷から外された本来の威力の刃旋風がぶつかり合うと花火かと思う程の火花が散り、刃が絡み合い膠着状態となる。
「ぐぎぎぎ!」
「な、なあ、紅猫よ。一旦落ち着かぬか?」
誘いを断られてしまった悲しさや想いを伝えた恥ずかしさ、そして未だに黒狼の心の奥深くにいる女に勝てない悔しさやらで紅猫の表情はとんでもないことになっていた。
具体的には顔を真っ赤にし、黒狼を睨みつけ歯を食いしばりながらも、涙をボロボロと流しているという全ての感情がごちゃ混ぜになっている状態だ。
もし紅猫が冷静であれば夜という状況も相まって彼女が優勢になっていた筈なのに。
「うるさい!うるさい!うるさーい!落ち着け!落ち着ける訳ないでしょ!色々と恥ずかしくてこっちは死にそうだって言うのに!だから代わりにアンタが死になさい!アンタが死ねば丸く収まるのよー!」
唐傘を振り回す紅猫だが、本当に唯振り回しているだけ。捌くのは造作もない、一応紅猫は殺す気で襲い掛かっており、黒狼はそれを迎え撃っていた筈なのだが、今はもう癇癪を起した紅猫を黒狼があやしているようにしか見えない。
「ええい、全くもう!」
「死ねえ!」
このままでは埒が明かないと黒狼は大きく息を吸い、構えると”狼咆砲”を放つ。それを真正面から受け、紅猫の体が震え、動きが止まる。
「あっ!」
紅猫の動きが止まると自分を睨む紅猫の頭を閉じた傘で軽く叩く。
「うっ。」
「落ち着け。」
黒狼に頭を叩かれた紅猫は一瞬ポカンとすると、唇を噛み締め泣くのを堪えようとするが耐え切れず、地面に座り込んで大泣きしてしまう。
「だって、だって、黒狼が戻ってこないって、アタシは戻ってきて欲しいのに戻ってこないって言うから!面倒くさい女って言うから!」
「本当に面倒くさ、いや、何でもない。」
情緒不安定にも程がある紅猫に思わず本気で面倒くさいと思ってしまった黒狼だが、流石にそれを口に出さないだけの分別は備えていた。
「落ちついたか?」
「うん。」
二人の戦い、というよりも勝手に暴れた紅猫を黒狼が抑えてから少し経ち、漸く泣くのを止めた紅猫が鼻水を啜りながら頷く。既に二人の体から”獣力紋”は消えている。
あれほどの醜態を晒したからだろう、二人は石畳に腰を降ろしているのだが紅猫は隣にいる黒狼の顔を見ようとはしない。
「それで、やっぱり戻ってきてくれないの?」
「うむ、其方の気持ちは理解した。その上で己は”影ノ刃”には戻らぬ。其方の思いに応えられず、すまない。
「ああ~!うう~!忘れて、忘れて、というか忘れなさい!」
自分が無様というか、滑稽というか、色気もへったくれもない告白をした事を黒狼の台詞から思い出した紅猫が頭を抱えて、うんうん唸る。
「いや、本当に其方の気持ちに応えられずすまない。」
「本当にすまないって思うのなら、蒸し返さないで!ただでさえ告白を断られて色々と辛いんだから!」
「なに、其方は美しい。きっと良い番が見つかるだろう。」
「アンタ本当にいい加減にしなさいよ!はあ、もういいわ。アンタの覚悟の強さは分かった、アンタを”影ノ刃”に連れ戻すのは諦める。」
あくまで黒狼を”影ノ刃”に連れ戻すのを諦めると言っただけで、黒狼自身を諦めると言わない当たり、未だ黒狼への恋心が燻っている紅猫だが生憎とそれを指摘する者は此処にはいない。
「でも、アンタが本当に”影ノ刃”に戻らないって言うなら、悪い事は言わないわ。あの瓜乳女とは此処で別れて、今すぐにでも都から出て兎に角遠くへ逃げなさい。」
「瓜乳女って、白殿には言うなよ?それに其方だって立派な大きさの胸では、、、」
「アタシは真面目な話をしているの。」
白に妙な渾名を付ける紅猫に思わず呆れる黒狼だが紅猫は両手を彼の顔に添え、向かい合い黒狼の目を見つめる。
今だ目元は赤く腫れたままだが、その瞳は真剣そのものだ。
「いい、アンタが”影ノ刃”を抜け出して一年、その間に何人もの影ノ刃の兵を刺客としてアンタに差し向けてその命を奪おうとした。けど誰一人としてアンタを始末することが出来ず、それどころか全員生きて追い返された。アンタが旅を続けている所為で”影ノ刃”の存在が表に広まるかもしれないっていうだけでも本陣は大騒ぎなのに、殺しを生業として生きてきた者達が生きて追い返されたのよ?本陣の面子は丸つぶれ、もう手段を選んでいられる状況じゃなくなったの?」
「それで?本陣は、姫様は一体何をするつもりだ?まさか白昼堂々と大勢の前で殺しに来るとは言うのではないだろうな?」
「ある意味それよりももっと、最悪ね。アタシの後にアンタに差し向けられる刺客。ソイツは青蟷螂よ。」
「はっ?」
紅猫の口から放たれたあり得ない言葉に、思わず間抜けな声が口から漏れる。
「というより、多分姫様はアタシがアンタを”影ノ刃”に戻そうとしている事に気付いてたんでしょうね。その上でアンタが誘いを断った時の為に青蟷螂を解き放った。今も都に見張りの影ノ刃の兵と一緒にいるわ。そしてアタシがアンタの首を持ち帰れずに宿に帰ってきたら青蟷螂を解き放つ手はずになってるの。だから逃げるなら今しかないわ。」
「承知した。」
紅猫の話を聞いて黒狼は迷うことなく都から出ていく決意をする。青蟷螂、その人物を直接対峙した事は無いが、その噂は何度も耳に入っている。
”吞まれた者”として本陣の地下にある混凝土で作られた独房に四肢を縛りつけた上で収監されている狂人にして”影ノ刃”にとっての過ちの一つ。
その者が黒狼の命を狙う為に解き放たれた。白への借金を返せなくなるのは悪いと思うが、だとしても青蟷螂が”吞まれた者”である以上、確実に白にもその刃は振るわれる。
嘗て白は黒狼に、事情を理解したうえで黒狼の命を狙ってくる刺客も含めて自身を守れと言った。一見かなりの無茶を言っているように思えるが、それだけ黒狼の腕前を信用し、巻き込まれる危険を負ってでも黒狼を手放したくなかったのだ。
黒狼もそんな彼女の覚悟に応える為、何が何でも白の身を安全を守ると誓った。
それでも今回ばかりは相手が悪すぎる。青蟷螂相手では白の命どころか、黒狼自身の命も守れるか疑問が残る、青蟷螂はそれ程の相手だ。
「教えてくれて助かった紅猫。」
「別にこれくらい、感謝されるような事じゃないわ、、、ねえ、黒狼。」
「ん?」
紅猫の話を聞いて黒狼が立ち上がると、紅猫が着物の裾を指で軽く摘まむ。
「死なないでね、、、」
聞こえるかどうか分からないくらいの小さな声で紅猫がポツリと呟く。
「それは分からん、だが己もただ黙って殺されるのは性に合わんからな。最後まで抗うさ。」
再び泣き出しそうな紅猫に笑顔を向ける黒狼。そのまま都を後にしようとする黒狼だが、突如として二人がいる場所から離れた場所にある繁華街から甲高い音が鳴り響く。
「っ!何だ!」
その音は夜の都に死神の到来を告げる笛の音であった。
夜の都の繁華街で刀や十手を構えた同心達と彼らに応援を頼まれ、槍を構えた兵達が一人の黒装束の男を取り囲む。
男は細身の長身でその両手には幾人もの人を殺めたのだろう血で真っ赤に濡れた曲刀を握りしめている。
一人の黒装束の男に対して同心や兵達は合わせて二十人、もし此処で黒装束の男が暴れても同心達によって直ぐに取り押さえられるだろう。
同心達は普段から酔っ払いや悪漢どもの相手をし腕っぷしに自信があり、経験も豊富だ。兵は言わずもがな、他国の兵と比べて約三倍の強さを持つと言われている。
だと言うのに彼らは黒装束の男から距離を取り、その目には僅かな怯えの色が見える。
始まりは少し前、繁華街を歩く酔っ払いの一人が黒装束の男を見つけた事だ。裏路地から現れた黒装束の男、酔っ払いは当初何も気にしていなかったのだが、やがて男が両手に持つ曲刀の先に突き刺さっているソレを見て叫んだ。
最初は酒による酔いで見間違いかと思ったが、それは間違いなく本物の人の頭であった。首を切られ、胴体から切り離された人間の頭が曲刀に突き刺さっていたのだ。
酔っ払いは悲鳴を挙げて黒装束の男から逃げようとするが、その酔っ払いも黒装束の男によって首を切り落とされる。
「くふふ、嗚呼、恐怖だ。恐怖の声が聞こえる。だが、まだ満たされない。」
黒装束の男はそういうと次の得物を求めて、繁華街の表通りを歩く。そしてその一部始終を見た同心が笛を鳴らし、周りに危険を知らせる。
「店の者、客は絶対に表に出るな!戸を閉めて、奥に避難しろ!」
酒に酔いながらも避難していく人々、そして笛の音に気付き仲間の同心達が集まっていく中、一目見ただけで分かる男の異常性に危機感を感じ、笛を鳴らした同心が刀を抜いて切りかかる。
「悪党!成敗!」
「嗚呼、お前が相手してくれるか?蟷螂の剣・祈」
切りかかってくる同心に黒装束の男は曲刀を交差させて迎え撃つ、その姿はまるで何かに祈るようにも、蟷螂が前足の鎌を構えるようにも見えた。
そして同心の男が黒装束の男の首を切り取ったと周りの同心達が確信した瞬間、同心の体が乱切りにされ、ボトボトと音を立てて地面に落ちていく。
唯一落ちなかったのは、地面を踏んでいた足から膝までの間だけ。それ以外の箇所は地面を赤色に染めながら転がっていく。
「えっ?」
それは誰が放った声だったのか?声の主は分からなかったが、仲間が一瞬で殺されたことに気付いた同心達はすぐさま距離を取って兵にも助けを呼ぶ為、新たに笛を吹く。
そうして集まった兵達と黒装束の男を囲んでいるのだが、先程の光景が目に焼き付いた同心達は攻める為の一歩を踏み出すことが出来ず、兵達は黒装束の男の足元に転がる同心であった者の死体から何があったのかを察し、自らを守るように槍を前に構えるだけだ。
「同心は囲んで十手と刀で男を抑えろ!貴様たちは同心達が男を抑えている間に槍の連撃で仕留めろ!数はこちらが上、襲るるに足らず!」
そんな状況に苛立った兵達の中でも位の上の者が力強い声で回りに指示を飛ばすと、周りの者達が活気を取り戻す。
そうだ、数はこちらが有利。如何に優れた剣客と言えども二十もの刀や槍の攻撃を受けて、防いだり、捌ききれる者などいる訳が無い。
指示に従い、同心達が黒装束の男を取り囲み、彼らの後ろに槍を構えた兵が待機する。
「かかれ!」
号令と共に同心達が刀や十手で黒装束の男に襲い掛かり、その隙間から兵達が槍を繰り出す。
対象を囲んで同時に攻撃を繰り出し、動きを封じた上で長物による連撃で止めを刺す。単純だが確実な方法だ。
相手が普通の人間だったならば。
「蟷螂の剣・円」
蟷螂を思わせる刺青を全身に浮かべた黒装束の男が再び曲刀を交差させ、襲い掛かってくる同心達を迎え撃つ。
人間の腕は二本だけ、しかも目が付いているのは前のみで後ろを見ることは出来ない。故に全方位を囲まれての攻撃など、防げるわけがないのだが黒装束の男はそれをやってのけた。
一瞬、黒装束の男の両腕が消えたかと思うと同心達の十手と刀、兵達の槍の穂先に火花が散って攻撃が弾かれる。
「なっ!」
「一体何が!?」
「馬鹿!隊列を崩すな!」
攻撃を弾かれたことに唖然とする同心と兵、それにより隊列が崩れた事に指示を出した兵が慌てて戻るよう指示をするが、もう遅い。
「蟷螂の剣・祈・連斬」
真正面にいる二人の同心に曲刀を振るうと黒装束の男の両腕が一瞬だけ消え、再び見えるようになると、同心二人の体が最初に切り刻まれた同心よりも更に細かくみじん切りにされ絶命する。
「くふふ、さあ、もっと悲鳴を、血を、恐怖を、絶望を見せてくれ!この青蟷螂に!」
青蟷螂、嘗て”影ノ刃”にて兵となるように幼少の頃から死ぬかのような鍛錬を続けてきた彼が身に着けた力は唯一つ、”素早く刀を振る事”ただそれだけだ。
たったそれだけと思うかもしれないが、蟷螂という虫が獲物を刈り取る際に振り落とす前足の速度というのは恐ろしく速い。
それこそ狩られた側は何が起こったかを理解できない程に、それ程の力をもし人間が身に着けることが出来たら?その者は正しく死神の化身となるだろう。
その力を身に着けた青蟷螂は周囲から期待されていた、同世代の者達の中でも頭一つ抜けて優秀であった彼は師から剣術を教わるのだが、その師すらも数年後には超えていた。
これ程優秀な者は滅多にいない、彼ならいずれ若くして影ノ刃の将になるだろうと誰もが期待していた。
だが、それは叶わなかった。それは彼が”吞まれた者”になってしまったからだ。
”影ノ刃”で生まれた者は物心ついた時から修練の場である山岳原野に放り込まれた鍛錬に励み、やがて一人前と認められて”獣力紋”か”蟲力紋”を授けられる。
だが、”影ノ刃”で生まれた者全てがそうなるわけではない、鍛錬の最中に命を落とす者もいるし、運よく鍛錬に耐えられたとしても才が無いと判断され後方支援に回される者もいる。
その中でも”吞まれた者”は異質だ、何故なら一人前と認められてから資格をはく奪されるのだから。
原因は一人前の証でもある”獣力紋”と”蟲力紋”にある。”影ノ刃”の秘術により肉体の枷を外し、驚異的な身体能力を得られる技術だが利点だけの代物ではなく欠点もある。
”獣力紋”と”蟲力紋”の欠点、それは枷を外した事による闘争本能及び殺戮衝動の増幅だ。普段は理性で抑えているソレだが、脳が肉体の枷を外すと同時にソレも解放されてしまう。
そうして解放された闘争本能及び殺戮衝動によってただひたすらに殺戮を繰り返す危険性が ”獣力紋”と”蟲力紋”にはあるのだ。
無論、”影ノ刃”とてそれは理解している。だからこそ厳しい鍛錬で心技体を鍛え衝動を抑えることが出来ると判断された者にのみ”獣力紋”と”蟲力紋”は施される。
しかし稀に施された後で衝動に飲み込まれる者が現れる、そうしてただひたすらに殺戮を繰り返す哀れな者を”吞まれた者”と呼ぶ。
青蟷螂は衝動を抑えることが出来ず、敵味方を惨殺し長い間”影ノ刃”の恥として封じ込められていた。
「くふふ、嗚呼、次は誰だ?誰が血を流す?さあ、さあ、さあ!」
人知を超えた剣術を振るう青蟷螂。先程まで数の有利によって立ち上がれた同心達だったが、攻撃を防がれ、仲間を殺されてしまい今度こそ戦意を喪失してしまった。
彼らは理解した、自分達が幾ら束になってもこの男には勝てないと。
「全員!解散!」
号令により同心と兵が武器を構えたまま、青蟷螂から距離を取る。今自分達がすべき事は、この異常者を捕らえる事ではない。
兎に角逃げて余計な被害を出さない事だ。
「くふふ、なんだ?つまらない。」
そんな彼らを見て、青蟷螂は退屈だと溜息を吐く。
「ではまず、お前から。」
「うわあああ!」
自分の近くにいる適当な兵を獲物に定めると、二本の曲刀を振り下ろす。
「伏せろ!」
「ぎゃっ!」
いよいよ首が切り落とされるその時、何者かが兵の足を崩し、無理矢理転ばせて青蟷螂の攻撃を避けさせる。
「ぬ?何者だ、お前は?」
突如現れた謎の第三者、其の者は黒い髪に唐傘を背負った青年だった。
「黒狼、とでも言えば分かるか?」
「っ!そうか、そうか!くふふ、お前が黒き狼か。嗚呼、漸く会えた。さあ、お前の悲鳴で、血で、恐怖で、絶望で私を満たしてくれ!」
漸く目当ての得物を見つけた青蟷螂が笑みを浮かべ、黒髪の青年、黒狼と対峙する。
「くふふ、名乗らせてもらう。”號は青蟷螂、戦技、蟷螂の剣”」
「元”影ノ刃の兵が一人、號は黒狼、戦技、血染ノ傘”!」
既に蟷螂の”蟲力紋”を浮かび上がらせている青蟷螂に対し、黒狼も自身の体に狼の”獣力紋”を浮かび上がらせる。
「殺るか!」
「殺らいでか!」
二本の曲刀を祈るように交差させ、青蟷螂が黒狼に飛び掛かる。
「蟷螂の剣・祈!」
叫ぶと同時に青蟷螂の両腕が消える。そして再び両腕が現れるとそこには切り裂かれた死体が出来上がるのだが、元影ノ刃の兵として鍛錬を積み、”獣力紋”によって強化された黒狼の動体視力はその正体を見破っていた。
(斬撃の嵐!)
両腕が消えたように見えた理由、それは普通の人間では捕らえられない程の速さで振るわれる斬撃であった。
絶え間なく何度も振るわれる斬撃により相手は青蟷螂の両腕を見失い、再び捉えられる頃には既に全身を切り裂かれた後、まるでそれは鎌イタチの如く。
「っ!」
咄嗟に唐傘を開き、前方に盾のようにしながら攻撃を受け止める。
キンキンキン!と何度も親骨に仕込んだ刃とぶつかり、火花が散る。紙が切り裂かれ、辺りを舞う。
「斬っ!斬っ!蟷螂の剣・祈・連斬!」
だが青蟷螂は止まらない、それどころか更に斬撃を振るう速度、勢いを強めて黒狼を切り殺そうと一歩を踏み出す。
このままでは傘を弾かれ、全身をみじん切りにされてしまうと確信した黒狼は軽くしゃがむと、大きく後ろへと飛んだ。
一撃の速さ、重さでは負けているが脚力では黒狼の方に分があり、青蟷螂の攻撃は空を切る。
「ぬっ?」
「お主に一つ聞きたい事がある。」
たった一瞬の打ち合いで紙が破れ、全ての刃が刃こぼれを起こした唐傘を見ながら黒狼は青蟷螂に問う。
「何だ?」
「確か、お主には見張りの影ノ刃の兵が付いていた筈だが、その者はどうした?」
「殺した。」
さもなんでもない事のように言うと再び曲刀を交差させる。
(同郷すらも躊躇いなく殺めるか。)
今の短い会話で完全に青蟷螂という男を理解した。殺戮衝動に呑まれた狂人、理解など不可能であると。
そして黒狼も構える。右手に唐傘を持って肩に掛けて両足を大きく開き、掌を開き左腕を大きく前に出す。
まるで役者の見栄を切るような構えを取る黒狼、一見ふざけているように見えるが、これも立派な血染ノ傘の構え、防の構えの一つである”柳”というものだ。
この構えの特徴は、相手の攻撃を受け止めるのではなく受け流す事、相手の刀や槍の攻撃を唐傘に仕込んだ刃に引っ掛け、攻撃の勢いを利用し、傘ごと自らの体を回転させ攻撃を受け流す事だ。
基本的にこの構えは相手の腕力なり、身体能力の一部が黒狼よりも上で攻撃を受け止めることが出来ない相手に使う構え、そして先の攻防で青蟷螂が自身よりも力が上だと黒狼は判断した。
「それでは改めて。」
「くふふ、その意気や良し。」
「「いざ、参る!」」
突如現れ、自分達の代わりに青蟷螂と戦い始めた黒狼に同心達は混乱していた。
「な、何だあのガキは?」
「何をしている、さっさと逃げろ!」
「逃げるのはアンタ達よ!馬鹿!」
青蟷螂に敵わないと判断し、撤退を選んだ彼らだがそれでも都の平和を守る同心や兵としての誇りはある。
黒狼を避難させようとする彼らだが、黒狼と同じく笛の音を聞いて集まった紅猫により逆に非難を促される。
「な、何だお前は!此処は危険だ!さっさと此処から離れて!」
「だから、アンタ達が先に逃げなさいって、言ってるのよ!黒狼が満足に戦えないでしょ!」
彼らが巻き込まれでもした場合、黒狼が絶対に彼らを助けに行くと分かっている紅猫は中途半端な誇りでこの場から離れない同心達の尻を唐傘で叩き、その場から追い出す。
「ほら、さっさと立ち去りなさい!」
「ぐあっ!」
「何をするっ!」
「良いから!さっさと!どっかに隠れてなさい!」
「あっふ!」
女性に傘で尻を叩かれて吹き飛ぶという、滑稽な光景が繰り広げられる中、黒狼と青蟷螂は激戦を繰り広げていた。
「蟷螂の剣・祈!」
青蟷螂の両腕が消え、斬撃の嵐が黒狼に向って飛んでくる。黒狼はその斬撃の内の一つを捉えるとその勢いを利用し、自らの体を回転させ青蟷螂の上空へと飛びあがり、青蟷螂の背後を取る。
「蟷螂の剣・円!」
しかし相手も背後を取られることに慣れた者、前方に斬撃を繰り出す蟷螂の剣・祈、とは異なる周囲に斬撃を放つ蟷螂の剣・円で背後にいる黒狼に攻撃を仕掛ける。
再び刃を傘で捕らえ、空中を舞う黒狼。傍から見るとまるで黒狼が青蟷螂を翻弄しているように見えるが、その実は逆だ。
「何やってるのよ、アイツ。全然反撃できてないじゃない。」
同心達をその場から追い出し、自身も距離を取っている紅猫がポツリと呟く。殺しを生業としてきた影ノ刃の兵が相手に攻撃を加えない、それはつまり相手に攻撃を与えられない、相手の方が格上であるという事だ。
黒狼が不殺を誓っているというのもあるが、それでも防戦一方というのは良くない状況だ。現に黒狼の唐傘に仕込んである刃が攻撃を受け止める度に刃こぼれを起こしている。
このままではいずれ、唐傘が壊されてしまう。
「・・・お願い!」
どうか黒狼が死ぬことが無いようにと両手を合わせて神に祈る紅猫。
「嗚呼、どうした黒き狼?逃げてばかりでは倒せぬぞ?さあ、どうする?くふふ。」
「そうか。では、反撃に移らせてもらおう。」
「何?」
蟷螂の剣・円の攻撃が止み、青蟷螂が次の攻撃を繰り出す僅かな隙、その隙を狙って黒狼は青蟷螂に向って咆哮を、”狼咆砲”を放つ。
「ぬおっ!」
「もらった!」
刃こぼれした刃では碌な傷も与えられないと判断して唐傘を閉じ、唐傘を青蟷螂の頭部に力の限り叩きつけようとする。
だが。
「蟷螂の剣・煌。」
青蟷螂がそう呟き、曲刀を交差させた瞬間、交差させた箇所からまるで太陽の如く激しい光が発生し、闇夜に慣れていた黒狼の目に直撃する。
「ぐあっ!」
思わず目を瞑り動きが止まってしまう。
「黒狼っ!右によ!」
後ろから聞こえる紅猫の叫び声、それに従い唐傘を離して間隔を頼りに右に飛ぶと、グシャと何かを潰すような音が左から聞こえる。
「嗚呼、避けられたか。」
残念そうに呟く青蟷螂、今も目がチカチカしぼんやりとしか青蟷螂の姿は捉えられないが、悠長に視力が回復するのを待つ暇は無い。
(今のは、一体?)
急に光った青蟷螂の曲刀、黒狼は理解できなかったが、その仕組みは至極単純。ただ二本の曲刀を打ち付けて火花を発生させただけだ。
無論ただ打ち付けるだけでは弱い火花が発生するだけで、視力を奪う程ではない。青蟷螂はその身体能力により、何十、何百と刀を連続で打ち付けて火花の嵐を起こし、激しい光を発生させたのだ。
「黒狼、これを使いなさい!」
「すまん!」
先程の攻防で青蟷螂の斬撃により破壊されてしまった黒狼の唐傘、それに代わる武器として紅猫が自分の唐傘を黒狼に投げる。
紅猫用に作られた物なので、いままで使っていた物とは多少勝手が異なるが贅沢は言っていられない。
すぐさま親骨に仕込んだ刃を展開する。
「中々、手ごわいな。」
「嫌味のつもりか?」
「いやいや、正直な気持ちだぞ?くふふ。」
碌に青蟷螂に傷を与えられない黒狼に対し、青蟷螂が褒めるが彼としては本気で黒狼を認めていた。
今までの相手は例え同郷の者であっても一瞬で殺してきたし、先の同心達も全く手ごたえが無かった中、黒狼は何度も自分の攻撃を捌いたからだ。
これほどの武人に出会ったことが無かった。青蟷螂は心の底から歓喜し、黒狼こそ自分の渇きを満たしてくれる存在だと確信していた。
「くふふ、嗚呼、黒き狼よ!早く満たしてくれ!お前の悲鳴で、血で、恐怖で、絶望で!」
「しつこい!」
何度も同じ言い回しをする青蟷螂に、防戦一方だった事も相まって。本気で怒りかかっている黒狼。
「蟷螂の剣・祈!」
「刃旋風!」
二つの技がぶつかり合うが、やはり青蟷螂の一撃の方が重い。黒狼は直ぐに相手の攻撃の重さを利用しての回避に移る。
(不味い、このままでは、己が押し負ける。)
別に自分が死ぬのは怖くない、そう言った感情は既に捨てた。だが、もし自分が死ねばその後はどうなるか?
その答えは簡単だ。青蟷螂は自分以外の周りにいる人間、紅猫や同心、彼女らを殺した後はまた別の人間を殺すのだろう。
そんな事をさせるわけにはいかない、黒狼は覚悟を決めると一か八かの賭けに出る。
「おい、構えろ。青蟷螂。」
「ほう?」
閉じた唐傘の持ち手を捻り、倍の長さに伸縮させ突進の構えを取る。
「死にたくなければ、全力でこい。」
「くふふ、これはこれは。」
明らかに目つきが変わった黒狼に青蟷螂は笑みを浮かべ、曲刀を交差させ、構える。
黒狼は死にたくなければ、と言ったがこれは唯のハッタリだ。青蟷螂の性格からしてこちらが殺す素振りを見せれば、相手もそれに乗ってくると考えたが、それは見事に的中した。
唐傘の石突に仕込んである槍の穂先を展開させると、足に力を籠める。
「狼牙ノ撃。」
「蟷螂の剣・祈・連斬。」
黒狼が大きく踏み込むと青蟷螂も斬撃の嵐で迎え撃つ。焔鴉と戦った時とは違う、目くらましではなく本気で黒狼は青蟷螂の心臓へと傘を突き立てる。
不殺を誓いながら、心臓を狙う黒狼。彼の信念とは矛盾しているように思えるが黒狼は確信していた。自分のこの必殺の一撃は防がれることを、そしてそれにより勝負が決することを。
「ぬっ!?」
熱した鉄を叩いたような甲高い音が鳴り響き、黒狼の唐傘と青蟷螂の曲刀がぶつかる。
「喝っ!」
二本の曲刀に受け止められる黒狼の一撃、だが黒狼はそのまま腰を捻り、肩と肘を伸ばし上半身による撥条を利用した追撃を加える。
受け止めた後に来たまさかの追撃、青蟷螂は慌てて曲刀を握る掌に力を籠め押し返そうとする。
そして。
「何ぃ!」
”ガキンッ!”と音を響かせ、先に受け止めた狼牙ノ撃の一撃と追撃に耐えられず青蟷螂の二本の曲刀が折れると同時に、黒狼の唐傘も黒狼自身の力に耐え切れず、中棒から真っ二つに折れる。
「ちいっ!」
「待て!」
獲物を折られた青蟷螂は仕切り直しと言わんばかりに大きく後ろに飛ぶ。
「くふふ、まさか。これを狙っていたのか?互いに得物を壊して、有耶無耶にしようと?」
「だったら、どうしたというのだ?」
「つまらない、嗚呼、それは実にいけない。」
狙い通り互いの武器を壊すことに成功した黒狼とは対照的に青蟷螂は顔を歪め、柄だけとなった自身の曲刀を見つめる。
「これでは、満たされないではないですか?折角渇きを、飢えを見たしくれると思ったのに、嗚呼、満たされない。くふふ。くふふっ!くふふふふっ!」
顔を歪めながら、涙を流し笑みを浮かべる青蟷螂、その余りにも醜悪かつ狂気を感じるその姿に、武器は持っていないにも関わらず、黒狼は思わず後ずさる。
これが”吞まれた者”なのかと、殺意に呑まれた者の成れの果てだと、恐怖する。
遠くから見守っていた紅猫や曲刀を破壊された青蟷螂を取り押さえようとしていた同心達も足を止める。
そんな状況の中で一人、提灯を持って夜道を歩く、この場にいるべきではない人物が青蟷螂の後ろから現れる。
「あれ、そこにいるのって黒?何やってるのこんな所で?」
「白殿!」
そこにいたのは宿にいるはずだった白、何故彼女が此処に?自分を探しに来たのか?様々な疑問が頭に浮かぶが、そんな事よりも優先すべきことがある。
「今すぐその男から逃げろ!白殿!」
「えっ?」
叫ぶ黒狼に白が提灯をかざして、自分の目の前にいる青蟷螂に視線を移す。青蟷螂は後ろを振り返ると柄だけの曲刀を手放すと両腕を大きく上に振り上げて彼女へと飛び掛かる。
「仕方ない。黒き狼が満たしてくれないなら、貴様で満たしてやろう!くふふっ!」
青蟷螂は両腕で手刀を作ると手首を垂直に曲げる。青蟷螂の長身と振り上げた姿も相まって、その姿は獲物に鎌を振り下ろす蟷螂に見える。
「蟷螂の掌・刈!」
本来は、武器を失った時や追い詰められた際の非常時に使う保険のような技。爪に微細な溝を刻んで鋸のようにし、それで相手を切り裂く。
威力は蟷螂の剣とは比較にならない程に低く、青蟷螂もこの技を習得はしたものの実戦で使う機会は訪れず、”吞まれた者”として独房に閉じ込められた。
だが、”蟲力紋”によって枷から解放された青蟷螂の身体能力が加われば、女性の柔肌など着物ごと簡単に切り裂ける。
「白殿!」
「瓜乳女!」
斜め上から振り落とされた青蟷螂の手刀、宿から提供された薄い着物は綺麗に胸元で裂け、一拍遅れて白の胸元から勢いよく血が噴き出す。
「えっ?」
突然の出来事に呆然とする白、自分の胸元を見ると首より下の辺りに交差するように切り傷があり、そこから血が流れだしている。
「あ、ああ、」
「おや、少しずれてしまったか、不運だな?くふふ、嗚呼、可愛そうに、直ぐに楽にしてやろう。そして満たしてくれ。」
胸元の傷に両手を当て出血を抑える白、青蟷螂は右手を振り上げると今度こそ白の首を切り落とそうと構える。
「青蟷螂っ!」
その光景を見た瞬間、黒狼は自身の殺意に吞まれかけた。心臓の鼓動が速くなり、全身に血液を巡らし、血管が浮き上がる。
”獣力紋”と合わさって最早それは異形の化け物とした例えようのない姿だ。
黒狼は自身の死を恐れてはいない、元々人に恨まれ殺されても文句の言えない日常を過ごし、死後は確実に地獄へ墜ちる事を理解していた。
それに不殺を誓い、誰かを殺して生を掴み取るくらいなら、不殺を貫いて死を選ぶ覚悟もあった。
故に焔鴉との戦いの時も自身が追い詰められても特に抵抗はしなかった。
だが、白は違う。彼女は自分とは関係ない、関係ない彼女が自分の都合に巻き込まれて理不尽に死すなどあってはならぬ事であるし、自分の厄介な事情を理解してくれた上で信頼し、護衛として雇ってくれた白の期待を裏切ってしまった黒狼自身への怒りもあった。
『お前が中途半端な態度を取った所為で彼女は傷ついた。』
突きつけられる事実、黒狼は我を忘れて青蟷螂へと走り出した。
「―っ!」
「ぐっ!?」
走りながら”狼咆砲”を放ち、青蟷螂の動きを止めると黒狼は地面に落ちている青蟷螂の折れた曲刀の刀身を自身の手が切れる事も構わず握り、大きく飛びあがる。
「あああっ!」
叫びながら空中で一回転し、刀を振る。振るわれたと刀は回転の勢いも加わり青蟷螂の右手を綺麗に切断する。
「ひょっ!これはっ!」
「おおおっ!」
驚いて目を見開く青蟷螂の腹を蹴り、白と離させると黒狼は刀身を青蟷螂に突き付ける。
「ふーっ!ふーっ!」
「嗚呼、その目、気づいたぞ。そうか、黒き狼、貴様も私と同じだったか。」
「何っ!?」
ふざけたことを言う青蟷螂を睨む。
「くふふ、その目、間違いない。貴様も同じだ。”吞まれた者”として。」
「違うっ!己れはっ!」
「違わないさ、今の貴様は腹の膨れた獣、獲物を狩る必要が無いから殺さぬだけで、再び飢えれば多くの命を刈り取る。そういう運命だ!」
「ほざけっ!」
刀身を握る手に力が入り、傷が深くなる。それでも否定しなければならない、否定しなければ彼女との約束を違えることになる。
「くふふ、また会おう。」
青蟷螂はそう言い残すと路地裏へと逃げていく。今すぐ追いかけてやりたいが、それよりも優先しなければならない事がある。
「白殿!」
「ああ、黒、、、」
「待っていろ、今すぐ薬師と医者の元へっ!」
「薬師は、私だよ。」
笑顔で冗談を言う白だが、傷は決して浅くない。黒狼は自身の着物を破り止血帯を作ると白の傷を塞ぎ、彼女を抱える。
「少しの辛抱だ、耐えてく、、、れ、、、」
そのまま医者の元へと連れて行こうとしたのだが、視界がぐらつき、体に力が入らなくなる。
「ちょっと、黒狼、アンタどうしたの?黒狼っ黒狼ってば!」
何とか倒れずにその場に留まるが、視界がどんどん暗くなる。心配して近づいてくる紅猫に白を預けると、限界を迎えた黒狼の意識はそこで途絶えてしまった。
霧の立ち込める早朝の川辺、正拳突きの構えを取る黒狼に桃色の髪に軽装備の甲冑を身に着けた女性が抱き着いている。
いや、抱き着いているとは少し違う。女性は黒狼の右手に自身の右手を乗せて体を黒狼に絡ませていた。
そして、その体勢のまま黒狼の構えを直していく。
「いい?この技で重要なのは”静”から”動”へと一瞬で切り替える事、体の各部を連動させて同時に動かす事、分かった?」
「うむ。」
「よしっ!それじゃあ、やってみようか!」
女性が黒狼から体を離し、少し離れて見守る。そして黒狼は頭の中で彼女の教えを反芻し、息を整えると拳を前へと突き出す。
「はっ!」
拳を繰り出した黒狼だったが、女性は不満げな顔を浮かべている。
「もー、黒!ちゃんと体の動きを連動させてないじゃない!上半身が動きに引っ張られてる!だから拳の先がぶれてるんだよ!」
頬を膨らませて怒っている女性だが、彼女が生来持つ雰囲気なのだろう。全くと言って良い程怖くない。
「お前の教えが悪いのではないのか?」
「なっ!私はちゃんと教えてるよ!黒の出来が悪いだけだよ!」
子供の喧嘩のように互いに文句を言いあっていると、二人の腹の虫が鳴って一時休憩となる。
「はい、今日は自信作なんだ!」
笹の葉で包んだ荷物を解くと巻衣を取り出し、無理矢理黒狼の口に入れていく。
「どう?美味しい?」
「この間よりは不味くは無くなった。」
美味くはなく、遠回しに不味い事には変わりないと言っているのだが、女性は黒狼の言葉が嬉しいのか笑みを浮かべている。
「それじゃあ、今日の鍛錬は此処で終わりにして、子供達の様子を見にいこっか?」
「ああ、しかし、変わってるな。」
「変わってる?何が?」
「己れ達は殺生を生業とする者達だ。故に殺生で国を救えど、人を生かすことは無い。それは外から来たお前も同じはずだ。なのにお前は人を生かそうとする。これを変わってると言わずに何と言う?」
「何だ、そんな事か。」
女性が笑みを浮かべて黒狼に近づくと、彼の両頬を引っ張り無理矢理笑顔にする。
「それを言うなら、黒だってそうじゃない?」
「己れは仕方なく付き合っているだけだ。」
両頬が痛くなってきたので、彼女の手を払う。
これはある過去の記憶、影ノ刃の兵として多くの人を殺めながらも、とある女性と知り合いになり、彼女に無理矢理付き合わされて人を生かすことになった直後の思い出だ。
何故、いきなり過去の記憶が蘇ったのだろう、霞のかかった頭で思考を続けていると、やがて意識がはっきりとしてきた。
「ぬ、此処は?」
「あ、漸く起きたのね。」
朝日が眩しく、目を細くしながら上半身を起こすと全身に激痛が走り、薬品の匂いが鼻を刺激する。
辺りを見回すと小さな棚が幾つもある箪笥に水の入った桶、小さな刃物や針といった道具に自分を見つめる紅猫が写る。
察するに此処は都で働いている医師の家なのだろう、箪笥は薬を入れる薬棚、先程の刃物や針は外科手術用の道具だろう。
「本当、アンタってしぶといわね。」
「?よくわからんが、心配をかけたようで済まない。」
「べっ別にアンタの事なんて心配してないわよ!」
そう言いながらも目元は赤く腫れており、今も目元が潤んでいる事から涙を流し、かなり心配していたことが見て取るように分かる。
「それで、アンタは何で自分が此処にいるのか。ちゃんとわかってる?」
「己が此処にいる場所?・・・っそうだ!白殿は!?白殿は無事なのか!?」
「ただいま~っと、あっ!黒、目が覚めたんだ!」
黒狼が意識を失う直前の事を思い出して、慌てて辺りを見渡し白を探すと、丁度白が部屋の戸を開けて入ってくる。
その姿は青蟷螂に襲われたことなど実は無かったかのようだが、黒狼はハッキリとあの晩の事を覚えている。
「白殿!」
「うわっ!?どうしたの急に!?」
布団から立ち上がり、白に詰め寄ると彼女の着物の胸元を掴む。
「脱げ!」
「へっ?」
「良いから脱ぐのだ!」
目が覚めたと思ったらいきなり白の着物を脱がそうとする黒狼、彼からしたら青蟷螂に切られた傷はどうなったのか?大事には至らなかったのか?という確認程度のものなのだが、白からしたらいきなり朝っぱらから脱げと言われて、はいそうですか、という訳にもいかない。
「ぬっ!白殿、何をしている!早く着物を脱ぐのだ!」
「いやいや、黒こそ何言ってるの?いきなり脱げって!?熱でもあるの?」
「己はいたって正気だ!兎に角、着物を脱いで己に裸を見せてくれ!」
着物の胸元を掴んで脱がそうとする黒狼に、白も必死で抵抗する。
「何を躊躇っているのだ、白殿!己は唯見たいだけだ!」
「だから躊躇ってるんだよ!ちょっ、本当に力強、」
とうとう力負けしてしまう白、そのまま黒狼が勢いよく白の着物の胸元を広げ、あわや白の胸が黒狼の眼前にさらけ出される寸前、
「何やってんのよ!このお馬鹿!」
紅猫が水の入った桶で黒狼の頭を思いっきり叩き、気絶させたことで難を逃れることが出来た。
再び黒狼が目を覚まし、正座で白と紅猫に向かい合う。
「誠に申し訳なかった、興奮して我を忘れていた。」
しおらしい態度で謝る黒狼、彼の顔は白と紅猫に張り手を喰らうわ、殴られるわでパンパンに腫れていた。
「傷跡が見たいなら、そう言ってほしかったんだけど、、、」
「まったくよ、それに女の裸が見たいならアタシがいつだって、、、っじゃなくて!落ち着いた?」
「うむ、落ち着いた。決して着物を剝くような真似はしない。」
「そ、ならいいわ。アンタが気絶してから色々と会ったけど。まずアンタが青蟷螂と戦ってから今日で二週間、アンタはずっと意識を失って寝たきりだったわ。」
「二週間!己はそんなに長い間眠っていたのか?」
紅猫の口から放たれた言葉に目を開く。確かに刀身を握っていた手の傷に包帯が巻かれて治療されていたり、傷を負ったはずの白が平気で歩いている所を見るに一日や二日程度ではないと思っていたが、まさか二週間とは思わなかった。
それからも紅猫と白はあの晩の後、何があったかを詳細に説明してくれる。
「アンタが意識を失った後、アタシはアンタとこの瓜乳女を医師の元へと連れて行ったわ。同心共が色々と騒いだけど、それは全部後回しにしてね。幸い、都には腕の良い医師が沢山いたからソイツらに銭を掴ませてアンタ達の治療をさせたの、此処はその治療をした医師の一人の家よ。」
「それで、、、白殿は、、、」
申し訳なさそうに白をちらりと見る黒狼。
「この瓜乳女、あんなに派手に血をまき散らしてたけど本当はそんなに深い傷じゃなかったのよ。女の医師に軽く傷縫ってもらって、少しの間大人しくしてたら直ぐに歩き回れるようになったわよ。」
「傷跡もそんなに目立たなかったしね。」
そう言って胸元を少しだけ露にし、傷跡を黒狼に見せる。確かに傍目から見れば切り裂かれた傷跡は無いように見える。
しかし、じっくりと眺めると光の加減によって白の真っ白な美しい肌に僅かだが刃物で切り裂かれたような跡が浮かんでいる。
「あんまりジロジロと見ないでよ。」
凝視する黒狼に白が恥ずかしそうに胸元を隠すが、黒狼の鼻の下は伸びておらず寧ろ苦しそうな表情を浮かべている。
「で、次にアンタだけど、アンタの方がかなり不味かったわ。」
「それは、どういう意味だ?己の怪我らしい怪我と言えば、この手の傷位だが?」
「見た目はね、でも中身はアンタの方が重傷だったわよ。血管の一部が破裂、筋肉も全身にわたって細かい裂傷が広がってたって。医師は何故これ程の重症になったかって首を傾げてたけど、多分”獣力紋”の長時間の使用が原因でしょうね。」
「その”獣力紋”ってのは良く分からないけど、それで黒が目を覚ますまで都に残ることになって医師の家を借りることになったんだ。」
「そうだったのか。」
「うん、それと同心共に色々と聞かれたけれど、それは全部アタシが答えたわ。青蟷螂とアタシ達は無関係、アタシ達は唯の都に薬を卸しに来た旅商人だってね。連中何かを言いたそうだったけど、青蟷螂に手も足も出なかった事をチラつかせたら、簡単に黙ってくれたわ。」
「本当に面倒を掛けたようだな。」
その後も色々と細かい説明を受ける。白があの晩、あの場所にいたのは黒狼と紅猫の帰りが遅い中、笛の音が響き渡り、心配して二人を探していたからである事。
治療費は白が全額払ってくれた事、それにより黒狼の白への借金が更に増えた事、黒狼の体が完全に治るまで都に残り、それまでの護衛は紅猫がしてくれる事などだ。
「白殿、、、済まなかった。」
全てを話を聞き終えた後、黒狼はその場で白に土下座をする。
「白殿に護衛として雇われながら、白殿を守り切れず、挙句の果てに己の事情に巻き込んで其方の柔肌に傷を残してしまった事、唯ひたすら己を恥じるばかりだ。」
今にも腹を切るのではないか?と勘違いしてしまいそうな程に悔しさや情けなさで顔を歪めている黒狼が地面に埋まりそうな勢いで頭を下げているが、頭を下げられた白は呆れながらそれを見ている。
「別にそんなに謝らないでよ。元々黒には何かしらの事情があるって知ってて、それに巻き込まれる覚悟もして君を雇ったんだし、それに今も私は生きてる。もし黒が責任を感じてるんだったら、今後も私の事を守って欲しい。」
「だがっ!それで白殿が傷ついてはっ!」
「・・・まあ、確かにこの傷跡は一生残っちゃうね。」
冷の武人において傷跡というのは、一種の名誉の証のようなものとなっている。これほどの傷を負う激戦を生き延びた実力者として周りから尊敬の眼差しを向けられる。それは男性の武人でも女性の武人でも関係なく、みな誇りとして傷跡を隠すような真似はしない。
だが、それはあくまで武人としての考えであり、それ以外の武人ではない者、農民、商人、薬師等の戦に携わらない者達にとって傷跡というのは周りからの奇異の目を避ける為、隠すものとなっている。
特に見目麗しい女性が傷を負ったとなれば、その悲しみはいかほどのものか。
「・・・」
悲し気な笑みを浮かべた白に黒狼が何も言えないでいると、着物の胸元を緩めた白が黒狼の顔に自分の胸を近づける。
「なんだったら、もう一つの方の責任を取ってくれてもいいんだよ?」
「なっ!」
眼前にある巨大な二つの塊に黒狼が顔を真っ赤にすると、白が更にとんでもないことを提案してくる。
この場合のもう一つの責任というのは、白を傷つけた責任として彼女と婚約する事、夫婦となる事だ。
先程の悲し気な笑みはどこへやら、揶揄うような笑みを浮かべた白が更に近づいてくる。
「いずれは何処かに腰を落ち着けて、家族を築きたいって考えてたけど、この傷跡じゃ夫を捕まえるのも苦労しそうだし、黒だったらまあいいかなって。それに夫婦になれば、夫婦になるまでの間の借金は全て帳消しになるから黒にとっても良いんじゃない?私としてはいざ襲われても守ってくれる腕っぷしの良い夫が、黒にとっては借金が帳消しになった上に私のようなぐらまらすな美人と夫婦に成れる。どっちにとっても悪くないと思うんだけど?」
「いや、それは、少し違うような。」
「それじゃあ、黒は女子を傷つけておいて、何も責任を取らないの?」
「ぐっ」
どんどん近づいてくる白、このままでは何にとは言わないが黒狼の顔が埋もれてしまう。
「いい加減にしなさい!瓜乳女!」
「きゃんっ!」
とうとう埋もれてしまうと言う直前、紅猫が私怨も含めて白を後ろから羽交い絞めにし二人を離させる。
「ったく!いくら雰囲気を切り替えようとしたいからって限度ってモンがあるでしょ!」
「ごめんなさい、冬花さん。代わりに黒と夫婦になりますか?」
「なるっ!じゃなくて、何でアタシがコイツと!」
欲望が本音として出てしまったが、何とか誤魔化す。
「取り敢えず黒はまだ怪我とか治りきっていないんだから、先ずは怪我を治してからにしようよ。話はそれから、ね?」
「いや、そういう訳には。」
「じゃあ、責任取る?」
「ぐっ!」
そう言われては逆らえない、黒狼は大人しく布団で大人しく寝ることとなった。
黒狼が目を覚ましてから更に一週間後、漸く体の痛みも無くなり自由に動けるようになった黒狼は改めて、白と向かい合う。
「白殿、其方を守れず本当に済まなかった。」
「うん、それはもう何度も聞いたよ。それで話って?」
「己を護衛として雇うのはもう止めにせぬか?」
世話になっている医師の家、紅猫が部屋の端で見守りながら二人は話し合う。白は黒狼の提案を聞いて目を一瞬だけ大きく開いたが、直ぐに冷静さを取り戻す。
「それは、何でかな?」
「己の都合に白殿を巻き込んでしまう事、そして己では白殿を守り切れぬからだ。己は不殺を誓った故、己の命を狙ってくる者も、白殿に危害を加える者も殺すことは出来ない。だがそれによって白殿にどれだけの脅威が迫ろうとも己は追い払うのみで排除することは出来ぬのだ。故に己を護衛として雇うのは止めるべきだ。」
「・・・」
重い沈黙が流れる、白は黒狼が言った言葉を頭の中で繰り返しながら彼へ問う。
「ねえ、前から気になっていたけど、何で黒は不殺を誓っているの。自分の命に関わる事柄でも不殺を誓えるなんて普通なら無理かな。一体黒は何があって不殺を誓ったの?」
「それは、、、」
黒狼は一瞬、彼女に自分の素性や不殺を誓った理由を話そうか躊躇するが、巻き込んでしまった以上話さなければいけないと考え、白に全てを打ち明ける覚悟をする。
「そうだな、白殿には知る権利がある。己の全ての事情を明かそう。それで、己が不殺を誓った理由なのだが、何処から話せばよいか、、、」
頭に右手を添え、黒狼はポツポツと喋り出す。名前は明かさないものの嘗て自分が殺しを生業とする者の生まれである事、幼い頃より人を殺める為の技術を身に着ける為に鍛錬に明け暮れた事、全身に浮かび上がる刺青はその集団の秘術であるなど自分の素性を話す。
黒狼の素性を知り、白は目を見開き驚いた様子を見せるがそれでも黒狼を軽蔑したりせず、黙って話を聞いていた。
「っと、これが己の腕っぷしが強い理由だ。」
「そっか、だから黒はそんなに強かったんだね。」
「軽蔑するか?別にしてくれても構わない。元より己は生まれた瞬間に地獄に行くことが決まっている人殺しだ。」
「別に軽蔑はしないよ。冷にいる兵達だって戦で人を殺めることだってあるし、賊から村や家族を守る為に賊を殺める人達だっている。そんな人達を私は見てきたから。私欲で人を殺めないのならそれは仕方ないんじゃないかな?」
「優しいのだな、白殿は。」
一瞬、白に彼女の面影を見てしまう。そっくりという訳ではないが偶に白を見ていると、彼女を、桃を思い出してしまう。
「さて、それで肝心の己が不殺を誓った理由だが、、、己が不殺を誓ったのはある女の願いだからだ。」
「願い?」
いよいよ黒狼が不殺を誓った理由を話そうとするのを、紅猫が悲しそうに見つめる。これから話す事は黒狼にとって呑み込めないくらいに苦い思い出だからだ。
「ああ、己を不殺を誓ったのは、桃という女性がそれを願ったからだ。」
そして彼は自身の過去を、思い出したくもない思い出を語る。