二章
”影ノ刃”の本陣は最北端に位置する山中にあるが、彼らの任務、性質上、影ノ刃の兵が常に本陣にいる訳ではない。常に本陣にいるのは、”影ノ刃”の長である姫君と本陣の護衛を任せられている影ノ刃の兵、武器の管理と製造を手掛ける職人、修練中の半人前と彼等の師だけだ。
それ以外の者達、影ノ刃の兵や彼らを取りまとめる影ノ刃の将は任務の受注や報告、己の武器の手入れや任務で負った怪我の治療に寄るぐらいしか機会は無い。
影ノ刃の兵はいたる所で極秘に活動している。敵国に間者又は暗殺者として紛れ込んでいる者、冷に反旗を翻す意思を持つ者を始末する為に町人として紛れ込んでいる者、しまいには大陸の外にある別大陸で海外の情勢を把握する者、未知の技術を学ぶ者までいるくらいだ。
その為、普段町ですれ違う見ず知らずの他人、儲けている稀代の大商人、無料で怪我や病気を治療してくれる聖人の如き医者など、何気ない人物の正体が影ノ刃の兵であっても何ら可笑しくない。
「ぐぬぬぬ、、、」
黒狼に危機が訪れていた。頭を働かせて何とかこの危機を脱出しようと考えるが、策が全く思いつかない。
「申し訳ない、もう一度、言ってはくれないか?」
「はい、一泊、朝餉と夕餉付きでお一人様、五十北銭になります。」
ニコニコとした笑顔で告げる受付の女性、何度聞いても同じその答えに黒狼は絶望する。
今黒狼がいる町は、都から少し遠い位置にある中規模の宿場町で農作地で収穫した蕎麦や小麦と言った穀物、野菜、果物を都に売りに来た農家や宝石や貴金属を売りに来た商人が長旅の疲れを癒す為によく利用される。
町に住む者達もそれをよく理解し、宿の質を上げるなどして町を大きくしてきた。
”影ノ刃”の刺客から逃げる旅を続けている黒狼も、この街にたどり着き長旅の疲れを癒そうと目にとまった宿に泊まることを決め、部屋の予約をしようとしたのだが、値段を聞いて止まる。
黒狼が手に持っている金が入った小袋、紐が緩んで僅かに中身が見える袋には四枚の銭が入っている。十北銭が三枚、長方形の十北銭を半分に折った五北銭が一枚、計三十五北銭。
(足りぬ!銭が足りぬ!)
銭が足りない以上、この宿には泊まれない。期待している受付には申し訳ないが別の宿を探すしかない。
だが、黒狼は知らない。この宿場町は農家や商人相手に金を取る為に宿の質で発展してきた町、どの宿も質は素晴らしいが、それに比例して値段もかなり高い。
どの宿も泊まるには最低でも五十北銭は必要なのだ。
「ああ、申し訳ないが、己は、、、」
別の宿を探すと口に出しかけたその時、黒狼の隣から大きな籠を背負った雪のように白い肌と金色の長い髪の女性が前に出て受付の手のひらに百北銭を渡し、握らせる。
「私とこの人、二人で二人部屋を一泊お願い。」
「はい、畏まりました。それでは鍵をお持ちしますので少々お待ちください。」
黒狼が何かを言う前に受付の女性は奥へと消えていく。
「や、また会ったね!」
「・・・」
こちらに振り返って笑顔を見せる女性、先日のとある村の妖怪騒ぎの後、別れたはずの白に黒狼は何も言う事が出来なかった。
「いやー、薬を卸す途中で立ち寄った宿場町で君と再会できるなんて、凄い偶然だね。」
「本当に偶然なのか?」
石畳で舗装された宿場町を散策する黒狼、斜め後ろを付いてくる白に疑いの眼差しを向ける。
「ん?それはどういう意味かな?」
「己の後を着けてきたのではないだろうな?という意味だ。」
「やだな、まさか私が用心棒の話を諦めきれずに君の後を着けてきたなんてある訳ないよ。私がこの町に来たのは偶々、そこで君に出会ったのも本当に唯の偶然、で君が困ってたから少し助けてあげようかなって。」
ケラケラと笑う白、まあ黒狼も追手には気を付けていたし、本当に偶然なのだろう。
「でも、流石の私も百北銭は中々痛い出費かな。薬が売れなかったら、薬草とかを買うお金で出費がかさむばかりだし。」
「ぐっ!なるべく早く返す。」
「ふ~ん、でも返す当てはあるのかな?」
苦い顔になった黒狼の顔を前屈みになり、上から見上げる白。その口元には厭らしい笑みが浮かんでいる。
「だから、町を歩いて仕事が無いかを探しているのだ。」
「直ぐに仕事が見つかるかどうかも分からないし、五十北銭を返すのにどれくらい掛かるかも分からないよ?その間町に滞在するなら、宿に泊まる必要もある、でもお金が無いからまた私に借りなきゃいけない。あ~あ、借りたお金を完済できるのはいつになるのか?」
「ぐぐぐ。」
「ふふん、でも大丈夫、そんなお悩みの君に私がある仕事を紹介してあげましょう!」
かさんでいく借金に黒狼が情けない声を挙げていると、白が得意げな顔で黒狼を人差し指で指す。
「その仕事はとある女性の用心棒、その女性の旅に付き合い、道中獣や暴漢から女性を守る簡単なお仕事、腕っぷしの強い君なら簡単!衣食住も保証するし、旅の道中で発生する銭もその女性が払ってくれます!どう、中々の好待遇でしょ!」
「いや、確かにそれはそうだが。」
「それに何より、この仕事で一番おすすめできるのが!フッフッフ。」
「一番おすすめできるのが?」
顔を下に向けたかと思うと、両腕を腰に当て勢いよく胸を張る白。桜色の着物と帯で強調された彼女の胸が大きく揺れ、奇妙な音を鳴らす。
「私のようなぐらまらすな美人と一緒に旅が出来ることです!」
「ぐらまらす、とは何だ?」
「異国の大陸の言葉で肉感的という言葉らしいよ。」
「そうか。それと自分で美人というな、自分で。ではさよならだ。」
「でも、事実だし。あっ!ちょっと待ってよ!行かないで!」
案の定、用心棒の仕事の斡旋だった事に呆れた黒狼が白を無視して歩き出すが、彼を諦めきれない白が黒狼の袴にしがみ付く。
「ええい!離せい!」
「いーやーだー!そんな酷いよ!散々お金を貢いだのに、用済みになったら捨てるなんて!私の事は遊びだったの!」
「人聞きの悪い事を言うな!」
ただでさえ人見を引き付ける容姿の白、彼女が泣き叫びながら黒狼の足にしがみ付くものだから、町行く人々が黒狼の方を見ながらヒソヒソと何かを話している。
明らかに良い話ではないと、何とか白を引きはがそうとする黒狼。往来で騒ぎ出す二人が注目を集めていると、一件の建物の建物から小柄な人影が飛び出し、叫び声が聞こえる。
「誰か!その餓鬼を捕まえてくれ!盗人だ!」
建物は簪や櫛などを扱う宝飾店で、店から飛び出したのはそこから商品を盗み出した子供らしい。子供はやせ細り垢だらけの体に土埃で茶色になった生地の薄いボロ雑巾の如き着物を纏っている。
見るからに貧困層出身という事が分かり、その両手に持っている色鮮やかな簪が違和感を掻き立てる。
一方の店からは番頭らしき立派な着物に身を包んだ男と彼の部下であろう従業員が少年を追っている。
「この餓鬼!捕まえたぞ!」
「白昼堂々盗みを働くなんざ、いい度胸してるじゃねえか!大人を舐めてんじゃねえぞ!」
子供と大人の体格差、それに加えてやせ細った少年の体では大人から逃げ切れるはずもなく、店から十丈程離れた所で番頭に追いつかれ、頭から石畳に叩きつけられる。
「おらさっさと盗んだ品を返しやがれ!」
「番頭!この餓鬼、拳を握って簪を離さねえぜ!」
「っこの、抵抗すんじゃねえ!」
頭から固い石畳に叩きつけられても、拳を握り簪を離そうとしない少年に痺れを切らした番頭達が少年の顔を殴っていく。
それでも少年は簪を離さず、それどころか体を丸めてより一層簪を離さずまいとする。
「てめえ!いい加減にしやがれ!」
番頭達は少年を殴るのを止めて立ち上がると、今度は少年の体を複数人で蹴っていき、周りの人間はその少年と彼を追う店の番頭達を黙って見ている。
「これは、流石にそろそろ止めたほうが、、、」
「・・・白殿、少々待ってもらえるか?」
品を盗んだ少年が悪いにしても、少々やりすぎな番頭達を止めようか迷っている白に対し、状況を見守っていた黒狼は周りの注目を集めている少年と番頭を無視して、宝飾店の方へと向かっていく。
すると、従業員がいなくなり空となっている宝飾店から編み笠を被り、キョロキョロと周りの様子を伺っている二人組の男が現れる。
「さてと、おい、少し待てそこの二人。」
目当ての人物を見つけた黒狼はその二人に近づき、問答無用で頭に拳骨を喰らわせて気絶させた。
「いい加減にしろ!さっさと諦めろってんだ!」
既に何度も蹴っているのに未だに商品の簪を手放さない少年に段々と番頭達は苛立ちを覚えてくる。このまま奉行所の同心に引き渡しても良いのだが、それだと苛立ちが収まらない。
同心が来るまで、もうあと二、三発ほど蹴りを入れようかと番頭達が考えていると、そこに編み笠を被っている気絶した男二人の首根っこを掴んで引きずる黒狼が声を掛ける。
「のう、その辺でやめておいた方が良いのではないか?」
「ああ、何だ!関係ない奴は引っ込んでろ!こいつはウチの店から盗みを働いたんだ!それともアンタがこの餓鬼が盗んだ簪を買ってくれるって言うのかい!」
被害者の筈である自分達に加害者を見るような視線を向ける黒狼に、番頭が怒り気味に怒鳴るが黒狼は怯えることなく、淡々と喋り出す。
「いや、別にお主達を咎めるわけではないが、流石にそれ以上やると少年が死んでしまうぞ?そうなっては奉行に御用になるのはお主達ではないか?」
「ぐっ、」
「それに、、、」
確かに冷静に考えれば黒狼の言う通りである事に気付いた番頭が一瞬、怯む。
「その少年は囮、本命はこいつ等だ。」
黒狼が首根っこを掴んでいた二人組を乱暴に番頭達の前に投げる、すると投げられた衝撃で二人組の懐から簪や櫛、宝石といった高級品の山がボロボロと零れ落ちていく。
「あっ!こいつはウチの商品の!」
「先程こそこそとお主らの店で物色していたので、捕まえておいた。」
男達が盗んだのはどれも店に並んでいる品の中でも高級品、全て盗まれていたら店を畳まなくてはいけない程だ。
まさか店が危うく倒産の危機になりかけていた事に気付いた番頭達が口を開けて呆然としていると、騒ぎを駆け付けたのか、町人が呼んだのか同心らしき者達が数人、騒ぎの場に現れる。
「おうおう!何騒いでんだお前ら、此処にいる奴ら全員しょっ引くぞ!」
激務で苛立っているのか、青筋を浮かべながら十手を振りかざす同心に慌てて町人が番頭や盗人、黒狼達から距離を取る。
「たくっ、一体何だってんだ!?」
「聞いてくれよ!こいつ等がウチの店の商品を盗もうとしたんだ!」
十手を持っていない方の手で頭をかいている同心に番頭が事態を説明すると、同心達が番頭の下で倒れている盗人達を舌打ちしながら縄で縛っていく。
よく見るとその中に簪を盗んだ少年はいない、恐らく番頭達が盗人に注目している間に逃げたのだろう。
兎に角これで騒動も収まったので、黒狼も場を離れようとするが予想外の事が起こる。
「おい、待てそこの唐傘背負った坊主!何逃げようとしてやがる!」
「ぬっ?」
去ろうとする黒狼を逃がさないように同心達が前方に立ちはだかる。
「さっさと両手を出しやがれ、ったく。」
「こうか?」
言われるまま両手を前に出すと、”ガチャン”と手枷を付けられる。
「お前も盗人共の仲間なんだろう?仲間を置いて一人逃げるつもりだったんだろうが、そうはいかねえぞ!」
「なぬっ!」
番頭から話は聞いていた筈なのに、何をどうしたらそうなるのか?盗人の一味と誤解された黒狼は何とか弁解をするが、同心たちは聞く耳を持たない。
ならば、と白に自分の無実を証明してもらおうと辺りをキョロキョロと見渡すと、民衆の隙間から笑顔でこちらに手を振っている白のが目に留まる。
見捨てられたことを察した黒狼はそのまま大人しく同心達に盗人の一味として連行されていった。
鉄格子の中から厭らしい笑みを浮かべて自分を眺めてくる白に苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる黒狼、此処は同心達が捕まえた罪人を入れておくための奉行所にある牢だ。
「大変だねえ、本当は盗人の一味なんかじゃないのに一味と間違えられて、このまま誰も証言してくれなかったら、本当に盗人にされちゃうねえ。」
「ああ、そうだな。誰か一人でも己が盗人と関りがない事を証言してくれれば助かるのだが。」
「ねえ、証言してほしい?証言してほしい?私に証言してほしい?え~、でもどうしようかな~?特に助ける義理とかないし、用心棒の話も蹴られちゃったしな~。このまま君を見捨てちゃおっかな~?ねえ、助けて欲しい?」
「本音を言えば助けて欲しい。」
「そっか、じゃあ!」
「だが、用心棒の話は断る。」
「まだ何も言っていないよ!」
しかし、その話はするつもりだったので再び断られた白が悲痛な叫びを挙げる。
「じゃあどうするの?このままだと無実の罪を被っちゃうよ!それに私に貸してもらった銭もまだ返してもらってない!」
「三十五北銭で勘弁してくれ。」
「全然足りないよ!」
鉄格子を掴んでガタガタと揺らす白、だが危険な自分の当てのない旅に彼女を巻き込む訳にいかない黒狼は断固として彼女の提案を断る。
そんな平行線の会話が続いていると、牢の入り口から一人の男性が入ってくる。
「悪かったな、兄ちゃん、ウチの馬鹿共がヘマをしちまってよ。」
派手な柄の着物を肩に掛け、右手に煙管を持った男性。年齢は二十代後半だろうか、顎髭をたくわえ、猛禽類のような鋭い目つきが特徴だが、本人が纏う雰囲気のお陰か、恐ろしい印象は無く、気の良い兄貴分といった印象を与える。
また男が持っている煙管なのだが、長さは一尺半ほどもあり、太さも男性の親指程に太い。
(喧嘩煙管か。)
「おっと、名乗らなきゃいけねえな。俺は焔ここいらの同心共を纏めてる頭だ。それでウチの馬鹿共が勘違いして兄ちゃんを捕まえちまった。けど安心しな、偶々騒ぎを見かけてた町の奴らが兄ちゃんは無関係だって証言してくれたよ。出してやっから、ちょっと待ってな。」
懐から鍵を出し、牢の鍵穴に差すと”ガチャッ”と音がし、鉄格子が開く。
「姐ちゃんも悪かったな、旦那さんをしょっ引かれて不安だったろう?」
「ん?待て、旦那?どういう事だ?」
「あん?この姐ちゃん、兄ちゃんの嫁さんじゃないのかい?奉行所にえらい勢いで”旦那が盗人として捕まっちまった。せめて一目会わせてくれって”泣きついてきたから、仕方なく通したんだが。」
「おい。」
「いや~、だって、知り合いだって言っても通してもらえなかったかもしれないし。」
下手な口笛を吹きつつ顔を黒狼から反らし、両手の人差し指を突き合わせる白。
「ん?何だ違うのかい?道理でおかしいと思ったぜ、兄ちゃんみたいな十五にも見えねえ子供がこんな別嬪の姐ちゃんを嫁さんに貰ってるなんてよ。」
「己は今年で十八だ。」
「はっ?おいおい、本当かよ。」
「えっ、嘘っ!こんなに小っちゃいのに!?」
「放っとけ。」
自身の背の低さと童顔を気にしている黒狼が少し剥れながら牢から出ると、彼と白の腹からキュルルと音が鳴る。そう言えばまだ飯を食べていなかった事を思い出す。
「腹が減っているのかい?じゃあ、そうだな間違えて兄ちゃんをしょっ引いちまった詫びと言っちゃあ何だが、飯をご馳走させてくれねえかい?」
そう言うと焔は腰に縛り付けている膨らんだ袋から林檎を取り出すと黒狼と白に投げ渡す。
「ま、これは飯を食うまでの繋ぎだ。嫌いじゃなかったら食ってくれ。」
「いや、果物、特に林檎は好物だ。」
手足に重りを付けて山で自らを鍛えていた少年の時代、食べ物と言えば腹の足しにしかならない味のしない木の実と獣臭い狼や熊の肉が殆ど、そんな中で偶に見つける野苺や野葡萄といった甘味の果物は黒狼にとって唯一の贅沢で、好物になっていった。
その果物の中でも林檎は特に好きだ。山を下りてからは師匠に鍛えられたのだが、偶にご褒美として口にすることが許されていた甘い林檎のお陰で厳しい修行を乗り越えられたと言っても過言ではない程だ。
「生で食べても美味しいけど、林檎って果醤にしても美味しいよね。」
「果醤を知ってるたあ、姐ちゃん、さてはアンタ結構いい所のお嬢様だろ?」
「ん~ん、私は唯の薬師。」
「それで、兄ちゃんはどうして気づいたんだい?」
「どう、とは?」
三人で林檎を齧りながら町を歩いていると、先頭を歩いている焔が振り返りながら問う。
「あの簪を盗んだ坊主が囮だってことにだよ。」
「ああ、その事か。それはあの少年が余りにも怪しすぎたのでな。」
「余りにも怪しすぎた?どういう事だい。そいつは。」
「あの店は簪や宝石といった品を扱い、客も雅な着物に身を包んだものが殆ど。そんな店に襤褸を身に纏ったやせ細った子供がいたらどう思う?」
「どうって、そりゃあ、、、」
「品を盗みに来たんじゃないかって、怪しむよね。」
顎に指を掛け首を傾げる焔と白。
「そうだな、だが盗人なら怪しまれないように盗む事を考えるべきだ。そうなるとあの少年は余りにも怪しすぎる。」
「それであの坊主は囮で、本命は別にいると気づいたって訳かい。」
「うむ、実際店の方を見ると騒ぎから逃げるように出て行く者を見かけたのでな。恐らく奴らが盗んだのだろうと。」
「かかかっ!兄ちゃん中々鋭いじゃねえか!ウチの頭の固い馬鹿共の面目丸つぶれだぜ!」
「いやいや、同心達はきちんと役目を果たしてくれたではないか。しかし、この林檎はとても甘くて美味だな。さぞ名のある品種なのだろう。」
謙遜しながら焔から頂いた林檎を齧る黒狼、野山で採れる林檎とは比べ物にならない程、瑞々しく甘い林檎に夢中になる。
もしやこの林檎は帝や帝に仕えている八人の将軍への献上品なのかと思い、焔に尋ねると驚きの返答が返ってくる。
「いや、コイツに名なんてねえよ。なんせ俺が趣味で育てているだけだからな。」
「なんと!」
まさかの焔の趣味だった。
「どうも俺は一度拘ると、とことん拘る性質みたいでな。気が付いたらこんな林檎が出来ちまってた。っと、そろそろ俺の行きつけの店だ。商人どもみてえな金持ちが通う店じゃねえが、味は保証するぜ。」
立ち止まる焔、彼の前方には一見の立ち食い蕎麦の屋台が構えている。確かに昼間から豪勢な食事を振舞われるよりもこちらの方が黒狼達としてもありがたいので、遠慮なくご相伴にあずかることにした。
「は~ん、じゃあ、兄ちゃんはこの薬師の姐ちゃんに金を借りていて、早く返したいと。姐ちゃんはそれに付け込んで兄ちゃんを雇いたいと、中々難儀な関係じゃねえか。」
「そうなんだ、私の護衛になればお金を返せるし、衣食住も保証してあげるのに、断っちゃってさ。」
「己にも、己の事情という物があるのだ。銭は別の仕事で稼いで返す。」
「私としては銭よりも、君を護衛として雇いたいんだけど。」
左から焔、黒狼、白の順に屋台の席に並んで各々の好みの具材を載せた蕎麦を啜っていると、二人の関係が気になっっている焔に、今朝までの付き合いを語る。
「でもよ、兄ちゃん、仕事なんてそう簡単には見つからねえぜ。日雇いの仕事なんざ、払われる銭もたかが知れてる。素直に姐ちゃんの提案を受けたほうが良いんじゃねえか?」
「そうだよ。大体、私のどこが不満なのさ!」
黒狼の方へ倒れるように白がしなだれかかってくる。
彼女の方が黒狼より背が高く、彼の顔に彼女の髪が掛かり、香でも付けているのか淡い花のような匂いが黒狼の鼻腔を刺激し、更に白の細くしかし肉付きの良い体の感触が左腕を通して伝わってくる。
「不満とか、そういうのではなくてだな。」
「それにこいつは同心としての俺からの忠告だが、この町で仕事は探さない方が良いぜ兄ちゃん。」
「む?それはどういう意味だ?」
しなだれかかってくる白に困惑していると、焔が真面目な顔つきで黒狼に告げる。
「兄ちゃん達は、今日初めてこの町に来たんだろう?じゃあ知らねえよな、今この町では結構厄介なモンが出回っててな。」
「厄介な物?」
「ああ、ソイツは、、、」
焔が箸を置き、説明しようとすると「お頭―!」と大きな声が聞こえてくる。
何事かと暖簾の隙間から外の様子を伺うと、黒狼を捕まえた同心の一人がこちらへ向かってくる。
「お頭!やっと見つけましたぜ!こんな所で何仕事から逃げ出してんすか!?」
「おいおい、人聞きの悪い事を言うなよ。俺は唯、仕事をお前らに任せてきただけだぜ?」
それを仕事から逃げ出しているというのだが、焔は笑い飛ばすばかりだ。
「それで、一体どうしたってんだ?」
「先程ひっとらえた盗人共を尋問しましてね。動機を聞いたんですが、、、」
「また、得楽汁絡みか?」
「ええ、どうにも得楽汁を常日頃から飲んでたみたいで、それで金が足りなくなって、盗みを働いたそうです。」
「っくそ!またかっ!」
悔しそうに両方の手を打ち付ける焔、詳しい事情は分からないが話を聞く限り、その得楽汁とやらに随分と苦しめられているようだ。
「分かった、それじゃお前はひっとらえた盗人共から、何処で得楽汁を買ったか、どんな奴が売ってたか、聞きだしてこい。俺も飯を食ったらすぐに奉行所に戻る。」
「ういっす!」
敬礼のような真似をしてその場を去っていく部下。
「っと、悪かったな、兄ちゃん達、食事時に堅苦しい話をしちまってよ。」
「それは別に構わないが、、、」
「さっき言ってた得楽汁って何?名前を聞く限りだと何かしらの飲み物みたいだけど?」
食事を再開しようとすると、ズイッと白が前に出てくる。
「あ、っああ、そんなもんだ。俺がさっき兄ちゃんに説明しようとした厄介な代物がその得楽汁ってやつさ。悪い事は言わねえ、もし得楽汁を売ろうってやつがいたら、関わらねえほうが良い。」
「ふむ、それは分かったが、得楽汁とは一体何なのだ。あっ店主、蕎麦のお替りを頼む、芋の天麩羅を乗っけてくれ。」
「うん、関わるなって言うけど、私達はその得楽汁が何なのかも知らないし。あ、私も蕎麦お替り、野菜と小海老のかき揚げを乗っけて。」
「少しは俺の懐具合も考えちゃくれねえか。」
遠慮なくお替りを要求する二人に安月給である焔の顔が青くなっていく。
食事を終え蕎麦の屋台を後にし、三人は奉行所に戻る道を歩く。
「ソイツが出始めたのは二か月くらい前だ。何でも万病に効く薬って名目で表じゃなく、裏で出回り初めてな。」
焔が得楽汁とやらについて、二人に説明をするがその顔は苦々しく歪んでおり、余り語りたくは無いのだろう。
「名前の由来は、西の大陸にある錬金術が盛んな国で作られた、えりくしいる、つうどんな病も治すどころか、不老不死にまで成れるっつう薬らしい。」
「万病に効く薬か、はっきり言って胡散臭いな。」
「ああ、俺もそう思う、だが実際にそれを買って飲んだ奴らは病気や怪我の苦しみや痛みが無くなったらしい。それだけじゃねえ、その薬を飲めば、この世のどんな娯楽にも勝る程の快楽を得ることが出来るんだとよ。そうしてえりくしいるが訛って、楽を得る汁っつうことで得楽汁と名付けられたんだとよ。」
「ほう。」
「そいうや姐ちゃんは薬師だったよな。どうなんだい、実際万病に効く薬ってのは実在するのかい?」
「ないよ、そんな薬。」
冷たい表情をした白は、焔の質問をバッサリと否定する。
「確かに複数の病に効く薬はあるよ、でも全ての病に効く薬なんてない。そもそも病によって薬の調合に必要な材料は変わってくるし、複数の薬を混ぜた所でそれで万病に効く薬が出来るわけじゃない。むしろ混ぜたら薬が他の薬の薬効を邪魔したり、下手したら毒になる事だってある。薬を作るのはそんな簡単な事じゃない。」
最初は淡々と喋っていた白だが、徐々に彼女の声色に怒りが混ざってくる。恐らく過去のインチキ妖術師の件を思い出し、怒りが沸き上がってきたのだろう。
「ふむ、白殿の言う通りならその得楽汁とやらを売っている輩は詐欺を働いている事になるのか?それで焔殿、同心達はそれを取り締まっていると?」
「詐欺ならまだマシだったんだけどよ。さっき言ったろ?得楽汁を飲めばこの世のどんな娯楽にも勝る程の快楽を得ることが出来るってよ。」
「うむ。」
「俺達はそれが蟲楽の雫じゃねえかって疑ってるんだよ。っと、蟲楽の雫っつうのはな、、、」
「いや、己は蟲楽の雫を知っておるから、説明は特に必要ない。」
「私も知ってるから、説明しなくていいよ。」
「本当かい!?薬師の姐ちゃんが知ってるのならまだしも、兄ちゃんも知っているとは。」
表では決して語られない存在、”蟲楽の雫”を知っている黒狼と白に焔が驚愕する。
大陸に存在する四つの国の中で最も強大な武力と兵力を携える『冷』だが、その長い歴史の中には栄光だけでなく、陰に葬られた闇の歴史も存在もある。
”蟲楽の雫”もその一つ、嘗て『冷』と別の大陸を行き来していた商人の一団が別の大陸から、『冷』には存在しない樹木の苗木を『冷』に持ち帰り、栽培を始めた。
その樹木は特に優れた木材になるわけではない、むしろ劣悪な木材にしかならない物だったがある特徴があった。
それはその樹木の葉を噛み、その汁を舌の上で転がすと気分が高揚して痛覚がある程度麻痺する事だ。当初はその特性を痛みの伴う外科手術などに活かされていたが、徐々にそれは歪んでいく。
気分が高揚し、痛みが無いという事は戦場での怪我や死の恐怖から逃れられるという事、それに気づいた薬師が樹木の葉から成分を抽出し、より薬効を高めた薬を作り出す。それこそが”蟲楽の雫”であった。
そうして作られた”蟲楽の雫”は幾万の兵に注入され、恐怖を無くした無敵の兵として他の三国を蹂躙していった。
だが、やがて”蟲楽の雫”の負の面が明らかになっていった。”蟲楽の雫”を摂取すればこの世の物とは思えない程の快楽を得ることができるが、摂取しすぎると中毒症状が発生することが判明したのだ。
それだけじゃない、思考力の低下や体の病に対する免疫機能の低下、それらに伴う狂暴化、”蟲楽の雫”を求めての国への犯罪行為などが”蟲楽の雫”を摂取した兵の間で大量発生した事で、当時の帝は自分が犯した過ちに気付く。
帝は直ぐに”蟲楽の雫”の製造、供給を止め、”蟲楽の雫”の製造法や元となる樹木の焼き払いを行った。
更に歴史書の記録からも”蟲楽の雫”の存在を消し、表の世界に、後の世に”蟲楽の雫”が残る事を徹底的に食い止めた。
だが、その当時の帝の尽力も虚しく、一部の薬師や兵は”蟲楽の雫”の製造法、苗木を手に国から逃げ、裏の世界で今も”蟲楽の雫”は流通している。
それを知った歴代の帝は密かに新たな法を定め、”蟲楽の雫”の売買と使用を禁止し、それを破った者を打ち首とした。
「成程、確かに聞けば聞くほど、その得楽汁という代物は蟲楽の雫に似ているな。」
「だろ、それでそれで俺達同心も気合を入れて見回りを強化しているんだが。」
「今も広まっているって事は、全然効果が無いんだね。」
「っぐ、ハッキリ言ってくれるじゃねえか、姐ちゃん。」
自分達同心の無能さをはっきりと指摘され、焔が情けない声を挙げる。
「薬の流通を止めたいのなら、薬ではなく薬を作っている者や売人を探せば良いのではないか?この広い町で広まっているのなら、売人も複数いるはず、総力を挙げれば。」
「いや、俺達も売人を探しているんだが、どうにも俺達の目の前には現れねえ。大方俺達の顔を覚えているか、考えたくはねえが俺達同心の中に裏切り者がいて俺達の見回りの情報を流しているんだろうよ。」
「それは、、、最悪だね。」
焔の話を聞き、苦笑いをする白。薬師としては違法の薬を売るなど決して許されることではない。
「それに、この間よ。偶々売人を見つけて後を着けていった新米の同心がいたんだが、口封じされちまってな。それに他の同心がびびっちまってよ。幾人か得楽汁の捜査から外してくれとまで懇願してきやがった。」
口封じとはこの場合、喉を潰し指の骨を折り、更に目も潰すことで喋る事も紙に文字を書くことも出来ず、目も見えない為、売人の元へ案内することも出来ない、自分達に関わる情報を決して漏らさないようにする為の拷問の事だ。
「っと、そろそろ奉行所だな。いいか兄ちゃんに姐ちゃん、絶対に得楽汁には関わるんじゃねえぞ。もし売人が近づいてきたら、即俺達に教えてくれ、銭は出せねえが。林檎や蕎麦を奢るくらいは出来るからよ。」
「あい、承知した。といっても己はこの町に長居するわけではないので、大して役には立てんがな。」
「ま、私も何かあったら連絡ぐらいは入れるよ。」
奉行所の門が見えてきたところで、焔は奉行所へと、黒狼と白は宿へと、各々の目的地に向かう為にそこで挨拶をし別れた。
「それで、明日はどうするの?」
二人で一晩過ごすには少々大きい部屋で、湯あみを終え夕餉を食べている黒狼に寝間着に着替え、同じように夕餉を食べている白が明日の予定を問いかける。
「どうも何も、白殿に借りた銭を返さねばならんからな。仕事を探す為に町に出るだけだ。」
「そんなことしなくても、私の護衛になってくれれば直ぐに返せるんだけどな。」
「断る、それで白殿は?」
「私はまあ、薬売ったり旅で不足している物を買い足すぐらいだよ。」
「そうか、兎にも角にも、今日は疲れた。己は食事を終えたら寝る。」
今日来たばかりの町で白から強引な勧誘を受け、盗人騒動で真犯人を暴いたにも関わらず何故か盗人の一味として捕らえられてしまった。確かに初日でこれでは疲れてしまうだろう、夕餉の大根とお揚げが具の味噌汁のしょっぱさが疲れた体に染みる。
「襲わないよね?」
「襲わん。」
食事を終えた後、黒狼も白も暇をつぶすような札遊びを持っていない事もあり、寝ることとなる。部屋に敷かれた二枚の布団は密着しており、宿の人物が二人をどのような関係と勘違いしているのか手に取るよう分かる。
「寝ぼけたとか言って襲ってこないよね。襲ったらアレだよ、責任取って護衛になってもらうからね。」
「襲わんと言っているだろう。」
自分から宿泊の金を払い、二人部屋を所望したというのに顔を真っ赤にして緊張する白。今の彼女が身に付けているのは窮屈にならないゆったりとした白の寝間着であり、生地が薄い事とその薄着を押し上げている露になった彼女自身の見事な肢体、特に瓜のような胸の強調が激しく、並み居る男を魅了する程の色気を放っている。
最も彼女の強引な勧誘に辟易していた黒狼は昼間の疲れもあって、特に何の反応もせず、そのまま布団に入る。
「お休み。」
「え、ちょっと、無反応!?ねえ、ちょっとってば!?」
すぐさま寝息が聞こえてくる黒狼に対し、自分の体に自信を持っている白は黒狼に自分の色気が通用しない事にショックを受けていた。
霧も深い早朝の川辺、平たい大きな石の上に小さい石を積み重ねていった石の塔に対し、その塔をくみ上げた黒い髪の少年、黒狼は握りこぶしを頂にある石と密着させる。
目を閉じ、息を整え彼女に教えてもらったコツを思い出す。
「・・・ハッ!」
全身に力を入れ、その力を拳に集中させる。すると頂にある石は弾かれ、ポチャンと川に沈む。
「ぬう。」
自身が思い描いていた結果にならず、よくわからない悔しさが混じった声を出していると黒狼の反対側から石を踏む音が聞こえてきて徐々に大きくなる、誰かが黒狼に近づいてきているのだ。
「朝から鍛錬お疲れ様、黒。今日も失敗だったね。」
「何だ、お前か。」
「何だって何だよう!折角朝餉を持ってきてあげたのに!」
右手に笹の葉で来るんだ朝餉を持ちながら、ぞんざいな対応をする黒狼に女性は怒って飛び跳ねる。
女性は黒狼より、少し年上に見える容姿で桃色の髪を後ろで縛り、恰好は裾の短い着物の上に甲冑の大袖、胸当て、膝当てを付けた、攻撃を受けやすい部位のみに防御を絞り、動きやすさを重視した装備となっている。
「もう、はいこれ。」
少し頬を膨らませながら女性は手に持った朝餉を黒狼に放り投げる、受け取った黒狼が包みを開けると中には蕎麦粉を水と卵で溶き、薄く焼いた生地に漬物や干した野菜、肉を包んだ『冷』では一般的な軽食、巻衣が入っていた。
「私が作ったんだけど、どう、美味しい?」
「不味、、、」
鍛錬の後、腹も減っていたので巻衣を口に含むと、巻衣を作った女性が期待に満ちた瞳で見つめてくるので黒狼は素直な感想を言おうとする。
すると、女性はニッコリと笑ったまま、黒狼が積み上げた一番上の石に拳を軽く当てる、そして次の瞬間、石から”パアンッ!”と甲高い音が響いて石が粉々に砕けちってしまった。
「どう?美味しい?」
「不味い、、、あだだだだだ!」
”美味しいと言え”という脅しに対し、なおも正直な感想を言う黒狼に女性は黒狼の頭を掴み、力の限り彼の頭を握りしめる。
「く~ろ、長生きするコツを教えてあげる。一つ、女性が愛情込めて頑張って作った料理には絶対に美味しいって言う事、二つ、女性に年齢の話はしない事、三つ、女性に体重の話はしない事、分かった?」
「わ、分かった、美味かったから話せ!」
頭蓋骨がミシミシと悲鳴を挙げてきている事に命の危機を感じた黒狼が必死に前言を撤回すると、女性は手を離す。
「全くもう、素直じゃないんだから。」
「脅迫ではないのか?」
「そんな事より、また寝られなかったの?」
黒狼が何とも言えない視線を女性に向けていると、女性が黒狼の両頬を掴み彼の隈だらけの両目を見つめる。
「別に寝ていないわけではない、ちゃんと睡眠は、、、」
「半刻しか寝れない事は睡眠って言いません!もしかしてこの鍛錬も、朝からじゃなくて夜眠れなかったからずっと続けてたんじゃない!?」
全く睡眠を取らない黒狼を咎める女性に、何も反論できなくなる。
「はあ、仕方ないなあ。」
女性は溜息を吐くと、その場で腰を降ろし正座になると自信の太腿をポンポンと叩く。
「ほら、膝枕してあげるから、少しでも寝ないと駄目だよ。」
「いや、己れは、別に寝たい訳では。」
「く~ろ。」
「・・・分かった。」
笑顔でまたも脅してくる彼女に逆らい、頭蓋骨を砕かれては堪らないと渋々黒狼は彼女の太腿に頭を載せ、横になる。
そのまま目を閉じていると、歌が聞こえてくる。どうやら黒狼が安眠できるようにと子守唄を歌ってくれているらしい。
やがて自分の意識がウトウトと朧げになってくる。
これは過去の記憶、黒狼がまだ影ノ刃の兵として自身の手を血で染めていた頃の思い出、そして顔面に鈍痛が走り、黒狼は目を覚ます。
「ねえ、もしかして怒ってる?」
「別に怒ってなどいないから早く食え。」
白と同じ部屋で一晩を過ごした後、部屋に運ばれた朝餉の巻衣を食べているのだが黒狼は無言で、一方の白は黒狼の顔を伺いながら食事を進めていた。
原因は黒狼の顔面、黒狼の左頬に人の足裏の形になって真っ赤に腫れた痕があるからだ。黒狼と白が互いに布団に潜り深い眠りに入った後、寝相が悪かったらしい白はなんと最初に潜った体勢から頭と足が逆になり、そして早朝どんな夢を見ていたのか、白は黒狼の顔面に鋭い蹴りを入れてきた。
「ほ、本当に怒ってない。」
上目遣いで黒狼の機嫌を伺う白。
「だから怒っていないと言っている、そんな事より衣を直してくれぬか?目のやり場に困る」
寝相が悪かった所為もあるだろう、白が来ている寝間着の帯は緩み切っており、寝間着は肩が露になり少し動くだけでそのまま落ちそうな程だ。
「さて、それでは己は昨晩伝えた通り、仕事を探してくる。それで白殿に借りた銭は返そう。」
「ふ~ん、返せるといいね。」
寝ぼけ眼で厭らしい笑みを浮かべる白、黒狼としては何とか今日中に金を稼いで白と縁を切らなければいけない。
何せ今日返せなかったら、再び宿に泊まる必要があり、そうなったらまた白に借金をすることになるからだ。
それを分かっているから黒狼は苦虫を嚙み潰したよう表情をし、白は期待に満ちた厭らしい笑みを浮かべているのだ。
「では、己は先に町に出る。」
「えっ、ちょっと待って、私も一緒に、、、」
食事を食べ終え、部屋から出ていこうとする黒狼に白も慌てて巻衣を胃に流し込む。白の目的は薬を卸す事だが、それと同時に黒狼の後もついていこうと考えていた。
目を離したすきに黒狼が逃亡する恐れもあるだろうし、仕事が見つからず絶望する黒狼に救いの女神の如く用心棒の仕事を持ち掛けてやろうと考えているからだ。
そうすればきっと黒狼は歯を食いしばり、悔しそうな表情をしながらも自分の提案を受け入れるだろう、ゾクゾクと歪んだ優越感が湧き出てくる。
それなのに黒狼はさっさと部屋を出ていこうとするので、白も走るようにして立ち上がる。
その結果、ただでさえ緩んでいた帯はシュルリと完全に解けて床に落ち、少し遅れて寝間着も床に落ちる。
西の大陸と違い、『冷』含め四つの国に広まっている下着は褌や晒といった布で固定式ではない、昨晩の寝相の悪さでそれも緩んでしまったのだろう、よく見ると寝間着の内側に細長い布が二枚ほど見える。
結果、白は黒狼の目の前で自らの裸体を晒してしまい、その衝撃、いやもはや暴力の具現化ともいうべき彼女の見事な体に黒狼の動きが止まる。
「いやああああああ!」
早朝の宿場町に女性の悲鳴と何かを叩くような甲高い音が鳴り響いた。
少々騒動があったものの、左頬に新たに真っ赤な紅葉を浮かべた黒狼は早朝にも関わらず既に働き始めている商店の者達に日雇いの仕事が無いか、相談しに行ったのだが成果は芳しくなかった。
例えばとある八百屋では、
「悪いね、人手はもう足りていて必要ないんだ。」
と言ってあっさり断られ、また別の酒場では、
「お前みたいな子供なんざ、雇ったところで客なんか増えやしねえよ!むしろそこの姐ちゃんの方がいい客寄せになりそうだな、もっとこう着物をはだけてよう!お酌だけじゃなく、もっと別の奉仕も、、、ぐぐぐ!」
人が気にしている背の低さと童顔を笑った挙句、白殿にやらしい視線を向けてふざけた事を言ったので、首を掴み黙らせた。
「駄目だ、全然見つからん。」
このまま時間が過ぎれば過ぎるほど、日雇いの仕事が見つかる可能性は低くなっていく。
暗い表情を浮かべる黒狼に対し、このまま仕事が見つからなければ彼を用心棒として雇えるかもしれないと白はウキウキとした表情を浮かべている。
「まあ、仕方ないよ。仕事なんてそう簡単に見つからないよ。うん、仕方ない。」
「何故白殿は笑顔だ?」
「でも困ったね。このままじゃ私にお金が返せなくなっちゃうし、今日仕事が見つからなかったらまた宿に泊まらなくちゃいけない。そうなったらお金が無い君は私に借りるしかない、かさむ一方だね!」
「言われなくても分かっている。笑顔で言うな。」
いつ用心棒の話を切り出そうかと悩んでいる白を無視し、黒狼は必死に急ぎ足で町を周り日雇いの仕事が無いかを辺りの店に尋ねる。
が、返ってきた返答は二つのみ、『人手は足りているから必要ない』と『客寄せとして白の方を雇いたい』だ。
「・・・」
「あっ、え~と、元気出して。」
店の者から散々身長と童顔の事を揶揄われ、断られ続けた黒狼。道の端で足と腕を組んで沈んでいる彼に流石の白も何と声を掛けて良いか分からなくなる。
「んっんう!よし、そんな仕事が見つからない君にいい仕事を紹介してあげましょう!衣食住も保証!雇い主も美人なその仕事は、」
「おっ?兄ちゃんに姐ちゃんじゃねえか!また会うとは奇遇だな。」
それでも心を鬼にして黒狼に用心棒の話を持ち掛けようとした白だが、その瞬間に声が掛けられ遮られる。
声の主は昨日会ったこの町の同心達を束ねる焔だ、右手には喧嘩煙管も持っている。
「おいおい、どうしたんだい兄ちゃん?こんな道の端で蹲っちまって。」
「仕事が見つからぬのだ、、、」
「あー、そういや昨日日雇いの仕事を探してるって言ってたな。」
黒狼の一言で事情を全て察した焔が頭をかく。
「日雇いの仕事ねえ、紹介できない事もないが、、、」
「本当か!」
「うおっ!」
小声で聞こえないよう口に出したのだが、絶望に打ちひしがれていた黒狼にはばっちりと聞こえていたらしい。
顔を上げ、焔に迫る黒狼。後ろでは白が『何余計なことを言っているんだ』と敵意の籠もった眼差しを焔に向けている。
「いや、確かに兄ちゃんに紹介できる仕事はあるが、あんまりお勧めできる仕事じゃねえんだよ!」
「どういった仕事なのだ!」
「どうって、取り敢えず落ち着けよ兄ちゃん。」
「う、うむ。すまなかった。」
落ち着きを取り戻す黒狼に焔は仕事の内容を説明する。
「俺が紹介できる仕事ってえのは、薪を運ぶ仕事だ。この町は宿場町、町にある宿全てには風呂が付いている。風呂があるっつう事は湯を沸かす為の薪が必要だ。それで切り取って乾かした薪を宿に運ぶ仕事があるんだが、宿の数が多すぎて人手が足りてねえんだよ。おまけに薪の束は重い、人手が少ないうえに重労働っつう事で自分から懇願する奴もいない。だから頼めばすぐにでも直ぐにでも雇ってくれるだろうよ。」
「おお!」
「でもよ、かなりキツイ仕事だぜ?それでもやるかい?」
「無論だ!」
「俺としちゃあ、余りやって欲しくないんだけどな、、、しゃあねえ、紹介してやるよ。」
「うむ、頼む。という訳で白殿、済まないがそなたが紹介する仕事はいらぬ。」
「ぐぬぬぬ。」
先程と打って変わり、笑顔の黒狼に悔し気に歯を食いしばる白。そのまま焔に町の外れまで案内される、たどり着いた場所には大きな薪の束を縄で縛った物が幾つも積み上げられ、男達がそれを両肩に背負っていた。
「ああん!日雇いで雇ってくれだと!いくら焔の旦那の紹介でもお前みたいな薪一本運べそうにないチンチクリン、雇う訳ないだろう!」
作業場の仕事を取り仕切っている親方なる人物に事情を話して雇ってもらおうとしたのだが、親方は黒狼の姿を見て、すぐさま戦力外通告をする。
「成程、要は薪を運べればいいのだな。」
「応!言っとくけど、薪一本だけじゃねえぞ、そこにある束を最低二、束、、は、、、」
「これでよいか?」
なんてことの無いような表情で黒狼は薪の束を両肩に二束、計四束背負った黒狼に親方は言葉を失う。
「こりゃあ、たまげた。」
「それで、己は雇ってもらえるのだろうか?」
「あ、ああ!勿論だ雇うぜ!」
親方は未だに信じられないような光景を見ているような表情だが、実際に黒狼は薪の束を運んでいるのだ。
断る理由が無い親方は、そのまま今日だけの日雇いとして黒狼を雇った。
影ノ刃の兵の兵として幼き頃から鍛えられ、その姿からは想像もつかない程の身体能力を誇る黒狼にとって薪運びの仕事など、準備運動程度にしかならなかった。
何せ、子供の頃は手足に今背負っている薪よりも重い鉄の重りを付けて野山を駆けまわっていたのだから。
そうして、普通であれば夕暮れ頃に終わる薪運びの仕事が昼飯時を少し過ぎたあたりで完了してしまい、親方や他の荷物運びの者達は開いた口が塞がらなかった。
「こいつはたまげたぜ、まさかこんな日が出てる内に薪を運び終わるなんざ、しかも他の奴らが運んでた薪も一緒に。」
「ふう、これで運ぶ薪は終わりか?」
「あ、ああ、そうだが。」
「ふうむ、焔殿からは重労働だと聞いていたが、それ程でも無かったな。」
しかも運んだ黒狼本人は息切れすらしていないのだから、もはや何も言うまい。兎にも角にも仕事は完遂したので、親方は今日の分の賃金を黒狼に手渡す。
「最初は驚いたが助かったぜ坊主、ほらよ。今日の稼ぎだ。」
「何!こんなにか!」
親方が手渡した銭は十北銭が三枚、計三十北銭であり、日雇いとしては中々の支払いだ。
「坊主のお陰で仕事が早く終わったし、他の奴らの分の薪も運んでくれたからな。その分上乗せしといた。」
「忝い。」
「いや、礼を言うのはこっちさ。それでどうだ坊主、もしお前さんが良ければこのままウチで働かないか?その分賃金も、、、」
「ああいや、申し訳ない。訳あって己は流浪の身、今日にでもこの町は出ようと考えているのだ。」
「そうか、ソイツは残念だ。」
本当に残念そうな顔をする親方や薪を切る職人、運ぶ者達に頭を下げながらその場を後にする黒狼、すると入り口で焔が彼を出迎えてくれた。
「よお兄ちゃん、聞いたぜ!何でも薪運びで大活躍だったじゃねえか!兄ちゃん達が泊ってる旅館でも感謝されてたぜ。」
「焔殿、どうして此処に?」
「俺が紹介した仕事だからな、きちんと最後まで面倒見なきゃいけねえだろう?ま、いらぬ世話だったみてえだったがな。」
腰に付けた袋から林檎一玉を黒狼に放り投げる。
「疲れた時には甘いもんだ。ソイツは俺からの駄賃として受け取ってくれや。」
「それでは遠慮なく。」
そのまま林檎を齧りながら白に借りた金を返すべく、宿に戻る黒狼と彼に着いていく焔。
「そう言えば、得楽汁についてはどうなのだ?」
「いや、そっちは何も進展がねえ。」
苦虫を嚙み潰したような表情の焔。
「でも、俺達が守ってるこの町でこれ以上好き勝手される訳にはいかねえからな。ぜってえ、売人共はひっとらえるさ。」
両腕を打ち付ける焔、その目は得物を狙う猛禽類のように鋭い。
やがて、宿が見えてきて背中に大きな籠を背負った白と目が合う。
「さてと、そんじゃあな兄ちゃん。俺は仕事に戻るぜ。」
「うむ、林檎、ありがとうな。」
焔と別れ、白の元へと向かう。無事に銭を稼ぐことが出来、笑顔の黒狼とは反対に白は少し膨れている。
本当なら貸した金を理由に黒狼を用心棒として雇える事が出来たのに、焔が仕事を紹介した所為でそれがご破算になったからだ。
「待たせたな、白殿。薬は卸せたのか?」
「うん、丁度不足していたみたいで軟膏や風邪の薬がたくさん売れた。これなら暫くはこの町に留まっても問題ないくらいに。」
「そうかそうか、それは良かった。しかし、何故膨れているのだ?」
「ぐぬぬぬ。」
「おっと。」
嫌味を言う黒狼に恨みがましげな視線を向ける白、しかし黒狼が子供がぶつかってきたことでそちらに視線を奪われ、それに気づいていない。
「っと、白殿。そなたに借りていた銭だが、無事今日の稼ぎで返せることになった。」
「へええ、それは良かったね。」
「うむ、少々待っ、」
懐から財布を取り出そうとする黒狼だが、彼の動きが止まる。
「済まぬ、白殿。借りた銭が返せなくなった。」
「はっ?」
「どうやら先程ぶつかった子供に財布を盗られてしまったようだ。今の己は無一文だ。」
「ええ!?」
宿場町の端にある廃材で作った建物が並ぶ区画、職を無くし金を無くし、落人となった者達が行きつく先、来るもの拒まず、去る者追わずの落人町。
前科者やゴロツキが平気で闊歩する町を襤褸を纏った少年が黒狼から盗んだ財布を必死に離すまいと握りしめながら、走っていく。
やがて、今にも風が吹いたら倒れてしまいそうな小屋の前に立つと、家を壊さないようにゆっくりと扉を開けて中へと入る。
「ただいま、母ちゃん。体の具合はどう?」
「お帰り、甚太。」
小屋の中には清潔とは言えない布団で横になっている女性がおり、体を起こして少年を出迎えようとする。
「馬鹿!母ちゃんは寝てろよ!体に障ったらどうすんだよ!」
「別に体を起こすぐらい、どうってことないよ。」
そういう女性だが、ゴホゴホと苦しそうに咳をし、安静にしないといけない事は素人でも分かる。
「ああ、もう寝てろって、母ちゃん。」
甚太と呼ばれた少年も女性、母親をゆっくりと布団に横にさせて、額に乗せていた濡らした布を取り換える。
「母ちゃん、どんどん咳が酷くなってる。」
「大丈夫だよ、これくらい。」
気丈に振舞う母だが、甚太は母が日を増すごとに衰弱しているのを知っている。
「母ちゃん、もう少しだけ我慢してくれよ。もう少し金が貯まったら、おいらが得楽汁を買って母ちゃんの病気を治すから。ほら見てくれよ、今日の稼ぎ、何と六十五北銭だぜ!」
掌の財布から銭を取り出し、母親に見せる甚太。しかし母親の顔は曇る。
「甚太、アンタそんな大量の銭、どうやって稼いだんだい?」
「どうって、、、そんなの薪運びで。」
「アンタみたいに細い子が重い薪運びでそんなに大量の薪を運べるのかい?」
「えっと。」
息子がお天道様に顔向けできない手段で金を持ってきたことに気付いた母が叱るように、諭すようにゆっくりと語り掛ける。
「それにアンタ昨日は体中に青痣を作って帰ってきたじゃないか。甚太、アンタもしかしてゴロツキ共と付き合ったりしてないだろうね。此処にいるゴロツキ共は殆どが前科持ちだよ。そんな奴らと付き合いなんて持ったら、」
「ち、違うよ!この銭は本当においらが稼いで!」
「いや、その銭を稼いだのは己だ。」
閉めた玄関をスパンと開けて家に入ってくる童顔の青年、黒狼。彼の後ろには金髪の長い髪の女性、白も一緒だ。
「っげ、テメエは!」
「その銭は、己の銭だ。返してもらうぞ。」
気づかれないように注意して財布を盗んだのに、彼の匂いを辿って追ってきた黒狼に甚太が掌の金を奪い返されないように腰の後ろに回す。
「ちょっと、甚太!どういう事だい!」
「か、母ちゃん。ち、違うよこの銭は本当においらが薪運びの仕事で稼いで、」
「ほう、それはおかしいな。己も薪運びの仕事を今日したのだが、お主のような子供は見かけておらんぞ。まあ、己が見逃したこともあるだろうが、其処は親方に確認すればわかるだろう。」
薪運びの仕事は基本、力があれば素性不明でも雇ってくれる、その為甚太は金の出所として無難に薪運びの仕事と嘘を吐いたのだが、それが裏目に出てしまった。
前方には黒狼、後方からは自分を責めるような母の視線。自分が責められてる状況に幼いながらも勝気な性格の甚太は一気に頭に血が上り、逆上する。
「ぬ、盗まれる間抜けなお前が悪いんだろ!この銭はおいらのモンだ!お前なんかに一北銭も返してやるもんか!」
「甚太!アンタ人様の銭を盗むなんて!」
「何で母ちゃんが怒るんだよ!この金は母ちゃんの病気を治すために!金があれば薬が買えて母ちゃんの病気が治るんだよ!」
「だからって、アンタ。人様から盗んだ金で買った薬で病気が治ってアタシが喜ぶと思ってんのかい!」
「何でだよ!何で分かってくれないんだよ!」
母の病気を治すために手を汚した甚太、息子である甚太に人として真っ当に生きて欲しい母、互いを想いあうが故に平行線の親子。
「母ちゃんの分からずや!」
「あっこら、待ちな甚太!」
黒狼から盗んだ金は握りしめたまま、甚太は黒狼と白を押しのけて家から飛び出していく。
「甚太、アンタ、ゴホッゴホッ!」
「大丈夫か!?」
息子を止めようと母は手を伸ばすが、途中で咳き込んでしまい蹲る。流石に目の前の病人を放っておくことが出来ない為、黒狼は一旦甚太を追うのを止める。
「す、すみません。ウチの息子が。」
「そんな事よりも、早く横になれ。」
「ちょっと、ごめんなさい。あ、黒狼は少しの間、外に出てて。」
母親を横にすると、白が黒狼を押しのけて彼女の口を開け、喉の奥を眺めたり顔色を眺めていたと思うと、いきなり着物を脱がそうとする白に黒狼は彼女の言いつけ通り、家の外に出た。
「先程は息子が無礼を働いて申し訳ございません。それどころか、銭を盗むなんて。」
「いや、まあ、返してもらえれば別に構わないのだが、気を付けたほうが良いぞ。あの少年、かなり手慣れていた。もしゴロツキ共からも銭を盗もうとして取り返しのつかない事になるかもしれない。」
「ええ、アタシの方からもきつく、ゴホッゴホッ!」
「無理に喋らないでくれ。」
「そうだよ。さっき軽く触診したけど、あなた肺炎でしょ。大人しくしてなきゃ駄目だよ。それであなたの子供が盗みを働くのは、、、」
「ええ、見ての通りです。」
苦しそうに咳をする病気の母親、見るだけで金がないと分かる家。此処までくればおのずと甚太が盗みを働く理由など察しが付く。
「アタシは元々とある宿で働いておりました。十六の時ですか、ある商人に恋慕の情を向けられたアタシは一晩だけ関係を持ちました。その時の子が甚太です。けれど身籠った私は暫く働けなくなり、宿を追い出されました。更に商人は既に町を出てしまい、何処に頼ることが出来ず、この落人町で甚太を産み、あの子を立派に育てようと必死に働いたのです。けれど、無理が祟ったのか、今はこのように病気を患ってしまい、銭が無い故、医者に診てもらう事も薬を買う事も出来ず、そんなアタシの為に甚太は必死に万病に効くと噂になっている得楽汁を買おうと銭を稼いでいたんですけど、人様から盗むなんて。」
悲しそうな顔をする母親、息子が盗みを働いている事、その理由が自分の病気を治す為の薬を買う為である事、自分が病気になった所為で息子に盗みを働かせてしまった事など、息子への怒りや自分自身への怒りなど、複雑に感情が入り混じっているのだろう。
「あの、これは余計な世話かもしれぬが、得楽汁には手を出さん方が良いだろう。もしかしたらアレはそのような都合の良い代物でもないかもしれない。」
「そうだよ。万病に効く薬なんて存在しないよ。薬師の名に懸けてもいい。」
「そもそも、ウチにあんな高い薬を買う銭なんてありませんよ。」
焔から得楽汁の正体が”蟲楽の雫”かもしれない事を聞いていた黒狼がそれとなく注意するが、母親は金がないからと笑い飛ばす。
「あなたはそうかもしれないけれど、甚太君は違うよね?彼はあなたの病を治そうと得楽汁を求めている。本当に手遅れになる前に、あなたから甚太君を止めてあげて。」
「っと、長居してしまった。己達がいては甚太殿も帰ってこれないだろう。銭はまた別の日に改めて。」
「ええ、必ずお返しします。」
見送ろうとする母親を寝かせ、家から出ていく黒狼と白、ふと視線の端に気まずそうに立っている甚太が写る。
「おや?」
「わ、悪かったよ。銭盗んで。」
このまま家に帰っても母親に怒られることが分かっているのだろう。近づいてきた甚太は黒狼に握っていた六十北銭を返す。五北銭足りないが、そこは聞いてやらない事にする。
「のう、お主は母を病気から救いたのか?」
「あ、当たり前だろ!母ちゃんが病気になったのはおいらに飯を食わせる為に無理して働いた所為なんだから。」
「だとしたら、得楽汁には手を出すな。」
「な、なんだよいきなり!」
大して深い付き合いでもなければ、助ける義理もない、寧ろ金を盗まれた被害者なのだが母を救おうと必死にもがく甚太を黒狼は放っておくことは出来ず、ついお節介をしてしまう。
が、甚太がそれを受け入れるかどうかは別だ。寧ろ母を救う希望である得楽汁に必死に縋り付き、手を汚してきたのに、今更希望を否定など出来るはずもない。
例え得楽汁が母を救う事が無いとしても、その現実を受け入れるわけにはいかないのだ。
「いい、よく聞いてどんな病も治す薬なんて存在しない。ううん、いつかは作れるかもしれないけど、少なくとも冷にそんな薬は存在しないの。仮にそれを謳う薬があるとしたら、それは客から金をむしり取る為の甘い虚言に過ぎないんだよ。そんな物の為に盗みを働いたって甚太君のお母さんは、、、」
「そんな訳ない。おいらは見たんだ!得楽汁を売ってる奴が病人に得楽汁を飲ませた途端、ソイツが元気になったのを!あれを飲めば母ちゃんだって!」
「ん!?おい、ちょっと待て甚太!お主今何と言った?」
「へっ?」
甚太が道を踏み外さないよう優しく諭す白の言葉にも耳を傾けず、得楽汁の凄さを語る甚太。すると彼の言葉の中に聞き捨てならない単語を拾った黒狼が甚太の肩を掴み詰め寄る。
「得楽汁を売ってる奴と言ったな。もしかしてお主は得楽汁の売人を知っているのか?」
「う、うん。得楽汁を売ってる奴らは落人町にあるデカい廃寺に住んでるから、あっそうだ!兄ちゃん達も来いよ!兄ちゃん達もくれば得楽汁の凄さが絶対に分かるよ!」
得楽汁について思わぬ手がかりを手に入れてしまった。
先頭を歩く甚太に着いていく黒狼と白、白に向けられるゴロツキ共の厭らしい視線に耐えながら落人町の奥へ奥へと進んでいくと、やがて目の前に大きな寺が見えてくる。
廃寺と言っていたように屋根の瓦は一部が砕けて剥がれ落ち、また寺を支える柱の内、何本かにもヒビが入っているが、それでもしっかりと形を保っている。
日が傾きかけて中が暗いのか、蝋燭の明かりも幾つか見える。すると同心など余計な人間が入ってこないよう入り口を守っているのか、禿頭でガタイの良いゴロツキに甚太が近づく。
「おう、甚太。今日も来たな。」
「うん、母ちゃんの病気を治す為だから、はいこれ。」
「はいよ、ん?今日はこんだけか?」
「うん、今日は稼ぎが少なくって、あっ!でもちゃんと銭は用意するからおいらの分の得楽汁は取っておいてくれよ。」
「ああ、わかってるよ。それで後ろにいる奴らは何だい?」
落人町には似つかわしくない小綺麗で清潔な着物を身に纏った二人、門番の男が黒狼と白を怪しむ。
「それがこの兄ちゃん達、得楽汁が偽物何じゃないかって疑ってるんだよ。それで本物の得楽汁を見せてやりたくってさ。」
「いや、けどなあ。」
顎に手を当てジロジロと二人を品定めする門番、男の方は金を持っているように見えないし、女の方も見目麗しいが金持ちとは思えない。
二人を寺の中に入れようかどうか門番が悩んでいると、白が着物の胸元を少しだけ露にし、右人差し指を口に咥えて上目遣いで門番に近寄る。
「あの、私、薬師として商いをしているんですけど、なんでもこの町では万病に効くっていう得楽汁という名の薬があるみたいじゃないですか?薬師としてはそれにとっても興味があるんですけど、中に入れてもらえませんか?」
「い、いや、けどな。」
「駄目、ですか?」
髪に隠れながらも僅かに見える目を潤ませ、左手で胸を押し上げる白。彼女から放たれる色気に最初はいかつい顔をしていた門番の鼻の下が伸びていく。
「ま、まあ、見るくらいなら別にいいけどよ。」
「本当!ありがとうございます。」
笑顔の白に門番はあっさりと彼女を寺の中へと招き入れる。尚その時、門番が彼女を握手をしようとしたのだが、白は見えていないかの如く無視をする。
「甚太。」
「何?」
「ああいう女には、気を付けろよ。」
「うん。おいら、将来は絶対あんな馬鹿な男にはならないよ。」
白のお色気作戦により無事に寺の中へと入る事が出来た三人。既に寺の中には多くの人がおり服装から、商人若しくはそれなりに裕福な者達を集めているようだ。
「商人さんがいるけど、皆若い人達ばかりだね。」
「まあ、万病に効く薬なんて胡散臭げなもの、商いに精通している者なら簡単に手は出さないのだろう。」
耳元で語り掛けてくる白の言う通り、商人の全てが皆、黒狼や白とそれ程年齢が変わらない商人駆け出しと言った者達ばかりだ。
大方、何とか一山当てて大儲けしようと万病に効くという得楽汁の噂を聞きつけて、買い付けに来たのだろう。
「そう言えば甚太、お主外にいた男に銭を渡していたがアレは一体何なのだ?」
「先払いで母ちゃんの分の得楽汁を取ってもらってるんだよ。おいらの家は貧乏だから得楽汁を買う銭なんて無くて銭を貯めなきゃいけないんだけど、その間に売切れたら困るから先に小銭を渡して母ちゃんの分の得楽汁を取ってもらってるんだ。それで得楽汁を買えるだけの銭が貯まったらおいらに得楽汁をくれるって。随分経つし、そろそろ得楽汁が買えるはずだ、そうすりゃ母ちゃんの病気なんざ直ぐに治る。」
「ふむ、そうか、、、」
案内された場所に座り、嬉しそうに語る甚太だが嫌な考えが頭をよぎった黒狼は複雑な顔だ。
そうこうしているうちに寺の奥から一人の若い男が現れ、ザワザワと騒がしかった寺内が静まり返る。
「おうおう、今日も沢山得楽汁を求めて人がわんさか集まってきてんなあ。」
派手な柄の着物を着崩した縮毛の男、ぎろりと得楽汁を求めた金づるを品定めする様子は言い方は悪いが、悪徳商人のようにしか見えない。
「さて、それじゃあ早速お前らが欲しい物を紹介してやる。これが俺達の商品、万病に効く薬、得楽汁だ!」
竹で作った水筒を頭上に掲げる男、それに合わせて周りが「おおっ!」と騒ぎ出す。男はそのまま部下に盃を用意させると中身を注ぎだす。
「お前らも噂を聞いてるんなら知ってんだろうが、コイツを飲めばどんな病も立ちどころに治っちまう。それだけじゃねえ、この世のどんな娯楽も比べ物にならねえほどの快楽が得られる。」
盃を手に持ち、揺らす男。得楽汁の見た目は唯の水だ。
「俺達はこれをこの町にこの国に広めようと考えてた、けれど国はそれをお許しにならなかった。何故だか分かるか?簡単だ、これが国に広まっちまえば、薬師や医者が必要なくなるからだ。国の政に関わってる貴族や金持ち商人どもは藪医者や薬師から銭を受け取る事で奴らの悪事を見逃している。得楽汁が広まって藪医者や薬師がいなくなれば、その銭を受け取れない。だから奴らは決してこの得楽汁の販売を許可しない。」
男の発言に多くの客が憤りを覚え、国への怒りを露にしていく。まだ若い商人、自分の思う通りに商いが上手くいかず、その不満も重なっているようだ。
「けど、俺らは諦めねえ。例え国から処罰されようとも、多くの民を救う為にこの得楽汁を売って売って売りまくってやるぜ!」
さも自分が救世主であるかのように両手をあげて立ち上がる男、実に演技臭い。
「さて、それじゃあ早速商売を、、、」
「ねえ、ちょっといいかな?」
「あん?」
いよいよ得楽汁の売買が始まろうと言うところに、白が片手を挙げてそれを遮る。
男は邪魔者が現れた事に舌打ちをし、白を睨むが彼女が美人であると気づいた瞬間、笑みを浮かべる。
「その得楽汁って薬なんでしょ?」
「ああ、そうだが、それが何か?」
「いや、薬なら材料は何かなって、気になっちゃって。」
「何だ、そんな事か、おい!お前ら、急いで葉を持ってこい!」
男が後ろに向って叫ぶと、部下らしき男が藁で包まれた黒色の枯葉のような物を持ってくる。
「これが得楽汁の原材料だ。コイツを水に付けて煮だして作ったのが得楽汁だ。」
「へえ。」
自慢げに男は枯葉と得楽汁の作り方を説明するが、髪に隠れている所為か白の目つきが鋭く冷たいものに変わっている事に気付いていない。
「さて、ちょっと邪魔が入ったがこれから得楽汁の売買を、、、」
「た、助けてくれないか!」
「ああん!今度は何だよ!」
今度こそ得楽汁を買う事が出来ると期待した商人や客達だったが、再び邪魔が入る。寺の入り口を乱暴に開けて入ってきたのは二人の男で、一人は苦しそうにうめき声を挙げ、もう一人の男に背負われている。
「道を歩いていたら急にこいつが苦しみだしてよ!急いで医者の所に向かったんだが、どうにもならねえってんで、なあ此処には万病に効く薬の得楽汁ってのがあるんだろ!?頼むそれでこいつを助けてくれちゃくれえねかい!?」
「ああ、腹が痛え!頭が痛えよ!助けてくれ!このままじゃ俺死んじまうよ!ああ、痛え!痛え!」
客をかき分けながら得楽汁の売人の元へと向かう二人。背負われた男は苦しそうに藻掻いているが、汗はかいておらず、顔も青くなければ赤くもない、いたって普通の顔色だ。
「痛え!痛え!誰か助けてくれよ!」
「おうおう、コイツは大変だ!丁度いい、此処にいる客の中には得楽汁を偽物じゃねえかって疑っている奴らもいるだろう!お前らよっく見とけよ!」
売人の男は背負われた男を横にすると、水筒の蓋を開いて男の口にゆっくりと流し込む。
「おい、これで本当に助かるのかよ!」
「まあ、落ち着いてよく見とけよ。」
そうして売人だけでなく周りの客達も見守る中、徐々に得楽汁を飲んだ男の顔が苦しそうな表情から、快楽を味わっているかのような笑みに変わる。
「おお!痛みが消えた頭がすっきりしたぜ!」
「どうよ、コイツが得楽汁の薬効よ。」
「ありがてえ、本当にありがてえ!」
得楽汁を恵んでくれたことに仲間の男が頭を下げて礼を言う、一方の売人の男は黒狼達、客を見回す。
「どうだ!これで得楽汁が偽物じゃねえて分かったろう!さんざん邪魔が入ったが得楽汁の売買をするぜ!買いたい奴は銭を出しな!」
「なあ、アンタ達も見ただろ!やっぱり得楽汁は本当にすごい薬なんだよ!あれがあればおいらの母ちゃんだってきっと病気が治る!」
目の前で起こった奇跡に商人達が躍起になって、得楽汁を競り落とそうとし、甚太は曇りのない目で得楽汁の入った水筒を眺める中、黒狼と白はそれを鋭い目で見ていただけだった。
夜も更け、日中に働いていた商人達が仕事を終え、代わりに宿や飯屋を営んでいる者達が忙しくなる時間帯、通り道にポツンとある立ち食い蕎麦の屋台で三人の男女が蕎麦を啜りながら、会話をしている。
「何!得楽汁の売人を見つけたっってのかい!兄ちゃん達!」
黒狼達の話を聞き、危うく蕎麦を吹き出しそうになり、口元を抑える焔。
「ああ、偶々売人の場所を知っている少年と知り合ってな。己達が得楽汁について信じていないと言ったら案内してくれた。」
「そ、それで得楽汁を売ってる場所って言うのは?」
「落人町にある廃寺、そこで若い商人さん達を招いていたみたい。」
「落人町、、、そういや、やたらと落人町の見回りに回して欲しいって懇願する新人がいたな。くそっ恐らく売人共とつるんでるな。」
悔しそうに右手の拳を左手に打ち付ける焔。
廃寺での一幕を見た黒狼と白は特に騒ぎを起こさず、その場を後にし直ぐに焔と接触をはかった。得楽汁の売人についての情報だと彼に伝えると、裏切り者がいる可能性と礼を合わせて、昨日立ち寄った蕎麦屋で食事をしながら話す事となった。
「んで、兄ちゃん達は実際に得楽汁を売ってる所と病人を治すところを見たんだよな。どうだったんだ?得楽汁は噂通りの万病に効く薬だったのかい?」
「まさか、あれはとんでもない茶番劇だった。」
「茶番劇?」
「ああ、運び込まれた男だが、急に苦しんだというには汗もかいていなし、顔色も変わっていない。明らかに演技だった。」
「うん、病気にも色々あるだろうけど、だとしてもアレは演技だね。」
「そうかい、それで得楽汁の正体ってのは?」
「予想通りの蟲楽の雫だったよ。」
蕎麦を啜りながら淡々と告げる白。
「そいつは本当かい?」
「うん、前に父さんから得楽汁の原料となる葉の絵を見させてもらった事があるんだけど、それにそっくりだった。唯作り方は葉を煮だしてるだけで蟲楽の雫の正しい作り方とは違うから劣化蟲楽の雫って感じかな。」
「だとしても放っとく訳にはいかねえな。取り敢えず今から奉行所に戻って準備を整えて明日の朝にしょっ引く。情報提供ありがとよ兄ちゃんに姐ちゃん。」
「別に偶々だ、感謝されることの程ではない。あ、店主蕎麦お替り、海老の天麩羅を乗っけてくれ。」
「あ、私も。私は天麩羅二つ。」
「アンタら遠慮しねえな。」
どんどん懐が寂しくなっていく焔。同心はそんなに高給取りではないのだが。
「しかし意外だな。」
「意外って何が?」
「白殿が大人しい事にだ。」
「私?」
「うむ。」
店主からお替りの丼を受け取る黒狼。
「てっきり白殿の事だから、あのような薬を売り払っている連中を見過ごすことなど出来ないと思っていたのだが、ずっと大人しかったのでな。」
過去の経験から白がインチキ妖術師や悪質な薬師や医者を憎み、彼らを退治する為に彼女が旅をしている事を知っている黒狼。
故に廃寺での茶番劇では彼女が飛び出さないか心配だったが、白はずっと大人しくしていたことに驚いていたのだ。
「そりゃあね。私だって少しは場の空気を読むし、ちゃんと同心達がアイツらをしょっ引いてくれるんなら、それでいいよ。ああいった連中が人を騙すのは許せないけど、彼らを裁くのは別に私じゃなきゃいけないって訳じゃないし。」
困ったように笑う白。
「そんじゃあ、後は俺達に任せてくれ。」
「うむ、任せた。」
焔が店主に三人分の支払いを終えると、それぞれ帰路に着く。焔は奉行所へ、黒狼と白は止まっていた宿へと。
「でも、黒狼は本当に良いの?」
「何がだ?」
提灯を持って夜道を歩く黒狼に彼の後ろを歩く白が問う。
「何って、君今から町を出るんでしょ?こんな夜中に町の外に出て大丈夫?」
「大丈夫も何も、宿に泊まる為の銭が無いのだからしょうがない。直ぐに部屋から荷物を引き取って出ていくさ。」
「なんなら私が五十北銭を貸して、、、」
「結構!」
「むう。」
釣れない態度を取る黒狼に白が少し膨れると、提灯の明かりに照らされて宿が見えてきた。
「おや?」
「あの子って。」
二人が注目したのは宿の入り口、既に辺りは暗くなり夜道を歩く人も少ない中、小さな見覚えのある人影が入り口に立っていた。
「甚太、お主こんな所で一体、、、」
宿の入り口にいた人物、それは廃寺で別れた甚太だった。何故彼が此処に?不思議に思い、甚太に近づく黒狼だが、提灯の明かりによって露になった甚太の体を見て言葉が止まる。
顔は両目と頬が腫れ、鼻血と口から流れる血で真っ赤になった挙句、前歯が何本も折れて別人のような顔に。体は全身に青痣が出来ており、一瞬死体か何かと見間違えてしまう程だ。
「甚太!その怪我はどうした!」
少し合わなかっただけで、見るも無残な姿になった甚太に黒狼が慌てて解放しようとするが、それよりも早く甚太が白に飛びつき、彼女の着物を掴み泣き叫ぶ。
「姉ちゃん、頼むよ!母ちゃんを助けてくれ!」
提灯の頼りない灯りの下、甚太の母親に薬を飲ませた白が彼女の様子を確認し、額の汗を拭う。
「ふう、取り敢えずこれで大丈夫かな。それでそっちは。」
「ああ、こちらも大丈夫だ。」
甚太の体に軟膏や傷薬を塗り、包帯を巻き終えた黒狼が返事をする。流石に立たせるわけにもいかないので、母親の隣で横にさせる。
甚太に泣きつかれた直後、一体何があったのかと問うと、母親の具合が急に悪くなり、何度も酷い咳を繰り返したのだという。
必死に母親を助けようと頭を捻って考えた所、母親から白が薬師だと聞いていた事を思い出した甚太は、黒狼の財布を盗んだ宿で待っていたという。
「ごめんなさい。貴重な薬まで使ってもらって、薬の代金は必ず。」
「ううん、それは別に構わないよ。それよりも私や黒狼が気になるのは。」
「甚太、その怪我は一体どうしたのだ?」
礼をいう母親、一方の甚太は先程から歯を食いしばり必死に涙を堪えている。軟膏や傷薬が染みているわけではないのだろう。
黒狼と白が地面に座り事情を聴く。
「おいら、母ちゃんの具合が悪くなった時、兄ちゃん達の所じゃなくて廃寺に行ったんだ。得楽汁を売ってるアイツらいつも廃寺にいるから、それで得楽汁を売ってもらおうって。」
悔しそうに話す甚太に黒狼と白、母親は黙って耳を傾ける。
「得楽汁を買う為の銭が足りないのも知ってた。それでも何とか売ってもらおうって、廃寺でアイツら酒盛りをしてて、おいら得楽汁を売ってくれって必死に頼み込んだけど銭が無いから追い返されて、それでも必死に頼んだんだ。足りない分は絶対に払うから、お願いだから得楽汁を売ってくれって、このままじゃ母ちゃんが死んじまうって。何度も何度も、そしたらいつも銭を預けてる男が酒で酔っぱらいながら言ったんだ。おいらが預けた銭は一北銭も残ってねえって。全部酒代や博打に使ったって、だからお前に売る得楽汁は無えって。」
(やはりか。)
嫌な予感が当たってしまった。別に人を見た目で判断するつもりはないが甚太が銭を預けていた男、及び得楽汁の売買に関わっていた者達は人との約束を守るような連中には見えなかった。
「それでアイツら、おいらが騙されたことや母ちゃんが死ぬかもしれない事を笑って、おいら悔しくて、、、銭を返せって殴り掛かったんだけど、手も足も出なくて、顔も体も殴られて、廃寺の外に放り投げられて、、、」
ヒクッと嗚咽が聞こえ、目元に巻いている包帯が涙で滲んでいく。騙された自分への悔しさ、自分を笑い馬鹿にした者達への怒り、それに対し何もできなかった情けない自分。
あらゆる感情があふれ出てきて止まらない。
「甚太、ごめんね。アタシが病気になっちまった所為でアンタに辛い思いさせちまって。」
「違うよ。母ちゃんは悪くない。全部、全部、おいらが、」
「いや、母君も甚太もどちらも悪くない。」
自分が病気に罹った所為で息子に辛い思いをさせてしまった事に謝る母親、それに対し騙された馬鹿な自分が悪いという甚太、しかしその両名を黒狼が強い口調ではっきりと否定する。
「さて、白殿。済まないが二人の事を頼めるか。」
立ち上がった黒狼が小屋から出ていこうとする。
「え、それは構わないけど、黒狼、君どこ行くの?」
「いや、なに少々腹が立ったので、憂さ晴らしにな。」
落人町にある廃寺、蝋燭や提灯で明るく照らされた内部では二十人もの男達が酒を飲み、女を侍らし札遊びに興じている。
「はいよ、またまた俺の勝ちっと。」
「かあ、まあた親分の一人勝ちかよ。」
「畜生、次だ次!」
両腕に女を抱き、札を持った男。得楽汁の売人であり、得楽汁の売買に関わっている者達を取り仕切っている男が札遊びで部下から金を巻き上げる。
彼らが賭け事に使っている金は全て得楽汁の売買で得た金、それだけじゃない酒も女も全て得楽汁の売買で得た金で招き、買ったものだ。
「しかし、あんな茶番に騙されて大金を払うたあ、ホント馬鹿な連中だぜ!」
「ホントにな。しかもコイツに薬効になんざ無え、飲んだところで病気なんか治るわけねえってのによ。」
「しかし本当に良かったんですかい、親分?」
「ああん!何がだ?」
「あの煩いガキですよ。」
「ああ、あのガキか。」
部下に言われて銭を返せと煩った子供、甚太の事を思い出す男。
「あのガキに銭は全部使ったってバラしちまって、多分あのガキもう二度と銭は持ってこねえですよ。」
「バラしたのは俺じゃねえよ。それに銭を持ってくるのはあのガキだけじゃねえ。」
甚太が持ってくる金額はどれもちょっとした茶代や酒代、賭け事に丁度良かったもので甚太が銭を預ける度に直ぐ使ってしまった。
どうせ汚い事をして得た金、心が痛む必要もない。今後も銭を貢がせようと思っていたのだが、今日の甚太はやけに得楽汁を売ってくれとしつこく、うんざりしていた所に酒で酔った部下が全てを暴露してしまったのだ。
お陰で小銭を得る手段を一つ失ってしまった。まあ、甚太を殴るのは日頃の鬱憤を晴らすのに最適だったし、部下に言ったように小銭を得る手段は一つではない。
「この落人町にいる奴らはどいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。ちょっと優しい言葉を掛けて得楽汁を売ってやるって言えば簡単に騙される。」
「酷いねえ親分。心が痛まねえのかい?」
「ああ?何言ってんだお前。騙される奴らが悪いんだ、痛むわけがねえだろ。」
「違えねえ!」
親分の言葉に同調し、部下達も一斉に笑いだす。
「そもそもだ、学もねえ、銭もねえ、馬鹿な貧乏人が夢見るのが間違ってるんだよ!幸せになる権利が最初から無えくせに、贅沢にもそれを求めやがる!馬鹿な貧乏人は俺達の為に銭を貢いでくたばっていればいいんだよ!それが分相応ってやつだ!」
酒が入り、饒舌になっていく男。彼にとって落人町の人間など一北銭の価値もない。もし彼らと銭とどちらを取るかと問われれば躊躇いなく男は銭を取るだろう。
そうしてどんどん宴が盛り上がっていく中、背中に唐傘を背負った男が廃寺の戸を叩く。
「ん?何だあ?まあたあのガキか?」
「っち懲りずにまた来たか、さっさと諦めろって母親ともどもさっさとくたばれってんだ!」
宴を邪魔されたことに舌打ちをし、無視をする。しかし何度無視されようと戸は叩かれ続けた。
「ああ!うざってえ!おい!お前が相手してこい!」
「ええ!何で俺ですかい!」
「お前があのガキにばらしたんだろ!さっさと追い返してこい!」
上司からの命令に「何で俺が」と小声で文句を言いながら、甚太から銭を預かっていた禿頭の男が戸を開く。
「あん?お前、誰、、、」
戸の先にいるであろう人物が甚太ではなく別の黒髪の男だった事に禿頭の男が疑問を浮かべるが、彼が誰かを問う前に顔面にまるで鉄球で殴られたかのような衝撃が走り、意識を失い寺の中へと吹っ飛ぶ。
「な、何だあ!?」
「やむにやまれぬ事情で得楽汁を売っていたのではないかと懸念していたが、いやはやお主達が下衆で助かった。お陰で暴力を振るうのに躊躇ずに済む。」
文字通り殴り込みを仕掛けてきた男、黒狼は背中に背負っている唐傘を開き、親骨に仕込まれた刃を展開する。
一方の売人達は突如現れた黒狼に驚きながらも、それぞれ懐に仕舞ってある長ドスや刀を構える。
(数は二十、獣力紋を使う必要はないか。)
「さて、それで得楽汁に関わっている者はこれで全部か?」
「お前、同心か!?この間のヤツの仕返しか!?」
酒で顔が真っ赤になった親分と言われた男が叫ぶ。そう言えば焔から以前、同心の一人が売人を見つけて後を付けた所、口封じにあったと聞いた。
その同心の事だろうか?しかし仮にも売買の場に居合わせた黒狼に気付かないとは大分酒に酔っているようだ。
「まあ良い、兎にも角にも己はさっさと憂さ晴らしがしたいのだ。かかってこい。」
「ふざけやがって、この場所を同心共に知られちゃたまんねえ!殺せ!」
男の合図に合わせて部下十九人の内、九人が黒狼へと刃を振り下ろそうとする。しかし酒が入っている体で揮うその刃はお世辞のも脅威とは言えない。
「はあ、」
黒狼は溜息を吐くと膝を曲げ、唐傘を前方に傾けるとただ一言呟く。
「刃旋風」
手元で唐傘を激しく回転させ、更に自らの体も回転させながらゴロツキの群れへと飛び掛かる。
唐傘の刃とゴロツキの刃が”ガキンッ!”と音と火花を散らしながら交差する。しかし、それも刹那の間、直ぐにゴロツキ共の持つドスや刀は黒狼の唐傘に絡めとられ、手元から弾かれる。
更に唐傘の残りの刃が黒狼の回転に合わせて、ゴロツキ共の腕や足、腹を切り裂いていく。
「ギャアアッ!」
「ひいっ!」
悲鳴を挙げながら倒れていくゴロツキ、”刃旋風”、自身に迫ってくる集団に対して自ら回転し、相手の武器を弾き、体を切り裂きながら進む一点突破の突進技、”獣力紋”を使ってない故、本来の威力ではないが、それでもゴロツキ共を倒すには十分すぎる威力を誇る。
「他に腕や足を切り裂かれたいものはいるか?今の己は機嫌が悪い故、遠慮なく切り落としてやるぞ!」
怒気を含めた声で残りの者達に向って叫ぶと周りにいる者達が怯える。
元々武芸に長けていない彼らは集団で一人を嬲る戦法で成り上がってきた。しかし、大勢で挑んだにも関わらずあっさりと黒狼は彼らを返り討ちにした。それだけじゃない、腕や足、腹を切り裂かれ苦しむ仲間の姿も併せて他の者達は黒狼に挑みかかる気力がなくなってしまう。
最も怒りながらも、理性を保っている黒狼は本気で腕や足を切り落とそうとは思っていないし、切り裂かれた者達も傷薬を塗っておけば直ぐに治る程度の傷の深さだ。
要は彼らはそんな事にも気づかない程に戦いに関して素人で弱者を痛めつけることはあっても自分達が痛めつけられる事を想定していなかったのだ。
「ちっ!おい、お前ら!何ぼさっとしてやがる!さっさとその同心を殺せ!」
「こ、殺せって?」
「何だ?次はお主が相手か!」
傘を傾けながら、怯えた表情を浮かべる男に近づく黒狼、傘の露先から滴り落ちる血が恐怖を倍増させる。
「くそ。どいつもこいつも役立たずで、」
「落ちつけ、雇い主よ。」
自らは戦わない癖に文句ばかりを言う親分を部下達が睨むが、その時親分の隣から髪を顎の長さまで伸ばした偉丈夫が立ち上がり、前に出る。
「おお、左近の先生!頼みますよ!」
「任せろ。」
「アンタには高い銭を払ってるんだ!」
左近と呼ばれた男を見て嬉しそうに声を挙げる親分、一方の左近は淡々と答えるのみだ。
左近は黒狼に近づくと、鋭い目つきで睨む。動きやすさを重視した身軽な着物、常人よりも一回り大きい体躯に丸太のように太く鍛え上げられた四肢。
三十代前半に見える左近の整った顔立ちと相まって、武術の達人のような雰囲気を纏い、腰には左右それぞれ一本ずつ、計二本の短槍を差している。
「多少は腕が立つようだが、所詮は自分より弱い雑魚を甚振って強さに酔いしれる小物、井の中の蛙に過ぎん。我が貴様に本当の強さというものを教えてやろう。」
黒狼を見下しながら左近は槍を抜き、交差させながら上段に槍を構える。
一方の黒狼は傘を閉じる。
「そして我の強さを目にし!自身の弱さを恥じ、後悔しながら死んで行け!龍双槍流!奥義!、、、」
「雑魚は引っ込んでいろ!」
叫びながら両腕を広げ、何かしらの技を放とうとした左近だが、一々仰々しい彼の動きにうんざりした黒狼は閉じた傘を左近の脇腹に思いっきり叩きつける。
そのまま左近は吹き飛び、寺の壁を破りながら外へと放り出されてしまった。
「え、ええ、え?」
「ったく。」
高い金を払って雇った用心棒があっさり倒された事に親分が呆然としていると、傘を開いた黒狼が彼に近づく。
「さてと。」
「ま、待ってくれ!ぜ、銭か!?銭が欲しいのか!?だったらくれてやるから、こ、これ以上近づくんじゃねえ!」
「生憎、銭が目的ではない。」
「じ、じゃ何だ!?得楽汁か!?それなら無料でやるから、、、」
「そんなもの要らぬ、最初に言っただろう?憂さ晴らしをしに来たと。」
「う、憂さ晴らし?」
「つまりは、こういう事だ!」
開いた傘を斜めに男に向かって振りかぶる。すると男の着物がパックリと裂け、更に露わになった腹も振りかぶった軌跡に合わせて裂け、血が流れ始める。
「腹を裂いた、このまま放っておけば、お主は血を流し過ぎて死ぬ。」
「うええ!」
嘘である、男の腹はほんのちょっぴり切れただけで放っておけば勝手に瘡蓋になって塞がるし、傷薬を塗っておけばすぐ治る程度の物だ。
だが酒に酔い、碌に傷を負ったことがない男は黒狼の脅しを簡単に信じる。
「そ、そんなあ!な、なあアンタ助けてくれよ!このままじゃ俺死んじまうよ!」
「知るか、そもそも己はそれが目的で来たのだ。」
「嫌だよお!死にたくねえよ!助けてくれよ!やだやだ!」
涙と鼻水を流しながら駄々をこねる。はっきり言って見苦しい以外の何物でもなく、見ていて不快だ。
「そんなに死にたくないのなら、」
「死にたくないのなら?」
「貴様らご自慢の得楽汁とやらに頼れば良かろう!」
「ひいっ!」
鋭い目つきで睨まれながら怒鳴られた男が怯えるが、それでも死にたくないと黒狼の足元にしがみ付く。
「そ、そんなの無理に決まってるだろ!」
「何故だ?得楽汁は万能の薬なのだろう?」
「嘘に決まってるじゃねえか!そんなの!あんなの飲んだって病も怪我も治りゃしねえ!」
「ほう、しかし己は得楽汁を飲んだ病気の男がすぐさま治るのを見たが?」
「あれは、部下に演技をさせた茶番だよ!それで馬鹿な奴らを騙して銭を巻き上げてたんだ!」
「では、得楽汁とはいったい何なのだ?」
「そ、それは、、、」
得楽汁の正体を聞かれて口ごもってしまう。もしここで得楽汁の正体を明かしてしまえば、彼らは打ち首になってしまうからだ。
そんな男の姿を見て黒狼が廃寺から出ていこうとする。
「ま、待ってくれ、得楽汁の正体は、正体は、、、蟲楽の雫だ!俺達は蟲楽の雫を売りさばいてたんだよ。」
「そうかそうか、お主達は売買を禁止されている蟲楽の雫を売りさばいていたと、そういうことか。」
「あ、ああそうだよ!なあ、全部話したから助けてくれよ!このままじゃ死んじまう!」
「だ、そうだ。焔殿。」
「へっ?」
黒狼が廃寺の戸に向って叫ぶと、外から焔と彼の部下らしき同心達十数人が寺の中へと入ってくる。
「ったく。いきなり俺達を呼びつけたと思ったら、兄ちゃん、アンタとんでもねえ事するな。」
「だが、これで手間が省けただろう?」
「まあな、ったく。おいお前ら!此処にいる奴ら全員ひっとらえろ!蟲楽の雫を売買していたことを吐いたんだ!情けを掛ける必要はねえ!」
焔の号令に合わせて部下達が次々と縄で、手枷で廃寺にいる者達を取り押さえていく。
一方の黒狼に腹を切られた男は一体何がどうなっているのか分からず、困惑しながらも必死に助けを求める。
「お、おい、そんな事よりも俺を助けてくれよ!腹を切られたんだ!このままじゃ死んじまうよ!」
「あん?」
喧しい男に焔が眉をひそめながら傷口を観察すると、呆れの溜息を吐きながら男の頭を叩く。
「こんな傷で死ぬか馬鹿、唾でも塗っときゃ治る。」
焔の言葉を聞き、涙と鼻水を流しながら叫んでいた男が静かになり、全てを察する。黒狼は自分達から蟲楽の雫を売買していた事を聞きだす為に演技をしたのだと、そして自分がそれにあっさりと騙され、死ぬわけがない傷に怯え醜態をさらしてしまった事に羞恥と怒りを覚える。
「ふ、ふざけんな、この餓鬼!俺を騙しやがったな!」
「先に人を騙していたのはそちらだろう?」
「ざけんな!この俺を騙しやがって!俺が誰か分かってんのか!許さねえ!お前は絶対に殺、、、」
「もう、黙っとけ、糞野郎。」
自らの行いを棚に上げて、憎悪を黒狼にぶつける男の言葉をもう聞きたくない焔が右手に持った喧嘩煙管で男の頭を殴り、気絶させ黙らせる。
「しかし、大人しい奴と思ったけど、兄ちゃん。アンタ結構な激情家だったんだな。あの殺気、俺の部下も何人かビビってたぜ。」
「ぬう、済まぬ。」
「まあ、こっちとしちゃあ得楽汁の売買を止められたからいいけどよ。っと、そう言えばこいつ等が雇った用心棒は逃げちまったんだよな。ソイツも捕まえなきゃな。どんな奴だった?」
「うむ、確か名前は、、、さ、、、、ざ、、、雑近だ!雑近と呼ばれていた!」
「雑近?弱そうな名前だな。」
「うむ、名前の通り弱い奴だった。」
そうしている内に焔の部下が寺にいた者達を無傷の者も含めて全て捕らえ終える。
「んじゃ、後はこいつ等を奉行所でとっちめてっと。」
「いや待ってくれ焔殿、己を忘れている?」
「あん?」
寺から出ていこうとする焔に黒狼が声を掛ける、振り返ると黒狼は焔の前に両手を突き出していた。
「どうしたんだい、兄ちゃん?」
「どうしたも何も、己も捕まえるのだろう?確かにこ奴らは下衆だが、それでも己が先に仕掛けて人を傷つけたのだ。捕まえずにどうする?」
「・・・おいおい。」
確かに黒狼の言う通り先に襲撃したのは黒狼だし、彼は刃物で人を傷つけた。結果だけでみれば黒狼は加害者になるだろう。
黒狼も彼らに刀等で襲われたのだが、黒狼は無傷であり正当防衛か?問われてもそれは難しい。
だとしても、それでも正義は黒狼側にあるのは明白なのに自らも罪を受け入れようとする黒狼の善人ぶりに焔は呆れてしまう。
「勘弁してくれよ、兄ちゃん。ただでさえ俺達同心は得楽汁の売人を見つけられない所を兄ちゃんに助けられたんだ。その上、兄ちゃんを捕まえろってか?俺達はどんだけ恩知らずなんだよ。それに兄ちゃんを捕まえたら、俺達の面子は丸つぶれだぜ。」
「しかし、、、」
「此処は俺達の顔を立ててくれよ。」
「む、済まない。」
そう言われては仕方ない、何処か納得できない黒狼だが焔達に続いて廃寺を後にする。
深夜の落人町、誰にも見つからないよう一人の偉丈夫が脇腹を抑えながら歩いている。
「我があのような小童に負けるなど、、、ぐっ!」
得楽汁の売人に雇われていた用心棒、左近は黒狼によって吹き飛ばされた後、焔達同心に見つからないようコッソリとその場から離れていた。
黒狼の前で強者のように振舞いながら、実に情けない。
「あれは何かの間違いだ。真の強さを極めた我が、龍双槍流を極めし我が負けるなど、あり得ない。そうだ!アレは油断していただけ、我が負けるなど、、、」
「じゃあ、ソイツは真の強さとは言わねえんじゃねえかい?」
「っ!誰だ!」
後ろから聞こえた声に振り返ると、顎髭を蓄え右手に喧嘩煙管を持った男が小屋に背を預けながら左近を睨んでいた。
「お前は、同心の!」
「漸く見つけたぜ、悪いがお前さんも得楽汁の売買に関わっていた以上、しょっ引かせてもらうぜ。弱っちい雑近さんよ。」
「何っ!貴様、今我の事を何と言った!」
「あん?弱っちい雑近って言ったんだよ。それで俺は雑魚を甚振る趣味はねえから、大人しくしょっ引かれてくれねえかい?」
「思い上がるなっ!」
強者としての誇りを馬鹿にされた左近が腰に差している二本の短槍を手に取り、顔の前でバツ印のように交差させる。
「龍双槍流!奥義!螺旋昇竜、、、」
「うるせえ!」
技を繰り出そうとする左近であったが、それよりも速く焔が喧嘩煙管を左近の頭に叩きつけ、気絶させる。
「ったく、龍双槍流?やめとけ、やめとけ。ありゃあ確かに見た目は派手だが、素人には敷居が高すぎるっての。」
気絶した左近の首根っこを掴み、焔は彼を奉行所へと連行していく。
「本当の強者ってのはな、あの黒狼みてえな兄ちゃんの事を言うんだよ。しかし、兄ちゃんがあの黒狼とはな。だんだん面白くなって来たじゃねえか。」
深夜の落人町で焔が呟いたその独り言を聞いている者は誰一人いなかった。
雨粒が建物の屋根にぶつかり甲高い音を立て、足元を濡らす。昨日までは太陽が眩しい晴れであったのにも関わらず、一晩経てば空は灰色となり大雨となる。
こんな急な天候の入れ替わりも冷にとっては然程珍しくもない。
そんな大雨の中、黒狼は傘を差し落人町にある今にも崩れそうな一軒家を外から眺めている。やがて、戸が開き頭巾を被った女性が出て、黒狼の元へと近づく。
「隣、良いかな?」
「うむ。」
相合傘を消耗する女性、黒狼に密着する彼女の方に少しだけ傘を傾ける。ただ女性、白の方が背が高く、妙な体勢になってしまった。
「それで、どうなのだ?」
「うん、お母さんの容態を見たけど、まだ治る見込みがあったよ。それで薬を渡した、あれを毎日飲み続ければ治るはずなんだけど、、、」
「どうしたのだ?」
「私が渡した薬は病そのものを治す薬じゃなくて、人の体が持つ病を遠ざける力を増やす薬だから、もしお母さんに病を治そうとする気力が無ければ、意味は無いんだ。」
「そこは大丈夫だろう、甚太がきっと母君を支えてくれるさ。」
「うん、そうだね。甚太君は強い子だよ。それにしても黒狼、君さ、お人よしにも程があるんじゃない?」
得楽汁の売買に関わっていた者達がお縄に付いた翌日、得楽汁が万病に効く薬ではない事が奉行所から町に公表された。
その知らせを聞いた者達の殆どが騙された怒りと悲観にくれていた、甚太もそうだ、手を汚してまで母親の病を治そうとしたのに、金は騙し取られ、得楽汁を飲んでも母親の病が治らない事に気付いてしまったのだから、黒狼が彼らを叩きのめした所で甚太の絶望は変わらなかった。
「まさか、肺炎の薬の代金を全部肩代わりするとは思わなかったよ。」
呆れているのか、喜んでいるのか、よくわからない表情の白が溜息を吐く。
そう、白の言う通り黒狼は甚太の母親の病である肺炎を治す為に必要な薬の代金を全額肩代わりした。
元々彼女の身の上話を聞いた際、白が肺炎を治す薬を作れること及び所持している事を知っていたので、これなら甚太の母親を治せると気づいた。
が、白とて薬師として薬を売るのに銭が必要、彼女にも生活がある以上無料で売るわけにもいかない、そして落人町出身である甚太に払える銭も無い。
ので、薬の代金を黒狼が全額肩代わりすることにした。それを知った甚太は大層黒狼に感謝し、いつか必ず銭は返すと言ったのだが、そんな事よりも母君を支えてやれと黒狼は言った。
希望が見えた今の甚太なら、きっと母親を支えてくれるだろう。
「ま、私も甚太君のお母さんを見捨てるのは心苦しかったし、それに君を雇う事が出来たからいいけどね。それじゃあ、これから宜しくね、用心棒さん。」
「うっ、あい承知。」
「言っておくけど、あの薬はかなり高いから。簡単に返せるとは思わないように。」
ニヤニヤと笑みを浮かべる白、一方の黒狼の顔は若干青い。
さて、薬の代金を肩代わりした黒狼だが、果たして全財産六十北銭の彼に薬の代金が払えるのか?答えは否だ。元々宿代で五十北銭を借りていた黒狼に薬の代金を払えるわけがない。
では、どうするのか?という問いの答えは簡単、黒狼は白の用心棒になると言う提案を受け入れたのだ。
白の用心棒になっている間は利息無し、黒狼に払われる賃金から薬代を引くという名目で黒狼は白の旅の用心棒になってしまった。
「因みに、幾らくらいするのだ?」
「う~ん、お母さんが治るまでの分の薬もあげたから、ざっと五千北銭くらいかな?」
「ごっ!」
白の口から出た金額に思わず目が飛び出そうになる。
「どうやら、白殿とは長い付き合いになりそうだな。」
「うん、それじゃあ、改めて宜しく、黒!」
「ああ、ん?白殿、今何と言った?」
「え?改めて宜しくって?」
「その後だ、己の事を何と言った?」
白が差し出した手を取ろうとした黒狼だったが、彼女が言った一つの単語に思わず動きが止まる。
「今、己の事を黒と言わなかったか?」
「え?うん、黒狼とか言いにくいし、愛称とかあったら良いかなって?ほら私の名は白、白と黒で良い名前かなって。」
「そうか、そういう事か。」
「えっ?もしかして嫌だった?」
「いや、そういう訳ではない。唯、昔己の事をそのように呼ぶ者がいて、思わずその者を思い出しただけだ。」
今はもう会えない彼女しか呼ばなかった愛称に驚く黒狼、確かに白の言う通り、白と黒で良い愛称かもしれない。
「それではこちらこそ、改めて宜しく頼む白殿。」
「うん、宜しく黒。」
白の手を取る黒狼、借金返済までの付き合いだがそれまでの間、自分の事を黒と呼んでくれた彼女を守って見せようと誓う黒狼であった。
宿場町に存在する奉行所、その中にある牢の一角で一人の囚人が鉄格子を掴み、騒ぎ立てる。
「おい、さっさと俺を此処から出しやがれ!じゃねえと此処にいる奴ら全員ぶっ殺すぞ!」
男以外、誰一人いない牢の中で男は叫び続ける。男は前日お縄についた得楽汁の売人であり、主犯格だった者だ。
他に売買に関わっていた者達が別の牢に閉じ込められて打ち首に恐怖する中、この男だけは声高に牢から出せと叫ぶ。
そんな男の声が反響する牢に一人の訪問者が現れる。同心達を纏める頭である焔だ。
「ぎゃあぎゃあ煩えな、ったく。他の奴らは静かだってのに。」
「おい、お前!俺をさっさと此処から出しやがれ!さもねえと殺すぞ!」
「殺す?おいおい、お前さん。今の自分の立場を分かってるのかい?」
「いいから出しやがれってんだ!」
小馬鹿にするように喧嘩煙管を向ける焔に男は更に勢いを増し、牢から出せと叫ぶ。
「出さなきゃ殺すって言ってるだろ!ぶっ殺すぞ!」
「殺すねえ、牢にいるお前さんがどうやって俺を殺すって言うんだい?」
「へっ、お前は知らねえようだから教えてやるよ。俺は、、、」
「知ってるよ。冷の中でも稀代の大商人、その力は政にもある程度口を出せるほど、都に身を置く商人、源山の一人息子、源月だろう?」
得意げに自身の名と出身を明かそうとする男だが、それを言う前に焔から言われてしまい呆気にとられる。
しかし、焔が自身の正体を知っている事に気付くと再び得意げな笑みを浮かべる。
「わ、分かってるなら話は早い!そうだよ!俺の親父は政にも口出しできるくらいの力を持ってる親父の力をもってすれば俺をこの汚い牢屋から出すなんざわけねえ!なんなら逆にお前らを打ち首にする事だって出来る!さあ、死にたくなかったらさっさと此処からっ!」
「悪いがソイツは無理だ。お前さんの親父は死んだ、いや、正確には殺されたか。」
「はあ?」
「ウチの調査でな、今回の得楽汁の売買について何だが、元はお前さんの親父が回したそうじゃねえか?それで更に詳しく調べたところ、親父さんが東の国、烈から蟲楽の雫の元となる葉を購入したんだってよ。どうやら烈はお前の親父さんを介して蟲楽の雫を広めて冷を混乱させようとしていたらしい。それで冷の害になるとしてウチの奴らがお前の親父さんを殺したと、そういう訳だ。」
「い、いきなり何言ってやがる!親父が死んだ!?んな訳あるか!いいからさっさと此処から出せってんだ!」
自分を助けてくれる筈の父が死んだと聞かされ、その現実を受け入れられない源月が鉄格子から顔を出し、焔を睨む。
「悪いが、本当だ。ついてに言えばお前さんも今此処で死ぬことになる。」
「ふざけんじゃねえ!良いから此処から出しやがれってんだ!ぶっ殺すぞ!」
「さっきから殺す殺すと、本気で殺す気も覚悟も無え癖に。おい、いいか殺すっていうのはな、、、」
がたがたと鉄格子を揺らす源月の額に焔が右手に持っていた喧嘩煙管を乗せる。
次の瞬間、火皿から勢いよく火花が飛び散り、”パアンッ!”という破裂音が牢の中に響く。
「殺すっていうのはこういうのを言うんだぜっと、、、聞こえちゃいねえか。」
白目を向き、仰向けに地面に倒れる源月。外傷は一切無いように見えるが、その実、頭蓋骨は砕けちり、脳もぐちゃぐちゃとなり死亡している。だがそれに気付く者はいないだろう。
「さてと、これで任務は完了。あとは黒狼の兄ちゃんの件だけか。不殺の男ねえ、どれ程の覚悟か試させてもらうぜ。」
煙管を持っていない方の手で乱暴に頭をかきながら、焔は牢屋を後にした。
雨が止み眩しい太陽が煌めく、地面はぬかるんでいるが中々の旅立ち日和だ。
「それでは焔殿、世話になった。」
「うん、薬もかなり売れて路銀も増えたし。」
「気にすんな。むしろ世話になったのかこっちの方だぜ。」
宿場町の関所にて、町から出ていこうとする黒狼と白を焔が見送る。
「しかし、悪いな。兄ちゃん達には得楽汁の件で散々世話になったのに、碌にお礼も出来ねえどころか、見送るのが俺一人なんざ。」
「いやいや、同心であるなら仕事を優先するのが当然だろう。」
焔が謝る通り、同心の中で見送りに来たのは焔一人だけだ。
「けどよ、得楽汁の件は本当に助かった。兄ちゃんがいなけりゃ、もっと被害は広まってただろう。俺も肩の荷が降りたぜ。」
手を差し出す焔に黒狼も手を出し、別れの握手をする。
「そうか、それで焔殿一つ聞きたいのだが。」
「何だ?」
「関所だと言うのに、余りにも静かすぎないか?」
「あっ、そう言えば。」
黒狼の指摘に白も気づく。
関所というのは人の出入りがある以上、騒がしくなるのが当たり前。とりわけ商人達がよく利用するこの宿場町であるなら、出入りする者達がいるはずだ。
だが関所には三人以外誰もおらず、本来いるべきであろう警備の者すらいない。
よく観察すると近くにある店も静かで店員が店先に出ていない事から、もしかしたら無人なのかもしれない。
余りにも静かすぎる関所、何処か嫌な予感が黒狼の頭をよぎる。
「そうだな、確かに静かだ。でも仕方ねえだろ。他の奴を巻き込む訳にもいかねえからな。」
「成程、人払いをしてくれたのか。心遣い感謝する。」
「感謝されるいわれはねえよ。なんせ、今から本当にお別れになるかもしれないんだからよ。」
全てを察した黒狼は焔から手を離し、唐傘を構える。
「えっ?ちょっと、何?どういう事?」
「白殿!」
何処か寂しそうに会話を続ける二人に事情が呑み込めない白が二人の間に割って入ろうとすると、突如黒狼が彼女を蹴り飛ばし、焔から離れさせる。
「きゃうっ!」
「おいおい、女子を蹴るとか、そりゃ、酷いんじゃないかっ!」
「煙管を振り下ろそうとしたお主に言われたくはないな!」
そして先程まで白がいた場所に喧嘩煙管を振り下ろした焔の一撃を黒狼が唐傘で受け止める。
互いに押し合う二人、今二人の体には動物を模した刺青が浮き上がっている。黒狼は狼を模した刺青が、そして焔には鴉を模した刺青が浮かび上がり、互いの”獣力紋”が体の枷を外す。
「名乗らせてもらうぜ!”影ノ刃の兵が一人、號は焔鴉、戦技、爆裂煙管”!さあ、兄ちゃんも名乗りな!」
「元”影ノ刃の兵が一人、號は黒狼、戦技、血染ノ傘”!」
「「いざ、参る!」」
正体を露にした焔、いや焔鴉の得物は爆裂煙管。火薬仕込みの喧嘩煙管で内部に仕込んだ火薬を爆発、火皿から放つことで、その勢いを攻撃に上乗せすることが出来る。
そしてそれを扱う為に焔鴉が手に入れたのは、常人を超えた動体視力と握力。威力が大きい分、空振りした時の隙が大きい爆裂煙管を確実に当てる為に相手を捕らえる目、そして爆発の威力を殺さずされど手元から離れないようする為の握力を焔鴉は身に着けた。
「おらあ!」
焔鴉が爆裂煙管を横薙ぎに一閃、それを黒狼は上半身を後ろにそらすことで避けようとするが。
「甘えぜ!兄ちゃん!」
”パアンッ!”という破裂音がし、火皿から火が吹いたかと思うと横薙ぎが急に方向を変え、縦の振り下ろしへと動きを変える。
「ぐぅ!」
左腕に振り下ろされる煙管、直撃を受けるが咄嗟に後ろへと飛ぶ。
「っち、今ので兄ちゃんの腕を折るつもりだったんだがな。」
手元で煙管をくるくると回しながら笑う焔鴉、一方の黒狼は顔を顰める。
(折れはしなかったが、ヒビが入ってしまったか。)
「さてと、まだまだいくぜ!」
距離を取った黒狼に、今度は飛び掛かりながら勢いよく煙管を振り下ろす焔鴉。右手で唐傘を持ちその攻撃を防ごうとする。
そして唐傘と煙管がぶつかるその瞬間、焔鴉は煙管を手元から離すと、そのまま何も持っていない手を振り下ろし、唐傘をすり抜ける。
一拍間をおいて地面へと落ちていく煙管の羅宇を焔鴉は掴む。その構えは裏拳の構えであった。
(振り下ろしに見せかけた、裏拳!)
「どてっ腹に喰らいな!爆羅拳!」
”獣力紋”によって枷から解放された身体能力に、爆裂煙管の爆発の勢いを上乗せした裏拳が黒狼の腹を殴る。
その衝撃をもろに喰らった黒狼の小さな体躯は受け止めきれず、近くの無人の茶屋まで吹き飛ぶ。
店の戸や中の机や椅子を破壊され、埃が舞う店を髭を撫でながら焔鴉は見つめる。
「筋は悪くねえが、まだまだ経験が足りねえな。っと、危ねえ!」
自分のフェイントを混ぜた攻撃にあっさりと引っかかった黒狼を冷静に分析していると、店の中から小石や木片、割れた茶器の欠片が焔鴉の目を目掛けて勢いよく飛んでくる。
それを煙管で弾くと、埃の舞う店の中から黒狼が姿を現す
「おいおい、可愛い顔してえげつない攻撃をしてくるじゃねえの。」
「人が気にしている事を。」
開いた唐傘を地面に垂直に立てている黒狼、そのまま唐傘を回転させ露先で地面の小石を焔鴉の目へと向かって弾き飛ばしていく。
が、それらは全て煙管によって防がれる。
「はあ、兄ちゃんよ、そんな小手先の技で俺が倒せると思ってるのかい?殺す気で来いよ!」
「断る!」
「ああ、そうかい!んじゃこっちから行くぜ!」
煙管で目を防ぐのを止め、店へと走り出す焔鴉。繰り出された煙管の一撃を開いた唐傘の親骨から展開した刃で受け止める。
火花を散らしてぶつかる刃と煙管。お互いの力は拮抗しており、そのまま停止するかと思われたが焔鴉の口元には笑みが浮かんでいる。
再び”パアンッ!”という破裂音を響かせ、火皿が火が吹く。突如加わった爆発の勢いによって、黒狼が押される。
「さあ、これで終いだ!」
「舐めるな!」
体制を崩した黒狼にトドメの一撃を繰り出そうとする焔鴉だが、黒狼とて此処で死ぬわけにはいかない。
体制を崩されたとはいえ、まだ唐傘の刃と煙管は接触している。黒狼はその状態のまま、唐傘を中心とし、その周りを回るかのように自らの体を回転させる。
黒狼にとってはコンプレックスである小さな体躯だが、それは逆に小回りが利くという事。黒狼は焔鴉の背後を取ると、閉じた唐傘を叩きつけようとする。
「おっと。」
「っち!」
しかし相手も歴戦の兵、焔鴉は後ろを向かずに何でもない事であるかのように煙管で唐傘の一撃を受け止める。
「なあ、兄ちゃん。一つ聞いていいかい?」
「何だ?」
互いに得物を叩きつける中、世間話でもするかのように焔鴉は問いかける。
「兄ちゃんは本陣を抜け出したんだよな?じゃあ、何で名を変えねえんだい?命を狙われてるって言うのに名を変えねえのはおかしいんじゃねえのかい?」
「・・・仮にも、己にとっては十八年も連れ添った名だ。今更変えようとは思わぬ。それに名を変えた所で影ノ刃が己を見逃すとは思えん、怯えて逃げ惑うのも性に合わんしな、堂々と名を明かして返り討ちにした方が手っ取り早い。」
「かかか!やっぱり兄ちゃん顔に似合わず結構な激情家だね!じゃあ、もう一つ。兄ちゃんに聞きたい事があるんだが、何で追手を殺そうとしねえ?今も俺を殺そうとしてこねえよな?」
僅かに後ろを振り向き、鋭い目つきで睨む焔鴉。
「兄ちゃんについては色々と調べがついてる。兄ちゃんが本陣を抜け出してざっと一年、これまで兄ちゃんに差し向けた刺客は全員返り討ちに合った。けれども死んでる奴はいねえ、多少の怪我は負ったが、それでも全員生きてやがる。コイツはどういった了見だ?」
「別にどうもこうも、己は不殺を誓ったのでな、ただそれだけだ。」
「はあん、成程。不殺を誓ったねえ、、、」
やれやれといった感じで焔鴉が首を横に振ると、勢いよく黒狼の方へと体ごと振り返る。その目には荒々しい殺気が宿っていた。
「甘い!甘すぎるぜ兄ちゃん!俺が兄ちゃん達にくれてやった林檎よりも甘いぜ!」
何度も破裂音を響かせながら、繰り出される煙管の強烈な一撃。時折フェイントも織り交ぜてくるその連撃を黒狼は唐傘を右手だけで支え、必死に耐え凌ぐ。
何度か焔鴉の攻撃を見て分かった事、それは爆裂煙管には大まかに分けて三種類に技が分けられることだ。
一つ目は最初にもらった攻撃のように、爆破の勢いを利用して攻撃の向きを無理矢理変える技。二つ目は純粋に爆破の勢いを上乗せする技。三つ目は攻撃を加えた後に、煙管を爆破させ追衝撃を加える技。
これら三つの技を基本にして焔鴉は戦っている。そして爆破の起点は焔鴉にしか分からない、なれば。
「こちらから仕掛けさせてもらう!」
爆裂煙管の仕掛けを使わせない内に勝負を決めるべきと判断した黒狼が、大量の空気を吸い、肺に送り込む。
「――ッッ!」
口を大きく開け、”狼咆砲”を放つ、これで焔鴉の前身は震え、動きが止まり、その隙に黒狼が勝負を決めるはずであった。
しかし、
「言っただろ、兄ちゃんについては色々と調べがついてるって。」
肩に掛けた着物を手に取り、自らの前に掲げる焔鴉。大きく広がった着物が”狼咆砲”の直撃を受け、大きく靡くとその後ろから煙管を構えた焔鴉が攻撃を繰り出す。
「おらよっと!とっ?あらっ?避けられちまったよ。」
咄嗟に横に飛び、攻撃を避けた黒狼を焔鴉が面白そうに眺める。
「これで分かったろ、俺を相手に小手先の技じゃ通じないって、死にたくないってんなら殺す気でかかってきな!兄ちゃんの本気でよ!」
対象物との間に遮蔽物があると”狼咆砲”は極端に威力が減衰するという弱点を突いてきた焔鴉、恐らく他の技も調べがついているのだろう。
この男を相手に不殺を貫くのは難しいだろう、それこそ相手の言う通り殺す気でなければ。
(ならば、己は)
唐傘を閉じ、持ち手を捻ると中の仕掛けが作動し、中棒が倍に伸び槍のような形へと変貌を遂げる。
更に右手を持ち手に、左手を中棒に添え突進の構えを取り、焔鴉と対峙する。
「へえ、中々面白い仕掛けじゃねえか、兄ちゃん。それがとっておきの技かい?じゃあ俺も。」
一方の焔鴉は右手に持った爆裂煙管を腰の左に添え、居合の構えを取る。
「こいつは俺の技の中でも一番威力がデカく、小細工のねえ技だ。」
「そうか。」
「そんじゃあ、お互いに悔いの残らないように行こうか。」
「ああ。」
余計な言葉は交わさない。この技はタイミングが重要故、それに意識を割かねばならない。
「居合爆裂撃。」
「狼牙ノ撃。」
足に力を籠め、黒狼が全力の突進を仕掛ける。元より常人を凌駕している脚力を持つ黒狼、それに”獣力紋”によって解放された力も加えられれば、その突進の一撃は破城槌の如く。
”狼牙ノ撃”刃で切り裂くと言った、どちらかと言えば繊細な技術を要する黒狼の技の中で数少ない力任せの一撃、元は相手の堅い鎧を砕く為の技、それを着物しか着ていない焔鴉に使えば確実に彼の体を貫き、絶命に至らしめるだろう。
それでも黒狼はこの技を選んだ。
「「おおおっ!」」
互いに吠え、技を繰り出す。一撃必殺、どちらかが生き、どちらかが死ぬ。
黒狼の突進に、焔鴉は刀を抜くように激しく火花を吹く煙管を横に振りぬく。唐傘と煙管、互いの技がぶつかるその刹那、黒狼は閉じた傘を開いた。
「何っ!」
急に開いた傘が捕らえた空気の壁が、黒狼の突進の勢いを殺す。そして僅かにぶつかるタイミングがずれ、開いた傘により焔鴉が黒狼を見失う。
それでも技は止められない、振りかぶった煙管が唐傘を吹き飛ばすと、其処に黒狼はいなかった。
(何処に消えた!)
慌てて黒狼を探すと、黒狼が身を低くして突進の勢いを利用し、雨でぬかるんだ地面を滑り背後を取ろうとしていた。
そのまま焔鴉の横を通過し立ち上がった黒狼は、彼の背中に渾身の拳骨を繰り出そうとするが。
「だから言っただろう、甘えって。」
片足を浮かせた焔鴉が煙管の仕掛けを作動させると、爆破の勢いによって体が半回転。焔鴉の煙管が黒狼の首を捕らえる。
「これで、俺の勝ちだ。」
遂に決してしまった勝敗に黒狼が目を閉じる。この後、焔鴉が繰り出すであろう必殺の一撃を逃れる術はない。
全てを諦めた黒狼が黙っている中、焔鴉は彼の首元に煙管を添えたまま喋り出す。
「おい、兄ちゃん。今の一撃はどういう事だい?」
「どういう事とは?」
「さっきの一撃、あのまま俺の背後を取らずにいれば俺が殺られていた。兄ちゃんの傘の持ち手には匕首が仕込んであるんだろう?傘を開いて、兄ちゃんを見失った時、俺の一撃が空振りに終わった時、匕首で俺の首を切る事なんざ容易かったはずだ。なのに何故それをしなかった。」
「言っただろう、己は不殺を誓ったとただそれだけだ。」
「その為なら、兄ちゃん自身が死んでも構わねえと。兄ちゃん、アンタに一つ問いたい。」
「何だ?」
「人を殺すのと、人を殺さないの、どちらが難しいと思う?」
「それは、、、」
焔鴉の問いに暫し考え黒狼は答えを出す。
「人を殺めない事だ。」
「ほう、、、分かってるじゃねえか兄ちゃん。そうだ、よく人を殺すのには覚悟が必要とか言われるが、人を殺すのに覚悟なんざ必要ねえ、なんせ人間てのはその場の怒りや勢いに任せて簡単に人を殺めちまう。腹が立った、銭が欲しかった、襲われそうになって自らの身を守る為に仕方なく殺したってな。けど人を殺めないって言うのは言葉にするのは簡単だが、そうはいかねえ。親の仇であろうと、打ち首にすべき外道であろうと、どれ程殺したい相手であろうと殺さない、それどころか自分を殺そうとしてくる相手ですら殺さないってんだからな。」
「そうだな。」
「それで、兄ちゃんはそれでも不殺の道を歩むと?」
「ああ、己は人を殺めぬと決めたのだ。それで自らが死のうと己は構わん。」
「ほう、そうかい、、、」
焔鴉が煙管を握る手に力を込める。そして、
「合格だ!」
「はっ?」
黒狼の首元から煙管を離すと、自らの肩に置く。
「不殺を誓ってるって聞いて、どんな舐め腐った奴かと思ったが兄ちゃんの覚悟は本物らしいな。」
「な、何?」
急に笑い出した焔鴉に黒狼は呆気に取られる。
「ま、まさか、お主、最初から己を試していたのか?」
「応、そんでもし兄ちゃんの覚悟が中途半端なものだったら、そのまま首を砕いてやろうと思ったが、あそこまで追い詰められても不殺を崩さなかった。だったら兄ちゃんの覚悟は本物だってわかってな。」
開いた口が塞がらない、先程まであれほどの戦いを繰り広げていながら全て演技だったとは。
「し、しかし焔殿は良いのか?己を殺すよう本陣から言われているのでは?」
「いんや、俺の任務はこの町で国の内外の情報を集めて不穏分子を始末する事、兄ちゃんの暗殺は俺の任務じゃねえよ。偶々兄ちゃんがこの町に来たからな、ちょいと試してやろうと思っただけよ。」
「た、偶々、、、だと。」
思わず地面に膝を突く、影ノ刃の者がいる町に寄った自分の運の無さやら、それでちょっかいを掛けてきた焔鴉やら、何だか一気に疲れが押し寄せてきた。
「っと、そうだ。兄ちゃんに一つ忠告しとく、兄ちゃんはこれからあの姐ちゃんと一緒に旅をするんだよな。」
「?ああ、そうだが。」
「だったら、悪い事は言わねえ。兄ちゃんの身の安全の為にも、あの姐ちゃんとは早いうちに縁を切った方が良いぜ。」
「己の身の為?それは一体どういう、、、」
気になる事を呟く焔鴉に黒狼が意味を訪ねようとするが、二人の間に割って入るものが現れる。
「二人共、よくわからないけど、話は終わったのかな?」
「ああ、白殿、、、ひいっ!」
「お、姐ちゃ、、、げえっ!」
現れたのは戦いが始まってからずっと蚊帳の外だった白。戦いが終わり、そろそろ声を掛けても良いと判断したのだろう。
笑顔で二人に話しかける白だったが、彼女の背後からは怒りによって具現化した獣が見え、男二人を怯えさせる。
「何か勝手に二人が戦いを始めて、私はずっとほったらかしだったんだけど、これどうしてくれるのかな?黒?」
そう言って白が着物を広げる。淡い桜色の美しい着物は今は無残にも泥に塗れて、台無しとなっている。それだけじゃない、着物だけでなく彼女の顔にも乾いた泥がこびり付き、その白い肌を、美しい金髪を茶色に染めている。
黒狼と焔鴉が戦いを始めようとしたとき、黒狼は白が巻き込まれないよう彼女を蹴り飛ばしたのだが、蹴り飛ばした先がいけなかった。
蹴り飛ばした先は雨でぬかるんだ泥、白は顔面から泥に突っ込むことになってしまったのだ。
「昨日はお風呂で花の香がする石鹸で体と髪を洗ったのに、この着物だってお気に入りの高級品なのに、全部台無しになっちゃったね。しかも売り物の薬にも泥が入って幾つか駄目になっちゃうし。」
「ま、待ってくれ白殿!元はと言えばいきなり襲い掛かってきた焔殿が悪いのだ!」
「ちょっ!それはねえだろ兄ちゃん!兄ちゃんが姐ちゃんを蹴り飛ばさなければ良かったんじゃねえか!」
「いや、焔殿が!」
「兄ちゃんが!」
「二人共、、、」
醜く罪を押し付け合う二人、とうとう我慢の限界がきた白が雷を落とす。
「どっちも悪い!」
「「はっはい!」」
その後、半刻程、白から説教を受ける男二人であった。
「これで、本当にお別れだな。」
黒狼と焔が白に説教を喰らってから一週間後、黒狼の傷も癒え白も機嫌をなおしてくれたので今度こそ二人は町を出ることとなった。
「いやあ、兄ちゃん達とお別れとは寂しいぜ。」
「ふ~ん、その割には喜んでいるように見えるけど?」
「か、勘弁してくれよ。姐ちゃん、、、」
半目で焔を睨む白に思わずたじろいでしまう。まあ、寂しいとか言いながらもの凄い嬉しそうな笑顔なのだから睨まれるのも当然だろう。
だが、笑みを浮かべてしまうのも仕方ない。白に説教されてから今日まで黒狼と焔は彼女の着物や薬の代金を弁償する為に、馬車馬のように働いたのだから。
「それとこいつは餞別だ。受け取ってくれ、兄ちゃんには林檎と姐ちゃんには林檎から作った果醤だ。」
「おう、これは忝い。」
「うわあ!果醤だ!果醤!」
袋一杯に詰め込まれた林檎を黒狼に渡し、白には陶器の器に入った果醤を渡す。冷では滅多に手に入らない果醤に白は目を輝かせる。
「んじゃ、達者でな兄ちゃん。アンタの不殺の覚悟しっかりと見させてもらったぜ!その覚悟、死ぬまで貫けよ。」
「ああ、勿論だ。」
焔と力強い握手を交わし、黒狼と白は町を出た。
町を出てから数刻、黒狼は林檎を齧りながら、白は器に入った果醤を人差し指で掬い舐めながら並木道を歩いていた。
「のう、白殿。」
「~~♪ん、何?」
「やはり、己を用心棒に雇うのは止めにしないか?」
「はっ?」
先程まで果醤の甘味に上機嫌になっていた白だったが、黒狼の発言に一気に不機嫌になり、額に皺が寄る。
「いや、誤解しないように聞いてほしいのだが、別に白殿から借りた銭を踏み倒そうという訳ではない。」
「じゃあ、何で?」
「・・・白殿も見ただろう、焔殿がいきなり己に襲い掛かってきたのを。事情は話せぬが己はこの命を狙われている身。今回は焔殿が己を見逃してくれたが、次がそうとも限らない。追手は己が生きている限り現れ続けるだろう。そのような身の上の己の傍に居ては、白殿の命も危険に、、、むぐっ!」
彼女を守ると誓いながら、いざそうなると白も自分の都合に巻き込んでしまう事に葛藤を覚えた黒狼が白を説得しようとするが、人差し指で果醤を掬った白がそのまま人差し指を黒狼の口の中に突っ込み、黙らせる。
白の指の柔らかい感触と甘い果醤の味が口の中に広がっていく。
「はあ、何かと思えばそんな事か。あのね、黒。君は私に借金があって、その借金を返す条件として私の用心棒となった。それは分かる?」
白が人差し指を口の中に突っ込んだままなので、コクコクと黒狼は頷く。
「じゃあ、雇い主としての命令。君の命を狙ってくる刺客も含めて、そいつらから私の身を守って。」
「そ、そんな無茶な。」
「あんっ!」
「いや、何でもない。」
ぎろりと睨まれ、反論が出来なくなる。
「そもそも、君に何かしらの事情があるってのは勘付いてたから、それを承知で私は黒を用心棒として雇ったんだよ。私に雇われた以上、黒に拒否権は無いんだから。頑張って私を守ってね。」
「うう、承知した。」
「そうそう、少なくとも借金の二万五千北銭を返すまでは逃がさないから。」
「ん?ちょっと待て白殿?借金の額が増えていないか?」
「黒や焔が台無しにした着物代金も含めてだよ。まさかたった一週間で全額返せると思った?」
「に、二万、、、」
白の身の安全も考えて、借金を早々に返してしまおうと考えていた黒狼。だが増えた借金の額を聞いて項垂れる。
どうやら白とは本当に長い付き合いになりそうである。自身の身に加えて、白の安全も守らなければいけないという激務の日々が、これから訪れることに黒狼は少しだけ心が折れそうになった。