第1話 婚約者は転生者
私エリーシャ・フォン・サンドリッジは明日王太子であるティガス殿下と結婚します。
「ふんふーん♪」
王宮で行われる披露宴で身につける予定のハンガーラックに掛けられた純白のウエディングドレスとテーブルの上に並べられたアクセサリーの数々を鼻歌交じりに眺めながら喜びを露わにする私の姿はまるで貴族学校への入学を楽しみにしている児童のように微笑ましく見える事でしょう。
私の実家であるサンドリッジ公爵家はここリンカ王国では王家に次ぐ強大な権力を有しており、この婚姻は公爵家との繋がりを強固なものにする事で王室の支配力を盤石なものとする為に国王陛下が持ちかけた政略結婚である事は万人が知るところですが、そんな事は大した問題ではありません。
王太子ティガス殿下は優しく社交的で何よりも美形です。
彼は私を含めてこの国のほぼ全ての女性たちの憧れの的でしたのでこの結婚を喜ばない理由がどこにあるというのでしょうか。
コンコンコン。
そんな私の浮かれた気持ちに水を差すように部屋の扉をノックする音が聞こえました。
「エリーシャお嬢様、失礼します」
「どうぞ」
扉を空けて部屋の中に入ってきたやや年上の女性は私専属のメイドのマリーです。
マリーは嬉しさのあまり部屋の中でひとり小躍りしている私とは対象的に落ちついた様子で用件を伝えます。
「エリーシャ様、ティガス様がいらっしゃいました」
「ティガス様が? うふふ、ひょっとして明日の結婚式が待ちきれなくなって私に会いに来て下さったのかしら」
私はテンション高めにそう惚気ますが、マリーは眉を顰めながら言いました。
「それが、どうにもティガス様の様子がおかしいのです。客間でお待ちいただいておりますのでお急ぎでお越し下さいませ」
「様子がおかしい? ……分かったわ、直ぐに行きます」
結婚の前日というタイミングでティガス殿下は一体どのような用事で私に会いに来たのか。
考えても何も思い当たる節がありません。
私は小首を傾げながら急ぎ足で客間へと向かいました。
「ティガス様、お待たせ致しました」
客間の扉を開き中に入るとティガス殿下がテーブルの上に出された紅茶に口をつける事もなく俯きながら何やらぶつぶつと呟いています。
マリーの言う通り普段の明るく社交的な彼からは想像できない程変わり果てた姿に私は戸惑いの色を隠せませんでした。
「ティガス様?」
「……あっ、エリーシャ来ていたのか」
二度声を掛けたところでようやく私に気付いて頭を上げたティガス殿下の顔は真っ青でした。
「あの……顔色が悪いようですが、体調でも崩されたのでしたらどうぞ屋敷の中でゆっくりとお休みになって下さい」
「いや、私は大丈夫だ。それよりもお前に大切な話がある。人払いを頼む」
「はい」
私はマリーに目配せをして客間から退室させると入口の扉を施錠します。
今この密室の中にいるのは私とティガス殿下の二人だけ。
いつもなら年頃の男女の関係を意識してもおかしくない状況ですがそういった浮ついた雰囲気にならないのはティガス殿下の様子が明らかにおかしいからです。
テーブルを挟んで対面のソファーに座るとティガス殿下は大きく深呼吸をした後に姿勢を正し徐に口を開きました。
「エリーシャ、最初に言っておくが私は正気であり今から話す事は全て真実だ」
「え? 私がティガス様のお話を疑うはずが無いではありませんか」
「ああ、そうだな……」
ティガス殿下は再び俯くと少し間を置いた後で意を決したように顔を上げて切り出しました。
「実はな……私は異世界からの転生者なんだ」
「はい?」
イセカイ?
テンセイ?
予想だにしなかった単語を耳にして一瞬頭の中が真っ白になります。
そしてそれが異世界、転生であると認識するのに僅かな時間を要しました。
その単語を耳にしたのは子供の頃お母様におとぎ話を読み聞かされた時以来です。
こことは異なる世界で不慮の死を遂げた人間がこの世界に生まれ変わり、その際に得た不思議な力で魔王を討伐する英雄譚から、田舎に引き籠ってスローライフを楽しむものまで様々なパターンのお話を聞かされたものです。
いずれも現実味に乏しく作り話としか思えないものばかりですがティガス殿下の鬼気迫る表情からはとても冗談を言っているようには見えません。
きっと彼の話は真実なのでしょう。
でもティガス殿下が本当に異世界からの転生者だったとしても何か問題でもあるのでしょうか。
困惑する私を余所にティガス殿下は話を続けます。
「そこは日本という国で魔法の代わりに科学という物が発達していてね。町中には機械仕掛けの乗り物が走り回り、ほぼ全ての民衆がスマホという遠距離通話等の様々な機能が組みこまれた魔道具のような板を持って……」
ティガス殿下は話に説得力を持たせる為か前世の様子を事細かに説明をしていますがそもそも私はティガス殿下の話を疑っていませんので切りの良いところで「もう分かりましたから」と本題に入るように催促します。
「話が逸れてしまったな。それで私が言いたいのはだな……」
そこまで言ってティガス殿下は再び口を閉ざしてしまいました。
余程言い難い内容なのでしょう。
それでいて結婚前日の今日私に話しておかなければならない大切なお話。
私は与えられた少ない情報からその答えを推測します。
そして一つの仮説が導き出されました。
「ティガス様、ひょっとして前世の恋人の事が忘れられないとかそういったお話でしょうか?」
「……!」
ティガス殿下は恋人という単語にピクッと反応を示しました。
どうやら当たらずも遠からずといったところのようです。
でも前世がどうであれ今生には何の関係もない話です。
前世の記憶を持っている人間にかつての想い人と過ごした日々を忘れろと強要することはできません。
私もその程度の事は受け入れられます。
しかしティガス殿下が言いたい事は私の想像とはまるで違っていました。
「いや、前世の恋人ではないんだが」
「前世ではない? ……ええっ!? もしかして」
「あ、ああ……エリーシャは察しが良いな」
ティガス殿下はバツが悪そうに私から目を逸らします。
なるほど、現在進行形で浮気をされているのですか。
確かにそれは言い出し辛い事ですね。
前世の記憶の話は全然関係無かった。
「それでお相手はどちらのご令嬢なんです?」
「……ネーション男爵の娘リッチェルだ」
「ああ、あの……」
ネーション男爵は数々の武功によって爵位を与えられた新興貴族であり、その末娘のリッチェルは社交界でも有名な美少女です。
あどけなさを残したその顔とは対象的なグラマラスなボディーライン。
そして何より末娘として育ってきた環境がそうさせたのか甘え上手な彼女の性格は世の殿方の庇護欲を掻き立てるのに一翼を担っています。
一方でリッチェルは父親譲りの剣術の使い手という噂もありますが、普段は猫を被っているのかそれを表に出す事はありません。
正直ちょっとむかっ腹が立ってきましたがまだ正式な婚姻前の話。
既に彼女との関係を清算したのであれば何も言うつもりはありません。
ただ私の殿下に対する好感度が少し……いえ、地の底まで下がっただけです。
下がった分は長い年月を掛けて頑張って少しずつにでも挽回していって下さいね。
それにしてもティガス様も考えが足りません。
根が誠実だから隠しておけなかったのかもしれませんが、カミングアウトしなければ決して私が知る由が無かった事実です。
むしろ私の精神衛生上は何も言わずに墓場まで持っていってくれた方が良かったとさえ思います。
私は深く溜息をついて言いました。
「ティガス様、そのような事を態々告白されにいらっしゃったのですか?」
「いや……むしろここからが本題なんだ」