はな子。弐
「憎んでもいい、悲しんでもいい。けれど復讐はしないほうをお勧めします。……私みたいに人の理から外れて成仏も生まれ変わることも出来なくなりたくないのであれば、鬼になってしまいたくないのであれば。
鬼となってしまえばあなたに救いは訪れることはありえないものになってしまいます」
「……」
はな子は唇を噛んだ。自分がしようとしていることは自らを絶望に堕ちることになる、自傷行為であり救いはなくむしろ深みへと嵌っていく。押黙ってしまったはな子に夜歌は懇願するように続ける。
「脅しのようになってしまってごめんなさい。でも、真実なんです。あなたはまだ自分の名前も好きだったも木の実やそらのいろも、嫌いだった薬草や毛虫も分かる。まだ、なにも見失っていない。あなたは、はな子。まだちゃんと人間の女の子の『はな子』さんなんです」
夜歌は追い詰めるような寄り添うような言葉を重ねる。近くに鈴があっても揺れることがないのかもしれないと思うほどの静かな声、だが必死さを感じた。はな子は必死にあなたが復讐に身を染めることはないと伝えてくる夜歌の瞳を見て、身体を震わせる。
今は穏やかな夜歌の青い瞳だが、さきほど黒い炎を自在に操っていたときの瞳が暗く淀んだ時間を置いた血液のような色をしていたのをしかとこの目で見た。この美しい瞳が憎悪の黒へ染まっていたのが恐ろしい、とても恐ろしい。でも、夜歌は禍々しくなったあたしたちの身体を力いっぱい抱きしめてくれた、黒い炎を纏っていた冷たい手があたしたちの頬に触れた、あたしを人間として扱って自分のようになってほしくないと心から伝えてくれた。化け物のような姿になったあたしたちに、あたしに優しくしてくれた。恐怖と歓喜で身体が震える。
あたしはまだ間に合うと伝えてくる夜歌。それなら、ひとつだけ、聞きたい。感情を抑えて震える声で夜歌に問いかける。
「あたしが生まれ変わって次の生に生まれ直したら、今の出来事の記憶は引き継がれるの?」
「……ごめんなさい、私は普通の転生はしたことがないので実体験ではありませんが、ですが皆様の様子を見る限り引き継がれないと思われます」
「……そっか」
ということはこのまま『はな子』という私は完璧に終わってしまうのね。でも、そうだよね。たとえあたしが一人死んだところで何一つ変わらない。……はな子であったはずの自分自身ですらも生まれ変わったら忘れてしまうのなら、ここで男に嬲られて殺されたあたしのことなんて、誰一人知らないまま。お父ちゃんお母ちゃんもあたしのことをすでに売った子どもで、あたしが死んだことも知らないままいつもどおりを過ごしていくんだろう。あたしの遺体は見つけた人が適当に埋められてしまったから、そのうち誰もあたしのことを思い出さなくなってしまうんだろう。
(……何のために生まれたのだろう。そう思うとやるせないし悔しい……。だけど、鬼になってでも復讐をしようとは夜歌の先の話を聞いていたら、復讐なんて出来るほどの勇気は、あたしにはない。あたしはあたしのままとしていれるのなら、それに越したことはない)
弱虫なあたし。結局死んでもあたしはなにも出来やしない。それなら、もう行こう。生まれ変わり、というのを待ってみよう。でもどうやったら行けるんだろう。夜歌なら分かるのかな。どこにどう行けばいいのか聞こうとして夜歌を見た。俯いていた顔を上げれば夜歌はまた一直線にはな子を見据えており、ない心臓が高鳴った気がした。
「な、なに?」
「はな子さん、私は覚えています」
戸惑い視線の意味を問おうとしたはな子に被さるように夜歌は声をかける。
(……覚えて?)
「ここでどんなことがあったのかを。ここで、あなたが無残な死を遂げたことも。あなたが十一年と半年を生きて赤い木の実や橙色、昼と夜の間のそらのいろが好きと言ったことも、嫌いな苦い薬草も、将来素敵な旦那さんと犬とともに暮らし子どもを男の子女の子を生みたいと言っていた『はな子』さんという方をあなたが存在して生きていたということを、私は忘れません。忘れたりなんてしません。私はすでに人の理から外れた存在、基本的に死なないです、だからあなたが存在していたことを知っている者はここに一人ですが、います。だから、なにも悲しくなることはないんです」
「っ」
夜歌の一直線の言葉。あたしのことが生きてここで死んだという事実もあたしという人間を忘れないと言ってくれる。両親に売られてすでに家ではなかったことになっているあたしのことを、この夜歌は覚えていると言ってくれる。……たとえこの場だけの嘘だったとしても、それだけでも嬉しい。誰でもないあたしのこと。たった一人の『はな子』という名を与えられたあたしを覚えてくれる、そう言ってくれた。重かった胸のつかえが取れたかのように軽い、でもはな子はそれを感じる間もなく夜歌のほうに上体を寄らせ、その冷たい手を両手で握りしめた。握られた手を夜歌はそのままにはな子を静かに見つめる。はな子の身体が足から少しずつ透けていっていることは本人はわからない、ただただ高揚した気持ちで夜歌だけを見ていた。
「ずっと……ずっと、あたしのこと覚えていてね」
「はい、もちろんです」
念押しするはな子に夜歌はほんの少し口角上げて微笑んで頷いた。はな子はその微笑みを見て、そっと一粒頬から涙を落として。
「……ありがとう!さようなら!!」
歯を見せて花が咲いたように笑って、大きくうさぎが跳ねるような声でそう言った後、フッとはな子姿は消え小さな光がしばらくその場に留まっていたがふわふわと羽が飛ぶように空へと上がっていきそのまま緩やかに消えた。
「いってらっしゃいませ。次はあなたが良い人生を送れるよう、ここから祈っています」
哀れな少女『はな子』に見送る言葉を送って、光が消えるまで見守っていた夜歌はその光が消えたあともしばらく空を眺めた後、膝の上に乗っている『もの』に視線を送る。
「……起きないからこのまま連れて行っちゃおうかな」
夜歌はそう呟いて膝の上の『もの』をそっと抱き抱えて山の奥へと歩いて行った。夜歌が抱えていて行ったのは自分よりも背の高い気絶した長い髪の女……ではなく、小柄な夜歌でも抱えられる程度の大きさの、白くて丸くてふわふわとしたもの……動物だった。夜歌は人間の女からいつのまにか動物になっていたことに何の驚きもなくそのまま連れて行った。