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お隣の橘さんは、どうやら前世で俺のお嫁さんだったらしい  作者: 藤崎珠里


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エピローグ 来世の俺が、どうか君のことを忘れていますように

 延期したデートは夏休み初日に持ち越した。持ち越した、といっても、付き合い始めた日から約一週間しか経っていないのだが。


 杏香さんと付き合い始めてから、てっちゃんに泣いて喜ばれたり、杏香さんのファンだという人たちに盛大にお祝いされたり、杏香さん経由で杏奈ちゃんと連絡先を交換して、「これからも姉さんのことよろしく」とメッセージをもらったり……と、色々あった。

 ファンの人たちからのお祝いは正直すごくびっくりした。「嫌がらせするような奴がいたら私たちがぶっ殺すから教えてね!」「なんでも相談しろよ!」とか声をかけてくれた人もいた。


 それでデートはと言うと、水族館に行ってきた。

 二人ともあまり暑さには強くないので、屋内でのんびりできるところがいいよね、という話になったのだ。



 帰りの電車の中、杏香さんがにこにこと話しかけてくる。


「ペンギン可愛かったですね!」

「ね。どの子も自由に動いてて、ショーっていう感じはあんまりしなかったけど」


 最後のほうに見たペンギンショーで、ペンギンたちは全然飼育委員さんの言うことを聞いていなかった。餌に惹かれて動いてはいたものの、芸のようなものは成功せず、そこが可愛くて観客からも笑いが零れていた。


「あとやっぱり、クラゲが綺麗でした……」

「ふふ、すごい長い時間見てたもんね」

「す、すみません! 私を待っていてくれなくてもよかったんですよ!?」

「それじゃあデートの意味ないでしょ? はしゃいでる杏香さん見てるのも楽しかったし」

「……そこはクラゲを見てください……」


 頬を赤らめて、杏香さんは力なく言う。

 クラゲのところで二十分は立ち止まっていた彼女は、きらきらした顔でクラゲを眺めていたのだ。正直なところクラゲを見るのは十分くらいで飽きてしまっていたが、杏香さんのその顔を見ていれば別にそれほど長い時間には感じなかった。


 照れをごまかすように、杏香さんは電車の窓の外へと目を向ける。最寄りの四つ手前の駅に停まるところだった。ちょうど俺たちの前に座っていた男の人が立ち上がり、一人分の空席ができる。

 席を譲ったほうがよさそうなお年寄りや妊婦さんなんかは、傍にいなかった。

 顔を見合わせて、俺たちは同時にその席を互いに示した。


「杏香さん、座りなよ」

「椿くん、どうぞ」


 数瞬黙り込む。その間に電車は完全に停まって、ドアが開いた。このままだと他の人に席を譲ることになる。普段だったらそれはそれでいいんだけど……。


「足、痛いよね?」

「へっ、い、いえ、そんなことは!!」

「四駅だけでも座ったほうが楽だと思うよ。ね?」


 最初のデートのときも杏香さんはヒールのあるサンダルを履いていたが、今日のサンダルは明らかにそれよりもヒールが高かった。これで長時間歩き回るのはきついだろうな、と思って気にかけてはいたのだが、杏香さんはだんだんと足下を気にする素振りをするようになっていた。


「……では、お言葉に甘えて」


 申し訳なさそうに、杏香さんは席に座る。


「私が靴のチョイスを間違えてしまったばかりに、すみません……」

「え、間違ってた? 服にもすごい合ってるし可愛いと思うんだけど……」

「っそういうことではなく! 歩き回ることがわかっているデートで高いヒールの靴を履いてくるというのは、賢い選択とは言えません」

「うーん……それは確かにそうかもしれないけど、こういうときに賢い選択ってする必要ある? もっと俺が気をつけてればそんなに疲れなかったかもしれないし」

「…………途中で座れるところがあれば絶対座っていたのって、もしかして」

「のんびり見れるならそれに越したことはないよね」


 なんとなくにこにこごまかせば、杏香さんは「やっぱり全面的に私が悪いです!!」と主張してきた。ごまかせなかったか。

 まあまあ、となだめてから足が痛くないか訊くと、杏香さんは渋い顔でうなずく。そんな顔をされると説得力がないのだが、とはいえもうすぐ帰るのだし、今からできることもない。歩いているときにどちらかの足をかばうような感じはなかったから、たぶん靴擦れはしていないだろう。


 四駅を静かにお喋りして過ごし、電車を降りる。最寄り駅からマンションまでは、歩いて十分ほどだ。

 改札を出たところで、杏香さんは「あの!」と緊張した声をかけてきた。


「……よろしければ家まで、手を、繋ぎませんか」

「やっぱり足痛い? 大丈夫?」

「普段は察しがいいのにたまに鈍くなるのはなんなんですか……!?」


 思わず、といったように杏香さんは叫ぶ。その顔は少し赤くなっていて、今の発言の意味と合わせて、あ、と遅ればせながら気づく。……なるほど。支えがあったほうが歩きやすいんじゃなく、単純に、手を、繋ぎたくて?


「……うん、繋ごっか」


 少し照れるが、恋人ならデートで手を繋ぐのが普通だろう。水族館で気づけなかったのが申し訳ない。いや、水族館で気づいていたところで、たぶん恥ずかしくて自分からは言い出せなかっただろうけど。

 杏香さんはぱっと顔を輝かせて、そうっと俺の手を握ってきた。小さくて柔らかい手。電車の冷房で冷えたのか、ひんやりとしていた。


「て、手汗をかき始めたらちょっと離させていただきますね……」


 どうせどちらの汗かなんてわからないのでは、と思ったが、そういうことではないだろう。大人しく「了解」と微笑んでおいた。が、杏香さんははっとした顔で訂正を入れてくる。


「あっ、いえ、やっぱりそのまま繋ぎます! 繋がせてください! 夏場に手を繋いで汗をかかないとか無理なので……! 一瞬で終わってしまうので!」

「あはは、ごめんね、水族館で繋いでおけばよかったね。今日は無理しないで、今度涼しいとこでデートするときに繋ぐのはどう?」

「……こんど」

「うん、今度」


 俺の言葉に、杏香さんは嬉しそうにはにかんだ。そして握ってきたときと同じように、そっと手を離す。

 そのまま十分、俺たちは手を繋がずにマンションまで歩いた。外よりはマシな暑さのエレベーターの中で、二人してふう、と息を吐く。暑かった、と言い合っているうちに五階に着く。


「……それじゃあ杏香さん、またね」

「はい、また!」


 学校がある日だったら『また明日』と言えるのにな、と少し残念に思った。お隣だから会おうと思えば本当にいつでも会える。だけど、一応約束として次に会うのは一週間後の花火大会だった。

 別れの挨拶を交わした後も、俺たちはなんとなくその場に立ち尽くした。いや、なんとなくというのは正しくないか。名残惜しくて、だった。

 そろりと視線を合わせて、お互いの次の行動を待つ。直射日光が当たらないからそこまで暑くないとはいえ、涼しいわけでもない。じわじわ汗をかいていくなかで、先に動いたのは杏香さんだった。



「――咲良くん」


 俺の名前を呼んで、杏香さんは一歩近づいてくる。


「今日……はありがとうございました」

「こっちこそありがとう、杏香さんのおかげで楽しかった」

「私も楽しかったです! 今日……は天気もよくてよかったですね」


 そうだね、とうなずきながら、不自然な間について考える。

 今日、の後、杏香さんは違う言葉を続けようとしていたんじゃないだろうか。想像できるものとしては「今日も好きです」だが、それを今更恥ずかしがるのはよくわからない。でも何かしらの心境の変化があって、改まって告白するのが恥ずかしくなった、ということなのかもしれない。

 ひとまず反応を窺うために、俺のほうから告白してみることにした。


「今日も好きだよ、杏香さん」

「ひゅぇっ……!? な、なな、なんで私が言おうとしていたことを!」

「あ、当たってたんだ」

「うわあぁ!? かまかけだったんですか!」

「そう、かも? 今日も好きなのは事実だけど」


 杏香さんは顔を真っ赤にさせて、「あぁぁ咲良くん……」と呻きながら名前を呼んできた。困らせてしまったか、とひやりとしたが、そういうことでもないらしい。


「うぅ……もう恋人になったわけですし、会うたびに告白するのもご迷惑かと思って……控えようか伝えようかものすごく葛藤していたんですが……もしかしなくても意味がありませんでしたね!?」

「そういうふうに気遣ってくれるのは嬉しいよ。でも好きって言ってもらえるほうが嬉しいかも」

「んんんんっ……はい……! 今日も好きです、咲良くん! 毎日どんどん好きになっています!」

「そ、っか……ありがとう」

「照れてますか!?」

「……うん」


 今日も好きです、なら動揺しない自信があったのだ。だけど毎日どんどん好きになる、なんて。こそばゆいというか、恥ずかしいというか……つまりは照れる。照れてしまう。俺も杏香さんのことを照れさせてしまったし、これでお互い様ということになるだろうか。

 小さくうなずいた俺に、杏香さんはすごく嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て。

 唐突に、キスしたいな、と思った。


 ――その後にふとよぎった気持ちを自覚して、頭が冷える。


「……咲良くん?」


 急に固まった俺を、杏香さんは訝しげに見てくる。それに答える余裕もなく、頭をぐるぐると回転させる。空回っている気すらしたが、とにかく今は考えるしかない。

 キスしたい、と思った。杏香さんに。

 俺たちは恋人なのだし、そう思うことに問題はない、だろう。むしろ恋人としては自然な行為だ。のはずだ。やましく思う必要はない。そこまでは。


 でも、今俺は。

 前世の杏香さんが杏香さん本人ではないにしても、杏香さんには彰彦さんとキスした記憶があるんだよなぁ、と考えて――嫉妬、を。した。俺が初めての相手になりたかった、と。じわじわと今までに感じたことのない嫌な気持ちが胸を満たしていった。



 …………これはさすがに、友達に向ける気持ちじゃない、のでは?



「う、わぁ」


 あまりの衝撃と情けなさに、声が漏れる。体中が熱い。

 もしかして――この感情はとっくに、恋になってたのか? そうじゃなかったら説明がつかない、気がする。

 恋愛感情と友情の違いがわからないと言っておきながら、それで杏香さんを傷つけておきながら、今更、今更そんなことに気づくなんて。


「咲良くん、どうかしましたか……?」

「うっ、その、ええっと……」


 うろうろと視線をさまよわせる俺に、杏香さんは首をかしげた。

 何をどう伝えたらいいのかわからない。だけどこれは、伝えなくてはいけないことだ。こんなマンションの廊下で伝えていいようなことかはわからないけど。いや、どう考えたってこんなところじゃ駄目だな。


「……ちょっとだけ話したいことあるから、うち入ってくれる?」


 戸惑いながらも、杏香さんは言うとおりにしてくれた。今日も両親は遅いので、自室ではなくリビングに案内して、冷房をつけてから冷たい麦茶を出す。

 姿勢よく座ってこちらを見つめてくる杏香さんに、俺は言葉を探しながらおもむろに口を開いた。


「今さっき、気づいたんだけど」

「はい」

「……俺が杏香さんのことを好きなのは、友達としてじゃなかったみたい」

「……はい?」


 ぽかんとする杏香さん。気まずさが増す。


「君のことが、一人の女の子として好きなんだなって……なんかさっき、ふっと納得した、というか」



「――にぎゃあ!?」



 叫んで、杏香さんは思いきり飛び退った。椅子を倒さず、麦茶もこぼさずに。一気に一メートル以上は距離が空いた気がする。さすが運動神経がいい、と変なところに感心してしまうのは、今頭がぐちゃぐちゃになっている証拠だろう。

 近づくか悩んで、結局そのままの距離で話を続ける。


「さっき実は、杏香さんに……その、キスしたいなって思ったんだけど」

「みっ……」


 じり、と後退る杏香さんは、今までにないくらいの赤い顔をしていた。そのままどんどん距離を置かれてしまうのかな、と不安になったが、何を思ったのかそろそろとゆっくり近づいてくる。……とりあえず続けよう。


「俺は杏香さんが初めてのキスの相手だけど、杏香さんは……彰彦さんとした記憶もあるんだよなって思ったら、すごいむっとしちゃって」

「にぇ」

「これって嫉妬だよね。ただの友達に対してならこんなふうには思わないだろうから……俺は杏香さんが、そういう意味で好きなんだなって」

「ぴっ」

「恋愛感情と友情の違いがわからないって言っておきながら、今更こんな結論を出すのは本当に申し訳ないんだけど……俺は杏香さんのことが好きなんだ。杏香さんと、たぶん同じ意味で」


 いつかわかるようになるから大丈夫、と言ってくれたてっちゃんを思い出す。その『いつか』がまさかこんなに早く来るとは思わなかった。

 小さく悲鳴を上げつつも俺に近づき続けていた杏香さんは、あと一歩の距離のところで立ち止まった。


「……つ、咲良くん、一つ、訂正が」


 倒れてしまうんじゃないかと思うほど真っ赤な顔で、俺と目を合わせようとして、合った途端びくっと体を震わせ、杏香さんは諦めたように視線を泳がせた。


「……あの、実は、前世の私も彰彦さんと……キスすらしたこと、なくて」

「え。……えっ?」


 何を言われたのか一瞬理解できなかった。

 呆然としながらも確認する。


「え、あれっ……待って? 夫婦、だったんだよね?」

「仮面夫婦、みたいな……愛情はあったんですけど、ただの家族だったというか……。男性が苦手だった前世の私を気遣って、何年も一切……そういうことを……や、あの、たぶん、お外で発散、的なあれそれはしていたとは思うんですが! 本当に私とは! 清い仲でして!!」


 最終的に目をつぶって、杏香さんは強い口調で言い切った。

 何年も夫婦だったのに清い仲って、それはそれでどうなんだ彰彦さん……なんて思いはしたものの。

 心に広がったのは、安堵だった。


「……そっか。よかったぁ」


 ほっとして、頬が緩む。

 杏香さんがそういうことをまだ知らないこと、それからこの面倒くさい嫉妬に引かれなかったこと。どちらも俺にとっては、嬉しいことだった。

 そして、なるほど、やっぱりこれが恋なんだな、と新鮮な気持ちで思う。

 そんな俺に、杏香さんはなぜかまた後退った。


「さ、咲良くんが!」


 何か傷つけてしまったか、と焦ったのは一瞬だった。


「咲良くんが可愛くて! 私は死んでしまいそうです! どうしよう! 咲良くんが可愛い!」


 よくわからないことを言い出したな……。


「お、落ち着いて?」

「落ち着けません! 落ち着けると思いますか!?」

「いや、俺に訊かれてもなぁ……。うーん、じゃあ、びっくりさせて落ち着かせてみる」

「それもう可愛いじゃないですか!」

「そうかな……」


 どこか可愛いのかわからないが、とにかく実践してみることにした。とはいってもびっくりさせることなんてそうすぐには思いつかない。

 うーんと悩んでいる間でさえ、杏香さんの可愛い攻撃はやまなかった。変なツボにはまってしまったのだろうか。


「あ、そうだ」


 一個だけ思いついたことがあって、「あのね、杏香さん」と名前を呼ぶと、「なんでしょうか可愛い!」と言われた。もはや可愛いが語尾になってしまっている。早々に落ち着いてもらいたい。


「付き合って早々こんなこと言うのは重いかもしれないけど……っていうか重いと思うんだけど」


 これは別に、落ち着いてほしいから言う、というわけでもなかった。気持ちをはっきり自覚した今、言いたいことだ。……まあ、本来ならまだ言うべきことではないだろうけど。

 立ち上がって、数歩の距離を詰める。

 まだ「可愛い……」と言っている杏香さんの顔を覗き込んで、俺は緊張しながらその言葉を紡いだ。



「――いつか、今度は()のお嫁さんになってくれませんか」



 かちん、と杏香さんは固まる。落ち着いたかどうかはわからないが、びっくりさせるのは成功したようだった。

 プロポーズなんてものをしてしまったのは、彰彦さんへの対抗意識のせいもあるのかもしれない。だけど実際、俺の本心だった。

 俺の隣で、俺のお嫁さんとして笑っている杏香さんを見たいな、と、そう思ったから。

 断られたら断られたで構わなかった。ショックではあるが、付き合い始めたばかりで結婚の話を出すなんて、本当に重い。まだまだ考えられないことだろう。……いや、構わないっていうのは嘘だな。


「……びっくりした?」


 断られたらショックを受けるのがわかっているからこそ、卑怯な逃げ道を用意してあったのだから。

 固まったままだった杏香さんは、俺のその言葉で動きを再開した。数度瞬きをして、何かを考えるようにほんの少し眉根を寄せて。


「……今のに正式にお返事をすることってできますか?」


 そんなことを訊いてきた。冗談にしてもらえると思っていたので、「えっ」と思わず声が漏れる。しかしたちの悪い冗談を言った俺が悪い。いやまあ冗談ではないんだけど、俺が悪いのは確かなので、その問いに首を振ることなどできなかった。

 おそるおそるうなずけば、杏香さんはふわりと微笑んで――俺のことをぎゅっと、優しく抱きしめた。




「――はい、喜んで! ()は、()()()のお嫁さんになりたいです!」




 ――彼女を抱きしめ返しながら、ああそういうことか、と小さく笑う。



 もしもまた、来世があったとして。

 来世の俺に、今の俺の記憶なんてありませんように、と強く願った。


 この体温を、この声を、この笑顔を。

 覚えているのは、()だけがいいから。




 俺に記憶がなかったのは、きっと――同じ願いを抱いたひとが、確かにいたからなのだ。





 お隣の橘さんは、どうやら前世で俺のお嫁さんだったらしい ― おわり





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