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お隣の橘さんは、どうやら前世で俺のお嫁さんだったらしい  作者: 藤崎珠里


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27. 幸せの供給過多

「いやま、ま、待ってください、あの、あの、あ、ああ、う、わ、私は、椿くんの傍にいられるだけで十分なんですけど、そんな、恋人に、なっちゃっても……本当にいいんです、か? 贅沢すぎませんか?」


 手をせわしなく動かし、無意味に髪の毛や口元をいじって。視線を泳がせ、口も発する言葉以上にはくはく開閉しながら、橘さんは自信なさげにそう尋ねてきた。

 ここで『贅沢』なんて言葉がどうして出てくるんだろう。橘さんってたまにネガティブっていうか、変なところで変な方向に考えるよな。

 なんてことを思いながら、安心させるようにできるだけ優しく笑いかける。


「なってほしいんだ。それが一番、橘さんの笑顔を近くで見れるでしょ?」

「っ……」


 橘さんは息を呑んで、口をきゅっと引き結んだ。そうしないとまた叫んでしまうとでも思ったのかもしれない。俺のことを見つめてくるその目は、きらきらと輝いていた。そんなわけはないとわかっているが、どうにもその輝きがいろんな色をはらんでいるように見えて、綺麗だな、と数瞬見惚れる。

 何かを耐えるように、橘さんは目をつぶった。綺麗な輝きが隠れて少し残念だが、仕方ない。

 しばらくして橘さんは、呻きながら目を開いた。


「う、ああぁ……それ、それってもう、自惚れでなければ、私のことを好きなのでは……!?」

「うん、好きだよ。恋なのかどうかはわからないから、そこは申し訳ないんだけど……好きだっていうのだけははっきり言える」


 不安も恐怖も、もう微塵も残っていなかった。


「ね、橘さん。答え、もらえたら嬉しいな」


 催促するようで申し訳ないが、そうしなければなんだかこのまま数時間は経ってしまいそうだった。

 橘さんはまた両手を顔で覆うと、なぜかその状態で天を仰いだ。大きく息を吸って、吐いてから、意を決したように俺を真っ直ぐに見てくる。



「…………よ、よろしく、お願いします!」



 声をしぼり出すとともに、橘さんは丁寧な動作で頭を下げた。さらりと揺れた髪が、少しの間橘さんの表情を見えなくさせる。

 その表情が再び見えるより前に、俺は微笑んでお礼を言った。


「ありがとう」

「びひゃっ!?」


 顔を上げた橘さんは、なぜかぎょっと目を見開いた。


「な、なんですかその可愛い顔……!」

「え?」

「あっ、変わっちゃった……。今まで見てきた笑顔で一番可愛かったですよ!? そんな、まだ可愛くなるなんて聞いてません! ずるいです!」

「なんだかすごく理不尽な怒りをぶつけられてる気がするな……?」

「怒ってるわけではありません!」


 さっきの俺の注意が頭に残っているのだろう、語気は強いものの声量はそれほどなかった。だから別にまあ、構わないんだけど……俺がどんな顔をしていたのかだけは、ちょっと気になるところだ。

 頬にさわりつつ首をかしげる俺に、橘さんは恨めしげな目を向けてくる。


「椿くんは……本当に、色々、ずるいと思います」

「ごめん?」

「そういうところも魅力的なので困っちゃうんですけどね!」

「よくわかんないけど、魅力に感じてもらえてるならよかった」

「ああああもう……好きです……」

「俺も好きだよ」


 俺が橘さんに向けている思いが恋なのかは、まだわからないけど。同じ言葉を返せることを幸せに感じるから、もしかしたらこれが、恋というものなのかもしれない。……まあでも、それは誰に対しても同じか。家族や友達と好きと言い合うのだって幸せなことだから、恋に限った話ではない。

 やっぱりよくわからないなぁ、と思ったが、今はそれでいい。きっとこれが、今の最適解なのだ。

 橘さんは喉の奥からぐぅという音を出すと、つらそうに顔をしかめた。


「しあわせすぎてしんでしまいそうです……」


 表情と言葉が一致していなかった。いや、ある意味では一致しているのだろうか。


「死なないで……」

「はい! せっかく椿くんと恋人になれたというのに死んでいられません!」


 拳を握って、橘さんは力いっぱいうなずいた。それから、氷の溶けたアプリコットティーにようやく口をつける。もちろんと言うべきか、今度はむせたりはしなかった。

 それを見ていたら少し悪戯心が湧いた。


「橘さん、明日時間があればデートしませんか?」

「んっ……!」


 むせかけたのをこらえて、橘さんは口元を手で押さえる。


「で、でーと、ですか。大変申し訳ないことに、私にとっては今この状況もデートだったりします……」

「そっか、言われてみれば今もデートなんだね。申し訳なく思う必要なんかないよ」

「…………椿くんは! 開き直ったら全然恥ずかしがらなくなるタイプですね!?」


 んー、と曖昧な相槌を打つ。

 開き直った、というか、心を決めた、というか。確かにそれによって、以前に比べれば橘さんとのやりとりに対して照れや恥ずかしさは減る気がする。でもだからって、全然恥ずかしくない、というわけではない。そこを勘違いされたくはなかった。


「これでも恥ずかしがってるし、照れてもいるんだけどな……」

「……前は、私が好きと言うたびに真っ赤になっていたのに」

「そういうほうがいい?」

「いえっ! 私はどんな椿くんでも好きなので!」


 いいと言われたところでどうにもできなかったけど、そんな真面目な顔で即答されるとも思っていなくて。……前だったらこれだけで俺も真っ赤になっていただろうな、と少しおかしくなる。今はなんだか、幸せな気持ちでいっぱいになるだけだった。


「あっ、また可愛い顔! 可愛いです!」


 はしゃぎ声を上げた橘さんは「そのままキープでお願いできますか!」なんて言ってくる。そして目に焼きつける勢いでじいっと見てくるので、顔が引きつってしまった。


「橘さんも開き直ったら恥ずかしがらなくなるタイプ? なんか前よりも、こう……ストレートに伝えてくるようになった?」

「恋人、ですから。遠慮しなくていいかなと思った、んですけど……ご迷惑でしょうか……?」

「……ううん、全然。遠慮しないでいいよ、なんて俺から言うことでもないかもしれないけど」

「いいえ! お許しいただけて嬉しいです!」


 やっぱり言葉遣い、もうちょっとどうにかならないかな。もう敬語を使われることにも慣れてしまったが、同い年の恋人に対して『お許しいただけて嬉しいです』って。

 そんなことを思うと同時に片言になっていた橘さんを思い出して、少し笑ってしまう。あんな片言が続けられたら笑ってしまってまともに会話できないだろうし、無理して矯正するものでもないか。


「そうだ、椿くん!」


 何かいいことを思いついた、とでも言いたげに、橘さんは顔を輝かせた。


「明日のデートもしたいですが、今日この後お時間ありますか!?」

「え、うん、大丈夫だけど」


 何をするつもりだろう、と首をかしげれば、橘さんはぱあっとさらに嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「ガトーショコラ、一緒に食べませんか?」


 ガトーショコラ。

 つい喫茶店のメニューに目をやってしまったが、橘さんが言ったのは俺が作ったほうのガトーショコラだろう。一緒に食べる、となると、俺の家でか橘さんの家でか。

 恋人になったのだし、もう家で二人きりになるのも何も問題がない。……一般的に、『おうちデート』というものはもう少し段階を踏んだ後のもののような気もするけど……ケーキ食べるくらいならいいか、と結論づける。


「いいよ、どっちの家で食べる?」

「いいんですか!? 私の家……は、椿くんを呼ぶときには完璧に掃除しておきたいので、できれば椿くんのおうちがいいです……」

「あはは、了解。じゃあ、飲み終わったら移動しようか」

「はい! ありがとうございます!」


 二人して、溶けた氷で薄まった飲みものを飲みきり、喫茶店を出る。

 会計は俺が奢らせてもらった。「恋人になってから初めてのデートなんだし、今日くらいは奢らせて」というお願いが効いたようでよかった。これから先も何かと理由をつけて奢る気満々なんだけど、上手くいけばいいな、と思う。

 マンションに帰って、俺の部屋で一緒にガトーショコラを食べて。

 明日のデートの計画を練ったりしているうちに、『恋人になってから初めてのデート』は楽しく過ぎていったのだった。


 ちなみに明日のデートは、「ちょっと幸せすぎて本当にまずいので、間を置かせてください……」という橘さんの主張によって延期になった。橘さんは平謝りしていた。


     * * *


 一日空けて、月曜日。


 少し話し合った結果、皆が登校するくらいの時間に一緒に登校することになった。アピール、というわけでもないが、隠す必要もない。そもそも一緒の登校自体は前にもしたことがあるのだ。

 橘さんは、噂のこともあるし俺に迷惑がかかるかもしれないと不安げだったが、そこは押し切らせてもらった。噂というものが本当によくわからない感じに膨らむ、というのは思い知ったけど……まああれも、害はなかった。今日一緒に行くことでもしまた別の噂が立っても、そう問題はないだろう。

 何かあったとしても周りを味方につければそこそこ平和的解決ができるんじゃないか、というのは……ちょっと楽観的すぎるかな。


「昨日、杏奈ちゃんから謝られました」


 学校へ向かう途中、ぽつりと橘さんが切り出す。


「勝手に前世の話してごめん、って」

「……昨日までは謝ってなかったんだ?」

「そうですね。謝りたがっているのはわかっていたので、私から聞いてあげられればよかったんですが……さすがにその余裕がなくて」


 苦い笑みに、胸が詰まる思いがした。

 その余裕を奪ってしまったのは、間違いなく俺の行動だ。けれどここで謝るのも違う気がして、「そっか」と相槌を打つことしかできなかった。


「でも杏奈ちゃんも、それがわかっていて謝らないでいてくれたんです。……私のことを一番わかってるのは、杏奈ちゃんなんですよね」


 そう語る橘さんの顔は、妹を想う姉の顔だった。


「……杏奈ちゃんから、俺に話した理由まで聞いた?」

「はい。もしかして、椿くんも聞きましたか? 私が椿くんの話ばっかりするから嫉妬した、って。ふふ、可愛いですよね」


 この一連の出来事の後でも、そうやって笑みをこぼせる橘さんがすごい。

 こういうところだったんだろうな、と思う。こういうところが、杏奈ちゃんはきっと――好きで、だけど、気に入らないときもあるのだ。……俺がわかったように言えることでもないけど。


 でも、そっか。橘さんのこの反応的に、自分の前世の話はしてないんだな。

 したほうがいいんじゃないか、と思うのは、俺が第三者だからだろうか。


 話さない理由が、今までと同じなら別にいい。

 だけど、ふと思ってしまった。もしかして杏奈ちゃんは今回のことで、橘さんに打ち明ける資格が完全になくなった……なんて、思っているんじゃないだろうか。

 本人に確かめてみなければわからないことだけど、なんとなく、間違っていないような気がした。

 今度ちゃんと確認しよう。杏奈ちゃんと橘さんの間には、たぶん大切な会話が足りていないから。


「杏奈ちゃんが何をどう椿くんに話したのかは気になるところではありますが、私と前世の私は別人なので! どんなに恥ずかしいことを暴露されていたとしても関係ありませんからね!」

「恥ずかしいこと、は特には言ってなかったと思うよ。杏奈ちゃんから聞いた前世の橘さんと俺の話、全部言ってみたほうがいい?」

「……いえ、大丈夫です」


 ためらいがちに、橘さんは首を横に振った。「今言ったとおり、別人の話なので」と念押しするように続ける。きっとその言い方は、俺のためだった。


「……ありがとう」

「お礼を言われるようなことは何も! それより気になることがあるんですが、よろしいですか?」

「うん、よろしいです」


 話しながら校門をくぐる。ますます周りの視線が痛いが、気にしないことにして橘さんの声に耳を傾ける。

 橘さんはほんの少し不満そうに、唇を尖らせた。


「……杏奈ちゃんのことは、下の名前で呼ぶんですね」


 子どもっぽい表情とも相まって、子どもがヤキモチを焼いているような微笑ましさがある。向けられている気持ちを知ったうえでそんなことを思ってしまうのは、ちょっと申し訳ないけれど。

 つい笑いそうになって、俺は口元に力を入れた。その嫉妬に気づいていません、という態度を装って返事をしてみる。


「橘さんと被っちゃうからね」

「……そうですよね」


 へにょりと下がる眉と口角。わかりやすいそれらがとても可愛くて、もう笑いが抑えきれなかった。


「ふ、ふふ、杏香さんって呼んだほうがいい?」

「みょへっ!?」

「昇降口に着くまでに答えられなかったら、橘さん呼びのままにするね」

「きょーかさんで! 杏香さんで! お願い、します!」


 猛烈に焦った顔で橘さんは即答した。そしてはっとして、わずかに眉根を寄せる。


「な、なんかちょっと、椿くんってもしかして、エスっ気がありますか!?」

「そう……? わからないけど、橘さんがそう思うならそうなのかもね」

「そうだと思うのでそうだと思います!」

「あはは、橘さん今テンパってる?」

「そういうところがっ……くっ……可愛いです……じゃなくて! きょ、杏香さん呼び、を、お願いしたはず、なんですが……」


 あ、と声が出た。そうだった、焦らせてまで尋ねたのはこっちだというのに、もう二回もそのまま橘さん呼びをしてしまった。

 上目遣いで窺ってくる橘さん――杏香さんの口は、いまだへの字になっている。……笑っていてほしい、なんて言っておいてこんな顔をさせて、挙句それを可愛いと思ってしまうのは、エスっ気があると言われても仕方ないかもしれない。


「ごめんね、杏香さん」


 杏香さんは息だけを吐き出した。本当はたぶん、いつものように奇声を発したかったんだろうけど。いや、別に奇声は発したくて発しているわけでもないか。

 噛みしめるような表情をした杏香さんは、ふにゃりと頬を緩めた。


「いいえ、ありがとうございます――咲良、くん」

「……うん」


 そう返されるとは思っていなかった。昇降口に到着したので、これ幸いにと顔を見られないようにそそくさと靴を履き替える。が、そんな行動も虚しく、俺の動揺は気づかれてしまったようだった。


「……咲良くんも、顔、赤くなってます」

「うん、知ってます」

「知ってましたか……」

「知ってました」


 そうですか、とくすくす笑う杏香さん。……やっぱり俺もまだ、不意打ちには弱いみたいだった。まあ、杏香さんがこうして嬉しそうにしてくれるならそれはそれでいいかな、なんて思う。

 校内に入れば、どちらともなく口数が減った。こんなカップルみたいな会話を周りに聞かれでもしたら恥ずかしい、という気持ちはたぶん共通だった。……カップルみたいな、っていうか、カップルなんだけど。それはそれとして、である。

 階段を上り、俺のクラスの前で二人して立ち止まる。


「……それじゃあ、また」

「あのっ」


 腕を掴まれる。勢いこそあったが、力のほうは壊れものを慎重に掴むような具合だった。緊張が滲んだ顔で、杏香さんは「少し耳を貸してください」と顔を寄せてくる。――これは。

 以前のことを思い出しながら、背伸びをする杏香さんのために少しかがむ。



「――今日も好きです、咲良くん!」



 耳元でささやかれた言葉は、想像どおりのもので。

 不意打ちを無事回避した俺は、今度は固まることなく、笑顔を向けることができた。


「俺も好きだよ、杏香さん」





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