24. ぴょへぅわっ!?
冷やしたガトーショコラに粉砂糖をふる。円形のそれを八等分にして、一切れを丁寧に皿に移す。仕上げにホイップクリームを添えて、ふわりとラップ。これでよし、と。
その皿を慎重に持って、俺は家を出た。向かうのは当然お隣、橘さんの部屋だ。
そしてチャイムを押――そうとして、はたと気づく。
告白するにはまず会わなくてはいけないから、その口実に、と気合いを入れてガトーショコラを作ったものの。アポイントメントを取り忘れていた。土曜の昼間って出かけてる可能性も高いよな……。
それにもしいたとしても、どちらかの部屋で二人きりになるというのもまずい。てっちゃんを呼ぶべきだったか。いや、告白の場にいてもらうとか、さすがにないな。
仕方ない、今日はこのガトーショコラだけ渡すことにして、告白は後日どこかに呼び出す感じにしよう。
考えなしを反省しつつそう決めて、今度こそチャイムを鳴らす。もしいなかったら夕方か夜に出直せばいい。
『つ、椿くん!? 今開けます!』
よかった、いた。と思ってすぐ、中で何かが盛大に落ちる音が聞こえてきた。……タ、タイミング悪かったかな。
出てきた橘さんは俺を見てぱあっと顔を輝かせて、それからはっとしたように視線を逸らし、咳払いをした。
橘さんの今日の服は、ゆったりとしたシルエットのオレンジのワンピースだった。パステルカラーが似合うと思っていたけど、こういうはっきりした色もすごく似合う。橘さんに似合わない色は存在しないのかもしれない。
「どうしたんですか、椿くん」
その声は硬く、緊張しているのが丸わかりだった。やっぱり顔を合わせての会話はまだぎこちなくなっちゃうよなぁ、とちょっと苦い気持ちになる。
「ガトーショコラ作ったから、橘さんにもお裾分けしようと思って」
「えっ、あ、ほんとだ……もう新しいお菓子作ったんですか!?」
わかりやすく持っていた皿にも気づいていなかったらしい。橘さんはガトーショコラを見て、驚いたように声を上げた。
一昨日パイを大量に作ったばかりだから、橘さんが驚くのも当然だろう。俺ももう少し間を空けるべきかと悩みはしたが、結局勢いに任せて作ってしまった。
「今回は作りすぎたわけじゃないから、気分じゃなければまた今度、違うの作ってくるよ」
「いえっ、食べます、いただきます!!」
「ありがとう。それでね、今度話したいことがあるんだけど、いつなら時間大丈夫かな?」
「ぴよっ!?」
メッセージのやりとりでリハビリしていこう、と決めたばかりだから、橘さんが驚くのも無理はない。……さっきもこんなこと考えたな。
あわあわと視線を動かしていた橘さんはわずかにうつむき、窺うようにそうっと上目遣いをしてきた。
「……椿くんがよければ、今からでも。このガトーショコラは、冷蔵庫に入れておけば平気ですよね?」
「それはそうだけど……ほんとに、大丈夫?」
「はい! 今やらなくてはいけないこともないので」
そういうことではなかったんだけど、と一瞬思いかけて、理解したうえでそう言ってくれたのかもしれない、と気づく。気遣わせてしまっていることが申し訳なかった。
その気遣いに甘えて、場所を移動する。さすがにもう公園で話すのは暑いから、杏奈ちゃんと使った喫茶店へ。運よく、と言うべきか、俺たち以外の客はいなかった。
中に入って少しきょろきょろした橘さんは、「素敵なお店ですね」と微笑んでくれた。どうやら杏奈ちゃんと来たことはなかったらしい。
俺はアイスコーヒーを、橘さんは迷った末にアイスのアプリコットティーを注文した。ホットとアイスの差はあっても、橘さんも杏奈ちゃんも二人してアプリコットティーを選ぶのは、名前の影響で杏が好きだからなのかもしれないな、と思う。……今度、杏を使ったお菓子とか作ってみようか。
そんなことを考えながら、小さく深呼吸をする。俺の緊張を感じたのか、橘さんもこわばった顔で居住まいを正した。
「……飲みものが来てから話す?」
「……どちらでも、お好きなようにしてください」
「じゃあ、来てからで」
注文の品はそう間を置かずに運ばれてきたが、それまでの間、俺たちはどちらも一言も発さなかった。無言でうつむく俺たちを、店員さんはどう思っただろうか。
届いた飲みものに、俺たちはすぐには口をつけなかった。
「まず、色々ひどいこと言って本当にごめん」
最初にそう謝って、頭を下げる。告白よりも何よりも先に、謝罪がしたかった。一度すでに謝ってはいたけど、改めて。
俺の謝罪を受けて、橘さんが苦い顔で笑って首を振る。
「いえ、椿くんは悪くありません。話というのがそのことなら、本当に、気にしないでください。友達としてやり直せるチャンスをもらえただけで、私は十分です。それに悪いのは私なんですから、椿くんが罪悪感なんて感じる必要はないんです。私のほうこそ……今まで、すみませんでした」
やんわりとした拒絶は、予想できていたことだった。橘さんが謝罪を受け取ってくれないのはわかっていて、それでも謝ったのは俺のエゴだ。そう理解しているので、これ以上食い下がることもできない。
ため息を押し殺して、何とかお礼の言葉を口にする。
「ありがとう。でも、橘さんが悪いなんてことも絶対ないよ。橘さんは悪くない」
「……どっちも悪くなかった、ということにしてしまいましょうか」
「うん、ありがとう」
お礼を重ねれば、橘さんは「こちらこそ」と小さく微笑んだ。
「それで、本題はね」
シミュレーションはしてきたというのに、なかなかその先を続けられなかった。どんなシミュレーションをしたかすら頭から抜けてしまって、うろうろと視線をさまよわせることしかできず、焦りが募る。
何から、言おうとしてたんだっけ。さすがにストレートで告白、ではなかった気がする。
「え、っと」
「――あの」
遮るように、橘さんが口を開いた。その声はどこか力強くて、思わず怯んでしまう。
「やっぱり、お話を聞く前に、私が少しお話してもよろしいですか?」
そんなことを言われるとは思っていなかった。目を瞬く俺の返事を、橘さんはじっと待つ。……何を、言われるんだろうか。
怖くもあったが、断るわけにはいかない。うなずくと、橘さんは「ありがとうございます」と先ほどとは違う笑みを浮かべた。何かを吹っ切ったような――諦めたような、そんな笑みを。
橘さんは静かに切り出す。
「全部、忘れてほしいんです」
全部、というのが何を示すのかわからなかった。
困惑を顔に出す俺に、橘さんは明るい口調で続ける。
「私の告白を、今まで伝えてきたことを、全部忘れてほしいんです」
「……え?」
絶句する。
「私と椿くんは友達ですから! 私は友達として、あなたが好きです。あなたに恋なんて、少しもしていませんでした。……そういうことに、してもらえますか?」
橘さんの笑みは崩れない。だからこそ、それが橘さんの本心でないことが痛いほど伝わってきた。橘さんはまだ、俺のことが好きだと思い込んでいるのだ。
少し考える。
橘さんが今まで俺に伝えてきたことは全部、俺を通して彰彦さんに伝えようとしていたことだ。だとすれば、全部忘れる、ということにするのはむしろ好都合なのかもしれない。
好都合だとかそんな考えになる自分に嫌気が差して、しかしやはり、俺は橘さんの提案を受けることにした。
「わかった、忘れるね」
「……ありがとうございます。私の話は以上です。お話を遮ってしまってすみません」
「ううん。それで、忘れたうえで言いたいことがあるんだ」
喫茶店のBGMが、どこか遠く感じる。すっかり汗をかいているアイスコーヒーのグラスをさわりながら、息を大きく吸った。
笑みを崩さないようにしながら首をかしげた橘さんに、俺も笑顔を向けた。
シミュレーションの意味なんて全然なかった。思い浮かぶ言葉は一つだけで、それを最初に言うつもりがなかったことだけがわかったが、わかったからってどうにもできない。
だから俺は、その言葉を口にする。
「俺、橘さんのことが好きだよ」
間。
少なくとも十秒以上、橘さんは瞬きすらせず完璧に固まっていた。そしてせわしなく瞬きを再開したかと思うと、眉根を寄せ、視線を泳がせ、口を小さく開閉し――俺と目を合わせて、ぼん、と音が聞こえてきそうな勢いで赤面した。
「ぴょへぅわっ!?」
過去一おかしな声だなぁ。




