23. 『好き』の分類
翌日の放課後、校門前で再び杏奈ちゃんが待ち構えていた。目を丸くした俺に、杏奈ちゃんは気まずそうにしながらも「来て」と端的に告げた。
この前と同じ喫茶店に入り、二人してこの前と同じ注文をする。
「私のこと怒ってる?」
「……ううん」
「そ、ならよかった」
曇った表情でそうつぶやいて、杏奈ちゃんはうつむいた。言葉とは裏腹に、まるで怒っていてほしかったかのようだった。
ぽつり、と零すように杏奈ちゃんは話し始める。
「……姉さんがさぁ、私を責めないんだよね」
「責められたかったの?」
「いや? 変なこと言ったね、忘れて」
「……じゃあ、嫌われたかった?」
踏み込んだ問いに、杏奈ちゃんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そして眉根を寄せ、何かを言いたげに口元をもぞもぞと動かす。
結局、深く諦めの滲んだ息を吐いた。
「……そういうの、思っても言う? フツー」
ごめん、と謝る俺に、杏奈ちゃんはじとっとした目を向けてきた。
それはきっと、肯定の返事だった。理由はわからないが、杏奈ちゃんは橘さんに嫌われたかったのだ。そうでもなければ、橘さんが隠したがっていたことをあえて俺に話そうとはしないだろう。
届いたお茶を一口飲んで、杏奈ちゃんは目を伏せる。
「……前世なんて電波すぎて怖い、とかあんたにキモがられて、傷つけばいいって思ってたんだけどな」
そんなひどい反応しないよ、と苦笑いで返したくなってしまったけど、思いとどまる。……たぶん杏奈ちゃんは、わざとひどい表現をした。
悪役を演じて、自分の罪悪感をごまかすために。あるいは、俺がなじりやすくするために。
けれどあくまでそれは俺の推測に過ぎないし、その推測が間違いなく当たっていると判断できるほどには親しくない。だから俺は、後半部分にだけ言葉を返すことにした。
「……傷ついたのは確かだと思うよ」
「知ってる。知ってるよ、そんくらい」
やや乱暴な動作でカップを置き、杏奈ちゃんは唇を引き結んだ。彼女はまだ、本題を切り出していない。
焦らずに待とう、と俺もコーヒーを口に含む。今度はちゃんとミルクを入れていた。プラスチックのポーションミルクではなく、小さな陶器の容れものに入っていたものだ。たぶんもう一つの容れものはガムシロップなのだろうけど、なんとなく好きではないので入れたのはミルクだけ。
杏奈ちゃんは自身の髪の毛をぐしゃりと握り、ため息をついた。
「……私もさ、前世の記憶持ちなわけ」
思いもしなかった衝撃的な言葉に、「え」と声が漏れる。
「しかも前も姉さんの妹。なんも覚えてない椿サンより、よっぽど私のほうが運命っぽくない?」
にぃ、と杏奈ちゃんは無理やり口角を上げた。
驚きすぎて、俺はうなずくことすらできなかった。
だって、そんなことある? 橘さんだけじゃなく杏奈ちゃんまで前世の記憶持ちで、しかも前世でまで姉妹だったなんて。
そんなの、杏奈ちゃんが言ったとおり――『運命』じゃないか。
現実でも案外運命みたいなことは起こるものだけど、それにしたってあまりにも現実味がなかった。
「けど姉さん、私には気づかなかったんだよ。前世の話も、旦那さんのことばっかでさ。私のことなんてなんも言わなかったわけ。たぶん今の妹である私に気ぃ遣ってたんだろうし、意地張って、覚えてるんだって言わなかった私も悪いのはわかってるんだけどさ」
――そうか、と納得する。
嫌われたかった、というのは間違いで……杏奈ちゃんはただ、嫉妬して、八つ当たりしたかった、だけなんだ。『だけ』なんて表せるのは、俺が彼女の気持ちを全然理解できていないからなんだろうけど。
「……なのに、あんたにはすぐ気づいた。は? 何ソレって思ったよね。しかもあんたはなんも覚えてないのに、一目見てわかった! あの人は彰彦さんだ! とか興奮しちゃって。バッカみたい」
吐き捨てるその声は、泣いているように聞こえた。
「私も、私もさ、姉さんが前世の話してくれるまで、姉さんがお姉ちゃんだなんて気づかなかったんだけどさ――でもだったら、なんであんたのことはわかったんだろう」
姉さん。お姉ちゃん。
先日の会話を思い返す。その呼び名の違いは、確かにあった。特に気にしていなかったが……杏奈ちゃんにとっては、そういう意味の持つ違いだったのか。
それに、今思えば……あのときの杏奈ちゃんの話し方は、ところどころ、まるで自分自身が見聞きしたことを語っているようだった。
「姉さんはさ。昔も今も、すごい人なんだよ。あんな人と比べられ続けて、よく私グレなかったよなって自分でも思うもん。グレさせなかったあの人がすごいんだけど」
杏奈ちゃんが橘さんを嫌っているなんて、とんだ勘違いだった。
好き、と言えるような単純な気持ちではないのだろうけど、今の杏奈ちゃんからははっきりとした、憧憬や尊敬のような感情が伝わってくる。たぶんそこに、色んな意味での嫉妬が混ざって、ぐちゃぐちゃになっているのだ。
杏奈ちゃんは、「はは」と自嘲げに笑った。
「私何話してんだろ。こんな話するために呼んだんじゃないんだけどな。ごめん、椿サン」
「……ううん、」
話してくれてありがとう、という言葉は呑み込んだ。聞けてよかった、とは思う。だけどここでそれを口にするのは、嫌味のように感じられてしまうかもしれない。
杏奈ちゃんはガトーショコラに大きくフォークを入れて頬張った。ふっと微かに緩んだその表情を、できるだけ見ないようにつとめる。たぶん杏奈ちゃんは自分がどんな顔で食べているか自覚していないだろうけど、どちらにせよ、俺には見られたくないだろう。
なんとなく、ガトーショコラを作りたくなった。フォンダンショコラを作るはずだった予定を頭の中で変更する。
杏奈ちゃんは口の中のものをごくんと呑み込んで、アプリコットティーで喉を潤して。
ふう、と一息ついた。そして俺の目を見つめて、ためらいがちに口を開く。
「ねえ。あんたさ、姉さんのこと好きだった?」
――それが本題なのだろう。どう答えようか、としばらく逡巡する。
杏奈ちゃんは今、彼女の本心を少しだけ見せてくれた。だったら俺も、誠意を持って返事をしたい。
「……好き、ではあるんだけど。でも俺、恋愛感情と友情の違いがよくわからないんだよね」
「何ソレ」
ぱちくりと目を瞬く杏奈ちゃんに、苦笑いを浮かべる。
「なんで『好き』って感情をそうやって分けなくちゃいけないのか、そもそもわからないんだ。だから橘さんのことは好きだけど、どっちなのかは自分じゃわからない。俺の中にちゃんとそういう分類が存在するのか、っていうところからね」
「へぇ……?」
首をかしげて、杏奈ちゃんは頬杖をついた。そして何かを考え込むかのように、視線を斜め下に向けた。
何を言われるのか、わずかに身構えてその口が開くのを待つ。
喫茶店の古い時計が、チクタクと時を刻む。それを数えることもせずに、俺はただ待った。やがて杏奈ちゃんは、沈黙などなかったかのようにあっさりと言い放った。
「――どっちでもいーんじゃないの、それ。考える必要ある?」
「え」
「ないでしょ」
杏奈ちゃんは呆れた顔で続ける。
「世の中のカップル、皆が皆ちゃんとお互いのこと好きなわけじゃないと思うよ。結構適当な人多いんじゃないの?」
それは、俺も思っていたことではあったけど。まさかそう言ってくれる人がいるとは思っていなくて、ぽかんとしてしまった。
「好きでもないのに付き合ってる人もいるだろうし、好きは好きでも、それこそ友情とそう変わんないような『好き』で付き合ってる人もいるだろうし……ってか、お姉ちゃんと彰彦さんだって友達みたいなもんだったしね。だからさー、わかんないならわかんないでいいでしょ」
あ、と思う。
そうだ、そうだった。前世では橘さんと『彰彦さん』も、友達みたいな夫婦だったんだ。あのとき全然呑み込めなかったせいで、聞いたはずのそれがすっかり頭から抜け落ちていた。
杏奈ちゃんは「やだな、なんかこういうの、私っぽくない。じんましん出そう」と大げさに腕をさする。
そう言いつつも、始めたからには最後まで、とでも思ったのか、きちんと話を続けてくれた。
「私もね、『好き』って感情を分ける必要はないと思うんだ。あんたはもしかしたら、姉さんに同じものを返せないっていうのが申し訳ないとか思うかもしれないけど、違うものだったとしても、姉さんはあんたに傍にいてもらうのが一番幸せなんだよ。
姉さんのこと、他の人と同じようにしか見れなくて、そういう人とは付き合えないってはっきり思ってるわけじゃないなら、私はあんたに、姉さんの恋人になってほしい。どの口がって感じだけどさ」
かつん、と杏奈ちゃんはカップの縁を爪で小突いた。
「……一応私は、姉さんには笑っててほしいんだよ。矛盾してるのはわかってる。でもしょうがないじゃん。しょうがなくないけど、しょうがないじゃん」
聞いていて、胸が痛くなるような声音だった。
……杏奈ちゃんは。俺に橘さんの『前世』の話をしたことを、後悔しているんだろうか。
「とにかく、だよ。椿サンは……椿さんは、姉さんのこと好きなんでしょ。それにどんな名前がつくのかわかんなくても、好きなんでしょ? それならもう、それだけでよくない? 好きならさぁ……あんな泣かせたり、しないでよね」
息を呑む。
俺は橘さんを二回も泣かせてしまったが、たぶん橘さんがそれを杏奈ちゃんに言うことはない。だからつまり……橘さんは杏奈ちゃんの知るところでも、『あんな』と言われるほど泣いたのだ。
ぐっと胸に何かを差し込まれたかのような痛みに、唇を噛む。
そんなの、ちょっと想像すればわかったことだった。なのにどうして、俺の前以外では泣いていない、なんて馬鹿なことを考えてたんだろう。そう考えていたことにすら、今気づいた。
橘さんは『彰彦さん』のことが大好きだった。それは、好意を向けられていた俺が一番よく知っていたことだったのに。なんで。どうして――すぐ元どおりになれるかもしれない、なんて甘いことを思えたんだろう。
橘さんは昨日の夜、どんな気持ちで俺とメッセージのやりとりをしていたんだろうか。
やっぱり表情が見えない会話というのは怖いな、と思う。もしかしたら昨日……橘さんは、陰で泣いていたのかもしれないのだ。
じくじく痛む胸に、ようやく自分のやりたいことがわかった気がした。
「私が、一番悪いんだけどさ。椿さんはなんにも悪くないけど。でも、姉さんがまた、いつもみたいに笑えるようになるためには、もう椿さんが何かするしかないから。だから、ごめんなさい。
こんなのほんとに虫がいいってわかってる。姉さんより、椿さんのほうが……傷ついたんだって、わかってる。だけど――お願い、します。姉さんのこと」
深々と下げられた頭。今までの偽悪的な態度とは打って変わって、心からの後悔と罪悪感が込められた、洗練された動作だった。
君は悪くないよ、と言ってあげたかった。ただ少し、気持ちがすれ違ってしまっただけ。でもここでそれを言うことに、きっと意味はない。
だから俺に返せる答えは一つだけだった。
「……うん。そう、だね。約束する。俺だって、橘さんには笑っててほしいから」
『好き』の違いなんてわからない。だけど俺は……橘さんに泣いてほしくない。笑っていてほしい。それが、確かな事実だ。
そして。
たとえ橘さんが好きなのが『彰彦さん』だとしても、俺が好きなのは、橘杏香さんだ。それ以外の彼女を、俺は知らない。俺が知る彼女は一人だけで、俺は、彼女に笑っていてほしいのだ。
だったらもう、『彰彦さん』として見られてもいいから傍で――という自己犠牲的な考えを、きっと橘さんは許してくれない、から。
だから俺は、橘さんに俺を好きになってもらえる努力をしよう。彼女の好きな『彰彦さん』ではいられないけど、だとしても俺自身を見てもらって、俺自身を好きになってもらいたい。どんな意味でもいいから。
「……ありがとう」
か細いお礼は、しかしはっきりと俺の耳に届いた。どういたしまして、と返す間も無く、次の言葉が発せられる。
「それじゃあ、椿サン」
杏奈ちゃんはにっこりと笑った。少し無理をしているのがわかる、演技めいた綺麗な笑みだった。
「今度は椿サンから告白する、ってのはどうよ」
「……えっ」
「私はさぁ、姉さん、あんたのこと……まあいっか、これはやめとこ」
何かを言いかけてやめる。なんとなく、昨日のてっちゃんを思い出した。
「とにかくね、姉さんに笑っててもらいたいなら、私はそうするべきだと思うよ。一意見として流してもらっても構いませんけどね? でもまあ、私はこれでも十五年間姉さんの傍にいるわけでさ。そこんとこを考慮したうえで決めてよね」
十五年間、というのは。杏奈ちゃんが杏奈ちゃんとして、橘さんの傍にいた期間だ。思えば最初から、杏奈ちゃんはちゃんと前世と今世の区別をつけていた。
その杏奈ちゃんがそう言うのなら、たぶん実際そうなんだろう。
……とはいえ、だ。杏奈ちゃんが言ったから行動する、なんてことはしたくない。
「告白、してみるよ。でも杏奈ちゃんに言われたからじゃなくて、俺がそうしたいからそうするんだ。恋愛感情と友情の違いがわからなくても、やっぱり俺は橘さんが好きだし、笑っててほしいし……もしも橘さんが、彰彦さんじゃなくて俺のことを好きになってくれたなら、付き合いたいって思うから。まあ、男女の付き合いができるかもわかんないんだけど」
そういう部分も含めて伝えるから、正確には告白とは呼べないのかもしれない。俺のことを友達として好きになってくれたら、この先一生友達でもいいと思っているくらいだ。そして、嫌われたら嫌われたでそのときだ、とも。
あくまで俺は俺を見てもらえればそれでよくて、その結果を経た橘さんの気持ちの種類によって、彼女との関係性を決めたいのだ。……あまりにも橘さん任せが過ぎるだろうか。
「ふーん……ま、いんじゃないの」
小さな不安は、杏奈ちゃんの嬉しげな笑みを見て吹き飛んだ。
「応援してるよ、椿さん」
「……ありがとう、杏奈ちゃん」
「ってなわけで、私もう行くから」
「今日は絶対奢らせないからね」
先手を取った俺に、杏奈ちゃんは「さいですか」とつまらなそうに唇を尖らせた。




