19. 今日も、いい天気ですね
登校時間が万が一にでも被ってしまったら気まずいので、翌朝は大分早い時間に家を出た。――のだが。
隣のドアが、ほぼ同時に開いた。あ、という顔をした橘さんに、今度は本当に偶然なのだと察する。橘さんも同じ思考で行動したってことだろうけど、こんな日にこんな偶然で被っちゃうとかある……?
運がない、という思いを振り払って、俺は橘さんに笑顔を向けた。
「……おはよう、橘さん」
「……おはようございます、椿くん」
橘さんも、笑ってくれた。
たぶん、お互いがお互いの笑顔のぎこちなさに気づいてはいたが、何も言わずに一緒に歩き出す。今日からは友達として、という話なのだから、わざわざ別々に行くのは不自然だった。……いやでも、そこに関して橘さんからの了承はもらってないのか。
橘さんがどういうつもりなのかはわからないけど、昨日のことにふれてこないのはありがたかった。昨日のことっていうか、挨拶以外まだ一言も喋ってないんだけど。
エレベーターに乗ったところで、ばれないように小さく深呼吸をする。
「あの、さ」
「んみゃっ!?」
まさか話しかけられるとは思っていなかったのか、橘さんはびくっと身体を震わせた。その奇声に、ほんのちょっとだけ緊張がほぐれる。
「友達、ってことでいいのかな?」
「……えっ、友達でいて、いいんですか?」
おそるおそる窺ってくる橘さんに、一瞬言葉に詰まる。
……正直なところ、今の気持ちのままだと友達でいられるかも怪しい。だけど、せっかく仲良くなったのに縁が切れてしまうのは悲しいとも思ってしまう。それがとてもわがままなことだとはわかっているし、もう友達すらやめてしまったほうが楽なのもわかってるんだけど。
だから、卑怯だけど橘さんに委ねてしまうことにした。
「昨日も言ったけど、橘さんがよければ。……気まずいようなら、もう関わらないようにするよ」
「いえっ! 友達でも、椿さんと一緒にいられるほうがいいです!」
力強い返事だった。本心から言ってくれているのが伝わってきて、またじくじくと体のどこかが痛む。
「……そっか。それじゃあ、これからもよろしくね」
「……はい、よろしくお願いします」
一階に着いた。一緒にエレベーターを降りるも、会話は続かない。学校まではたった五分だから、それまで無言でもそう長くは感じないだろうけど……やっぱり、友達みたいに普通に話すのはまだ無理なのかな。
橘さんも時折ちらりと俺の方を見るが、結局うつむいてしまう。
「……もうちょっとでテストだよね」
「そ、そうですね! 来週ですもんね」
テストが終わる頃にはもう七月に入っていると思うと、早いなぁ、と感じる。今はまだあまり暑くないので、この反動が七月八月に来そうで少し怖い。
ともかく、来週の木曜日からテストが始まるのだ。それを口実として使ってしまうことにした。
「俺も勉強に集中したいし、テストが終わるまではちょっと距離を置こう。お昼一緒に食べるのとかも、一旦やめようか」
「……わかりました。テスト、頑張りましょうね」
「うん、ありがとう。頑張ろうね」
橘さんは、ほっとしたようにも、つらそうにも見えた。……たぶん、俺もそういう顔をしちゃってるんだろうな。
早い時間のせいか、通学路に同じ学校の人の姿は少なかった。それだけ俺たちを目撃する人も少ないということになるが、それでも二人してこんなどんよりとした空気を出して歩いていたら、数少ない目撃者から、何かあったのではないかと噂が広がるかもしれない。橘さんはうちの学校の有名人なわけだし。
とはいえ、出す空気を調整するなんて器用なこと、今はできそうになかった。立つ噂だってせいぜい、喧嘩した、とか、別れた、とかそんなところだろう。元々付き合ってたわけじゃないんだし、ほっといていい気がした。
……あーでも、もしそういう噂を聞いて、橘さんに直接問いただす人とかが出てきたら……橘さんきついだろうな……。
そんなことは思ったが、解決策が浮かばないうちに昇降口にまで着いてしまったのでどうにもできなかった。
靴を履き替え、階段を上る。階段も、廊下も、ほとんど人がいない。いつもとは違う場所に来てしまったみたいだった。
教室の前に着いて、しばらく二人で無言で立ち尽くす。
別れを切り出したのは俺からだった。
「それじゃあ橘さん、またね」
「……椿くん!」
去ろうとした俺を、橘さんが引き留めた。
片手はスカートをきゅっと掴んで、もう片方の手は胸の前で握って。
橘さんは、息をするのすら苦しそうな顔で口を開いた。
「――今日も、」
……今日も。
それだけで何を言われかけたのかわかってしまって、身体がこわばった。
だって、何回も言われてきたのだ。今日も好きです、と。これだけでわかってしまうくらい、何回も言われた。
……橘さんは、あんなひどいことを言った俺を、まだ好きだと思ってるのか。
逃げたくなったけど、ぐっとこらえる。もうその言葉を受け取ってあげることはできなくても、受け止めるくらいはしたかった。
だけど橘さんは、視線を下げて、ゆっくりと口を閉じた。それから口角を無理やり上げて、また口を開く。
「今日も、いい天気ですね」
「……そうだね」
空には雲が多くて、青い部分なんてほんの少ししか見えない。だけど、そう同意することしかできなかった。
「すみません、そんなことで引き留めてしまって」
「ううん。……あの、橘さん」
せっかく違う言葉を選んでくれた、その気持ちを無下にするようなことだけど。
言わずにはいられなかった。見ている人がいないというのも、それを後押ししてしまったんだと思う。
「――早く、違う人を好きになったほうがいいよ」
橘さんの目が見開かれる。じわりとそこに涙がたまっていく。
……そう、だよね。すごく残酷なことを言った。『彰彦さん』そっくりな俺にだけは言われたくなかったことだろう。きっと橘さんは、長い長い間彰彦さんのことが好きだったんだから。
顔を歪めて、それでも橘さんは笑おうとした。
「そうかも、しれませんね」
「……うん」
「っす、すみません、忘れものに気づいたので私一旦帰りますね!」
涙目のままさらに笑みのようなものを深めて、走り出す。橘さんの上履きの音は軽くて、けどそれを聞く俺の心はとてつもなく重かった。
――何やってるんだ、俺。何してるんだ、馬鹿。
泣かせたいわけじゃなかった、なんて、二回も泣かせてしまった今、言い訳にもなりはしない。傷つけたくないとも泣かせたくないとも思ってたはずなのに。言ってはいけない言葉も、わかってたはずなのに。なのになんで、言うのを我慢できなかったんだ。
ため息をつく。昨日今日だけで、もう何回ため息をついただろうか。
教室に入れば、すでに中にいた三人のクラスメイトがこちらを見てぎょっとした。
「椿くんどーした!?」
「なんかあった!?」
思わず、といった様子で、近くの席の女子と男子が勢いよく訊いてくる。……今日は別に、昨日みたいに気づかないうちに泣いてた、なんてことにはなってないんだけどな。
なんでだろう、と戸惑いつつ、曖昧に笑ってごまかす。何もなかったと嘘をつける自信がなかった。
二人は心配そうに顔を見合わせて、こわごわと俺を窺う。
「……何もないならいいんだけど」
「うん、いいんだけど」
「……心配してくれてありがとね」
納得のいっていない表情で、二人は自分の席に戻った。
授業が始まるまでは、あと三十分以上ある。昨日はなかなか寝付けなくて寝不足になってしまったし、ここでちょっとでも寝ておこうと机に突っ伏す。
目をつぶってよみがえるのは橘さんの泣き顔で、思い出す声も橘さんの泣きながらの告白で、眠れる気はしなかったけど。
それでも俺は、授業開始のチャイムが鳴るまで顔を上げなかった。
【とあるクラスメイト二人の会話】
「……椿くんもあんな顔するんだね」
「な、いっつもにこにこしてんのに。やっぱ絶対なんかあったよなぁ」
「今日橘さんも元気なかったらしいよ」
「……別れたってことか!?」
「だったらやだよねぇ……」
「仲良かったのにな……」
「いやでも、あの二人が一ヶ月ちょっとしか持たないなんておかしいよね? もしかして誰かが脅迫してたりとか!?」
「えっ、それありえる! 橘さんのファンとか!」
「ファンならただ見守れよ幸せを願えよクソが……」
「こっわ。そういやお前橘さんガチファンじゃん……」
「だってあんな完璧な橘さんが椿くんの前でだけああなるんだよ!? 普通応援したいじゃん!?」
「それはわかる」