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18. 見知らぬ誰かへの告白

 橘さんの手から、ペットボトルが滑り落ちた。地面に当たったペットボトルは倒れ、短い距離を転がる。橘さんはそれを拾い上げようともしなかった。

 固まった彼女を見て、ずきりと胸が痛む。だけど俺は、その答えを撤回するつもりはなかった。


 ――だって。


「橘さんが好きなのは、俺じゃないよ」


 それがもう、わかってしまったから。

 橘さんが好きなのは、『彰彦さん』だ。


「……俺は何も、覚えてない。見た目が違って記憶までないなら、それってもう、別人だよね。どうして橘さんが俺のことを彰彦さんだと思ったかはわからないけど、俺は彰彦さんじゃない。だから、橘さんが好きなのは俺じゃないんだよ」


 言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 俺が悲しそうな顔をしてしまえばきっと橘さんのほうが傷つくだろうから、平気な顔を作った。……ただでさえすでに傷つけているのだ。できるだけその傷は浅くしたい。

 かすかに震え出した橘さんは、「ちが、違う、違うんです!」と悲愴な声を上げた。


「私が好きなのはあなたです! ちゃんと私は、あなたを……好きで……」


 うつむきながら尻すぼみになった声は、橘さんの自信のなさを表しているようだった。……そこで自信を持って言ってくれたら、俺だってもしかしたら。


 信じられたかも、しれないのに。


 ほんのわずかに残っていた期待が、今完全に消えてしまったのがわかった。

 期待というより、ただの俺のわがままなんだろうけど。


「橘さんが俺を好きなのは、俺の前世が彰彦さんだからだよね」

「っそれは、だって、そうじゃなきゃ……! あんなふうに、目が合っただけで泣きたくなるなんてありえなくて! でも違うんです、確かにきっかけはそうだったかもしれませんけど、私は、椿くんが好きなんです!」


 本当に?

 そう訊くのは、やめておいた。冷たい声が出てしまいそうだったから。

 ……おかしいな、とそこで思った。いくらショックを受けたからって、普段ならもっとやんわり対処できるはずなのだ。それなのに今の俺は、気を抜いたら橘さんを傷つけてしまいそうだった。

 橘さんはうつむいたまま、小さな声で語っていく。


「引っ越しの日、椿くんは私のことを心配してくれました。女の子の一人暮らしだってことをわからせるようなことはしないほうがいい、って。会ったばかりの、全然喋ったこともなかった私のことを心配してくれました。親しくない人のことを考えて、当たり前のように優しくできるところが好きです」


 ――私、椿さんのそういうところが好きなんです。


 あの日の言葉を、思い出した。

 つまりあれは……もう、わかっていたことだけど。俺に向けられた言葉じゃなかったのだ。()と橘さんは、あの日が初対面だったんだから。『そういうところ』なんて言えてしまうのは、彰彦さんを思い浮かべていたからだとしか説明がつかない。

 だというのに、橘さんはまるで、それが()を好きな理由であるかのように言った。

 ……きっと気づいてないんだろうな。

 違う人へと向けた思いを、俺に向けたものとして、橘さんはとつとつと語る。




「いきなりの告白にも、真摯に向き合おうとしてくれたところが好きです」


「可愛いとか、似合ってるとか、さらっと人を褒められるところが好きです」


「私が告白したりするたびに真っ赤になるのが可愛くて、好きです」


「車道側を歩こうとしてくれたりとか、歩く速さを合わせてくれたりとか、そういうところも、好きです」


「私が悩んでるメニューを二つ頼んで、半分こにしようとか提案してくれるようなところも好きです」


「美味しいものを食べて、幸せそうにしている人を見ながら、まるで自分のことみたいに、幸せそうに笑うところが好きです」


「頭をなでてくれる、手が好きです。……本当に優しくて、すごく、大切に、っ……されている気持ちになれるんです」


「……美味しい……チーズケーキを、作れるところが、好きです」


「雨の日に……他人のために、傘を二つ持ってくるところも、好きです。自分のことより、他の人の、ことを、考えるところが、好き……っ、です……」




 徐々に涙が混じっていくその声を、俺は黙って聞いた。相槌すら打てなかった。

 どれだけ好きだと言われても――嬉しいと思えないのが、申し訳なかった。前世の話を聞くよりも前にこの告白を聞いていれば、たぶん恥ずかしさに耐えきれなくなっていただろう。だけど今はただ、居心地の悪さを感じるだけだ。


 ……ううん、嘘、それだけじゃない。

 好きだと聞く度に、じくじくとどこかが痛む気がした。心臓、だけじゃなくて。どこだろう、これ。よくわからない。どこもかしこも痛い気がする。

 橘さんが顔を上げる。大きな目には、ゆらゆらと涙がたまっていた。けれどそれをこぼすまいと、橘さんは瞬きもせずに俺を真っ直ぐに見てくる。


「好きなんです、好きです、椿くん……っ! 私は、あなたが好きです!」

「……ありがとう」


 無理やり、微笑む。いつもどおりの声を心がけて、慎重に口を動かす。


「だけどごめん、やっぱり橘さんが好きなのは、俺じゃないと思うな」

「どうして私の気持ちを椿さんが決めるんですか!?」

「……確かに今の話だけ聞くと、俺のことを好きみたいに思えるけど」

「みたいじゃなくて、そうなんです……! どうすれば信じてくれますか!?」


 橘さんは必死だった。思えば何度もこんな顔を見た、とぼんやり考える。

 ……どう考えたって、橘さんが俺を好きになったのは前世の記憶があったからだ。俺を通して彰彦さんを見ていたのだ。だから、信じるも何もなかった。

 むしろどうすれば納得してくれるんだろう、とまで思ってしまう。


「たぶんもう、どう言われても信じられない、かな。ごめん」

「……どうして、ですか」

「ごめん」


 ただ謝る。それしかもう、できなかった。

 ごめんね、となんとか微笑む俺に、橘さんが顔を歪める。


「っ……いえ、私のほうこそ、すみません。しつこかったですね」


 諦めてくれたか、と思えたのは一瞬だった。


「付き合えないのは、別にいいんです。このままだと友達ですらいられないかもしれないのも……いい、です。だけど、私があなたを好きだっていう気持ちだけは否定しないでください。お願いします。そこだけでいいんです。……お願いします」


 頭を下げる橘さんから目を逸らす。

 ……橘さんは、彰彦さんでなく俺のことを好きだと自分でも信じているんだろう。だから俺は、そこから否定してしまえばいい。彼女の勘違いなのだという根拠を、並べ立てればいい。そうすればきっと、橘さんは気づくから。――俺のことなんて好きじゃなかった、って。

 でもそれは、できればしたくないことだった。このまま、信じられない、とだけ言い続けて橘さんが納得してくれるのが一番よかった。

 口先だけでも、信じる、と言えばいいんだろうか。そんな嘘で、彼女の気持ちは救われるんだろうか。……救われるんだろうなぁ。


 だったらもういいか、と思った。

 どうしてか意地になってしまっていたけど、今一番優先すべきは彼女を泣かせないことだ。罪悪感とかそういう問題じゃなくて、単に俺が、橘さんに泣いてほしくないだけ。


 あまり、嘘が得意じゃない自覚はあった。

 だからどうか気づかれませんようにと、願うように俺は口を開いた。


「うん、わかった。そこまで言ってくれるなら信じるよ。ひどいこと言っちゃってごめんね。君が俺のことを好きだっていうのを信じたうえで、もう一回言わせてください。俺は橘さんとは付き合えない。橘さんさえよければ、これからも友達でいてくれると嬉しいんだけど……どうかな。もちろん、無理はしなくていいんだけど」


 言い終えた途端――橘さんの目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。

 ぎょっとする俺に、橘さんはその涙を乱暴に拭いながら謝った。


「っごめんなさい、すみません」

「え、な、なんで橘さんが謝るの……?」

「だって! ……泣かせちゃって、ごめんなさい……」


 泣かせたのは俺、のはず、で。

 はっとして、頬に手をやる。そこは気づかないうちに濡れていた。自覚すると同時に、視界が滲んでいることにもようやく気づく。

 ……泣くつもりなんか、少しもなかったのに。

 涙を拭いて、ちょっと笑ってみせる。


「これは、その……あんまり、気にしないで」

「好きな人を泣かせてしまって、気にしないなんて無理です」


 ――まだ、俺のことを好きって言うんだ。


「ほんとに大丈夫だから。それに、俺が先に泣かせちゃったんだから、橘さんは謝る必要なんかないよ。ね? 今日はもう帰ろう。明日からは友達としてよろしくってことで」

「……大丈夫に、見えません」

「大丈夫だよ」

「何か私に、言いたいことがあるんじゃないですか? いいです。椿くんが我慢して泣いてしまうくらいなら、いいです。言ってください」


 ぽろぽろ泣きながら、橘さんは俺に強い視線を向けてくる。

 ……ああ、泣かせたくなかったのになぁ。なんで俺は、泣いてしまったんだろう。俺が泣いたら、そりゃあ橘さんだって泣いてしまうに決まってる。


「……何もないよ」

「椿くんは!」


 椿くんは、と橘さんはもう一度ぽつりと繰り返す。


「嘘をつくとき、手をぎゅって握るんです。笑顔がこわばるんです。さっきのも、今のも、嘘ですよね?」


 橘さんに嘘をつくのは、今日が初めてだ。もし俺に嘘をつくときの癖があったとしても――橘さんがそれを知ってるのは、おかしい。



 駄目だ、だめ、これは、いっちゃだめなのに。


 言っちゃ駄目だって、わかってるのに。



 口が、言葉を吐き出してしまう。




「――それ、誰のこと思い出して言ってるの?」



「……あ」


 橘さんの表情が、凍りつく。

 もうやめろ。もう、橘さんを傷つけるな。今ので十分傷つけたんだから。

 そう思っても、口は止まってくれなかった。


「俺じゃないよね。だって俺、橘さんの前で嘘つくの、今のが初めてだし」


 嘘をついたのだと、君のことを信じられないのだと――本当は大丈夫なんかじゃないのだと。それらが伝わってしまう言葉が、こぼれた。


「さっきの告白も。俺は――どのくらい君の前世の旦那さんと同じなの? 俺を好きな理由は、全部前世の旦那さんにも当てはまるんじゃないの? 俺がその人に似てるから好きになっただけだよね?」


 問いを重ねるごとに、橘さんの顔色は悪くなる。愕然と、彼女は口元にゆっくり手をやった。


「俺のことが好きじゃないのに好きって言われるのは……正直、結構、きついよ」

「……私は」


 何かを言おうとした橘さんは、それっきり何も言わなかった。言えなかった、のだろう。

 しばらく待ってはみたけど、答えを期待していたわけでもない。


「……ひどいこと言って、ごめんね」


 謝りながらベンチから立ち上がって、落ちていたペットボトルを拾い上げた。それを俺が座っていた場所に置き、橘さんに「またね」とだけ力なく言って、歩き出す。今は一緒に帰る気にはなれなかった。

 橘さんは結局、それにも何も返さず、ただ俺を見送った。



 マンションのエントランスを抜けながら、唇を噛む。

 ……ひどい、言葉を吐いた。橘さんを傷つけることがわかっていて、それでも口に出してしまった。最低だった。ここまでの自己嫌悪は初めてだ。


 エレベーターに乗る。五階のボタンを押す。

 下を向いた拍子に、涙が一滴落ちそうになって。


 俺は瞬きをしないまま、長く息を吐いた。


 早く、この涙が乾きますように。

 彼女を傷つけた俺に――泣く権利なんか、あるはずがないのだから。





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