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17. 橘杏香の独白

 ――違う人間の記憶がある、と気づいたのは、物心ついたときだった。


 きっとそれが私の『前世』なのだろうと思って、幼心に、誰にも言わないようにしようと決意した。頭がおかしいと言われるのが怖かったし、家族や友人にそんなことで嫌われるのが怖かった。

 それに……もしかしたら、本当に私の頭がおかしいだけかもしれなかったから。


 前世の記憶がある、といっても、私は私だった。少しは人格にも影響していたかもしれないけど、前世の私のことを私とまったくの同一人物だとは思えなかった。

 私の記憶とその人の記憶は頭の中に別々にしまってあるような、不思議な感覚。けれどたぶん、確かに私でもあるのだろう。前世の私を〝私〟と形容することに、違和感はなかった。



 前世の私には、すごく好きな人がいた。彰彦さんという、夫だった人だ。

 親に無理やり結婚させられたようなものだったけど、それを感謝してもしきれないほど、私は彰彦さんのことが好きになった。

 男の人が苦手だった私は結婚当初、散々彼に醜態を晒してしまった。いつもびくびくして、家事も失敗ばかりで、彰彦さんに近づくことすら難しくて。

 けれど彰彦さんはそんな私を嫌わず、見放さず、いつも優しくしてくれたのだ。

 自分のことよりも他人を、当然のように優先してしまう人だった。思っていることを真っ直ぐ言うけど、決してそれで誰かを傷つけない人だった。――そして、私のことをかばって、死んでしまった人。


 私は記憶の中のその人に恋をしてしまって、困ったなぁ、と思っていた。

 だって彰彦さんなんて、もうこの世にいない。私の記憶が確かなものであるという証拠もどこにもなくて、私はただ、妄想の中の彼に恋をしてしまった可能性まであった。


 私が生まれた年は、前世の私が中学生だった年だった。すごい中途半端に時間が戻ったんだなぁ、それじゃあ今って私が二人いることになるのかな、なんてのんびり考えていたのだが、前の私が住んでいた家に行ってみたときに、それは違うのだと気づいた。だって、全然知らない人が住んでいたのだ。この年、私は確かにあの家に住んでいたのに。


 あれ、なんか違う? とうっすら思い始めて。次第に授業で習う歴史上の人物の名前だとか、テレビで見る芸能人だとか、色々なものが違うと気づいて。

 そうか、『世界線』すら違うんだ、と思った。

 けれどそれはさすがに、自分でも信じられなかった。まだ妄想だったと言われたほうが信じられる。……なんだ、妄想だったのか、と心底がっかりした。


「姉さんって、好きな人とかいないの?」


 杏奈ちゃんにそう訊かれたときは、まだそんなことには気づいていなかった。

 だから、杏奈ちゃんには話してもいいかなぁなんて思ってしまったのだ。杏奈ちゃんはまだ小さいしよく理解できないだろうと判断して、嬉々として語った。


 語れば語るほど私は彰彦さんに恋をして、彼に会えないことがつらくなった。だけど絶対に叶わない恋を、今だけだから、と楽しんでもいた。

 きっと私はいつか、ちゃんと彰彦さんじゃない人を好きになる。いつまでも妄想なんかに恋をしていられないことは、理解していた。


 だけど。

 でも。


 会ってしまった。

 夢見ていた一人暮らしを始めた、その日に。


 椿くんの目を見た瞬間、時が止まった気がした。ぶわりと体の内側から何かが湧き出るような、魂が揺れるような感覚に、息すら止まるかと思った。


 ――この人だ、この人こそが彰彦さんだ。私の妄想なんかじゃなかった!


 硬めだった黒い髪は、柔らかそうな茶色い髪に。切れ長だった目は、まんまるく、少し幼さを感じる目に。凛々しく、それでいて優しげだった眉は、少し困ったような線を描くようになっていたが、優しそうなのはそのままだった。唇はたぶんそう変わっていない、と思う。あとは輪郭や、鼻筋もそれほど。残念なことに、正確に比べられるほど記憶がはっきりしていなかった、というのもある。

 背の高さについてはこの歳の彰彦さんを知らないからわからないが、彰彦さんよりは低いと思う。それでも百六十センチの私より十センチは高いだろう。


 姿形はまったく違ったけど、それでも確信できた。

 彰彦さんだった。そうじゃなきゃ、目が合っただけでこんなにも泣きたくなるはずがなかった。


 奇跡だと思った。

 同じ世界に生まれていたことも、お隣さんなんて形で会うことができたことも、姿が違うのに一目でわかったことも、全部全部。



 奇跡だと、思ったのだ。



「ずっ……ずっと前から、好きでした!」


 前世では伝えられなかった思いを、反射的にぶつけてしまって。――記憶がない様子の椿くんに、はっと我に返った。

 記憶がない彼にとって、私は初対面で告白してきた変な女だ。慌てて自己紹介をやり直したら、なんと同じ学校の、隣のクラスだったことが判明した。

 浅く狭くの交友関係を心がけていた自分が恨めしくなった。いくら人間関係に疲れていたからって、もうちょっとだけでも周りに目を向けていれば……そうしたら、もっと早く椿くんに出会えたのに。


 しかし隣のクラスということは、この顔だけでなく、家のことなんかもばれている可能性が高い。……そんなことで告白の返事を判断されるなんてごめんだった。

 だって、彰彦さんだ。椿くんは彰彦さんなのだ。優しいあの人ならきっと、きっと――私自身をちゃんと、見てくれる。


 恵まれすぎるほど恵まれた自分を、私はずっと、どこか他人事のように感じていた。前世の記憶があっても私は私、と思っているのにおかしな話ではあるけど。……もしも万が一生まれ変わった彰彦さんと会えたときのために、誇れる自分でいようと努力していたのに、矛盾しているけど。


 それでも前の記憶という知識があるからこそ、近づいてくる人に対して、私の顔や家柄が目当てなんじゃ、とうがった見方をしてしまう。昔からそうだった。……皆が皆そんなわけはないと、頭のどこかでわかってはいた。

 でも、そんなものが目当てではないと確信できる相手は今まで家族だけだった。友達はいるけど、彼女たちのことも好きだけど、心を許しきれない部分があるのも確かだった。

 だから、


「突然失礼なことをしてすみませんでした! お返事は今はまだ結構ですので、明日から少しずつアピールさせていただいてもよろしいでしょうか!」


 だから私は、一旦逃げた。

 時間をもらったところで、椿くんは私のことを好きになってはくれないかもしれない。

 顔や家に見合わないほどに、性格がぽんこつな自覚はあった。いつもは取り繕っているけど、椿くんの前ではボロが出てしまうだろうという確信があった。

 恋をする相手として、私の中身は到底魅力的ではないだろう。椿くんだってそう結論を出すかもしれない。

 それでも、()()()という皮だけを見られて判断されるよりよっぽどましだった。皮も含めて私、ではあるから、完全に切り離すことなんてできないけど。


 恋人が駄目でも、今世では友人として、友達として、傍にいることを許してほしかった。

 ……彰彦さんも、私のことを家族として好きにはなってくれても、たぶんそこに恋情は一切なかったから。

 椿くんが私に、恋を向けてくれなくてもよかった。



 椿くんがいつどんなふうに返事をすればいいのか、悩んでくれているのはわかっていた。期限を明確に決めなかったのは、わざとだ。答えを出されるのが怖かった。

 私はまた、逃げていた。それが楽だったから。

 椿くんと一緒にいるのは楽しかった。彰彦さんに似ている部分を見つけるたびに、ああ彰彦さんだなぁ、と懐かしく思った。椿くんは相変わらず優しくて、たまに少しずれていて、可愛かった。

 できるだけ長く、心安らぐその時間を享受したかった。






「――だから、ごめん。俺は君とは付き合えない」



 だから。



 これはきっと、逃げ続けた罰なのだと。

 冷えきった椿くんの声を聞きながら、そう思った。





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