15. ずっと前からの好きな人
彼女は名乗るよりも先に、「姉さんに見つからないうちに早く行こ」とすたすた歩き始めた。
橘さんの妹だということはそれで確信できたので、大人しく後を追う。
着いた先は静かな喫茶店。
個人経営のお店のようで、こんなに雰囲気のいい店が学校から歩いて行ける範囲にあったのか、と驚く。使い込まれた調度品はシックな色合いをしていて、主張が控えめな音楽とも相まって、とても落ち着く空間だった。
「急に悪いね。ここは私が奢るから好きに頼んじゃって」
「え、いや、そういうわけには」
「拒否権はないから」
「……じゃあ、アイスコーヒーで」
ブレンドと並んで一番安い飲みもの(それでもチェーン店よりはよっぽど高かった)を頼めば、ほんの少し眉を寄せられた。けれど何も言わずに、店員さんを呼んで注文を済ませる。彼女はアプリコットティーとガトーショコラを頼んだようだった。
そして片手で頬杖をついて、俺のことをじっと見つめてきた。こちらを観察するような視線。
「その、杏奈ちゃん、でいいのかな?」
「は?」
ドスのきいた声だった。やっぱり名乗られる前に気安く呼んではいけなかったらしい。
謝りながら身を縮こませると、彼女は「姉さんか」とため息をついた。
「……別にまあ、呼び名はどうでもいっか。お察しのとおり、私は橘杏香の妹。橘杏奈だよ」
「椿咲良です。えっと、よろしくね……?」
「よろしくするつもりはないな」
あ、そうなんだ……。なんだかよくわからないが、敵視されているようだった。
……大好きな姉が取られそうになって嫉妬している妹、という感じはない。杏奈ちゃんが口にする『姉さん』という呼び名は、どこか冷たく聞こえた。
だから、姉が大好き、というより、むしろ。……嫌いに近い感情を抱いているように思えた。
とはいえこんなちょっと話しただけじゃ、それは単なる印象にすぎない。こんなふうに勝手に想像を巡らせるのも失礼だろう。
「で、早速だけど本題」
頬杖をやめた杏奈ちゃんに、俺も姿勢を正す。
杏奈ちゃんは声をひそめて問いかけてきた。
「――あんた、姉さんの『記憶』についてどこまで知ってる?」
「……記憶?」
「ああやっぱり、なんも知らないんだ? 私が教えてあげるよ」
嘲笑にも見える薄い笑みに、ぎくりと体がこわばる。
何も知らない、と彼女は言った。今から教えようとしてくれていることは……きっと橘さんが、いつどうして俺を好きになったのか頑なに言わない理由と、関係があるんだろう。それ以外に、こんなふうに言われることが思いつかない。
しかし、気になるのは確かだが、それを他人から聞いてしまうのは違うと思うのだ。
「……橘さんが隠してることの話なら、聞きたくないよ」
「隠してるってことだけはわかってたんだ? ま、姉さん隠し事とかヘタだもんね。そりゃそうか」
でも残念、と軽い口調で言いながら、彼女は真剣な顔を作った。
「椿咲良サン。私は姉さんの妹として、あんたにそれを知っててほしい。……こうお願いすれば、お優しい椿サンなら逃げたりしないでしょ?」
……杏奈ちゃんの言うとおり、橘さんの妹としての切実なお願いなのだとしたら、聞かないわけにはいかなかった。
けどやっぱり、聞くにしても橘さんにそれを伝えてからにしたい。
そう切り出そうとしたとき、杏奈ちゃんは「時間切れ」と無情な宣告をした。
「勝手に話し始めるから」
「えっ、待っ――」
「ねえ、彰彦さん」
「て……?」
彼女の目は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。少しも目を逸らさないまま、彰彦さん、と、そう呼んできたのだ。
……彰彦さんって、誰だ。
後ろにちらりと視線を向けてみれば、「あんたのことだよ」と言われてさらに困惑する。だけどそれこそが橘さんが隠したかったことなのだと、頭のどこかで納得もした。
聞いたらきっと、橘さんとの関係が変わってしまう。
そんな予感が、あって。
聞きたくないと思うのに、体が動かなかった。
「ホンットに全然覚えてないんだね。まいったなぁ」
全然まいってなさそうな表情で、杏奈ちゃんは言った。
「覚えてないなら信じてもらえないかもだけど、それならそれでいーや。あのね、椿サン。姉さんには――」
言葉が止まる。ちょうど注文の品が運ばれてきたからだった。他人に聞かれたくない話なのだろう。
ごゆっくりどうぞ、という店員さんの言葉に二人して会釈を返す。
杏奈ちゃんは言葉を続けるよりも先に、アプリコットティーを口に含んだ。それを見て、俺もコーヒーを一口飲む。本当に聞きたくないのなら今のうちにお金だけ置いて逃げてしまえばよかったのだろうが、なぜか逃げる気になれなかった。
かちゃり、と杏奈ちゃんがカップをソーサーに置く。
そしておもむろに、再び口を開いた。
「――姉さんには、前世の記憶がある」
「……え?」
思わずぽかんと、目を見開く。
前世。
いきなり出てきた突拍子もない単語は、上手く頭に入ってこなかった。
からかわれている、感じはしない。初対面の人の嘘や冗談を見抜けるほどの観察眼は持っていないから、その感覚自体が間違っているのかもしれないけど。
前世ってつまり、転生とか生まれ変わりとか、そういう感じの話で。――それが、橘さんの隠したかったこと?
嫌な予感は強くなって、それが心臓の辺りをぐるぐると回っているような気がした。
「まあ、前世っていうのとはたぶんちょっと違うんだけど、前世って言ったほうがわかりやすいからそう言っとく。で、椿サン。あんたは前世で、お姉ちゃんと結婚してたの」
「けっこん!?」
「そう、つまり夫婦だったんだよ」
素っ頓狂な声を上げた俺に、杏奈ちゃんは気にする様子もなくあっさりとうなずいてみせる。
そしてそのまま、淡々と語り始めた。
「お姉ちゃんと彰彦さん……あんたの前世は、めちゃくちゃ仲がよかった。でもね、恋愛結婚じゃなかったの。お姉ちゃんはちょっと男に対して苦手意識持ってて恋愛とか無理だったから、親が組んだお見合いで、たまたま結婚したって感じ? でも仲よかったんだよ。夫婦ってよりは友達みたいだったけど」
何も理解できないのに――いや、理解できないから、聞き逃してはいけない、と強く思った。言葉の音だけ、必死に頭の中にたたき込む。後で思い出せるように。
「で、お姉ちゃんは優しい彰彦さんのことを、だんだん好きになっていった。恋愛的な意味でね。
けどほら、男に苦手意識、ってさっき言ったじゃん? そのせいで最初の頃は大分ひどい態度取っちゃったみたいで……そんなだったから、気持ちを自覚してもなかなか好きって言えなかったらしいんだよねぇ。彰彦さんから家族として愛されてるのは確かだから、それで満足しちゃってたみたいだし」
そんなとき、とまるで物語るような口調で言って、杏奈ちゃんは顔を曇らせる。
「彰彦さんが事故で死んだ。お姉ちゃんをかばって、車に轢かれたんだって。お姉ちゃんは気持ちを伝えられなかったことをすごく後悔したし、それから生涯独身を貫いた。……生涯って言っても病気でそこそこ早死にしちゃったんだけど」
車。事故。
――デートのときに頑なに車道側を歩こうとした橘さんが、頭をよぎった。
「そしたらびっくり、まさかの転生。お姉ちゃんは『橘杏香』としてこの世に生を受けましたとさ、っていうのが、まず大前提なわけ。あ、でも精神年齢は肉体に引っ張られてるみたいだから、今の姉さんはれっきとした女子高生だよ。ここまではいい?」
全然、よくなかった。
いまだかつてないほどの大混乱だ。何一つ呑み込めない。
杏奈ちゃんはガトーショコラを一口食べて「美味しい」とこぼした後、こくこくとアプリコットティーを飲む。そしてなんてことのないように、話を続けた。
「私が姉さんからその話を聞いたのは、小学生のときだった。小二か小三か、そんくらいかな。
姉さん好きな人とかいないの? ってコイバナしようとしたら、実はずっと前からいるんだって教えてくれて。それでたぶん、子ども相手ならいいかって思ったんだろうね。今言った、前世の話をしてくれたんだよ。その記憶の中の彰彦さんに恋しちゃったの、なーんて言ってさ」
それからは何度も、橘さんから彰彦さんの話を聞いたらしい。
しつこいくらい色んな話を、何回も何回も。前世の話なんてできる相手が、杏奈ちゃんだけだったから。
しかし橘さんには、その恋を叶えるつもりはまったくなかった。そもそも彰彦さんは前世の人間で、すでに亡くなっているから叶えようもないのだが。
……橘さんは、もしもこっちの世界で好きな人ができたら、ちゃんとその人のことを大事にしようと決めていたのだという。
「こっからは椿サンもわかる話」
どこか遠くを見つめていた杏奈ちゃんが、ふっと俺に焦点を合わせる。
「この前、姉さんから急に連絡が来て『彰彦さん見つけたの!』ってすっごい嬉しそうに報告してきてさぁ? もうびっくりだよ。顔も名前も違う、記憶もない、だけど絶対あれは――椿さんは彰彦さんだって、姉さんは言い張った。目を見てすぐにわかったとか言ってたけど、どうなんだろうね。そんなことあると思う?」
目を見て、すぐに。
その言葉を聞いて、初めて話した日のことを思い出す。
橘さんは俺と目が合った途端、目をこれ以上ないくらいに見開いて固まった。直前までは、学校でよく見かけるような毅然とした橘さんだったのに。
それから泣きそうな、嬉しそうな顔で告白してきた。
ずっと前から好きでした、と。
「ね、どう思う? それって本当に、彰彦さんと同じ? 私は別人だと思うんだよね。っていうかもし本当にあんたが彰彦さんだったとしても、証拠はなんにもないんだよ。なのに姉さん、私に毎日電話で『椿さん』の話してきてさぁ。もうベタ惚れじゃん。
――どう思う、椿咲良サン」
何かを試しているような、見定めているような。そんな視線を向けられて、ごくりと唾を飲む。
到底、信じられる話ではない。だけど、その一言で切って捨てていいような話でもなかった。
「信じるかどうかはあんたに任せる。私はただ、知っててほしかっただけだから。信じる信じないは関係ない。どっちでも好きにして」
そう言ったきり、杏奈ちゃんはガトーショコラに集中し始めた。先ほどまでとは違って、一口食べるたびにふにゃりとその顔は緩む。こういうところは橘さんと似ていて、本当に姉妹なんだな、と感じた。
俺もとりあえず、もう一口コーヒーを飲む。苦い。いつもなら入れるミルクを入れ忘れていたことに、今更気づいた。
……信じるか、信じないか。
突飛ではあるものの、杏奈ちゃんの話は筋が通っている……とは、感じる。
『……昔。すごく、優しくしてもらったんです』
昔が示す時間が『前世』だとしたら、俺が橘さんのことをまったく覚えていなかったのもうなずける。それに、橘さんが詳しく語ろうとしなかったのも。橘さんみたいな子が、いきなり俺なんかのことを好きだと言い出すことだって。
納得、できてしまうのだ。
でも、だけど、でも、こんなの。
――こんなの、どう信じたらいいんだ?
体の中を重くて澱んだものが満たしていくような、気持ち悪い感覚だった。
信じないことによって杏奈ちゃんや橘さんを傷つける可能性はあっても、信じることで傷つける可能性はないだろう。
だから俺は、ここで信じるべきだ。信じたいと、思っている。
なのに。
ぐっと、コーヒーの入ったグラスを強く握る。
……どうして、信じられないんだろう。
今までそんなスピリチュアルな話を信じていなかったから、という単純な理由ではない。言葉にできない理由が、他に何かある気がした。
「そういえば」
ふと、杏奈ちゃんが沈黙を破る。
「彰彦さんが死んだの、春だったんだよね。花見に行った帰りだったらしいよ。……さくらって名前聞いて、姉さんはどう思っただろうね」
――ぴったりのお名前ですね。
そう微笑んだ、橘さんの泣きそうな顔を思い出した。
……橘さんが、泣きそうになっていたときは。
いつも、『彰彦さん』のことを考えていたんだろうか。