12. 一時間からお願いします!
橘さんとの不思議な関係が始まってから、早いもので一ヶ月ほどが過ぎた。
いや……ほんとに早かった……あっという間だった……。
毎日翻弄されているうちに過ぎ去ったけど、きっと橘さんに言わせると「翻弄されたのはこっちですよ!」ってなるんだろうな。そういうことがわかるくらいには、仲良くなった……と、思う。
デートのような大きなイベントはあれ以来ないけど、毎日おしゃべりして、お互いのことを知って、毎日告白を受けて、緩やかに距離を縮めていっている。……緩やか? 緩やかかなぁ。雰囲気的には緩やかだけど、速さ的には結構ハイスピードかもしれない。
と、まあ、そういう日々が続いていた。
……つまり、変化なし。
橘さんが返事を求めてこないことに甘えて、俺はまだ、彼女に対する答えを出していないのだ。どうしよう、という思いは日に日に強くなっていた。
さすがにそろそろまずいな、と思う。こういう関係を続けすぎるのは、なんだかよくない気がする。
そんなことを考えていたとある火曜日。取り決めどおりなら、今日はてっちゃんと食べる日――なのだが。
二人で弁当を開けたところで、教室のドアのほうから視線を感じた。そちらを見れば、こそっと中を覗いていた橘さんと目が合う。
「橘さん?」
名前を呼んでしまってから、別に俺に用とも限らなかったな、と少し恥ずかしくなる。目が合ったのはたまたまかもしれない。
とはいえその懸念は杞憂に終わり、橘さんは気まずそうな表情を浮かべながらこちらに近づいてきた。手には弁当の袋が握られている。そして俺たちの前に立ったところで、意を決したように口を開く。
「決めたルールを私から破るのは申し訳ないのですが……! 今日のお昼は、お二人とご一緒してもよろしいでしょうか! 代わりに明日のお昼は来ませんから!」
「う、うん? いや、今日三人なら明日は予定どおり二人で食べてもいいんじゃないかな」
「いえ、大丈夫です!」
意外と頑固な橘さんはきっぱり言ってから、「住吉くん、いいかな……?」とてっちゃんにも許可を求めた。
「もっちろん。なんなら今日二人で食べなよ。でまあ、別に明日もお前ら二人で食べればいいんじゃないかなって思うけど、橘さんが納得できないなら明日はオレの番で。今日と明日を交換するってことならありっしょ?」
「ナ、ナイスアイディア住吉くん……! ありがとう、ほんとありがとう!」
「いーえ」
大げさなまでに喜ぶ橘さんに、てっちゃんがによっと笑う。意味深にこっちを向きながら。
なんだろう、と思ったのは一瞬だった。てっちゃんが次に放った言葉で、思考が止まる。
「誕生日おめでと、橘さん」
「えっ、知ってたの?」
「隣のクラス、ここ最近騒いでたからな。オレからの誕プレは椿との時間っつーことで」
「最高に嬉しいプレゼントだ……! ありがとう!」
「今さっきの思いつきをそこまで喜ばれると、ちょい気まずいなぁ?」
「すごいよ住吉くん、最高の思いつきだよ! 冴え渡ってる!」
「橘さんほんと椿関連だとそういうふうになるよなー」
…………誕生日?
ぽかんと二人の会話を聞いていたが、ようやく頭にその単語が認識された。誕生日。……橘さんの誕生日? 今日が? 今日が!?
目を見開いて身を乗り出す。
「橘さん誕生日なの!?」
「びゃっ……わざわざアピールするように教室に来てしまってすみません!!」
「いや、それは全然いいっていうか、当日にちゃんとお祝いできるなら俺も嬉しいし謝らなくていいよ……」
むしろもっと早くアピールしてほしかった。
てっちゃんは知ってたんだし、隣のクラスの様子に気づかないくらいぼんやり過ごしてた俺が悪いんだろうとはわかる。それに橘さんの性格的にアピールが難しかっただろうことも。
でも事前に知ってたら何か買ったりとかできたのに、と思ってしまった。……まだ期待を持たせてしまうわけにもいかないから、せいぜいコンビニ菓子程度になってただろうけど。
そそくさと俺たちから離れていくてっちゃんは、すごく楽しそうな顔をしていた。そんな顔するくらいならてっちゃんが先に教えてくれたって……いや、慌てる俺を見て楽しむためか。てっちゃんはたまにそういうところがある。
内心ため息をつきながら、橘さんへと意識を戻す。
「ごめん、遅くなったけど誕生日おめでとう」
「全然遅くありません! ありがとうございます!」
ぱっと輝かしい笑顔を浮かべた橘さんは、俺のこんな言葉だけで心から喜んでいるようだった。……コンビニでお菓子買って帰ろう。やっぱりせめてそれくらいはあげたい。
いつものように一緒に弁当を食べる――前に、橘さんは「実はですね」と神妙な表情で切り出した。
「とても、とっても厚かましいお願いがあるのですが、言ってもよろしいでしょうか」
「え、ど、どうぞ?」
どうせ橘さんのことだし、全然厚かましくないんだろうなぁ、と思いつつも、ちょっと身構える。たまに、っていうか割とかなりの頻度で予想できないからな、橘さんの言動。
「欲しいもの、というか、やっていただきたいことがありまして……」
「やってほしいこと?」
誕生日プレゼントの代わりに、ということだろうか。
橘さんは、あー、とか、うー、とかしばらく口ごもった後、意を決したようにぎゅっと目をつぶった。
「……あの、あ、あ、あ……あた……頭を、なでてほしい、です……」
「……へ?」
俺が首をかしげるのと同時に、教室がざわっとしてから静かになる。あっやばいクラスの人に誤解される、付き合ってるって思われる! 待って、俺はまだ橘さんに返事すらしてないんだ……!
かといって、このお願いをすげなく断るというのも心が痛む。橘さんは頬を染めてまだ目を開けないし、相当勇気を出してくれたんだろう。それに頭をなでてほしいって、少し拍子抜けするくらい可愛いお願いだ。
問題は場所。
教室は駄目だ。目立ちすぎる。後でマンションの廊下で、とかだったら全然いいけど……今こっちに注目してる人は多いし、迂闊な会話ができない。橘さんとお隣さんと知られることも、後で、なんて約束ができる仲だと思われるのも、ちょっとまずい気がする。
つまり、すでに詰んでいた。選びたくない選択肢しかない中から、何を選ぶか。
「……今ここで、は難しいかなぁ」
苦笑いで答えれば、橘さんははっと目を開けた。
「そ、そうですよね、すみません……」
「だから、後でね」
なるべく小声で、でもちゃんと伝わるように、と声の調整を頑張ったのだが、「あとでっ!?」と橘さんが喜びの滲んだ声を上げたので無意味だったかもしれない。
……う、うーん、うん、もういっかぁ。どうせすでに、俺と橘さんが付き合ってるらしいという噂は立っちゃってるんだし。いちいち否定して回るのは橘さんを傷つけるだろうから、今のところ噂が自然に消えるまで待つことしかできない。
「これ以上はまた後で連絡するから、もうお昼食べよっか」
「あっ、はい! 食べる前にすみませんでした……!」
謝る橘さんに首を振って、いただきますと手を合わせる。
……周りの視線が痛いなぁ。
橘さんが隣の教室に戻った後、数人のクラスメイトに橘さんと付き合っているのか訊かれた。今まで直接訊かれなかったことが不思議なくらいだが、否定しても皆納得してくれないので困った。
……橘さんに外堀を埋める意図はないとは思うんだけど、もしかして、と疑いそうになる。
授業が始まるチャイムで、俺の周りにいた人たちは席に戻っていった。やっと、と言うほどの時間でもなかったが、気分的にはやっと解放された、という感じだった。
やっぱり橘さんって人気者だよなぁ。いや、人気者っていうよりは芸能人扱いか……。
っていうかなんで皆、付き合ってないって言っても納得してくれないんだろう。俺と橘さんじゃ釣り合うわけもないのに。それだけ仲良さそうに見えたってことか?
* * *
放課後、家の前で橘さんを待つ。学校を出るときに、『家の前で待ってる』とメッセージを送っておいたのだ。約束を果たすためである。
マンションの廊下の壁に寄りかかって、エレベーターのほうをぼんやり眺める。『私も今から帰ります!』と返信をくれたので、橘さんももうちょっとで来るはずだ。あ、エレベーター上がってくる。点灯する数字が、五階で止まった。
ドアが開くやいなや、中から人が飛び出してきた。橘さんだ。短い距離を猛ダッシュしてきた彼女は、俺の前で転びそうになりながら急ブレーキをかけた。
「お、お待たせしました!」
「……そんな急がなくてもよかったんだよ?」
吹き出してそう言えば、橘さんは「楽しみでつい……!」と赤らんだ顔でうつむく。……ここまで楽しみにされると、ちょっと頭なでづらいな。
「ええっと、それで、どれくらいなでればいい?」
「一時間からお願いします!」
一時間。から。
真顔で言い放った橘さんに、思わず絶句する。本気で言ってるのかな。この顔は本気っぽいな。
俺の反応にはっとした橘さんは、「すみません冗談です!」と思いきり目をさまよわせて愛想笑いを浮かべた。そっか、冗談じゃなかったんだな……。
「三十分……に、にじゅっぷ……十分……ごふん……い、っぷん……うぅぅ、一分でお願いします……」
橘さんは慎重に俺の顔色を窺いながら徐々に時間を短くしていって、結局一分ということになった。五分ならまあよかったんだけど、実際やってみたら絶対長く感じるだろうし、一分くらいがちょうどいいだろう。
……事前に時間決めておいてよかったな。一度なで始めて橘さんが満足してから、なんてことをしていたら、たぶんやめ時がわからなくなっていた。
律儀にも橘さんはスマホのタイマーを起動し、一分に設定してこちらを見る。
期待のこもった目に少しうろたえながらも、覚悟を決めてその頭に手を伸ばす。俺の手が柔らかい髪の毛にふれた瞬間、タイマーの開始ボタンが押された。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
無言で、できるだけ優しい手つきで橘さんの頭をなでる。艶のある黒い髪。柔らかいその感触は、猫カフェでなでた猫を思い出した。
……始めてしまったからもうどうしようもないんだけど、いくらお願いされたからって彼女でもない女の子の頭をなでるってどうなんだ。駄目なんじゃないか?
橘さんは嬉しそうにしていたけど、なぜか同時に、泣きそうでもあった。
そういえば、と思う。
橘さんは時々、泣きそうな顔をする。……時々って言ったって、橘さんと話すようになってまだ一ヶ月ちょっとしか経っていないことを考えると、この頻度はおかしい気がした。
橘さんは何かを隠している。
その確信が深まった。
タイマーの音が鳴った。
俺がなでるのをやめると、橘さんはゼロを示すスマホを恨めしげに見て、停止を押した。
「……ありがとうございました」
「……ううん」
なんだか少し、変な空気だった。
橘さんは俺がなでていたところに自分の手を当てて、ふにゃっとした顔で笑う。
「――本当に、ありがとうございます」