10. カメラを向けていた先は
猫カフェには一時間ほど滞在し、二人して大満足で出てきた。
時刻は十一時半。……んー、微妙な時間だな。
「ちょっと早いけど、もうお昼にする?」
「きょっ!?」
「あ、まだお腹空いてなかった?」
「そっ、そうではなく!」
橘さんは慌てたように否定して、それからそっと上目遣いで俺を窺ってきた。
「私が誘ったのは猫カフェだけだったので……まさかその後も一緒にいられるなんて思わなかったんです」
あー、と納得する。確かに誘われたのは猫カフェだけだ。とはいえせっかく外に出たのだし、猫カフェだけ行って家に帰るなんてもったいない。
まあ、デートコース、みたいなものは何も考えていないから、ゆっくりお昼を食べたらもう帰ってもいいかなぁ、という感じなんだけど。
お昼までは想定していなかったらしい橘さんは、「待ってくださいね、今いいお店を探します……!」とスマホを取り出した。同時に俺も調べようとスマホを出す。
「椿くん、何が食べたいですか?」
「橘さんは何が食べたい?」
「私は特にないので……椿くんに合わせようかと」
「……俺も特にないなぁ。橘さん、ほんとにない?」
「そういう椿くんも本当にないんですか?」
お互いがお互いの意見を探り合う。橘さんは遠慮しているというよりは、俺が食べたいものを食べたい、と思っているようだった。
……困ったことに俺もそうなんだよな。俺は特に好き嫌いもないから、こういうときには相手に食べたいものを食べてもらいたい、んだけど。同じ思考同士だと、どうにもなかなか難しそうだった。
「……間を取ってファミレスは?」
間を取るも何もないわけだが、俺の提案に橘さんは「それがいいかもしれませんね……」と神妙な顔つきでうなずいた。まあファミレスなら色々あるし、お財布にも優しいから最適解だろう。
猫カフェは駅のすぐ近くだったので、見回すだけでいくつかのファミレスを見つけることができた。一番近い所に入ると、早い時間だったおかげですぐに席に通してもらえた。
「ファミレス、来るのすごく久しぶりです」
どこかそわそわとした様子で店内を眺める橘さん。
「やっぱり家の人と一緒には来ないの?」
「そうですね……。それに友人とも、あまり。だから椿くんが提案してくださって嬉しかったです! ありがとうございます」
お礼を言われるようなことでもないと思ったが、「どういたしまして」と受け取っておく。橘さんが嬉しいと思ってくれたのは事実だから。
さっそく頼むものを決めようと、二人でそれぞれメニューを開く。俺はこういうとき即決するタイプだ。担々麺とごはんのセットで、このサラダも注文するかなー、と決めて、橘さんの様子を窺う。メニューの最初から最後までページを何度かめくって、考え込んでいるようだった。
俺の視線に気づいて、橘さんがはっと慌てる。
「もう決まりましたか!?」
「ううん、まだだよ。橘さんも迷い中?」
「はい。カルボナーラか……オムライスかなぁ、と」
「じゃあ俺がオムライス頼むから、橘さんはカルボナーラ頼んだら? 取り皿ももらって最初に取り分けちゃえばいいし」
俺の提案を聞いた途端、やられた……! という表情をしたので、つい笑ってしまった。わかりやすいなぁ。
「あはは、ごめん、嫌だった?」
「嫌なわけがありませんが……! それだとファミレスにした意味がなくなっちゃうじゃないですか!」
「先に食べたいもの言ったそっちが負け、だよ」
「完全に負けました……」
がっくりする橘さんにくすくす笑う。三択以上の選択肢があったら難しいところだったが、二択なら簡単だからよかった。隙を見せた橘さんが悪いのである。……いや、何の勝負だろう、これ。
「他にも何か注文する? デザートとか」
「……チョコのパフェ、を」
「はーい、了解」
ボタンで店員さんを呼び出し、カルボナーラとオムライス、パフェ、それからサラダを注文し、取り皿ももらえるよう頼む。その間橘さんは、俺のことをちょっと恨めしげな目で見ていた。
店員さんが去ってから、橘さんはむぅっと唇を尖らせる。
「……椿さんが嬉しそうなのでいいんですけど」
「いいって思ってる顔じゃないね?」
「本音としては、ちょっと面白くないですね」
「あはは、ごめんごめん」
「悪いと思ってないですね!? まあ悪くないんですが! ありがとうございます!」
ぷんすかと可愛らしい怒り方をしているのに、ちゃんとお礼を言ってくれるのがちょっとおかしい。もう一回謝ってから水を取りにいこうと立ち上がれば、橘さんもばっと立ち上がる。
「お水は、私が!」
「っふ、ふふ、うん、よろしくお願いします」
そんな気合いの入った宣言をされたら笑ってしまう。ドリンクバーに近いのは橘さんだし、ここで揉める意味はあまりない。すぐに引き下がった俺に、橘さんはすごく嬉しそうに「はい! 氷はいくつ入れますか?」と訊いてきたのだった。
水を取ってきてくれた橘さんが戻ってきて、二人でそれを飲み、一息つく。
「猫カフェ楽しかったね……。あ、橘さん、あの食べるの下手な子の動画送って」
「そうでした、今送りますね」
橘さんがスマホを操作し始めたので、俺も橘さんとのトーク画面を開いて待機しておく。
動画が送られてきた――と思ったら、橘さんが「あっ!」と声を上げる。……あれ、このサムネ、茶トラが俺の膝にのってるところだ。
それをクリックして再生する、前に、「杏香がメッセージの送信を取り消しました」の文字列が表示された。
「……橘さん?」
「ま、間違えちゃいました~、こっち、こっちです、どうぞご査収ください」
視線を思いきり泳がせながら、橘さんはまた動画を送ってくれた。今度は見覚えのある、猫たちが一列になってごはんを食べているサムネだ。
「……そんな見せたくない動画って気になるなぁ」
「ひえっ、何もっ、何もやましいことは!」
「そっかー、やましいことなんだ?」
「う、うう、ううぅ……」
慌てふためく橘さんが可愛くて、ぷっと吹き出す。いじめすぎてしまったか。
笑う俺を見て、本気で言っていたわけじゃないことを察した橘さんは顔を赤らめた。
「椿くんはとてもたちが悪いと思います!」
「え、そうかな。ごめんね……?」
「そうやって可愛いことされたら、私の良心だって限界になっちゃうんですよ……!」
悔しげによくわからないことを言って、「送ります! 引くなり何なりお好きにどうぞ!」と動画を送ってきた。引くなり何なり……? そんな内容なのか。
ちょっと首をかしげつつ、送られてきた動画をクリックする。猫が膝の上でもぞもぞ動いているシーンから始まり……体を倒したところで、カメラは俺の顔にシフトした。えっ。
音は出していないから声は聞こえないが、俺は緩みきったデレデレとした顔で何かを言い、ひたすら膝上の猫をなで始める。時折思い出したように猫も映るが、ほとんど俺の顔が映されていた。
そして最後に、俺がスマホに気づいたところで動画は終わる。
……えっと。
「……橘さん」
「……はい」
判決を待っている被告人みたいな表情で、橘さんは返事をした。
「あー……うん。ほんとに、猫はあんまり映ってないね?」
何を言えばいいのか迷いに迷って、結局そんなことを口にする。
顔が熱い。なんで橘さんは猫より俺を撮ってるんだ、いやわかるけど、俺のことが好きだからなんだろうけど、それにしたって、いや、いやいやいや! これは! 恥ずかしすぎるな!? 照れるなんてものじゃない。
思いきり顔を逸らして「ひ、引いてはないよ」と言えば、橘さんは「引いてますよね!?」と悲愴な声を上げた。
「うぅぅぅ、やっぱり引きますよね!? ごめんなさいごめんなさい! 可愛かったのでつい!」
その理由だけは一応嘘ではなかったのか、と思うとさらに顔の熱が上がる。
「いや、ごめん、ほんとに引いてはなくて……ただ、その……た、橘さん俺のことすごい好きなんだなぁって思って恥ずかしくなったっていうか……」
「ギッ」
壊れかけのロボットみたいな声がしたので視線を向ければ、橘さんまで真っ赤になっていた。俺たちはちょっと……いやかなり、二人でいると顔に熱が上りやすい気がする。どうにかしたほうがいいんじゃないか、これ。
そんなところに救いのように注文の品が届いたので、俺たちはぎこちない動きでそれらを取り分けた。