01. 初めましての告白
「ずっ……ずっと前から、好きでした!」
「――え?」
ぽかんとする俺を、真っ赤な顔で見つめてくる女の子。大きな目は涙で潤んでいて、心底嬉しそうなその笑顔とは少し不釣り合いだった。唇が何か言いたげに震えて、けれどそれ以上は何も続けず、彼女はただ俺の答えを待っている。
彼女の名前は橘さん。下の名前は……えっと、なんだっけ。申し訳ないことに忘れてしまったが、とにかく一応、存在だけは知っていた。
困惑しながらも口を開けば、橘さんの目が期待で輝く。うっ、ごめん、今から言うのはそんな顔されるようなことじゃないんだ。
「ええっと……俺たち、話すのも今日初めて、だよね?」
* * *
うちの高校には、学年だけには留まらず、学校中で有名な生徒がいる。
すれ違えば誰もが振り返るような美少女で、試験では毎回学年一位。優しくて、いつも笑顔で、運動神経もよく、ピアノも全国レベル、四カ国語を話せて、おまけにとある大きな会社の社長令嬢……天は二物を与えずという言葉を真っ向から否定するような、非の打ち所のない完璧超人だ。
と、聞いている。それらの情報は、ほとんどが人づてに聞いたものだった。どこからどこまでが本当なのかすらわからない。
だって、その有名人――橘さんと俺の接点は何もないから。隣のクラスではあるけど、ただそれだけだ。たまに見かけて、ほんとに可愛い子だなぁなんてぼんやり思うくらいの知人以下。
その、話したこともないはずの橘さんから。
告白、されるとか、どういうことだろう。
目の前の美少女を見ながら、俺は状況を上手く呑み込めずに首をかしげた。
「あっ、す、すみません! ご挨拶が遅れました。今日から隣に越してきた、橘と申します」
慌てたようにさっきと同じようなことを言って、橘さんは小さくお辞儀をした。胸元まである綺麗な黒髪がさらりと揺れる。
橘さんはうちの隣に引っ越してきた、らしい。モニターに映った顔を見て、そして『こんにちは。隣に越してきた橘と申します。ご挨拶に伺ったのですが、今お時間よろしいですか?』という声を聞いた時点で、あれ? とは思ったのだ。あの橘さんじゃん、と。
ちょっと緊張しながらドアを開ければ、橘さんはぴしりと固まって――出てきた言葉がさっきのあれだった、というわけだった。
こうして一人で挨拶に来るということは、一人暮らしを始めるのだろう。
……社長令嬢のはずの橘さんがなんで一人暮らし? うちのマンションは確かにそこそこセキュリティいいけど、それでも別に高級マンションでもなんでもない。俺たちが家族三人で住んでる部屋に一人で住むなら、それは十分贅沢なのか……? それかそもそも社長令嬢っていうのもただの噂? っていうか一人暮らし始めるなら普通高一じゃないのかな……なんで高二の五月なんて中途半端な時期に?
そんなふうに気になることは多かったものの、とりあえずは挨拶を返す。
「初めまして、かな? 椿っていいます。ごめんね、今親どっちもいないから挨拶できないんだけど」
「そうでしたか……。タイミングが悪いときにお邪魔してしまって申し訳ありません」
「や、あんまりタイミングは関係ないかなぁ。日曜のこの時間にいなかったら、もういついるのって感じだしね。気にしないで」
うちの親は共働きで、休みも不定だ。俺がいるだけむしろタイミングがよかっただろう……って、そこは別にどうでもいいんだ。
橘さんをじっと見る。……うん。これは間違いなく、あの橘さんだよな。制服じゃなくて私服姿だからほんの少し自信がなかったが、この可愛さはやっぱりご本人だ。一応、おそるおそる確認してみる。
「あの、さ。三組の橘さんだよね?」
「ひょわっ!? えっ、もっ、もしかして、同じ学校の方だったんですか!?」
「え、知らなかった? 俺四組だよ。隣のクラス」
なんか変な声だったな、と思いつつ、首をかしげる。
「でも、それじゃあなんで『ずっと前から』なんて?」
いきなり告白されただけじゃなく、『ずっと前から』と言われたのだ。
同じ学校ではあるんだから、どこかで何かきっかけがあったのかもしれないと予想していたのだが……同じ学校の生徒ということすら把握していなかったとか、ほんとにどういうことだ?
告白、というのは本来なら嬉しいことのはずなのに、意味がわからなすぎて困ってしまう。そもそも誰かから告白を受けるのすらこれが初めてなのに、よく知らない子からだとか難易度が高すぎる。どう対応するのが正解なんだろうか。
橘さんはほんの少し視線をさまよわせてから、にっこりと笑った。
「……実は昔、会ったことがあるんです! そのときからずっと好きでした!」
「そう、なんだ?」
こんな美少女と会ったことがあるなら、忘れそうにないものだけど。
それっていつ頃の話? と訊こうとしたが、先に次の言葉を発したのは橘さんだった。
「突然失礼なことをしてすみませんでした!」
そう謝って、俺に口を挟む隙も与えずにはきはきと続ける。
「お返事は今はまだ結構ですので、明日から少しずつアピールさせていただいてもよろしいでしょうか!」
「え、え? うん、いいけど……」
「みょえ……」
どこか必死ささえ感じる勢いに押されてうなずくと、橘さんはまた変な声を出した。みょえって……何をどうしたらそんな声が出るんだろうか。
それにしても橘さん、間近で見るとほんとに可愛いな、と思考が横にずれる。
さらさらの黒髪には、綺麗な天使の輪が浮かんでいる。白い肌は滑らかで、透けるような、という表現はこういう肌のためにあるのかな、とまで思う。橘さんが少しうつむけば、その白い頬へ長い睫毛が影を落とす。そして、そろ、とこちらを上目遣いに窺ってきた目はぱっちりと大きかった。まともに目が合うと、うっかり逸らせなくなってしまいそうなほどに。鼻筋のラインも整っており――いや、やめよう。
あんまりじろじろ見るのも失礼だよな。もう手遅れかもしれないが、不躾な観察を止める。
そうすると橘さんがあからさまにほっとしたので、反省しながら「じろじろ見ちゃってごめん……」と謝った。状況がちょっと理解不能すぎて現実逃避したかったのだが、結局失敗に終わってしまった。
橘さんは慌てた様子で首を振る。
「いっ、いえいえ! 大丈夫です! それでは、明日からよろしくお願いします!」
「はい、よろしく、お願いします?」
よろしくって言っても何をどうすればいいんだろうな。
何もわからないままドアが閉じられて――また、チャイムが鳴らされた。わざわざ確認しなくても、これは橘さんだろう。
開けてみると、気まずそうに体を縮こまらせた橘さんが、そうっとオシャレな箱を差し出してきた。
「すみません、ご挨拶の品を渡し忘れていました……。こちら、石けんと入浴剤です。よろしければどうぞ」
「ふ、あは、これはご丁寧にありがとうございます」
ちょっと笑いながら受け取れば、橘さんは頬を赤く染め、「それでは」と去ろうとした。
「あっ、待って」
ふと気になったことがあって、慌てて引き留める。
きょとんとした橘さんの可愛さに一瞬言葉に詰まりながら、俺は念のため確認をした。
「橘さんって、一人暮らし始めたってことであってる?」
「え、は、はい、そうです!」
唐突な質問には、戸惑ったような肯定が返ってくる。
「もう他の部屋にも挨拶した?」
「いえ、椿さんのお宅が一つ目で、もういくつかするつもりですが……」
「そっか……。うーん、お節介かもしれないけど」
だとしても言っておいたほうがいい、と判断する。
「あんまり女の子が、一人暮らしだってわからせるようなことしないほうがいいと思うな。危ないよ。お母さんとかお父さんとかの都合のいい日に、一緒に回ってもらったら?」
橘さんくらいの美少女だとストーカーとかも怖い。
心配しすぎかもしれないけど……なんかこの子、ちょっと抜けてるというか、危なっかしいというか。
短時間話しただけだけどそういう印象を受けてしまったから、心配しすぎるくらいでちょうどいい気がするのだ。ただ遠くから見ていただけのときとは、イメージががらっと変わってしまった。
っていっても、一人暮らしを始めたのが親と喧嘩したから、ってことだったりしたら難しいかな。だとしたらもう挨拶回り自体しないほうがいいよな。
むむむ、と考えていると、きょとん顔をしていた橘さんが不意に吹き出した。
「ふっ、ふふ、ありがとうございます。そうしますね」
「う、うん……?」
笑われる要素がどこにあったんだろうか。
怪訝な顔をする俺に、橘さんは「すみません」と軽く謝って。
「私、椿さんのそういうところが好きなんです」
そう続けて、今度こそ帰っていった。ガチャリとドアが閉まって、橘さんの姿が見えなくなる。
……そういう、ところ? どういうところ?
本当に何もわからなかったけど、今日だけで「好き」と三回も言われてしまった衝撃のほうが大きくて、自分でもわかるほどのぎこちなさで自室のソファに移動し、ぼふんと倒れ込む。
――ずっ……ずっと前から、好きでした!
――そのときからずっと好きでした!
――私、椿さんのそういうところが好きなんです。
今日彼女に向けられた言葉が、声が、表情が、浮かんでは消えていく。
……時間差で、今更顔が熱くなってきた。どきどきうるさく動き始めた心臓に、「あーー」と思わず声が出る。たぶん今、俺の顔はさっきの橘さんに負けず劣らず赤い。なんて、うっかり橘さんの顔をはっきり思い浮かべてしまったせいで、更に顔が熱くなる。
クッションに顔を押しつけて、俺は呻き声をこらえた。
……あんな美少女が俺を好きとかおかしくない!? っていうか学校の一番の有名人が隣に引っ越してくるとかどんな確率!?
そう心の中で叫んだって、答えてくれる人なんてもちろんどこにもいなかった。