翡翠と蜜柑
遠い空を単眼鏡で覗く男が一人。鼠色のビルの屋上、高いフェンスに背を預けて、遠くの空に群れる光の粒を眺めている。雨上がり特有の匂いに、空気も空も染まっていた。冷たい風が吹き抜ける。それはフェンスも揺らさず、空気も換えず、ただ男の、灰色の長髪を揺らすだけだった。
長いコート、高い身長。装身具は右手首のペンダントのみ。軒先で時折懐中時計を確認する仕草は、誰か、あるいは何かを、待っているようにも見える。
「動きましたか?」
扉を開けた少女は、持ってきたレジ袋と引き換えに単眼鏡を受け取る。写ったのは、白く大きな翼の生えた人間だった。何千、何万という軍勢で彼らは地上を、細い筒で狙っていた。
「37番要塞。この周辺でなら最重要だろうが、多分もう空き家だな」
男が呟く。細く、白い息が灰色の空に溶けて消えた。
「7番塔が危ないんじゃないか? いくら悪魔でも、あの軍勢での長距離移動はバレるだろ」
「天使も本気じゃないですよ。アレを制圧する気なら倍は用意するハズです」
「誰もいないのが解ってるのかな」
「また引っ掻き回す気ですね」
「染めたくないだけ。どうせ白か黒なんだから、外でやればいいのに」
「でも、地上を通らなきゃ魔界にも天界にも行けませんよ。そのうち制圧されたら、攻め込んできます」
「いい策、無いかなぁ」
「……空、青いですか?」
ペンダントが揺れる。男は丸木弓を取り出して、矢をつがえた。
「うん、青い。けど、少し雲と天使が多すぎるかな」
キリキリキリ、と音が鳴る。手紙の結び付けられた一筋の矢は、まっすぐに光の群れへ飛んだ。
飛んできた矢を捕らえたのは屈強な男だ。男は片手で矢を二つに折り、読み終えた手紙も引き裂いた。聞こえる距離ではないが、「灰色が……」と呟くのが見える。どうやらご立腹らしい。
当の“灰色”は、残りの缶コーヒーを勢いよく飲み干して大きく伸びをしている。
「これから、どうするんですか?」
「7番塔の方に行ってみようかな。面白そうだし」
「そうじゃなくて、将来的に、その……」
「さぁ、そのうちに死ぬんじゃないか? 僕は白でも黒でもないからね。白にとっては捕縛対象だし、黒からは抹殺命令が出てるし。今の世界は中立を許さないよ」
「許されたら」
「世界を白でも黒でもない色で染め上げる、とか?」
「青とかどうですか? 海も空も青なんですよね」
「海と空の青は別物だよ」
「……いつか、“灰色さん”みたいに判るようになれますか?」
「僕は灰色じゃない。白と黒しか知らないから灰色って呼ばれてるだけだよ。……熱っ」
そよ風が止まる。天使たちは、郊外に空いた大穴に向かって突撃を始めた。光の群れを眺めながら、少女は呟く。
「灰色さんになりたいです」
座り込み、丸くなる。彼女に寄り添うように座って、灰色は言った。
「君はそのままで十分素敵だよ。自分の色を通してくれればそれでいい」
「私は……」
「蜜柑色、かな?」
単語帳のようなものを髪に当てる。
「鮮やかな、温かい色」
灰色は立ち上がり、高いフェンスの上に飛び乗った。それから隣のビルに飛び移り、街の中に消えた。「色見本」と呼んだ、灰色ばかりの紙束を残して。
まだ湯気の出ているホットスナックを一口齧る。伸びた髪に「蜜柑色」の色見本を比べ、次に空に翳す。
「温かい……って、何ですか?」
色見本の後ろの方から、一つ選んで虫喰いの空に合わせる。数ある灰色の中でも、これが一番合う気がしてならなかった。白字で書かれた“青藍”という文字を読み上げる。世界の端まで広がる空を見上げた。大きく息を吸って、吐く。少し大きな声で、もう一度。
「そう見える?」
灰色は隣のビルから飛び移ると、フェンス越しに問う。少女は色見本をパラパラとめくり、一つを選んだ。濃く、深い緑。それを読み上げた瞬間、世界は鮮やかに染まり始めた。
「海が見たいです」
少女は立ち上がり、言う。雲の切れ間から陽が差し、二人を照らした。
冷たい風が吹き抜け、二色の髪を揺らす。雨上がりの匂いに染まる冬の昼下がり。高いフェンスに寄り掛かる、何者かが二人。見上げる角度に、大きく掛かった虹を背にして、遠い空を眺める灰色が二人。




