もう元には戻れない
教室に着くと、クラスの皆と挨拶を済ませる。しかし何だろう。昨日までは何の気なしに自分の席に座っていたけど、今日は妙にそわそわする。母さんが余計なこと言うから、自然と視線が出入口に向いてしまう。
しかしそれにしても遅いな、旗本さん。いつもなら僕より先に教室にいるのが殆どなのに、今日はチャイムが鳴る5分前になっても姿を見せない。何かあったのだろうか。さりげなく教室を出て、廊下をうろついてみる。
それにしても、僕らしくないことばかりしている。皆が教室へ入っていく中、僕は階段を駆け下りていく。下駄箱まで戻ってきたけど、そこには誰もいなかった。本当、どこ行った? 風邪でも引いたのかな? 諦めて戻ろうと、階段を昇ろうとする。だけど、直後にバタバタと足音が聞こえてきた。
「はあ、はあ……」
そこにいたのは間違いなく旗本さんだった。靴を履き替えながら息を整えている間に、僕は声を掛けようと近づいて行く。
「どうしたのさ。もうそろそろ始まるよ?」
「分かってる! あと何分?」
「やばい! あと1分もない!」
「マジで? とにかく急ぐしかない!」
「旗本さん、一緒に行こう」
僕はまだ息が切れている旗本さんに走るよう促すけど、旗本さんは疲れ切っているようで、なかなか足が前に進まない。このままじゃ僕まで遅刻だ。どうしよう……。
「私、あとで行くから大丈夫だよ。赤羽くん。一緒にいなくてもいいって」
「そんな! 無遅刻無欠席の記録更新中なのに。そんな簡単に諦めちゃだめだって!」
と、その時だった。僕の左腕が、勝手に旗本さんの手へと伸びていったのだ。程なくして、僕の左手は旗本さんの右手を握っていた。意思に反した行動に驚いていたが、それは後だ。しっかりと握ると、僕は旗本さんを引っ張った。
「一緒に走ろう! 今ならまだ間に合う!」
「ええ? ちょっと、赤羽くん?」
案の定、旗本さんは戸惑っていた。そんなことはどうでもいいとばかりに、僕らは階段を駆け上がっていった。一段、また一段と昇る度に、呼吸が荒くなってくるのを感じる。3階に着くと、全速力で廊下を走る。そしてチャイムがなる数秒前に、僕らは教室に入ることができたのだった。
「はあ、はあ、はあ……。ぎりぎりセーフ……」
他の皆は僕らを見て笑っていたけど、僕の視界には入っていなかった。あるのはただ一つ。胸を抑えて呼吸を整えて、ホッとした表情で僕を見つめる旗本さんだけだった。
昼休み、なぜか僕は一人で弁当を食べていた。朝のことを思い出すと、どうにも恥ずかしくて、旗本さんと一緒に食べられない。一体、なんで手が伸びたんだろう。無意識というわけでもない。まるで誰かに操られたかのように、勝手に手が伸びたんだ。今は自由に動かせているだけに、午前中はこのことが頭の片隅にあって離れなかった。
「……くん、赤羽くん!」
「うわ、びっくりした」
「どうしたの。今日ずっとぼーっとしてるよ? 弁当も進んでないし」
「うん。少し疲れてるのかな」
「本当どうしたの?」
珍しく、旗本さんが僕の方へ来てくれていた。でも僕は、旗本さんの顔を直視することができなかった。やっぱり、母さんの言葉が頭の中で何度もリピートされている。
≪意識しているわけじゃないっていう人に限って、物凄く意識しているものよ?≫
うん、本当はその通りなのかもしれない。でもどうしても信じたくない気持ちもある。どうしていいか分からなくて、大きなため息が出た。
「大丈夫? もしかして体調不良とか?」
「そんなことはないけど……。あ、そうだ。今日どうしてそんなぎりぎりまでかかったの?」
「あー、実はね、学校向かってる時に、小学生の集団がいて、女の子をいじめていたの」
「そりゃ酷い」
「でしょ? 私、頭に来て。『弱い者いじめはダメだよ!』って怒ってあげたの」
本当に尊敬できる。そんなこと、僕にはできない。黙って聞いているしかなかった。
「ここまでは良かったんだけど、あの子たち、思ったより頑固で、女の子を引き離すのにかなり時間かかっちゃったの。女の子から学校の名前聞いたし、帰ったら報告してやろうかな」
「そうだったんだ……」
「うん。私、真白を救えなかったからさ。せめてあの子はって、咄嗟に思っちゃったんだ」
「救えなかったことはないよ。今でも元気でいるんだから」
「そうかな?」
「あ、そうだ。俺、今朝井坂さんに会ったよ」
「どこで?」
「昨日通った公園。俺、たまにその辺りを散歩しているんだ。そしたら井坂さんがなんか一人で怒鳴っていて、何しているんだろうって見てたら、俺の母さんの名前言ってるの」
「まさか、赤羽くんのお母さんと話していたの? 去年亡くなった」
「それを井坂さんに聞いたら、認めた」
話を聞いていた旗本さんの目が、急に輝き始めた。野球とオカルトの話に目がないから、ある程度は予想していたけど。
「続けて!」
「うん……。これ言っても信じられないかもしれないけど、俺、母さんと話したんだ」
「ええ? どうやって!」
「……井坂さんが10数えたら、急に気を失って、3分くらいかな? で起きたら、母さんの口調になっていたんだ。イントネーションとかも全部同じ」
「マジ! そういうの本当にあるんだ! 良いなあ。私も実際に見てみたかった!」
「10分くらい話した。父さんと、姉さんの言うことは聞く、友達を大切にすることって言われた。今でもちょっと信じられない」
旗本さんを意識している云々のことは、流石に言えなかった。友達の時点で少し声が小さくなったこと分かっていたのに。僕の気持ちをよそに、旗本さんは子どもみたいにはしゃいでいた。こういう姿を、いつもなら笑って見られたのに、今は少し違う感情が湧いてくるのを感じる。
「やっぱり、幽霊はいるんだ! 真白も私も正しかったんだ!」
「そうだね、俺も確信できたよ」
「あ、そろそろ昼休み終わっちゃうよ! 弁当食べないの?」
「いけね! 忘れてた!」
僕は慌てて弁当をかきこむ。すると、旗本さんは僕の向かいに座って、弁当を取り出した。
「もう時間少ないけど、一緒にどう?」
「え? あ……、うん。良いよ」
「何ちょっと間ができたの。いつもなら即決する癖に。まあいいや。いただきます!」
「い、いただきます……」
「まだ声が小さい。ほら、元気出せって!」
僕は元気だ。今日は母さんと話せて、いつもより気持ちがすっきりしている。だけど、旗本さんにこんなに見つめられたら、恥ずかしいじゃないか。こんな気持ちになるのは生まれて初めてだ。
もう、後戻りはできないのかもしれない。