『学校』
家に帰ってきた。おっさんの幽霊の顔が、まだ頭の中にこびりついている。ああ、凄く不愉快。
リビングに入ると、父と母はいなかった。寝室で寝息を立てている。母は5時くらいに起きている筈なんだけど、疲れているのかな。6時までは大人しくしていよう。
テレビをつける。どこもかしこも通販番組。たまにニュースやっている所はあるけど、感染症の話題で持ち切り。これしか報道することないんだろうか。耳にタコができるくらい聞いた感染対策を羅列されても、ちっとも心に響いてこない。でも、こんなに口を酸っぱくして話しても、言うことを聞かない人たちが多いんだろうなっていうのは感じた。『学校』に行く時も、近くのドラッグストアには長蛇の列ができている。皆、何をそんなに生き急いでいるんだろう。私の左手首についた傷跡が、そう語り掛けるように痺れる。
テレビは飽きたからスマホでも眺めようと、電源を入れる。緑のSNSアプリには、友達なんていない。家族と、ほんの少しの「元」クラスメート。そして『学校』のグループチャット。グループチャットには未読の山。つらつらと読み進めていくと、こんな書き込みがあった。
『今日から時間差登校始まるって。明日は1組だけ登校するみたい。』
テレビで見たな、そんな言葉。私は1組だから、どのみち行かなきゃいけない。明日は休みになるんだろうか。そんなことを考えていると、足音が聞こえてきた。これは幽霊じゃない。顔を上げると、母がいた。
「おはよう」
「もう起きてたの? 起こせばよかったのに」
「少しでも寝てたいのかなと思って。そうだ。明日学校休みになった」
「どうして」
「時間差登校だって。ウイルスの影響でしょ」
話しながら気付いたけど、ようやくまともに会話ができるようになった。母と目を合わせて話すことなんて、『学校』に行く前は、あまりの申し訳なさで、目を合わせることもできなかった。父とは、もうすぐ目を合わせることができそう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
マスクをして、『学校』まで歩く。本当はマスク着けるのあまり好きじゃないんだけど、時期が時期なのでそうも言っていられない。途中、ちらほら人通りが見える。犬の散歩をしているおじいちゃん、元気に大声あげながら突っ走る小学生たち。どこからそんなエネルギーが出てくるのか。羨ましく思う時もある。そして勿論、幽霊の姿も視える。
私と同じくらいの年齢だと思う幽霊と目が合う。彼女は私に手を振るが、振り返すことは絶対にしない。また頭がおかしい奴だと思われたくはない。姿が見えない、存在を知られないのを良いことに、道路に寝そべってぐっすり眠っているのもいる。私の目に映る日常は、いつもこんな感じだ。幽霊を視ない日の方が珍しいくらいだ。
20分歩くと、市街地に着く。緊急事態宣言は出されていないのに、人通りが凄く減っている。ちょこちょこ幽霊が歩いているのは相変わらずだけど。少し歩くと、ビルの前に人が立っている。茶色い髪の女性。私は直ぐに気付いた。担任の秋田谷先生だ。
「井坂さん、おはようございます」
「先生。おはようございます。消毒ですか?」
「うん。登校前に必ず、ここで一回アルコール消毒しなきゃいけないことになったの」
「こんな時ですからね」
「今日は学校来てくれてありがとう。身体に負担かかるなら、あまり無理しなくて大丈夫だからね」
「分かってます。お気遣い頂きありがとうございます」
消毒を済ませ、ビルの中に入る。私は中学校には半年通っていない。その代わり、この『学校』に通っている。
藤巻学園。中学生、高校生が通っている、所謂フリースクールというものだ。
――――いじめられ、学校に馴染めなくなった私は、中学1年生の殆どを自宅で過ごした。それを心配してくれた担任の先生が、半年前、私の家に来た。
「井坂さん、休みの日なのにごめんね」
「……良いんです」
父、母、そして私。先生はいくつかの書類を持っていた。それをテーブルの上に広げると、そこに書かれてあったのは「フリースクール」という聞いたことのないものだった。なんでも、この学校、のようなものは、今私が通っている中学校や近隣の高校と連携して、勉強や心理的なサポートを行っているそうだ。平日週2~5回通い、定期試験などを受けることによって、中学校の内申点や、高校の成績にある程度反映してくれるとも話していた。学校に居場所が無くなった私にとっては願ってもみないことだった。これでまともな学生生活を送ることができると。その代わり、私のことについては随時、学園側から中学校に連絡が行くことになるが、何も悪いことをしていない私にとっては、そんなのはマイナス要素にならなかった。
「一通り話したけど、何か疑問に思ったことはある?」
「内申点に反映してくれるって言ってましたけど、本当にここに通えば、成績が落ちることはないんですか?」
「ちゃんと頑張れば、落ちないです。寧ろ頑張りを評価されて、学校から推薦で、普通高校に入学するケースもあるくらいだから」
「学費はどれくらいなんですか?」
「2年生から転入するとなると……、これくらいですね」
母が心配そうな顔をしている。ページを開くと、学費がずらっと書かれていた。やっぱり結構かかる。塾なんかとは比べ物にならないくらいだ。でも父は、心配いらないとばかりに頷きながら資料に目を通している。
「分かりました。前向きに検討します」
「一度ご家族様で話し合って、結論が出ましたら私に連絡をお願いします」
「分かりました。今日はどうもありがとうございました」
両親とほぼ同時に頭を下げる。先生が帰っていくと、父と母の視線は私に向いた。
「どうするの? 真白が通いたくないなら、無理はさせないけど……」
「……私、ここに行ってやり直せるかな?」
「それは真白の頑張り次第だから、お父さんたちはなんとも言えないな……」
「そうだよね。私が頑張らなきゃ駄目だよね」
私は内心、とても焦っていた。いじめられて、不登校になった。最初はこれで良かった。落ち着くことができた。でも秋になって、冬になって、年が明けて。時間が経っていくと、今のままで本当に良いのだろうかって不安が出始めた。でも、もうこれ以上いじめられたくないっていう恐怖心もまだ残っていた。この気持ちに折り合いがつかなくて、バレンタインを過ぎた頃からは毎日のように、何もしていないのに疲れ果てる日が続いていた。
でも今日、こうやって私のために、道を作ってくれたのだ。私の心は決まった。
「……決めた。ここに通う」
「そうか。じゃあ明日、先生に連絡しなさい」
私は久しぶりに、両親の前で笑った。それからとんとん拍子で話は進んで、3回の学校見学の後、正式な入学手続きを済ませた。父は、「お金は心配しなくていい」って言っていたけど、正直、申し訳ない気持ちで一杯だった。こんな私のために、みんなここまでしてくれるなんて思ってもいなかったのだから。
そして入学式を終え、現在に至るのである。