第六話 『鏡のような水面のそばで』
自我の芽生えと同時に、イサオは少女の記憶をすべて受け継いでいた。
後に聖域でラトナに教えられたそうだが、神霊は転世者の記憶を基にして人格や知識が形成されるらしい。なのでイサオは最初から少女のことを自分のことのように知っていた。
なぜ少女が転生するに至ったのかも。
イサオが、すでに他界していた少女の弟の名前であることも。
自分の姿が、弟にそっくりであるということも。
彼を見た瞬間、少女が狂ったように泣き叫んだ理由も。
弟は少女よりもあらゆる面で優秀だった。学校の成績はいつもトップで、運動神経や芸術的センスにも恵まれ、性別や年齢に関係なく多くの人に好かれていた。もちろん、両親の期待も高かった。
それに反比例するように、両親の少女への関心は低かった。
しかし弟は死んだ。少女が十四歳の時で、弟は中学生になったばかりの時のことだ。
弟の告別式が済んだ後、両親は少女に言った。
あの子のかわりに、お前が死ねばよかったんだ。
少女は両親を信じていた。弟がどんなに光り輝く存在であっても、自分がどれほど小さな存在であっても、血の繋がった子どもなのだから、せめてひとかけらの愛は自分にも向けられていると。
確かな根拠はない。けれど少女は信じていた。希望を持っていた。ささやかで、みじめな希望だが、それが少女にとって自分が生きている唯一の理由であり、彼女と世界を結ぶ絆だった。
それが完全に否定された。もはや少女には生きる理由も意味も希望もなくなった。
少女は失意のまま死に場所を求めて夜の街をさまよった。
その時に、転世神ラトナと名乗る男が現れ、少女に転世の話を持ちかけた。
当時の少女にとって、別世界へ行くことは最後の希望と思えたのだろう。少女は転世を受け入れ、あの都へ転世した。
そんな少女にとって、弟と同じ姿をした神霊を生み出したことは、恐怖以外の何物でもなかったのだ。
少女は心を閉ざし、イサオの存在を拒んだ。ラトナと名乗る男はイサオを完全な神霊に成長させなければ少女もイサオも命の保証がないと告げたが、少女は聞き入れなかった。少女はイサオと絆を結ぶことを拒み続けた。男は早々にあきらめ、イサオに別れを告げて去った。それ以来、イサオは彼の姿を見ていない。
イサオ自身にも、少女と絆を結び合おうという気持ちはなかった。少女は逃げてきたのだ。その行動の結果として生まれたのが自分だ。
少女の身勝手な行動で、自分は生み出された。
イサオにとって、自分が存在しているということ自体が、不快にすら感じられた。
自分は、誰にも望まれてなどいないんだ。
そんな二人を結び付けようとしたのが、当時の神官長だった。
彼は少女とイサオが絆を結び合い、イサオが完全な神霊となれるよう長い目で見守るべきだと判断した。当時、神官長補佐官だった現在の神官長は、早急に神霊を結界の核に取り込ませるべきだと主張した。その頃から結界の修復は急務であると考えられていたからだ。
しかし神官長は可能性を信じるべきだとして、その主張を退けた。神官見習いだったルシカも神官長の意見に賛成し、少女とイサオが絆を結び合えるよう様々な面で手助けをした。
彼らの努力によって、少女は少しずつ心を開き始めた。
イサオもまた、少女に歩み寄るようになった。
二人の距離はわずかずつではあるものの、確実に縮まっていた。
ある時、少女はイサオに『ウタ』のことを話した。少女は転世の代償として『ウタ』を失ったらしく、それを取り戻すことが、少女とイサオを絆で結び合う重要な鍵になると思ったらしい。
しかしイサオにも『ウタ』が何なのかわからなかった。手掛かりといえば、少女が持っていたノートの切れ端に書かれた文章だけだった。それを何度読み上げても、『ウタ』にはたどり着けなかった。
それでもイサオはどこか満ち足りていた。少女が自分との絆を求めていると実感できたからだ。
二人の前にエポラッテが現れたのは、それから間もなくのことだった。
エポラッテは『ウタ』の正体を知っているという素振りを見せながら少女に接近し、彼女の心を惹きつけた。
一方でエポラッテはイサオのことを『ニセモノ』や『ユウレイ』などと呼び、二人の関係の破壊を目論んだ。
イサオは必死にエポラッテを排除しようとしたが、少女の心はエポラッテに囚われており、かえって少女の心を彼から遠ざけた。
いつしか少女はエポラッテに心をゆだね、イサオを敵視するようになった。
このような状況を見て、神官長補佐官は二人が絆を結び合える可能性はないと判断し、神官長の意見を退けてイサオを結界へ取り込ませる方針を固めた。神官長はあくまで反対し続けたが、イサオは賛成してしまった。
彼はあきらめたのだ。
その後、あきらめたことを悔やみ続けることになるとも知らずに。
儀式を行うため、イサオは世界樹の間へ連れていかれた。そして儀式が始まった時、彼は思った。
自分は生まれてくるべきじゃなかったんだ。
結局、彼女を傷つけただけで終わったのだから。
結界の核がイサオに迫り、彼を取り込もうとした、その時。
神霊の間で軟禁されていたはずの少女が世界樹の間に現れた。少女は憲兵達の制止を振り切り、イサオの名を何度も呼んで、彼のもとへ走った。
結界の核がイサオをのみこもうとした、その寸前に、少女はイサオの体に触れた。
その瞬間、結界の核は目を焼かんばかりの輝きを放った。
そこから先のことは、イサオにもわからない。
ほんの一瞬だけ見えたものは、二人のもとへ走ろとしている神官長と、それを必死で引き留めようとしている神官長補佐官の姿だった。
彼らの姿が光の彼方へとかき消され、意識も消えようとした時、イサオは見た。
涙を流しながら、声にならない言葉を叫び続けている少女の顔を。
――勲。
少女の声が聞こえると同時に、イサオの意識は途切れた。
気がついた時、イサオは聖域にいた。そばには目覚めなくなった少女が倒れていた。
イサオはなすすべもなく途方に暮れていた。心が狂いそうになる中、彼は転に救いを求めた。
もはや、神様に祈るしかない。
そして彼らは、ラトナと出会った。




