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いつか、おなじ空をともに  作者: 青山 樹
第五章 『絆』
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第三話 『静止した時のなかで』

 病室を出て、トイレに入り、手洗い場で顔を洗う。

 鏡に映ったおれの両目は赤く充血していた。泣くなんていつ以来だろうか。

 そんなことを考えながら目を軽くこする。

 右手の甲が鏡に映った。

 虚像の右手には、紅く輝く世界樹の紋様が見えた。


 まさか。

 そんな。


 左手の甲を鏡に映す。

 虚像の左手には、蒼く輝く世界樹の紋様が見えた。

 二つの紋様は確かに存在し、それぞれの輝きを放っていた。

 まだ、カイとクウとの絆が失われていないことを、示すように。


 おれはキャンバスバッグを抱え、病院を飛び出した。

 そして家ではなく、森林公園を目指して走った。

 そこへ向かって走らずにはいられなかった。

 確証なんてない。

 でも、もしもう一度、二人のもとへ行けるなら。

 その可能性があるならば、あの場所へ行くしかない。


      ◆            ◆            ◆


 春の終わりの穏やかな昼下がりということで、森林公園はけっこうな人で賑わっていた。つい一週間ほど前に意識不明の高校生が発見された場所だとは思えないくらい、穏やかな空気が広がっていた。

 そんな空気の中を、おれは息を切らして走り続け、芝生広場の奥にある池に到着した。


 ラトナがおれをあの世界へ送った場所だ。


 もしかしたら彼女がすでに来ているかもしれないと思い、周囲を見渡す。けれどその姿はどこにも見えなかった。犬の散歩をしている老夫婦と、体操をしている老人たちのグループ、縄跳びをして遊んでいる小さな子どもとその両親などなど、ごく普通の人々の姿しかない。


 どうすればいい……。

 考えろ。考えろ。

 なにか手掛かりはあるはずだ。


 芳しい緑の香りを含んだ優しい風が通り過ぎ、野山の木々をざわめかせ、池の水面に波紋を広げた。

 その風が、水面の波紋が、聖域での記憶を呼び覚ました。

 六角形の巨大な貯水池の前でイっくんが歌った、あの歌のことも。

 池のすぐ近くまで行き、身をかがめて両手の甲を水面に移す。

 やはり世界樹の紋様が虚像の世界には映し出されていた。


 これに賭けるしかない。


 まっすぐに立ち、目を閉じて、あの世界のことを、カイとクウのことを思い浮かべる。

 二人の姿がはっきりと見えた時、聖域からあの世界へ帰る鍵になったあの歌を歌った。


 おれは普通の人間だ。そうそう都合よく奇跡なんて起こせない。

 でも、奇跡が起こると信じておれは歌った。

 ご都合主義だろうがなんだろうがかまわない。

 おれは二人を、助けたいんだ。


 歌い終え、目を開く。

 見えたのは、目を閉じる前と変わらない森林公園の風景だった。


 ……ちくしょう。やっぱり、だめなのかよ。


 体中の力が抜け、崩れ落ちそうになる。

 その直前に、何かがおかしいことに気づいた。

 風が消えた。

 緑の香りも、鳥の声も消えた。

 人々の様子がおかしい。まるで一時停止された映像みたいに、誰もがピタっと動きを止めていた。散歩中の犬はあくびをしたまま、体操中の老人たちは見事な前屈姿勢をとったまま、縄跳びをしている子どもにいたっては宙に浮いたままだった。


「なんだ、これ……。一体何が、どうなってるんだ」


「たとえるなら、ちゃう人のパスワードでログインしようとしたらフリーズしたってことや」


 いつの間に現れたのか、すぐそばにラトナが立っていた。学校からの帰りらしく、制服姿に加えて通学鞄も持っている。


「どや、もとの世界に帰ってきた感想は」


「どうもこうもない。おれはもう戻れないんじゃなかったのか?」


「んなこと自分はひとっ言も言うとらんで。自分が言うたんは向こうの世界への片道切符しか用意できんってことと、自分の力ではこの世界に戻さへんっちゅうことだけやぞ」


「じゃあなんで、おれは帰ってきたんだ」


「あっちの世界で死んだからや。自分があんたにやった転世はな、この世界でのあんたの体と魂の結びつきを一時的に停止させて、あっちの世界の体に結びつけただけや。せやから、あっちの世界で死んだらあんたの魂は体と結びついとるこっちの世界へ帰ってくる、そういう仕組みになっとんねん」


「……そのための、転世の代償か」


 ラトナは腕を組み、不敵な笑みを浮かべる。


「結びつきが強いと、魂を別世界に結ばせることはできんからな」


「そんな大事なことは、最初に言ってくれよ」


「最初に言うても意味ないやろ」


「たしかに。そんな話、おれは絶対に信じなかっただろうから」


「ちなみに、あんたに制服着せて警察に通報したんも自分や。この世界では転世の影響を最小限に抑えなあかんからな」


「全裸云々ってのは、たんにおれをおちょくっただけか」


「人生、遊び心やユーモアは大事やで? まあええやないか。社会的に死なずにすんだんやから。あっちの世界ではほんまに死んでしもたけど」


「ラトナ。教えてくれ。あの世界はどうなったんだ」


「簡単に言うと、エポラッテの一人勝ちの大勝利ってとこやな。あの時の様子は法石の水球を通じて都の連中に知れ渡っとったから、エポラッテは神霊を守り都を守った『小さな英雄』になった。一方あんたは神霊を奪おうとした極悪人の大罪人にされて、死体を八つ裂きにされたあと晒し者にされ、二度と復活することがないよう塵一つ残さず焼却された。全部エポラッテの指示でな」


 ラトナは小さくため息をつく。


「自分にとっても、この展開は想定外やったわ。あのままカイとも絆が結ばれて、うまくいくんちゃうか思たけどな」


「エポラッテは何者なんだ。何が目的なんだ」


「もちろん奴の正体は知っとる。けど、教えることはできん。こればっかりは冗談抜きでな。ただ、あんたもなんとなく勘づいとるんとちゃうか?」


「あまり考えたくはないけどな。でも、奴が忌々しい邪悪なクソ野郎だってことは確かだ」


「それがわかっとったら十分や。で、奴の目的やけどな。たぶんあの都を支配することやろう。奴はさっそく自分の英雄的活躍を都に徹底して拡散して、住民の支持を次々と集め、着々と権力を掌握し、都の中枢を押さえにかかっとる。議長のおっさんも完全にあいつの子分や。一日もたっとらんのに大したもんやで。そのうち都の外にも勢力を拡大して『エポラッテ帝国』でもつくるんちゃうか」


「悪夢だな。でも、あっちの世界では現実になろうとしているのか」


「んなことより、他に聞きたいことがあるやろ」


「……聞かなくちゃいけないこと、のほうが正確だ」


 両手を固く握りしめ、ラトナの目をまっすぐに見る。


「カイとクウは、どうなったんだ」


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