第十話 『今なすべきこと』
目を覚ました途端、カイはすぐにシーツにもぐりこんだ。おれはどうすることもできず、ルシカが今日の公務を伝えに来るのを待った。しかしいくら待っても彼女は現れず、何の変化もないまま時は流れ、正午を告げる鐘が鳴った。
まあ、いつまでも避けているわけにはいかないよな。
「カイ。話があるんだ。そのままでいいから、聞いてくれないか」
返事はない。それでも、丸まったシーツの中からカイがこちらに注意を向けていることは気配としてわかった。
「たしかにおれは、カイのことを信じてあげられなかった。本当のことを知ったら、カイはとても傷ついて、立ち直れなくなるんじゃないかって思ったんだ。でもそれは間違いだった。おれはカイとクウの生みの親で、二人とちゃんと向きあわなくちゃいけないんだ。だからおれはカイを信じなくちゃいけないし、信じたいと思っている。だからもう一度、おれにチャンスをくれないか」
しばらくの沈黙の後、カイはシーツの中から姿を現した。
「ソウタはぼくのこと、こわくないの?」
「正直なところ、カイの神言はこわい。でも、カイ自身はこわくない。なによりカイと心が離れてしまうことが一番こわい。だから、おれと、おれ達と、一緒にいてほしいんだ」
おれはノートを取り、クウがカイの姿を描いたページを開いてカイに渡す。カイはしばらく絵をじっと見つめ、ノートを閉じ、大切そうに抱きしめた。
「ぼくは、ソウタやクウと、一緒にいたい。一緒にいても、いい?」
「もちろんだ」
カイに向けて手を差し出す。カイはおれの手を握ってくれた。
「それじゃ、行くか」
「行くって、どこへ?」
「ルシカがいるところだよ。今日は寄りたいところがあるからな。いちおう許可は取っておかないと」
神霊の間を出て、大聖殿の中を適当に歩く。そのうち神官や憲兵に出会うと思っていたが、どういうわけか人の姿をまったく見かけなかった。礼拝堂にも行ったが、やはり誰もいない。どこもかしこも不気味なまでに静まり返っている。
「どうして、誰もいないのかな……」
「わからないな。もしかしたら、何かの行事で出払っているのかもしれない」
これは少し予想外の事態だった。仕方がない。気は進まないが、世界樹の間へ行ってみるか。あそこにならもしかしたら誰かいるかもしれない。もっとも、前みたいなことにはならないよう気をつけないと。
というわけでおれ達は世界樹の間を目指した。以前とちがって普通の通路を通ったためかなり迷ったが、それでもどうにかたどり着けた。
世界樹の間の入り口に近づいた時、やわらかな響きの女性の歌声が聞こえた。ルシカの声だ。見ると、ルシカは祭壇の前に立って歌を歌っている。それが何の歌なのかはわからなかった。どうやらそれは、霊術を使用する時に発する理解不能な独特の言語と同じものらしい。ルシカのそばには神官長の姿もあった。やはり何かの儀式を行っているのだろう。とてもじゃないが話しかけられる雰囲気ではない。
改めて出直そうと思った時、ルシカの歌が止まり、神官長の声が聞こえた。
「神霊の間へ戻れ。今、貴様がするべき仕事はないのだから」
「そうかい。そいつはよかった。ちょうど今日は都へ出かけようと思ってたんだ。仕事がないんなら構わないよな?」
「目的を話せ」
「買い物だよ。カイとクウの成長に必要なものがあるんだ」
「いいだろう。ルシカは彼らに同行せよ。儀式は私が引き継ぐ」
はい、とルシカは頭を下げ、急ぎ足でこちらへ来る。
「申し訳ありません。外出の支度をしますので、先に正門前でお待ちください」
「わかった。あまり急ぎはしないから、ゆっくりしてくれて構わないよ」
おれとカイは世界樹の間を出て正門前へ行く。晴れわたった青空をぼんやりと眺めながら、ルシカが来るのを待った。あくびが一つでた頃に、ルシカがやって来た。普段見慣れている白い修道服ではなく、落ち着いた色合いのワンピースのような服を着ている。長く艶やかな黒髪は一本に編み込まれていて、見た目の印象としては中流階級の女性といったところだろうか。首には黒い法石が下げてあり、両手には灰色の布の塊らしきものを抱えている。
「なんだか、珍しいな。ルシカがそういう服を着るのって」
「はい。今回は公務ではありませんので。それと、御二人ともこちらをお召ください」
ルシカは持っていた布を広げた。それはフードのついたロングコートのようなものだった。
「御二人の正体が都の者達にばれますと、いろいろと騒ぎになりますので」
「なるほど。でも逆に怪しすぎて目立たない?」
「御安心ください。この衣服には存在感を極限まで減少させる霊術が施されておりますので。もともとは……あ、いえ、なんでもありません」
まあ、深く聞かない方がいいか。おれとカイはコートをまとい、ルシカとともに都の市街地を目指して歩いた。ルシカに今回の目的を伝え、なるべく人通りが少ない道を進むよう頼む。昨日見たあの光景は、絶対にカイには見せたくない。
「ところでさ、さっきルシカが世界樹の間で歌ってたのは、どういう歌なんだ?」
「ウタ、ですか……? 申し訳ありません。ウタとはどのようなものなのでしょうか?」
「え? もしかして、歌を知らないのか? ほら、さっきのやつだよ」
おれは世界樹の間で聞いたメロディーを口ずさむ。
「ああ、祈りの言葉のことですね」
「祈りの言葉?」
「はい。私達人間が、自身の力と自然界の力を調和して霊術を発動させるときに使用する言葉です。独自の音程や発音を用いるので、一般の人には扱えない特別な言語なんですよ」
「なるほど。おれがいた世界だと、ああいうのを歌っていうんだ。人の思いとかメッセージとか、そういうのを詩とメロディーに託して、いろんな人が歌うんだよ」
「そうなのですか。それは素敵なことですね。ソウタ様がいらっしゃった世界では、そのような風習があるのですか」
ルシカは感心したようにうなずいた。
ふと、聖域で出会ったイっくんのことを思い出す。彼も歌を知らず、しかしどういうわけか、おれがいた世界の歌の歌詞を持っていた。
これらの事実は、彼が何者であるのかを示しているように思えた。
昼下がりに市街地に到着する。おれ達は大通りを避けて静かな道を進んだ。それでも大通り方面からは活気に満ちた人々の営みの音が聞こえてくる。
「ソウタ。なんだかあっちのほうが賑やかだね。お祭りでもしてるのかな?」
「かもしれないな。でも今は見に行かないほうがいい。もし神霊だってばれたら大変な騒ぎになるかもしれないからな」
しばらくして、目的地である雑貨屋らしき店に到着する。ショーウィンドウに並んでいる何種類もの頭蓋骨を見た時にここがどういう店なのかを察し、買い物はルシカに頼んでおれとカイは店の外で待つことにした。
ルシカが出てくるのを待っていた時、人のよさそうな婆さんがこちらにやって来た。
「あのう、すいません。少しお尋ねしたいのですが、お二人は転世者と神霊ですか?」
てっきり道でも尋ねられると思っていたので、おれは完全に固まってしまった。
沈黙を肯定と受け取ったのか、婆さんはにこにことうなずく。
「そうですか。やはりそうでしたか。それでは御機嫌よう、さよ、をっ、なラ」
突如、婆さんの体はドロドロに溶け、スライムのような生物に変化した。半透明の緑色の体内には法石らしき石が見えた。法石を埋め込み、人間を亜人へ変化させるというラトナの話が頭をよぎる。
よくわからんが、おれとカイに危険が迫っていることはよくわかった。
スライムはおれ達を押し潰そうとするように体をうねらせる。おれは反射的にカイを抱きしめ、その場から飛び退いた。直後、スライムの体は店に激突し、家屋の壁を粉砕した。
体内の法石が、おれ達を捕捉するように動く。
ルシカが血相を変えて出てきた時、スライムは次の一撃をくらわせようとしていた。
その瞬間。
何者かが屋根からスライムの体に飛び降り、槍を突き刺して法石を貫いた。




