第五話 『涙が枯れ、力尽きるまで』
嫌な予感に胸がざわついたまま夜は明けた。
東の山の向こうから太陽が昇り、朝日が神霊の間に差し込む。日の出を告げる鐘が鳴り、カイが目を覚ました。
それを待っていたかのように扉をノックする音が聞こえ、ルシカが現れた。
「おはようございます。ソウタ様、カイ様。さっそくで申し訳ありませんが、速やかに大聖殿前の広場へお越しください」
失礼します、とルシカは恭しく頭を下げ、退室した。
「ソウタ。何かあったの?」
カイが言う。さっきのルシカの表情から、何かよくないことがあったと察したのだろう。
あるいは、今のおれの顔を見てそう思ったのかもしれない。
「大丈夫。カイが心配することは何もないさ」
全然大丈夫ではないことくらい承知している。
だけど、そう言うしかなかった。ほかに何が言えるんだ。
「行こうか。あまりルシカを待たせちゃ悪いからな」
おれはカイの手を握り、神霊の間を出る。その直前に一度だけ寝台に目をやり、クウを見た。
クウは安らかに寝息を立てていた。
そうだ。
おれがしっかりしなくちゃいけないんだ。
このふたりを守るためにも。
誰ともすれちがうことなく歩き続け、礼拝堂へ下り、通用口の扉を開け大聖殿前広場へ出る。
予想した通り、広場は異様な緊張感で満ちていた。
広場の中央には魔法陣を思わせる複雑な図形や紋様が大きく描かれ、その中心にはルシカと神官長が立っていた。二人を取り囲むように錫杖や教典らしき書物を持った神官がずらりと並び、さらに大勢の武装した憲兵達が広場全体を取り囲むように整列している。
神官長は仮面を被った顔をこちらへ向けた。来い、ということか。
「なんだよ。ずいぶんと大げさだな」
声がかすれていると自覚できる。
一歩歩くごとに恐怖心が膨らんでいく。
それでも行くしかない。
「それで、今から何を始めようってんだ」
「御神託に従い、昨夜の件に関して罰を下す」
神官長が言うと、ルシカは魔法陣の中心で跪き、目を閉じて両手を組んだ。直後、まわりにいた神官達が一斉に錫杖を地面に突き立て音を打ち鳴らす。まるで何かの儀式を始める合図をするように。
「……待てよ。罰を下すって、まさかルシカにか? どうしてだ。ルシカはおれ達の世話役だろう。昨日のことで責められるいわれなんかないはずだ!」
「彼女は貴様達の世話役であると同時に監視役でもある。監視役としての役目を怠り、昨夜のような事態を招いた。罰を受けて然るべきであり、そもそもこれは御神託によって啓示された我らが神の意思でもある」
「ふざけんな! ルシカは何も悪くない。昨日のことは不可抗力だって言っただろうが!」
「愚かだな。貴様はまだ世界樹の間の水鏡と『神器』が何を意味するものかわからないのか」
「そんなもん知るか! 言いたいことがあるならはっきり言いやがれ!」
「そうか。なら、話すだけ無駄というものだ」
神官長はルシカのほうへ振り向き、両手を大きく広げる。その動きに共鳴するように、地面に描かれた魔法陣が赤々と輝きだした。ルシカは苦痛に声をもらし、地面に両手をつく。
「やめろ! おれがクウを外へ連れ出そうとしたんだ! 悪いのはおれだ。罰ならおれに下せばいいだろうが! ルシカはあんたの娘だろうが、自分の娘にそんなことして平気なのかよ!」
「殺しはしない。まだ利用価値はある」
「てめえ、ふざけんなっ!」
頭が一気に熱くなる。気がつけば神官長めがけて走っていた。一発ぶん殴らなければ気が済まない。
しかし、神官長のすぐ目の前まで来たところで憲兵達に取り押さえられた。
「くそっ! くそおっ! てめえそれでも人間か! 血の通った人間かっ!」
「その通り。私は人間だ。だが同時に、私はこの都を守護する神官長でもある。そして彼女はその補佐官であり、神官長の部下なのだ。その役目を十分に全うできなければ、然るべき罰が下される」
「……このっ!」
「やめてぇっ!」
カイの叫びが聞こえた。
次の瞬間、猛烈な突風が広場に吹き荒れ、おれを取り押さえていた憲兵達を一気に吹き飛ばした。
おれは体を起こし、カイのほうを見る。
カイは、泣いていた。
苦し気に両手で胸をおさえ、息を乱し、怯えるように体を振るわせていた。
涙をこぼし続ける青い瞳は、まっすぐにこちらに向いている。
カイは怖がっているんだ。
目の前の現実に。
そしておそらくは、おれ自身にも。
突風になぎ倒された憲兵や神官達から不穏なざわめきが聞こえる。そんな中、神官長は平然とした態度でカイに言った。
「神霊よ。これは我々人間の問題だ。貴様が口を出してよい問題ではないぞ」
神官長は再びルシカのほうを向く。それに反応するように魔法陣はより強力な光を放ち、ルシカは苦痛に悶えるようにうめき声を上げた。
「やめて……、やめてよ……。いやだ、こんなの」
カイは両手で頭を抱え、「いやだ、いやだ」と繰り返す。
あの時と同じだ。式典の時に、暴風を巻き起こしたあの時と。
そう思ったと同時に、カイは絶叫した。
「いやだあああああああああああああああっ!」
カイの叫びが広場全体に響き渡る。同時に、重くて低い、不気味な威圧感をはらんだ地鳴りが激しい振動と共に轟いた。ものの数秒とたたないうちに立つことが不可能なほどに地面は揺れ動き、石畳に覆われた広場は波打つようにいたるところが盛り上がった。魔法陣は輝きを失い、大聖殿からは危機を訴えるように鐘の音が鳴り響く。
カイは狂ったように叫び続けていた。
この地震も、さっきの暴風も、カイの神言によるものだとみて間違いないだろう。
なら、これを止めるためにはカイをなんとかするしかない。
いや、ちがう。
そうじゃない。
そんなことはどうでもいい。
カイが泣いているんだ。
怖くて恐ろしくて震えてるんだ。
そばへ行って安心させてやるのが、おれの役目だ。
このまま大地が砕け散るんじゃないかと思えるほど激しい揺れのなか、おれは四つん這いになってカイのもとへ近づく。なんとかカイのそばまで来ると、ほとんど飛びつくようにおれはカイを抱きしめた。
カイの体は、式典の時と同じようにありえないほど熱く、火であぶられるような痛みを感じた。
「大丈夫だ。カイ。こわがらなくていい。誰もひどい目にあわないから。誰もひどいことをしないから。だから大丈夫だ。大丈夫だ……」
泣き続けるカイに、必死の思いで呼びかける。
おれも昔は全力で泣くタイプの子どもだった。声が枯れるまで叫んで、涙が尽きるまで泣いて、力を全部使い果たして泣き疲れて眠ったこともよくあった。きっと今のカイも同じなんだろう。
だから思う存分泣かせてあげればいい。心を全力で震えさせればいい。
おれはそばにいて、それを受け入れればいいんだ。
ずっと昔。
おれの両親がそうしてくれたように。
しばらくして地面の揺れはおさまり、カイの泣き声も止まった。
顔に涙の跡を残したまま、カイは眠っていた。
おれはカイをしっかりと抱きかかえ、神官長と向かい合う。
「もしもルシカに何かあったら、今度こそカイは止まらないぞ」
「よくも堂々と吠えられるものだな。貴様自身は何もできない分際で」
神官長はルシカのほうへ顔を向ける。ルシカは胎児のように体を丸めて倒れていた。
「どうやら、その神霊を下手に刺激するのは得策ではないようだな。貴様達は神霊の間へ戻れ。処分については追って支持する」
ここにいても仕方がないので、おれはカイを抱いたまま神霊の間へ向かう。
結局のところ、神官長の言う通り、おれは何もできないのだ。
もといた世界にいた頃も。
転世して、この世界に来てからも。
転世しいようがしまいが、おれは何も変わっていない。
それがひどく惨めで、情けくて、悔しかった。




