第十五話 『まだ見ぬ景色を目指して』
大聖殿に帰り着いた頃にはすでに日は沈んでいて、当然のようにカイも眠りについていた。おれは眠ったカイを背負って神霊の間へもどる。廊下を歩き、階段を上り、廊下を歩き、階段を上りを繰り返す。カイの体がほとんどまったく重みを感じさせないことがせめてもの救いだった。
しかし、やはり不思議なものだった。重みは感じないけれど、普通に人と触れ合っている時と同じ感覚はあるし、体温もしっかりと感じる。
やはり、カイは人間ではなく神霊という存在だからだろうか。
神霊の間にもどった時、すでに室内には明かりが灯っていた。クウは目を覚ましていて、寝台の上であぐらをかき、ノートに絵を描いていた。
「おかえり、ソウタ。カイ。って、やっぱりあたしが起きてるとカイは寝てるのね」
「なあ、クウ。さっきのおかえりってのを、もう一回言ってくれないか?」
「え? なんで?」
「いいから。もう一回だけ。頼む」
「じゃあ……。おかえり、ソウタ。カイ」
感無量とは、まさに今のおれの心境のことを言うのではないだろうか。
誰かに「おかえり」を言ってもらえるのは、果たしていつ以来だろう。
高校入学以来、父親も母親もおれのことは完全に放置するようになったからなぁ。
「どうしたのソウタ。なんか、顔がキモいことになってるわよ」
「キモいなんて言うんじゃない。おれは今、人生の喜びを噛みしめているんだ」
まあ実際のところ、おれの顔は緩みまくってるんだろうな。でも、どうすることもできない。
「というわけで、ただいま、クウ」
「うん。キモい」
もしおれに娘ができて、お年頃をむかえたらこんなやり取りをすることになるんだろうか。
そんなことを考えながらカイを寝台に寝かせる。
「ところでクウ。起きてからずっと絵を描いていたのか?」
「まあね。ほかにすることもないし」
「そうそう。カイがクウの絵をほめてたぞ。絵からクウの心が伝わってくるみたいだってさ」
「ほんと? カイはほんとにあたしの絵をほめてたの?」
「もちろんだ。それと、カイも絵が描けたんだ。クウとはだいぶ作風がちがうけどな」
「それってもしかして、これのこと?」
クウはノートをこちらに向け、カイが絵を描いたページを開く。
「ああ、それそれ。大聖殿の正門から見た都の景色を描いたんだ。なかなかうまいだろ」
「ほんとにね。まあ、センスと独創性はあたしに負けるけど」
「お、ライバル意識でも芽生えたのか?」
「かもしれないわね。カイがこういう絵をかけるなんて思わなかったから。それにあたしには、こういう絵はかけないだろうし」
クウは「ねえ、ソウタ」と紅の瞳をこちらに向ける。
「あたしも外に出られたら、こういう絵がかけるようになるのかな?」
その言葉を聞いた時、おれはクウにとって残酷なことを教えてしまったことに気が付いた。
……そうだよな。どうしてクウが、外に出ちゃいけないんだ。
「なあ、クウ。外に出てみないか」
「え?」
「なんだよ、そんな顔して。クウなら喜んで賛成すると思ったのに」
「それはそうだけど、でも、そんなことしていいの?」
「クウを外に出さないのは、クウの神言が危険だからだろ。なら、誰にも見つからないようにすればいい。今は夜だから、そうそう人目もないだろうしな」
でも、とクウは不安そうに顔をくもらせる。
「大丈夫だ。おれが一緒にいる」
おれがいたところでクソの役にも立たないだろうが、それでも一人よりはマシだろう。
「そう。わかったわ。おもしろそうじゃない。やってやろうじゃないの!」
クウは顔を明るくし、寝台から下りておれに手を差し出した。
「いくわよ、ソウタ」
なんだか逆になったなと思いつつも、おれはクウの手を握った。
神霊の間を出て、燭台にゆらめく蝋燭の明かりを頼りにうす暗い通路を進む。人の気配はまったくなく、誰にも見つかることなく礼拝堂に到着した。あとはここから外へ出るだけだ。礼拝堂の門扉のそばにある通用口には閂が差してあるだけなので容易に開けられる。
このまま何事もなく外に出られますように、と祈りながら通用口へ向かう。
しかしその時、クウの手がおれから離れた。
「クウ。どうした?」
振り向くと、クウは拝殿の座の上にある世界樹の彫像をじっと見つめていた。
「クウ?」
クウは何も答えず、ふらりとした足取りで彫像のほうへ歩く。
「どこへ行くんだ。そっちは――」
おれはクウを止めようと彼女の肩をつかむ。
クウは無言のまま、こちらに顔を向けた。
その時に見えたクウの顔には、明らかに彼女の意識が感じられなかった。まるで目覚めながらにして夢を見ているかのように、表情が欠落していた。こんな顔をクウがするとは思えない。
クウはおれの手を振り払い、そのまま世界樹の彫像へ向かって歩く。彼女は彫像の前で立ち止まり、そっと右手を彫像に触れさせた。すると彫像は淡い光を放ち、消えた。たしかにそこにあったはずなのに、影も形もなくなっている。そもそも最初から実体はなく、幻影の類だったのかもしれない。
彫像があった場所には、地下への入り口らしき階段が見えた。クウは迷うことなく階段を下りていく。
一連の出来事は、おれに一つの仮説を思い浮かばせた。
何かがクウの意識を乗っ取り、おれ達をどこかへ導こうとしているのかもしれない。
それが何なのか、目的は何か、いくら考えても見当さえつかないけど。
それでもおれは、クウの後を追って進むしかなかった。どんな思惑が働いているにせよ、クウを一人にさせるわけにはいかないだろう。




