第九話 『心のままに』
初めて目を覚ました時から、普通に会話ができていた。
クセはるけれど、クウはそれなりに常識的な性格をしていた。
だからおれは、クウが見た目相応の知識や感性を持っているものだと思っていた。
それが何の根拠もない先入観によるものだと、今、思い知らされた。
「なにって、文字は文字だよ。まさかクウ、文字を知らないのか?」
「知らないわ。今はじめて知ったもの」
「……まさかとは思うけど、読み書きもできないのか?」
「ヨミカキって、なんのこと? 知らないから、たぶん、できないと思うけど」
クウはだんだん不安そうに顔をくもらせる。
おれは「こんにちは」と書いたノートをもう一度クウに見せた。
「これが文字だ。こんにちはって、書いてある。これが『こ』、これが『ん』、これが『に』、これが『ち』、これが『は』だ。わかるか?」
クウは黙って首を振った。
「えーと、つまりだな、文字っていうのは、言葉を目に見える形にしたものなんだ。言葉にはそれぞれ音があって、その音を示すのがこういう文字なんだ。で、その文字がいくつか組み合わさって、意味のある言葉になるんだ」
「ちょっとまって。あたし、ソウタが何を言ってるか、わかんないよ。モジ? とコトバ? とコエ? って、なにがどうちがうの? コエがコトバなの? コトバがコエなの? 音はどっちになるの?」
それは、と説明したかったが、できなかった。
考えてみれば、おれも『文字』や『声』、『言葉』について具体的な説明ができるほど詳しくはない。物心ついた時からそういうものはごく当たり前に使ってきたからだ。眠りと目覚めを繰り返すのと同じように、おれはごく自然に声を出し、言葉を使い、文字の読み書きをしてきた。まあ、読み書きは学校でならったりしたんだけど。
あまりにも自然すぎることだから、それが理解できないという事態が想像できなかった。
しかし現実に、目の前にいるクウは理解できていない。やはりこれは、神霊たる所以なのだろうか。
それからおれはクウに文字と言葉を理解してもらうため、考えつく限りのことをした。
そして結論が出た。クウは完全に、文字の読み書きができないのだ。読み書きをするために必要な能力が最初から存在しない、といったほうがいいかもしれない。
クウは文字の仕組みと意味を根本から理解できなかった。五十音表をつくって一文字ずつ何度も繰り返し教えてみたが、何の意味もなかった。おれの言葉はクウの片方の耳に入って頭の中を素通りし、そのままもう片方の耳から出ていくというふうに、まったく何も残らなかった。挙句の果てには「こいつらって本当にそういう音なの? なんかうさんくさいんだけど」と罪なき文字達に疑惑をかけ始めた。
結局、おれが思いついたアイディアは完全に無意味だったわけだ。
万策尽きたおれは、寝台に仰向けになって寝転がる。
その隣では、クウがぐったりした様子で横たわっていた。
「あー、ちくしょう。こんなのって、ありかよ……」
「なによ。あたしだって、がんばったのよ。そのモジとかいう模様のせいで、頭がへんに痛んでるんだから」
「だからこれは模様じゃなくて文字だって……。ん?」
模様、という言葉がふとひっかかる。
まてよ。模様がわかるのなら、もしかして。
「なあ、クウ。お前、絵は描けるのか?」
「エ? なに、それ」
おれは体を起こしてノートと鉛筆を手に取り、神霊の間の窓から見えた外の風景を思い出しながら簡単に描いてみる。
「これが絵だ。自分が見たものや、頭の中で想像したものの姿を書くんだよ」
「ふうん。なるほど。おもしろそうじゃない。あたしもやってみていい?」
さっきまでの疲れがうそみたいに、クウの目は輝いていた。
「そうだな。一枚だけ、クウが描きたいものを自由に描いてみるといい」
やった、とクウはよろこびの声を上げ、ノートと鉛筆を取り、寝台に寝転がって絵を描き始めた。
正直なところ、絵が描けたところでコミュニケーションの役に立つかどうかはわからない。
けれど、絵を描いている時のクウはとても楽しそうだった。
役に立つ立たないじゃなく、自分がしたいと思えることをする。
それが生きることの喜びにつながるのかもしれない。
「できた!」
クウは声をはずませ、ノートを持っておれのところへ来る。
「見て、ソウタ! ソウタを描いてみたの。どう? なかなかのもんでしょ」
自信ありげにクウはおれに絵を見せる。その絵を見て、おれは少し驚いた。
正確な描写ができているかどうかは、かなり疑わしい。全体的に大きくデフォルメされていて、思わず「こんな見てくれの人間がいてたまるか」とツッコミを入れたくなった。そのシルエットは地球人ではなく外銀河のナントカ星人にしか見えない。
しかし、そこに描かれていたのは間違いなくおれだった。おれを知る人間なら、おそらく一目でおれだとわかるだろう。自分で言うのもなんだが、おれは特徴のある外見をしているわけじゃない。ドラマのエキストラ、アニメや漫画のモブという感じの外見だ。中学時代にはとある友人から「お前のキャラデザじゃ主役は永遠に無理だな」とまで言われたほどだ。
にも関わらず、クウが描いた絵のおれには、おれが普段意識している外見的な特徴や、この絵を見ることで改めて気づかされた特徴がはっきりと描かれている。
このレベルの絵を描くには、そのモデルを相当観察し、理解していなければならないだろう。
それをクウは、この短時間でやってのけたのだ。この才能はたいしたものだ。
……いや。正直に言おう。かなり恥ずかしくて、自分で思うのも照れくさいのだが。
この絵からはクウのおれに対する親しみというか、好意というか、そういう前向きで暖かい気持ちが伝わってきた。そしておそらく、それが全てだ。技術的な問題じゃない。
この絵には、クウの心がしっかりと込められているんだ。それがこの絵の魅力の源なんだ。
おれは、こんな絵をクウが描いてくれたことが、すごく、すごくうれしかった。
「ねえ、どうしたの、ソウタ。なんか言ってよ。ねえってば!」
クウに言われ、おれは我に返る。
「……あんまり、上手じゃなかった? へただった? もしかして、おこってるの?」
「いやいやいや。そんなことない。クウは絵がとても上手だ。それに、たぶんおれを描いてくれたのはクウが初めてだ。だからうれしくて、感極まってたんだ」
「ほんと? じゃあ、もっといっぱい描いたげるね!」
それからクウは夜の終わりが来るまで絵を描き続けた。
夜が終わり、東の空が明るくなり始めた時、クウはノートを広げ、鉛筆を握ったまま眠りについた。
ノートに描かれているのは、モノクロのおれとカイだけだった。
おれはノートを閉じ、眠っているクウの手から鉛筆をとる。
その時なぜか、胸にかすかな痛みを感じた。




