第八話 『神霊』
見間違いではない。そんなはずはない。確かに、箱の中には何も入っていない。
「おいおい……、なんの冗談だよ、これは」
神官長のほうへ目を向ける。神官長はおれにかまわず、ルシカに言った。
「ルシカ。ためしにこれを奏でてみなさい」
「はい。神官長」
ルシカは箱から何かを取り出すように両手を動かす。
奏でる、ということは箱の中には楽器でも入っているのだろうか。
どうやらその推測は当たっていたらしく、ルシカは横笛を演奏するような姿勢をとる。
そして彼女は息を吹き込むように口を動かした。しかし音色らしきものは何も聞こえない。
それどころかルシカの息の音も聞こえなかった。まるで何かに吸い込まれ、消えてしまったみたいに。
「この通り、この世界の人間は神器を奏でることはできない」
神官長が言うと、ルシカは姿勢を元に戻した。
「だが転世者なら可能だ。この神器には転世者が奏でることにより神霊を生み出す力がある。そして生み出された神霊は、我々の都を守る力となるのだ」
我々の都を守る、ね……。
なるほどな。それで転世者を欲しがっていたのか。
「祭壇に立ち、水鏡に姿を映して神器を奏でよ。神霊が誕生すれば貴様を転世者として認める」
しかぁしっ! と議長が唾を飛ばしながら声を張り上げる。
「神霊が誕生しなければお前は転世者ではないということになる。それどころか大聖殿への侵入、転世者の詐称、私の安眠を妨げた罪、その他諸々でお前は大罪人として処刑されるのだ!」
あんたの安眠にどれほどの価値があるってんだ。
議長はおれのそばへ詰め寄り、見開かれた眼球の血管が見えるほどに顔を近づけてきた。
「いいかぁ、小僧。そうなったらなぁ、その姿形で死ねると思うなよぉ? おお?」
どういう事情があるかは知らないが、こんなのが議長でこの都は大丈夫なのだろうか。
しかし今は、人の心配より自分の心配だ。ここまで来たら、やるしかない。
おれはルシカから神器とやらを受け取る。やはり何かを受け取ったという感覚はなかったが、おれは神器が実在し、それを手にしていると信じた。なにしろ命がかかっているらしいからな。
祭壇に立ち、気持ちを落ち着けようと目を閉じて、ゆっくりと深呼吸する。
よっしゃ、やるぞと決意を固め、目を開き、水鏡に映る虚像を見た。
虚像のおれは、銀色に輝く横笛を持っていた。
…………おい。マジか。
おれは虚像の自分を見つめたまま、おそるおそる体を動かして笛に口をつける。
やはりなんの感触もないが、虚像のおれは『笛を吹く少年』みたいな姿勢をしていた。
実体のある自分と、虚像の自分。
はたして正しいのはどちらなのだろうか。
いや、今は笛を吹くことだけに集中しろ。笛を吹かなければ、おれは終わりなんだ。
覚悟を決め、祈るような気持ちで、おそるおそる息を吹き込む。
その瞬間、地鳴りとも風鳴りともつかない重低音が世界樹の間に響いた。
木々の枝葉は暴風に吹かれたようにざわめき、水鏡の水面は波打つように揺れ動く。
おいおい、もっと繊細で優美な音色を期待していたのに、これはないだろ。
その時、爆発でも起きたように水鏡の水が一気に噴き上がり、水しぶきが辺り一面に飛び散った。
水の粒子は世界樹の間を照らす光と混じり合い、目もくらむような輝きを放つ。太陽をじかに見たような痛みを感じ、おれはとっさに目を閉じた。
しかし、おれの目には暗闇ではなく、別のものが映った。
それはおれの記憶だった。
いわゆる走馬灯みたいなものだろうか。
過去の記憶が映像となって、激流のごとく押し寄せてくる。
その流れの中には、二度と思い出したくない記憶もたくさんあった。
おれの意思とは関係なく、記憶はとめどなくあふれてくる。
そしてなぜか、悪い記憶や忘れたい記憶ばかりがどんどん増えていった。
どうあがいても、それらの記憶を遠ざけることはできなかった。
当然だ。
それはおれ自身の記憶なのだから。
「……やめ、ろ」
うめくように声を出す。しかし、記憶の激流は止まらなかった。
「やめろ……、やめろ、やめろ! やめろぉぉおおおおおおおっ!」
何もかもを振り払うように、絶叫した。
その直後、記憶の激流は突然消え、世界樹の間の様子が見えた。最初は霧が漂っているような状態だったが、時間の経過とともに霧は光を吸収し、細分化して、無限の色を生み出した。
光の中にこれだけの色が存在していたのかと、おれは圧倒された。
やがて無限の色は消え、霧も消えた。
水鏡の水はすべて消えており、水晶のような鉱石でつくられているらしい底の部分が見えた。
いや、見えたのはそれだけじゃない。
水鏡の中央にある世界樹の正面に、十歳くらいの二人の子どもが並んで立っていた。
淡い輝きをおびた白い衣を身に着け、互いの手を握り、目覚めと眠りの狭間にいるような目をこちらに向けている。
双子のようにそっくりな顔立ちをしているけど、わずかに男女の差があった。
男の子のほうは短めの銀髪でその瞳は青く、女の子のほうは若干長めの金髪でその瞳は紅い。
姿形は人間と変わらないが、その雰囲気は何かが決定的にちがっていた。
これが、神霊というものなのだろうか。
やがて二人は眠るように目を閉じると、つないでいた手を離して、ひざをつき、倒れた。




